雨の御霊 了

雨月 史

第1話

「あなたはこの物語の結末がどうなるのかを覚えているの?」


と、小さな古びた一冊の本を静かに閉じながら彼女は言った。僕は遠い昔の記憶を少しづつ辿ってみたが、その結末をまるで思い出せなかった。


「悲しい事ね……。けれどもつまり私が今あなたに伝えたい事はきっとそういう事なんだと思うの。」


「そういう事?」


「そうね。言ってみれば結末とか伝えたい事の見え無い物語を描く事は、私にとってはとても困難な事だと思うの。」



大きな窓が一つある狭い六畳間で、僕たちは少し濃いめのハイボールを片手に隣合わせに座っていた。

その部屋の造りはまるでソファが似合わない。畳の色はもう元の藺草いぐさのきれいな緑?というか新茶の様な、甘い香りのする色の事など思い出せないくらいに色が褪せている。その上に色気も何も無い、まだ100円ショップが本当に100円均一だった頃に買ってきた座布団とはいうにふさわしくないクッション性の無い敷物をただ形式的に並べて、その上に二人で腰をおろしていた。家賃が安いだけあってとてもきれいとは言えないアパートだったが、部屋の具合にはまるで合っていない、大きな窓と広いベランダがとても特徴的で、その窓から入る月の光を僕はとても気に入っていた。時々気が滅入ると僕は、今日みたいに部屋の灯りは全て落として、ただ月の光を眺めて自分という存在について考えた。



それから2人で示し合わせたようにしばらく、月の光と静寂な時間を過ごしていた。


彼女の言う様に結末や伝えたい事のわからない小説や音楽というのは、まるで僕たちの人生の様な物ではないかと思えてきた。


「それで、君はいったいどうしたいの?」


彼女は戸惑う様に微笑を浮かべ

「私がどうしたいのか?よりもあなたがどうしたいのか?が今の論点なんじゃないのかしら?」と言い放った。

それはある意味では僕に対しての疑問を投げかけるようで、それはある意味で僕を蔑まして軽視するような発言であって、それはある意味できっと彼女にとっては期待通りの答えでもあっただろう。

そうは思いながらも僕はやはり彼女が僕に求めている事をわからずにいた。


僕は何となく自分のポケットに入っていたキーホルダーを手に取った。三本の鍵と木の皮の様な薄茶色の皮で出来たキーケースホルダーに、キーを溜める丸い金具があって、そこには緑色の根付け紐から伸びた小さな丸い水の入った『雨の御霊』が付いている。


そもそも話の始まりはこの御霊にあった。

そう思いまじまじとそれを見ながら、

何の気なしに月に照らしてみる。


今日は満月だ。


月は煌々と輝き美しい曲線が惜しみなく弧を描いている。

月の光はやはり柔らかで心を癒す様だった。

暗い闇夜に何故あんな風に黄光こうこうと、美しくそして主張しすぎずに存在感を示せるのであろうか?僕は彼女にとって月の様な存在でありたかった。きっとあの頃もそう思っていた。そう回想しながら僕はハイボールを少し啜りながら横目で彼女の方を覗き込んでみる。


「私はねあなたの書いた本が好きよ。けれどもね時々、あなたの世界観を読みながら思うのよ。この話に一体どんな意味があるだろうか?この本の世界に生きる者達は誰かに何かを伝えているのだろうか?とね。」彼女もまた僕の方は一切見ずに疑いようがないほど丸くきれいな円を描く月を見ながらそう言った。


「伝えたい事なんて明確に書くのはきっとegoだと思うんだ。僕はEGOISTにはなれない。」


「それはわかる。その様に感じる物があるのも確かよ。だって私はあなたのその曖昧さが好きよ。私には出来ないもの。けれどもね、私には無いからこそその曖昧さが理解できない時があるの。私はこの私達の物語をあなたの手で完結させて欲しかった。けれどもあなたはこの物語の結末を完結させなかった。

疑問を投げかけるどころか、問題提起すら曖昧にしてしまった。それはつまりあなたの人生のようじゃない?」


そう言われて少しずつ思い出してきた。

確かに僕はこの「雨の御霊」という物語を完結させなかった。理由は簡単だ。この話はコンテストに出す為にテーマに沿って書いたものだ。僕は僕なりにこの物語に相応しい結末を考えて何度も筆を進めた。

