第5話 水無月最後の事件
1
北条廻の意識は、昼休みの教室に戻ってくる。
後ろには二階堂環がいた。前の席には飛鳥千晴が座っている。机の横には、橘葵が立っていた。
突然周囲をキョロキョロと見回し始めた廻へ、橘は怪訝な顔を浮かべている。
「ど……どうかしたの?」
「ああ、いや」廻は答えた。「なんの話だっけ?」
「お昼の時のこと、ありがとうって話だけど……」
橘は怪訝そうに答えた。話をろくに聞いていないやつと思われただろうが、仕方ない。突然この時間に巻き戻された廻には、まず現状を理解することが必要だからだ。
前回は朝のホームルーム中に戻された。そして今回は昼休みだ。徐々にループの起点は後ろへとズレている。このままループが続けば、起点はさらに下っていくのだろうか?
扉が開く音で廻の思考は中断される。再び記憶が蘇る。この時間、教室に今泉日々樹が現れる。
そこから先は、一度繰り返した会話を再現することに注力した。廻の目的は、再び写真部の部室へ向かうことにあった。そのために「前の世界」の記憶を呼び起こし、極力その会話の内容をなぞる。これは廻にとってそれほど難しい作業ではなかった。
最終的に廻は、今泉が早乙女から借りたゲームを預かることになる。廻が企図した通りに。
廻は今泉に連れられて写真部の部室へ向かう。廊下を歩きながら話す彼女の横顔に、「前の世界」での別れ際の彼女の顔がオーバーラップした。友達に裏切られたと感じ、心に傷を負った彼女の涙を思い出した。
廻にとって、今泉は他人だった。橘だって、クラスメイトではあるが、ほとんど話したこともない。前の世界での記憶は既に今泉や橘の中からは失われている。
それでも廻は、放っておくことなど出来なかった。それは、環に約束したから、だけが理由ではない。廻にはもう、彼女たちとの間に縁が出来てしまっていた。世界が巻き戻っても、廻の記憶は消えない。人との間に結んだ縁も消すことが出来ない。
写真部の部室に廻は足を踏み入れる。部屋の奥に窓があり、そのすぐ側の棚の上に鏡があった。その鏡は部屋の内側を向いて、埃っぽい部室の様子を映し出している。
今泉がロッカーからゲームソフトを取り出している間、廻はそれとなく窓際に近づいていく。そして、今泉に悟られないよう、そっと鏡を一八〇度回転させた。
廻はロッカーの方を一瞥した。今泉がその前に屈み込んでいる。ロッカーはいくつか横並びになっていて、橘と今泉が一つずつ専用のロッカーを持っているらしい。
あの中のどれが橘のロッカーなのか、廻には分からない。しかし、少なくともあの鏡が裏返しになっている限り、写真にロッカーの中が写り込むことは無いはずだ。
廻はゲームソフトを受け取って、写真部の部室を後にした。今泉や橘が鏡を元に戻してしまう可能性も無いとは言い切れないが、それでもいいと廻は思っていた。もしそうなったら、またやり直せばいいだけなのだから。
廻は早乙女を探し当ててゲームソフトを返却し、教室に戻った。
2
授業の内容はもうすっかり暗記してしまって、廻にとって聞く意味は無くなっていた。真面目に聞いているフリをしたところでどうせ巻き戻ってしまうのだし、サボっても問題無いと廻は思っていた。しかし、それでも真面目な素行が廻にはすっかり染みついてしまっていたので、堂々とサボることは難しかった。
放課後。廻は鞄に荷物を詰め込んでいる。この行為に意味があるのかすら、廻には分からなくなっていた。どうせ時間は巻き戻る。ならばわざわざ荷物を持ち帰る意味はあるだろうか? いや、そもそも学校に来る意味も無いのかもしれない。
次の周回では、学校をサボってみようか。廻はそんなことを考える。どうせ何をやっても時間は巻き戻る。全て無かったことになるのだ。みんなが学校に行っている間に千日川沿いを散歩したら、きっと特別な気分で気持ちが良いだろう。あるいは、電車に乗って別の町まで行ってみようか。
環を誘ってもいいかもしれない。廻はふと、そんなことを思った。環は早々に荷物を纏めて席を立ち、教室を出て行った。
「北条、」
ふと前の方から声が聞こえてきて、廻は顔を上げた。鞄を小脇に抱えながら、飛鳥が廻のことを見下ろしている。眼鏡の奥の瞳と目が合った。
「帰らないの?」
飛鳥は聞いてきた。
「今から帰るよ」廻は答えた。「ちょっと考え事してた」
