エピローグ
【七月二日】
北条廻が目を覚ましたのは、日曜日の午後のことだった。
カーテン越しに陽光が差し込み、ベッドに仰向けにされた廻の顔面を照らしている。ベッドサイドには花が置かれ、頭の後ろの壁にはいくつかのスイッチが並んでいた。廻はそこで、初めて自分が病院にいることを知った。
瞼を開き、ベッドサイドを見る。妹の周が椅子に座って廻の顔を見下ろしていた。周は廻が目を開けたことに気付くと、小さな声で呟いた。
「あっ、目覚めた」
「周……?」廻は上体を起こそうとする。まだ少し頭がぼうっとしていた。「ここ、病院?」
「そう。廻、倒れてたんだよ、学校で。覚えてない?」
「いや……」
廻はそう答えつつも、頭の中では徐々に昏倒する直前の記憶を取り戻しつつあった。
「そうだ、飛鳥は?」
「飛鳥さんって、もしかして廻のクラスメイトの人?」
「そう、飛鳥千晴だ。無事だよな? なんともない?」
上体を起こして、鬼気迫る勢いで尋ねる廻に、周は少し気圧されながら答えた。
「よく分からないけど……飛鳥さんなら、さっきお見舞いに来てたよ。別に、なんともなさそうだった。そういえば廻、その飛鳥さんのこと助けたんだって? 本人から聞いたよ」
「危ないところだったから、咄嗟にね」
「感謝してたよ、随分。あと、自分のせいで倒れたんじゃないかって気にしてるみたいだった」
「別に、あいつのせいってわけじゃないだろ」
廻が昏倒したのは、おそらく時間軸を遡ったことで脳に大きな負荷がかかったせいだ。それは廻が自分で望んだことであり、飛鳥に責任があることではない。
「本人にそう言ってあげなよ」周は立ち上がった。「そうだ、看護師さんか誰か呼ばなくちゃ。ナースコールってこれかな?」
周はケーブルの付いた短い棒状の端末を手に取り、その先端に付いたスイッチを押した。
程なくして、病室に看護師が現れる。看護師は廻にいくつか質問をした後、再び病室を後にした。
それからしばらくして、廻の両親も病室に現れた。二人は病院内の売店で買い物をしていたらしく、父は手に白いビニール袋を提げている。
「いやはや、無事に目覚めて安心したよ」父は言った。「お医者さんは単なる栄養失調だからすぐに目覚めるだろうって言ってたんだけど、やっぱり心配だったからね」
「それにしても、」母は首を傾げる。「栄養失調だなんて変だよねぇ? 私、家族のご飯は栄養にすっごく気を遣ってたはずなんだけど。お父さんも私も周も問題ないのに、なんで廻だけ……?」
どうやら自分の昏睡の原因は栄養失調ということになっているらしい、と廻は察する。これ以上母が疑問を持たないよう、廻は慌てて答えた。
「えっと……まあ、そういうこともあるんじゃない?」
「そうかな……?」
母はなおも首を傾げたままだった。
そこで折良く病室の戸がノックされる。中に入ってきたのは、白衣に身を包んだ医師だった。
医師は一通り廻の体を調べ、もう問題無いが、検査のためにもう一日だけ入院してもらうと言った。
医者は廻の家族たちへ一通り病状を説明してから病室を去った。それから両親は、院内の売店で買ってきたというお菓子や飲み物をベッドの上の机に並べる。ハイレモンにヨーグレット、それから爽健美茶。廻は「ありがとう」と礼を言った。それから両親と周は、「また明日来るから」とだけ言い残して部屋を後にした。
静かになった病室で、廻は息をつく。せっかく買ってきてくれたお菓子とお茶だったけれど、今はまだ何か口に入れる気分ではなかった。もう一眠りしようかと、横になって布団を被り直す。その時だった。
ノックの音がして、部屋の扉が開く。病室に入ってきたのは、円谷まどかだった。相変わらず制服を着ている。
円谷は廻が起きているのを見て、安堵の表情を浮かべた。
「よかった、目を覚ましたみたいですね。安心しました」
「円谷さん。お見舞いに来てくれたの?」
「ええ。確認したいこともありますし」円谷は、少し息を吸ってから質問した。「単刀直入に聞きますが……北条さんは、時間軸を遡上したのではないですか? おそらくは、未来の私の協力を得て」
「知ってたの?」
