金木犀は星と散る
白原 糸
「あなたがうらやましかった」
雨上がりの黒々としたアスファルトの上で金木犀が星のように散らばる様を眺めていた私は、そう言った彼女の顔を見ていなかった。
そうして震える声であなたには分からないと言った彼女は、その日、帰らぬ人となった。
金木犀の甘い香りがあの日の記憶を呼び起こす。
あの日、彼女は何を求めてそう言ったのか、私は今も分からない。ただ、露呈した罪を前にして半ば逆切れのようなことを言った彼女の、下の名前はおろか、上の名前すらも覚えていない。所詮はそれまでの認識だったのだ。
そうして私は彼女の死を、今、金木犀の匂いと共に思い出し、そしてその日の内には早々に忘れてしまう。最早、顔すらも思い出せない。
彼女はコンクールで賞を取る人だった。何のコンクールなのか、私には分かっていなかった。覚える気がないと言われればそうで、それでも彼女がコンクールで賞を取ったときには喜んだ。喜んだ後で彼女はいつも決まってこう言うのだった。
「悔しいでしょう?」
にっこり笑んで言う彼女を前にして、私は何故、彼女がそう言う理由が分からなかった。悔しい、というのはどういう意味なのか。そもそも彼女と私は勝負をしていたのか、私には分からなかった。
だから私はいつものようにこう答えた。
「どうして?」
すると彼女は顔を曇らせて、一瞬の内に笑顔に戻った。
「んーん」
首を振って背を向け、走り去る彼女が、あの時、泣いていたことを私は人づてに聞いた。
あなたがうらやましかった。
そう言った彼女の言葉と悔しいでしょう? は何か関係があるのだろうか。最早確認することも叶わなくなった現実を前にして、私は凪いでいた。
人が死んだというのに悲しくもない。ただ、足に
私は
深い安堵を前に私は金木犀の匂いを体に取り込むように息をする。深く、深く、甘い匂いを体の内に取り込むように息をする。そうしてやがて体の内が満たされた時、私は足取り軽やかに歩き出した。
彼女が死んだ原因は盗作だった。
人の作品を盗んで、賞を取った。その原因となったものの一つが私の作品であったらしいが、私は知らないと答えた。遺族は当然のことながら困惑した。
困惑した遺族に頭を下げて、私はその場を離れた。親族以外人のない葬儀を前にして彼女の罪が形となりそのまま表れたように見えた。
大学ノートに書いた私の物語。彼女はそれを自分のものにして出版社に送った。そして賞を取った。
彼女は私が怒ると思っていたのだろう。勝ち誇った顔で私を見た彼女に私はこう答えた。
「あんなゴミで良いなら別にいいよ」
みるみるうちに青ざめた彼女の顔を前にして、私は心の底から本当にそう思っていた。あの物語は私にとってはいらないものだった。だから、賞を取れたとしても心底、嬉しくなかったのだ。勝手に送った彼女に対する怒りはなく、ただ、欲しいなら彼女が使えばいい。そう思ったのだ。
彼女は何で、と言った。私は彼女を見下ろして、何で? と問うた。
震える彼女の、その後の言葉を私は覚えていない。ただ、彼女が何かを言った後、私が言った言葉だけは今も覚えている。
——その作品、間違っても私が書いたって言わないでよ。
彼女は約束を守った。守って死んだ。
ネットニュースに流れた彼女の記事は一発屋と揶揄されたが、私はその後の彼女の作品が好きだった。荒く、幼くも、彼女にしか書けぬ物語を私は、数多の物語で埋もれた棚の中から探し出して、引き抜き、レジに持って行った。
だけどある時から買わなくなった。
彼女の作品ではないと分かったからだ。彼女はまたも盗作した作品で有名になり、いくつもの賞を取った。そうして映画化された時、彼女は突如、告発されたのだった。
WEBサイトで発表されていた作品を第三者が見つけたことで彼女の罪は瞬く間に拡散され、彼女の名声は地に落ちた。
ドラマ化が発表された矢先のことだったから、彼女の受けた罰というのは想像を絶するものだっただろう。
今もそのWEBで発表されていた作品の作者は沈黙を貫いたまま、更新を続けている。全ての連絡を絶って今も淡々と。
最初こそテレビやネットは盛り上がりを見せていたが、何の反応もなければ人間というのは飽きるものであるらしい。今では数十倍に増えた読者が感想を書いていくだけだった。
書籍化しないんですか、と書かれた文字を前にして私はぽつりと呟いた。
「しないよ」
金木犀は星と散る 白原 糸 @io8sirohara
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