「そっか」飛鳥はそう答えてから、一瞬だけ逡巡する素振りを見せ、それから口を開いた。「ねえ北条。大丈夫?」
「大丈夫って、何が?」
ループも回数を重ね、いい加減慣れたと思っていた。廻は、飛鳥がそんなことを聞いてきたことに驚いていた。
「何も無いなら別にいいよ。ただ、少し気になって。今日の北条は、普段と違う感じがしたから」
「普段と違うって、何が」
「言葉にはしづらいけどね」飛鳥はそう前置きして答えた。「なんだか……全部どうでもいいって思っちゃってるような、そんな感じ」
廻は何も答えることが出来なかった。飛鳥からそんなふうに見えているとは知らなかった。
ループに慣れきるあまり、廻はすっかり「現在」への興味を失っていた。現在は過去になり、最後は巻き戻ってしまう。
どうせやり直せる。何が起ころうと、自分には関係ない。そんな感情が心のどこかにあることは、否定は出来なかった。その感情が自然と滲み出て、飛鳥に見抜かれたのかもしれない。
呆然としている廻へ、飛鳥は更に告げた。
「だから、少し心配してたんだ。北条に何かあって、すっかり自暴自棄になってるんじゃないかって思ったから」
「そんなはずないだろ」
と、廻は笑いながら言った。
「ならよかった」
飛鳥の方も、わずかに口角を上げてみせた。
何周目の時だったか忘れたけれど、前にも飛鳥には心配をかけたような記憶がある。
それから飛鳥は、荷物を持ち替えて言った。
「私は図書室行くけど、北条は? 二階堂さんと帰るの?」
「まあね」廻は廊下の方を気にしながら答えた。「飛鳥は……確か、小清水のこと待つんだっけ?」
「うん」飛鳥は頷いてから、わずかに小首を傾げる。「小清水さんに聞いたの?」
廻はそこで気づいた。廻がそのことを知ったのは何周か前の世界でのことで、この世界ではまだ聞いていないのだ。
いい加減取り繕うのも面倒だと思いながら、廻は答えた。
「ああ……うん。小清水が言ってたんだよ」廻は話題を逸らそうとする。「小清水とはよく一緒に帰るの?」
「いや。よく考えると、誘われたのは今日が初めてかも。最近は二人で会うことも多くなってきてね。週末に出かける約束もしてるし。まあ、私の方の編成テストが終わってからだけど。夏物の服でも見に行こうって話してるの」
飛鳥は嬉しそうに語った。
元々飛鳥は交友関係の広い方ではない。だからこうして一緒に遊びに行けるような友人が出来たことが嬉しいのだろう。
「よかったな」
廻は呟いた。飛鳥は少し恥じらうように、無表情を顔面に張り付ける。
「まあね」飛鳥は小さく頷いた。それから告げる。「……私は、北条には感謝してるよ」
唐突に感謝を告げられ、廻は面食らった。
「どうして僕に?」
「北条と仲良くなってなかったら、小清水さんとも二階堂さんとも、それと早乙女くんとも話すようになってなかったと思うから。北条はきっかけを与えてくれた。だから感謝してる。そういう話」
飛鳥の瞳から真っ直ぐな謝意が伝わってきて、廻はわずかに顔を背けながらそれを受け止めた。
「きっかけはそうかもしれない。でも、最終的にはやっぱり、飛鳥が面白い人だって分かったから、小清水たちだって仲良くしてるんだと思う。僕もそうだし」
それは廻の本心からの言葉だった。
飛鳥は努力家で勉強熱心で、同年代の少年少女とは少しだけ趣味がずれているところもあって。それでも、些細なことに夢中になるような、意外に子どもっぽいところもある。そんなところが面白くて、だから廻は一人の友人として飛鳥のことを好ましく思っていた。
小清水は飛鳥とは少しばかり性格や交友関係が違っている。だから、確かに飛鳥の言う通り、廻を介さなければ二人が接近することもなかっただろう。けれど、そこから二人が友人同士になれたなら、それはやっぱり飛鳥の人徳の賜物なのだろう。
飛鳥は眼鏡の奥の目を細め、可愛らしく微笑んだ。
「じゃあ、私はそろそろ行くよ。私は小清水さんの部活が終わるまで暇だけど……でも、君は二階堂さんを待たせない方がいいでしょう?」
「そうかもね」
廻はリュックを背負い、飛鳥と一緒に教室を出た。
階段の前まで歩いていき、廻は下りの階段へ、飛鳥は渡り廊下の方へ足を向ける。
別れ際、飛鳥は思い出したように、ああそうだ、と言った。
「屋上って、誰でも自由に出入りできるの?」
廻は足を止めて答える。