「知っていたわけではありません。ただ、諸々の状況を鑑みるに、そう考えるのが最も妥当だろうと。脳の状態を診れば、大まかなことは分かりますから。しかし、まさかレベル5以上のカタストロフに対する対処をあなたに一任したわけでも無いでしょう。別時間軸の私は、もっと個人的な事情のためにタイムマシンを使わせたのですね」
「友達を助けたんだよ。そのために円谷さんは協力してくれた。僕から言い出したことだから、円谷さんが責任を感じる必要は無いよ。そもそも、今の円谷さんは何も知らないのも同然なんだし」
円谷は、飛鳥を助けるために越権行為を働いた。それは彼女が所属する管理局への背信でもある。しかしその決断は、もう既に存在しない未来の円谷がやったことであって、この時間の彼女とは本質的に関係が無い。それでも彼女が自責の念を感じているとしたら、廻は少しでもそれを取り除きたいと思った。
「いえ……別の時間軸とはいえ、『私』の決断に変わりありません。きっとこの私も、同じ状況であれば同じ判断を下したのでしょう」円谷はそう断言してから、廻の顔を覗き込む。「ところで、あなたの昏倒の原因は栄養失調だったことにしてあります。少しばかり、病院の検査行程に介入させてもらいました。実際のところ、あなたの身体、脳の機能に問題はありませんから、安心してください」
「そうなんだ。ちょっと安心したな」廻は笑いながら言った。「未来の円谷さんには、『最悪の場合脳がオーバーヒートする』って脅されたから」
「脅しではありませんよ。あまり長い時間を遡れば、本当にそうなる可能性もあったんです。あなたは訓練も受けていない素人ですからね。ともあれ、無事でよかったです」
円谷は立ち上がり、廻の顔を見下ろした。
「では、次は学校で会いましょう。また」
「うん。わざわざありがとう、円谷さん」
廻は言った。円谷は病室を後にした。
翌日。
入院中の廻は、当然学校も休まなければならなかった。暇になった廻は、日がな一日読書をして過ごしていた。倒れた時に持っていたリュックは病室に置きっぱなしだから、勉強することも出来たけれど、一日くらい休んでもいいだろうと思ったのだ。
午前のうちに両親がやってきて、またお菓子やら飲み物やらを持ってきてくれた。病室の小さな冷蔵庫は、たちどころにペットボトルやゼリーやプリンで満杯になった。
午後には、廻の友人たちがゾロゾロと現れた。制服姿なのを見るに、学校帰りに直接来てくれたようだった。
小清水に、飛鳥に、早乙女。それから環の姿もある。早乙女からLINEで見舞いに来ることは聞いていたので、廻は驚きもせずに彼らを出迎えた。
たった一日眠っていただけなのに、小清水は随分と心配をしていたらしく、廻の顔を見るなり泣きそうな顔になった。
「廻くん、無事だったんだ……。よかったぁ……」
小清水には周から連絡が行っているので、廻が目覚めたことも知っていた。しかし、実際に目にするまで心底安心することは出来なかったのだろう。
「ちょっと眠ってただけだよ」
廻は言った。
「でも、本当にびっくりしたんだよ? 廻くんってば、突然現れて、落ちそうな千晴ちゃんのこと助けるし、どうにかなったと思ったら、いきなり倒れちゃうし……。もう、目まぐるしくてわけ分かんないって感じ。結局私、目の前で起こってたことだったのに、何も手助けできなかった。ごめんね」
小清水は申し訳なさそうに眉尻を下げている。
「仕方ないよ」飛鳥が後ろから言った。「私自身、何がどうなってるのか全然分からなかったから。むしろ咄嗟に来て動けた北条がちょっとヘンなのかも」
「ヘンって……」
廻は言った。飛鳥は微笑みながら言う。
「でも……あそこで北条が助けてくれなかったら、私、死んでたかもしれない。ありがとう。本当に、心から感謝してる」
真っ直ぐに目を見つめながら、飛鳥は感謝の念を廻へ伝えた。
「いや……飛鳥が無事で、よかったよ。本当に」
廻は答えた。
会話に一区切りが付いたタイミングで、壁際の方にいた早乙女が紙袋を差し出してきた。中を見ると、ゲームボーイの本体とソフト一式がセットになって入っている。廻は礼を言った。チョイスはともかく、見舞いの品を持ってきてくれた心意気は素直に嬉しい。