例えば……

神話になぞらえる。

あくまでコント式にすすめる。

落語の『落ち』を絡める。 etc


けれどもそのどの結末も納得のいく物が出来なかった。つまり簡単に言うと書きながらにして『つまらない』と感じてしまったのだ。

書いている本人がつまらない物を排出する事はやはりnonsenseであって、そんな物を書いていったい何の意味があるのだろうか?と感じてしまったのだ。

だから僕は書くのを辞めた。

それは良く言えば

「読者の想像に任せる」ということで、

悪く言えば……言わずもがな

「投げ出した」と言えるだろう。


「なるほどね。少しわかった気がするよ。

それが僕と離婚したい理由なのかい?美晴。」


今日彼女がここを訪れた理由がようやくわかった。彼女は僕との長らくの別居期間に終止符をうちに来たのだ。


「ふふふ。」と彼女は含む様に笑みを浮かべた。それは横にいて目を合わせなくてもわかった。いつも心を見透かされているようで、何だかそれがいつしか上からみられている様な気分になって……僕は家を出た。


「あなたはいつだって勝手に早とちりするのね……。あなたが家を出て行った時もそうだった……。」


けれども彼女はあの時も家を出る僕を止めようとしなかった。


「私は……。」

と美晴は突如僕の目の前に右手を差し出した。


「私にとってはあなたからもらった指輪も香水も全て大事だけど、何よりもあなたと買ったこの『雨の御霊』をとても大切にしている。それは何故だかわかる?」


彼女はゆっくりと手のひらを開いた。その手の中には僕と揃いで買った『雨の御霊』がのっていた。


「聞かせてよ。」


「……いったい何を?」


「本当にあなたは鈍感な人。」


「物語の結末かい?」


「そうよ。でも私が聞きたいのは柚彦、あなたがこの先の人生をどの様に過ごしたいか?という結末を聞きたいのよ。あなたはいつだって決断という事を先送りにしていた。それはつまり他人の評価を受け入れる事が怖いからでしょう?人の想像、人の判断を指針にして生きていく人生なんてとても百済ないと思わない?失敗したって良いじゃない?誰も評価してくれなくたって問題ないわ。疑問視で終わるそれも良し。問題提起する。それも良し。けれども私があなたに求めるのは、あなたが本当はどう思っているかを明確にするべきだと思う。」


彼女があまりにも情熱的に話出したので思わず彼女の方を見ると彼女顔いっぱいに涙を流して泣いていた。いつも冷静で上からしか見てないと感じていた彼女が取り乱すのをみて僕はたじろんだ。彼女は涙を拭ったかと思うと、音もなく立ち上がりベランダの窓を開けた。四月も半ばだと言うのにヒヤリとした風が酒で熱った身体を冷やした。彼女は月に背を向けて一体どれくらい前に作成されたかわからない錆びたベランダ柵もたれた。


ゆず……ほらこっちにおいでよ。月がすごくきれいだよ。」


おかしい……。

月の光がそうさせているのか、

それとも酔っているせいか

あの頃の美晴の様に見える……。

僕は明るく無垢で純真で賢明でありながら

いつでもボケ(時々天然)を忘れない

そんな美晴が好きだった。

けれども彼女は変わった。

いつしか僕と目を合わせなくなった。

知らぬ間に僕の事を蔑さむ様になった。

僕という存在を肯定してくれなくなった。

いや……ちがうな……。

そんな事は本当は初めからわかっているじゃないか。変わったのは僕の方かもしれない。いやむしろ変わらないのは僕で、幼いあの頃の気持ちをどんどん置き去りにしていく美晴に焦りを覚えたのかもしれない。

いつも判断を仰いで、人任せにして、

責任ある事から逃げてきたのは僕の方なのだ。彼女は僕がそれに気がつくのをいつも待ち望んでいたのかもしれない。


僕は……弱い人間だ……。


「美晴……僕は変われるだろうか?」


そう言いながら僕は美晴を抱きしめようと彼女に近づいた。しかし彼女はそれをハラリとかわして部屋の方は戻りかけた……。

僕はふらつきながら勢い余ってベランダ柵に激突した。


「ゆ・柚彦!!!!」


「え……あー夜の空ってまるで失われた時間のようだ。僕はその闇の中を模索しなければならないらしいな……。」



僕は文字通り闇の中に放り出された。

先程まで見上げた夜空の月が僕の水平状に見えて少しずつ遠ざかって見えてる。僕はまるで全ての力に奪われた様にふわりと中を舞う。僕は知らなかった。というか見ようとしなかったのだろう。夜の空はまるで心の闇の様で、こんなにも果てしなくて、こんなにも切なくて、こんなにももどかしいものなのだと。闇の中に向かって飛び立つってこう言う事なのだなーと感じた。


ドシリ!!と鈍い音がした。


なんだか体が痛いな……。

なんでだろうか?