「雨の日は原則封鎖だけど、今日は晴れてるから入れると思う」
「そうなんだ。知らなかった。入ったことないから」
確かに、屋上なんて用事の無い生徒は出入りしない。早乙女は高いところが好きで、たまに景色を眺めに行っているようだが。
「なんで突然そんなことを?」
「待ち合わせ場所なんだよ。屋上で待ってるようにって、小清水さんが」
「そういうことか」
「まあ、待ち合わせに使うくらいだから、勝手に出入りできるんだろうとは思ってたけど」
飛鳥は言った。
最近はあまり人気も無いけれど、屋上は吹奏楽部が練習で使うこともある、と前に周が言っていたことを廻は思い出していた。それで小清水にとっては多少なりとも馴染み深い場所なのかもしれない。
「教えてくれてありがとう」
飛鳥はそう言って、渡り廊下の方へ足を向ける。
最後に彼女は振り返り、言った。
「じゃあね、北条。また来週」
「うん」
廻が答えたのはそれだけだった。また明日、とか、また来週、とか、そんな言葉を口にする気には、廻はなれなかった。廻には迎えるべき明日が無いから。それが単なる定型文に過ぎないのだと知っていても、どうしてか廻はそれを口に出来なかった。
だから廻は、短い返事だけを残して飛鳥に背を向け、階段を下って行った。
3
昇降口の前、自販機の側面にもたれ掛かるようにして、環は佇むように立っていた。
廻の姿を見付け、自販機から背中を離す。ゆっくりと歩幅を合わせて下駄箱の方へ歩いていく。
「遅かったね」
と、環は聞いてきた。
「飛鳥と少し話してただけだよ」
廻は正直に答える。二人は靴を履き替えて校舎の外に出た。
前の周回と違って遠回りする気も起きずに、廻たちは真っ直ぐ家路に付いた。何となく足が重いような気がして、廻の歩調は自然とゆっくりとしたものになる。環も同じ気分なのか、あるいは自分に合わせているだけなのか、廻には分からなかった。
空にはほとんど雲が浮かんでおらず、傾き始めた日差しは眩しいくらいで、二人の影を長く伸ばしていた。数羽のカラスが鳴き声を発しながら頭上を通り過ぎていく。その声が遠ざかったタイミングで、環は口を開いた。
「廻、ありがとう」
「なんのこと?」
と、廻は聞き返す。
「私の失敗を無かったことにしてくれたんでしょ。橘さんと、今泉さんのことを」
「ああ……」
言われて廻は思い出した。
「でも、本当に成功したかは分からないよ。今泉さんたちが気づかないように、手は入れたつもりだけど」
「どうなるかは分からないけど、少なくとも廻が動いてくれたことは事実でしょ。だから、ありがとう」
「環のためじゃないよ。僕がそうしたかっただけ。今泉さんのあの様子を見たら、多分、誰だってそうすると思う。あんなふうに泣いたり、悩んだりしてほしくないって。まあ、あの写真の一件はきっかけに過ぎないんだろうけど」
結局、自分のしていることは問題を先送りにしただけだ。廻には、虚無感にも似たその思いが拭えない。〈消失の謎〉だけではない。〈フルートの謎〉も、〈分身の謎〉も。結局、根本的に何かを解決したことは一度もないのだ。
「……こんなこと、意味あるのかな」
廻の心の中の呟きは、実際の声となって胸中から漏れ出た。環は答える。
「分からない」
「何をどうやっても、僕たちは七月に進めないんだし。それに、僕が未来を変えたことで、かえって不利益を被った人もいるかも」
「何か心当たりがあるの? 廻は……」
「そういうわけじゃないけど」廻は首を横に振った。「でも、僕たちの行動が他の人に影響を与えて、最終的にどんな結果が起こるかなんて僕たちには予想できない。そもそも、僕たちに未来を変える権利なんてあるのかな?」
「さっき廻が自分で言ってた。こういう状況になれば、誰だってそうしたと思う。それとも廻は、今泉さんや橘さんのことを黙って放っておけたの?」
「……分からない」
「廻のやってることが正しいか間違ってるかは分からない。けど、私は悪いことだとは思えない」
廻は何も答えなかった。
二人は並んで歩いていく。やがて環は、道すがらでふと足を止めた。そこは螺旋神社の前だった。古びた鳥居が道の途中にあって、その奥には小さな本殿と社務所が見える。
なぜ唐突に環が足を止めたのか廻には分からず、彼は環の方を見て彼女が口を開くのを待った。
「廻に、言いたいことがある」
彼女は言った。