それからしばらく話をすると、飛鳥と小清水、それから早乙女は病室を後にした。ただ環は、もう少し話したいことがあるからと、病室に一人残った。
にわかに静寂を取り戻した病室で、廻は環と二人きりになる。
環はベッドサイドの椅子に座ったまま、廻のことを見下ろしている。
「廻は……あの時、もう一回ループしたの?」
環は尋ねた。
「やっぱり……分かってたんだ」
廻は言う。環は静かに頷いた。
「あの時、下校中に廻の表情が急に変わったから。でも、確信したのはその後。廻は急に学校へ走って行って、外履きのまま屋上へ向かった。そうしたら、飛鳥が屋上から落ちそうになっていた。廻は未来を知って行動していたとしか思えない。だから、きっと廻はループしてるんだろうなって分かった。
けど……分からない。どうして廻だけがループしていたのか。私はあの時、巻き戻っていなかった。廻には、未来で何があったの?」
環の質問に、廻は答えた。
飛鳥が一度死んだこと。
円谷が別次元から来た人間だったこと。
世界をループさせていたのは、円谷が属する組織だったこと。
廻は〈特異点〉であり、環は巻き込まれた立場にあるということ。
そして、円谷の協力を得て、飛鳥を助けるために廻だけが時間軸を遡ったこと。
「──だから、ループはもう起こらないよ。僕たちも普通の生活に戻れる」
「そう」環は安堵したように言った。「よかった」
「それと、今の話で分かったと思うけど。僕たちがループに巻き込まれてたのは、環のせいじゃないよ」
あの時、環は自分のせいでループを引き起こしたのではないかと自責の念に駆られていた。
その理由も、裏に隠された想いも、廻は知ってしまっている。環自身は、それを話したことを知らないのに。
それでも、廻は告げなかった。あの時、意を決して伝えてくれた環の感情を無駄にしたくなかった。この時間軸の環が自ら伝えない限り、廻も知らないふりをするつもりだった。
「廻……あの」環は口を開いた。「私ね、引っ越すことが決まってて」
「うん」
「廻には言おうと思ってたんだけど、なかなか言い出せなかった。言ったら、その瞬間に『今』って時間が終わるような気がして」
廻は黙って頷いた。彼女の話を初めて聞くようなふりをしながら。
「廻が千晴と一緒に落ちそうになった時……それと、廻が倒れた時。すごくびっくりして、どうにかなりそうだった。このまま廻に会えなくなったらどうしようって……。だから、伝えたいことは伝えなくちゃいけないんだって思った」
「心配かけて、ごめん」
昏倒の本当の理由についても、廻は環に伝えていた。だから環は首を横に振った。
「いい。千晴のためにやったことなんでしょ?」
「それは……ただ、責任を取りたかっただけ」廻は答えた。「元々、僕が余計なことをしなかったら、飛鳥が落ちることもなかったんだよ。僕は帳尻を合わせただけ。マイナスをゼロに戻しただけなんだよ」
「それでも、私は廻のやったこと、間違ってないって思う」
環は言った。
「ありがとう」
廻は答えた。
しばらく、二人は何も言わなかった。
病室は静かで、時折外を通る足音だけが通り過ぎていく。
やがて、環は立ち上がった。
「じゃあ……今日は帰る」
「うん」
「明日は学校、来るんだよね」
「そうだね。午後からになると思うけど」
「また明日ね」
環は言った。
廻は、一瞬呆気に取られたような表情をする。それは、その言葉が、随分と自分の中から離れていたような気がしたからだった。
明日というものが、廻からずっと遠ざかっていた。
だけど、今は違う。廻はまた、明日のある時間に戻ってきた。
だから廻は、万感の思いを秘めて返す。
「また明日」
環はわずかに笑顔を浮かべて頷いた。
*
八月の初旬。蝉の鳴き声が響き渡る部屋に、廻と環の二人がいた。
二階堂家の、環の自室だった。家財道具は、もうほとんど残されていない。カーペットは剥がされ、ベッドの上にはマットレスも無く、机も撤去され、壁一面の本棚はがらんどうだった。
