川太郎

@ninomaehajime

川太郎

 河童が棲んでいるという。

 尻子玉を取ったり馬を水に引きずりこんだりと、人間を害するわけではない。ただ静かな清流の中で、魚を獲って暮らしているという。皆が口々に童の姿をした者が甲羅を背負い、水かきのついた手で泳いでいたと言うのだ。

 不思議な話だ。私は魚釣りが趣味で、河童が棲むという川で日がな釣り糸を垂らしている。その自分が影も形も見たことがない。珍しいものと言えば、何十年も生きているとおぼしき大きな山椒魚さんしょううおを目撃した。もしかしたら、これを河童と勘違いしているのかもしれぬ。

 ただ、思い違いにしては随分と語り口が具体的だ。冷やしていた胡瓜きゅうりが異様に伸びてきた片腕に盗まれたり、河原で遊んでいた子供たちが相撲を挑まれたりしたらしい。言い伝えに聞く河童の習性そのもので、逆に信憑性しんぴょうせいに乏しい。川太郎、などと呼ばれて親しまれる始末だ。

 河原には時折流れ者が住み着く。河童を装う何某なにがしがいるのかと目を光らせたが、それらしい人影は見当たらない。ただ子供が遊んだ跡か、何個も小石が積まれているだけだ。

 肝心の子供の姿は見えず、日々を追うごとに河原には石を積んだ痕跡が増えていった。七つより前の子の背丈ほどだろうか、ある程度の高さまでは積まれては、崩れていた。

 ある日、釣り竿と魚籠びくを携えて川を訪れると、積まれた小石の一つが傾き、今にも倒れてしまいそうな箇所があった。ほんの気まぐれだった。一番高い位置にある小石を持ち上げ、崩れないように置き直した。

 その後、滅多にないほど魚が釣れた。釣り糸を垂らせばすぐに食いつき、魚籠から溢れて岩場の上で鮎が何度も跳ねた。

「もういらん」と思わず音を上げると、以降は釣り糸に魚がかからなくなった。

 また別の日には流れ者と出くわした。河原には老いた柳の木が生えており、その下に異様な風貌の老婆が佇んでいた。汚らしい着物を着ており、前がはだけて垂れた乳房が見えそうになっている。私の姿を見出すと、白髪を振り乱して近づいてきた。

「衣を、衣を」

 そう言って私の着物にすがりついてきた。乞食の分際で、その表情は鬼気迫っており、眉間には深い皺が刻まれていた。剥き出した歯は黄ばんでいて、耐え難い悪臭がした。

 恐怖と嫌悪感から、その骨が浮いた手を振り払った。加減ができず、老女は転倒した。もう釣りどころではない。逃げるように背を向けると、柳のしなった枝に蛇が絡みついているのが目に入った。縦に裂けた瞳が、こちらを追従している。

 遠くまで離れたところで、河原を振り返った。老婆の姿はどこにもなかった。

 その日以降は特筆すべきことは起こらなかった。相変わらず女房たちは井戸端会議で河童を見たなどと盛り上がり、河原には積み上げられた小石の塔が増えていった。あるいは、それが墓塚にも見えた。

 何年か前、不義の子を宿した女が赤子を川に流したという。その不浄のためか、川面が赤く染まったのだと。

 岩場で釣り糸を垂らしながら、その光景を想像してみる。黄昏時で、空は不吉な雰囲気をかもしていたのかもしれない。過去と現在が入り混じり、血の色をした川のそばで無数に小石が積み上げられ、衣がかけられた柳の下にはあの老婆の影が佇んでいる。

 ふと竿が動いた。我に返って引っ張ろうとしても、糸が張ったまま柄がしなるだけだ。川床かわどこに釣り針がかかってしまったのだろうか。それとも、何かいるのか。

 どうせ腹の子に名前などつけていなかったのだろう。私は地蔵菩薩のように救済はできないが、せめてこの名で呼ぶとしよう。

「そこにいるのか、川太郎」

 水音とともに、竿が頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

川太郎 @ninomaehajime

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画