神社の敷地内に、人影は無い。
参道から少し外れた地面の上。落ち葉が散乱する木陰に二人は立つ。環は、話を切り出すことを躊躇っているように見えた。廻は彼女のことを正面に見ながら、話が始まるのをじっと待っていた。
廻には、これから始まる話の内容が予想できていた。いつか言われるのだろうと思っていた。その前に自分から言おうと何度も思って、結局言うことが出来なかった。
六月三十日を何度も繰り返している原因。それは、廻自身にあるのだと。
きっかけはおそらく、六月二十九日のこと。放課後、廻はこの螺旋神社を訪れて、そして戯れに祈った。
──未来なんて、来ませんように。
それはほんの些細な願い。
叶うなんて思っていなかった、ちょっとした願望。
例えば、目前に迫った編成テスト。あるいは、近い未来の高校受験。そして、その先も続いていく人生や、その中に立ち現れるであろう壁。そんな未来から目を背けたくて、逃げたくて、ついそんなことを願ってしまった。
それは半分冗談のようなもので、もう半分は、本気でそう願っていた。
どんな理屈かは分からない。分からないが、その願いは叶ってしまった。螺旋神社には本当に願いを叶える力があるのかもしれない。それ以外に原因なんて考えつかなかった。
環はきっと、あの時一緒にいたせいで巻き込んでしまったのに違いない。廻の身勝手な願いのせいで、環まで時間の檻に閉じ込めてしまった。もしそうなら、廻は加害者であり、環は被害者ということになる。だから廻は言い出すことが出来なかった。
けれど、きっと環は気づいているのだろう。
今まで廻の目の前でそうしてきたように、推理をして、廻がこの事態の元凶であることを見抜いた。そうに違いないと廻は確信している。だからこの場所──螺旋神社で足を止めたのだろう。
すぐに指摘しなかったのは、きっと彼女の優しさだ。彼女は廻の方から告白するのを待っていた。けれどなかなかそうしないから、矢も楯もたまらず、とうとう自ら告げることにした。
この期に及んでも、廻はまだ自分から話す決心が付かないでいる。
逡巡するような環の顔をじっと見て、彼女が言葉を発するのを待った。やがて環は意を決したように小さく息を吸い込み、そして言った。
「私たちが六月三十日を何度も繰り返してるのは、私が原因かもしれない。……いや、きっとそう。だって、そうとしか考えられないから」
彼女が発した言葉は意外で、廻は聞き間違いではないかと疑った。
「『私が原因』って……環の? 僕じゃなくて?」
「廻は何も悪くない。私のせい。私が廻のことを巻き込んだ」
環は、自責の念を感じさせる瞳で、はっきりとそう告げた。廻の頭に疑問符が浮かぶ。
「どういうことなの?」
「昨日……つまり、暦の上での昨日って意味だけど、要するに六月二十九日の放課後、ここで雨宿りをしてたでしょ」
「覚えてるよ」
「あの時……私、お賽銭をあげてから、願い事をした。それがこの事態を引き起こした原因かもしれない」
「もしかして、未来が来ないように願ったのか?」
廻は尋ねた。環は小さく頷く。
「うん。大体、そんなことを願った」
「どうして」
「私ね、引っ越すの」環は突然、関係の不明な話をする。「親が転勤するから。東京に。夏休みの間に引っ越して、二学期からは別の学校に移る」
「……本当に?」廻は聞き返さずにはいられなかった。「僕はそんな話聞いてない」
「言ってないから。……違うな。言えなかった。私も、言わなくちゃって思ってた。せめて廻にはって。でも言えなかった。廻と物理的に離れるってことが考えられなくて、怖くて。伝えるのをずっと先延ばしにしてた」
「そうだったのか」
呟くように廻は言った。
環は話を続ける。
「……仕方ないって分かってる。でも、私は嫌だった。この町を離れたくなかった。だから神社に祈った。神社が本当に願いを叶えるなんて、非科学的なことを言ってるのは分かってる。でも、もうこれ以外に原因は考えられなくて。本当はもっと早く伝えるべきだったけど、なかなか言えなかった。ごめん」
環は申し訳なさそうに目を伏せる。
廻が神社に向かって祈っていたあの時、隣で環も同じように願っていたのか。
「それで、僕を巻き込んだって環は思ってるの? あの時、僕も一緒に神社にいたから」
「そうじゃない」と、環は首を横に振った。「廻のことを巻き込んだのは……私が、そう望んだから」