廻と環は、本棚の前の床に並んで座っていた。環の手には、真新しいスマートフォンが握られている。廻はその画面を横から指さして、操作法を説明する。基本操作の説明は終わって、今はLINEの使い方を指南しているところだった。
「これで僕の連絡先が入ったから。これで連絡取れるよ。後で飛鳥たちのアカウントも送っておくから」
「ありがとう」環は、まだ真っ新なトーク画面を大事そうに見つめた。「これで、いつでも話せるね。遠くにいても」
「そうだな」
廻は頷いた。
環は立ち上がる。廻も、つられるように立ち上がった。エアコンも無い空っぽの部屋は、窓を開けていても熱かった。夏の暑さが染み入った部屋の中、二人は向かい合って立っていた。
「廻。じっとしてて」
環は、唐突に要求してきた。
廻は頷いてその要求に従う。
一秒後。環は正面から体を密着させてきた。廻の背に、環の両手が触れる。胸と胸が触れる。吐息が聞こえるほど顔が近くなる。
パーソナルスペースを一瞬で侵食し尽くされ、廻の顔は真紅に染まり、動悸がみるみる速まった。
「えっ、あ、環……?」
「ごめん、廻。少しだけ」
環の髪から、肌から、わずかな汗の香りが混じって、花のような匂いがした。廻は、自分が汗臭くないかと、それが気になってしかたなかった。
「私たちが六月三十日を繰り返してた時、隣に廻がいてくれて良かったって思った。廻がいなかったら、私、不安で押しつぶされてたかもしれないから」
「そもそも僕がいなかったら、あんなことになってなかったんだけどね」
「それでも、」環は廻に抱きついた姿勢のまま話を続ける。「私は……廻の側にいると、安心するから」
環は、心の中に浮かんだことを、そのまま伝えようと努力している。
言葉は曖昧で、胸中では明確な形を持っていても、口から出ていった瞬間に不定型になって、本当の気持ちから離れていく。
けれど、今の環の言葉は、「本当」が含まれているような気がして。だから、廻もそれに報いたいと思った。
「僕は……環のこと、ずっと羨ましかった」
「そうなの……?」
「環は頭が良いから。僕が分からないようなことでも、なんでもすぐに分かっちゃう。どうにか環に追いつきたくて、対等になりたくて、良い学校に入れば尊敬してくれるかなって。僕が勉強してる理由って、結局それなんだと思う。もちろん、良い高校に入って、良い大学に入って、安定した進路を……って、そういうことも考えてるよ。他のみんなが言ってるように。でも、僕にとってそれは、後付けの理由でしかないから。僕はずっと、環に認めてもらいたかった。それだけ。不純かなって思って、言えなかったけど」
「私は、今だって廻のこと尊敬してる」
「嘘」
「嘘じゃない」
廻を抱き留める環の手に、わずかに力が込められた。
「だって、人から尊敬されるようなこと、してない」
「廻はいつも他人のことを考えてるから。あのループの時だってそう。廻は、一回も自分のために未来を変えようとしなかった。いつも他の誰かのためって、そればかりだった。そういうところ、少し嫌になる時もあったけど。でも、それが廻の良いところだから」
環は力一杯に廻のことを抱き締め、体を離して彼の顔を見上げた。
「……よし。言いたかったこと、全部言えた。と、思う」
廻はまだ心臓がドキドキとして鳴り止まない。環の胸もまた早鐘を打っていることを廻は知っていた。環の普段と変わらぬ無表情な顔は、ほんの少しだけ赤くなっていた。
陽光が差し込む空っぽの部屋に、廻がいて、環がいる。
この時間を何度でも繰り返したいと廻は思う。
けれど、この瞬間に発した言葉も、感じた想いも、全て一度きりのものだった。廻は、そのことをよく知っていた。
それに。仮にどれだけ望もうと、時間が巻き戻ることは、もう無いのだ。円谷の話を信じるならば。
だから廻は、この瞬間を忘れたくないと望み。
静かに環と目を合わせていた。
iteration : D.C. 岡畑暁 @scarlet0508
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