おかしいな?


そうか僕はどうやらベランダから落ちたんだな。夜の空しか見えないや。体が痛くて全く動かないや。夜の空ってまるで闇だな。あーこんなにゆっくりと闇と向き合う事なんて今までなかったかもしれないな……。


あれ?

そう言えば月は?

たしか満月だったのに……。

と思うとポツリと顔に何やら雫があたる。

ん?冷たい……。なんだ?


あー……雨か……。


月夜の後の暖かい雨。

まるで僕の闇を洗い流す慈悲の雨。


僕はこのままもう終わるのだろうか?


終わりたくないな。

こんな終わり方はいやだな。

美晴に会いたい。

そして美晴に一言謝りたいな。

「僕が甘ったれてたよ」ってね。


あーだんだん気持ちが遠のいていくのがわかる……。


。。。。。


「……ひこ!!柚彦!!」


ん?


「なんだ?暗闇のあとは白熱球と白い天井?」


「柚彦!!」


「え?美晴?」


僕は気がつけば真白い部屋のベッドで寝らされていた。先程までの無音の闇の世界から一転して、その白く無機質な部屋には人工的な機械音と忙しなくある種の雑踏がさんざめいていた。


「僕は……ベランダから落ちて……。」


顔には次から次へと雨の様に雫が滴り落ちてくる。その雫は暖かくて命の通った優しい雫。


「美晴……どうして泣いているの?」


美晴は若いまだあの頃のままだった。

でも……そんなはずはない。

だとしたらこれは夢?

という事は僕は夢を見たまま死んでしまった

のだろうか?


「ベランダ?……何を訳のわからん事言ってるの?」


彼女は涙の後の嗚咽を少しずつ整えながら、僕の頭を撫でてそう言った。

僕は状況が全く理解できずにただ呆然今、目に見えているものを少しずつ理解しようとしていた。


「意識戻って良かったですね。直ぐに理解しようとしないでいいですからね。」

と白衣をきた中年の見知らぬ男が僕に優しくそう言った。


「体は少し打撲感があるようです。頭の方はCTを見る限りそう異常は見当たらないのですが、微力に出血がみられますし、少し記憶が曖昧な様なので今日は一日入院という形をとらせていただいてよろしですか?」

と男は美晴に伝えた。

それから暫く2人で話してその後、大きく会釈をすると美晴は僕の近づいてきた。


「柚……何があったか覚えてる?」


と彼女はすっかり息を整えて僕に真剣な眼差しでそう言った。


「何って?」


「あなた電車の事故に巻き込まれたのよ。トンネルを抜けたところに土砂が崩れてきてね。その日は私と待ち合わせしていたのよ、京都で……。」


「……?あ!!」



。。。。

キッチンでは妻が何やら野菜を切り出している。僕はその料理やらを切り出して煮炊きする音が好きだ。僕の横にはまだ小さな息子が、青銀色の猫と戯れあっている。

僕はといえば本業の傍で時々こうしてお金にはならない書き物を更新して自己満足にひたっているのだ。

幸せな時間なんて物は自分で作り出すものだとあの日以来、僕は常々そう思うのだ。


『雨の御霊』


いったいこの量産型の御守りにどれだけの力があるのかは正直わからない。


けれども僕はあの深い眠りの中で

この『雨の御霊』を巡って、

あの時一つの結論を出す事ができた。


遊びたいのに雨がふれば、

この御守りの呪いだと言い。

かんかん照りが続けば、

この御守り何の役にもたたないと言い。

湖の水位が回復すればありがき雨と賞賛し、

水不足になれば雨乞いをする。

なんとも人間とは身勝手な生き物だ。


まーつまり信教や御守りなんて物はきっと

『きっかけ』みたいな物だ。

僕たちは普段から色々な心の闇と対峙している。その闇を払拭しようと日々悩み、

足掻き、落ち込みそして這い上がる。

それでも立ち上がれない時はやはり、

何かを信念を持ち合わせていないと、

きっとその闇に塗れてしまうのだろう。


それをどうするかは結局自分次第。


そう思いながらも僕は今日もこの

『雨の御霊』を大切に磨いているのだ。


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