「望んだ?」
「私はね、本当は、未来が来ないようにって願ったわけじゃない。本当は、こう願った」そこで環は少しだけ躊躇うように間を空け、やがて覚悟を決めたように言葉を続けた。「廻と、離れたくない。ずっと一緒にいたい……って」
「僕と? なんでそんなこと……」
環の顔は烈しい夕陽に照らされていて、彼女の頬や耳がわずかに紅潮していることに、廻はその時になって初めて気付いた。普段は無表情な環が、その時ばかりは廻の顔を見ることが出来ないとでも言うように、わずかに三白眼の瞳を逸らしている。
「……そこまで言わないと、分からない?」
環は聞いてきた。廻は、瞬間的に顔面が火に炙られたように熱くなるのを感じた。顔を背けて答える。
「いや……分からなくは、ない、かも」
廻は小さく咳払いをした。
「と……とにかく、その願いのせいで、僕たちがループしてるってことを言いたいわけ?」
「うん。ごめん」
謝罪の言葉を繰り返す環に、廻は言った。
「いや、環のせいじゃないよ。実は、僕もその時、同じことを願ってた。同じことっていうのはつまり、未来が来ないようにってことだけど。だから、もし本当にこの神社にお祈りしたせいでループに巻き込まれたんだとしたら、それはきっと僕の責任だよ」
環は、そっか、と呟いた。
「もう一度この神社に願えば、僕たちも元の世界に戻れるのかな」
「試してみれば分かる」
環は本殿の扉を見上げた。そのまま彼女は、賽銭箱の方へ歩みを進め、階段を一段ずつ上がっていく。廻はその背中を眺めている。
その時、廻のポケットの中でスマホが震えだした。軽快な着信音が神社の境内に鳴り響く。環も階段の途中で足を止めて振り返った。
廻はスラックスのポケットからスマホを取り出す。着信音は鳴り続けていた。廻は画面を見た。
画面に表示されていたのは、小清水有紗の名前だった。廻の手の中で、なおもスマホは震え続けている。
彼女から電話がかかってくることは珍しい。何か伝えたいことがあるなら、テキストメッセージで送ってくるはずだ。そうしないということは、何か緊急の用件があるのだろうか?
そこまで考えて、廻はふと気付く。今までのループの中で、小清水から電話がかかってきたことは一度も無かった。
廻は通話を繋ぐ緑のボタンをタップした。環は、その様子を少し離れた場所から見守っている。廻はスマホを耳に押し当てた。
「もしもし? 小清水?」
電話口の向こうからは、何も聞こえてこない。廻は耳をすませながら、また呼びかける。
「小清水? 間違い電話なら切るよ」
それから数秒、廻は答えを待った。
いい加減電話を切ろうと思った、その時だった。
「千晴ちゃんが……」
蚊の鳴くような、震えがちの声がスピーカーから聞こえてきた。廻は聞き取ろうと電話を耳に押し当てる。
「飛鳥がどうかしたの?」
「落ちちゃって……今、救急車が……」
小清水の声には、不自然にしゃくり上げるような音が混じっている。それが彼女の嗚咽だと廻は気付いた。
「落ちた……って? どういうこと?」
廻は恐る恐る聞き返す。電話口の向こうで、小清水は答えた。
「屋上から……」絞り出すような声だった。「千晴ちゃんが落ちて……中庭に。腕が……っ、腕が曲がってて……」
言葉が途切れ途切れになり、話は要領を得なかった。
「小清水、落ち着いて」
廻はなだめるように言った。しばらくスピーカーからはすすり泣くような声だけが聞こえていた。
「……ごめん。廻くん。ちょっと今は……。もう切るね」
「ちょっと待って──」
廻が呼び止めるより早く、電話がプツリと切れた。廻はスマホを耳から離す。画面には、通話終了の文字が並んでいた。
小清水の口調からは混乱が伝わってきて、つられるようにして廻の表情もただならぬものになる。そんな彼の顔を見て、環は聞いた。
「どうしたの? 有紗からでしょ、その電話」
廻は頷いた。
「よく分からないんだけど、『飛鳥が落ちた』って」
聞いたままを伝えると、環は少し目を見開いた。
「本当なの?」
「小清水も混乱してるみたいで、僕もよく分からなかったんだけど……」
小清水の狼狽ぶりは相当なものだった。確か彼女は、飛鳥と屋上で待ち合わせて一緒に下校する約束をしていたはずだ。飛鳥は小清水を待っている間に屋上から転落してしまったのだろうか?
いくつもの疑問が廻の頭に浮かぶ。学校の屋上は柵で覆われていたはず。なぜ飛鳥は落ちたのか? 小清水は、理由については何も言っていなかった。事故か、もしくは……。
そして、それより気になるのは、飛鳥の安否だ。道堂中学の校舎は全高十五メートル弱ある。もし本当に飛鳥が屋上から落ちたなら、果たして無事で済むのだろうか?
「有紗は学校にいるのかな」
環は言った。多分ね、と廻は答える。すると環は足早に階段を降りて、鳥居の方へと足を向けた。
「学校に戻ろう」
「ああ……うん。そうだな」
廻は頷いた。二人は学校のある方角へと駆けていった。
4
廻と環が学校の前に戻ってきた時、既に太陽は西の稜線の向こうへと沈みかけ、紫色の空には一番星が瞬いていた。
正門の横に、体格の大きい、強面の男性教諭が立っている。体育科の権藤である。
「なんだお前ら、忘れ物か?」
権藤は聞いてきた。いえ、と廻は濁して答える。
「今は学校は入れないから、とりあえず帰れ」
権藤はぞんざいに告げる。
「誰も入れないんですか?」
「ああ。詳しいことは来週、全体に向けて話す。今日は大人しく帰れ」
権藤の態度には有無を言わせない雰囲気があった。
これ以上待っても、小清水に会うことは出来ないかもしれない。廻がそう思い始めたところで、校舎の方から歩いてくる人影が二人見えた。
小清水だった。それに付き添うように歩いているのは、担任の早瀬だ。小清水の背はわずかに丸まっており、その姿は普段より小さく見えた。
「小清水!」
廻が呼びかけると、小清水は顔を上げた。彼女は早瀬と共に正門の前までやってくる。
「廻くん……環ちゃんも。どうしたの……?」
小清水の声は、まだわずかに震えていた。目は血走って、すっかり腫れ上がっている。
「有紗のこと、心配だったから」
環は答えた。
「そっか……ごめん、心配かけて」
小清水はそう言ってから、後ろにいる早瀬の方を振り返り頭を下げる。
「先生。もう大丈夫です。迷惑かけて、すみませんでした」
「家まで送らなくても大丈夫ですか? 親御さんに連絡して迎えに来てもらうことも出来ますが」
早瀬は柔和な口調で尋ねる。小清水は首を横に振った。
「平気です。ありがとうございます」
早瀬はなおも心配そうな顔をしている。環は彼の顔を見上げて言った。
「私たちが途中まで付き添います」
「そうですか……」早瀬は廻と環の顔を交互に見た。「では、よろしく頼みました」
はい、と環は頷いた。早瀬は権藤に一礼してから校舎の方へ戻っていく。廻と環は、小清水を連れて学校を離れた。
小清水の歩調は鈍重で、廻と環もそれに合わせてゆっくりと夜の道を歩いた。露出した腕を夜の風が撫でていくと、ほんのわずか涼しく感じる。廻は自分の腕を撫でた。鳥肌が立っているのは、夜の町を通り抜ける冷気のためだろうか。
廻たちは千日川沿いの土手に小清水を連れて行った。散歩やランニングのために舗装された道の脇に、木製のベンチが置いてある。小清水をそこに座らせて、環は隣に座る。三人が座るにはベンチは狭く、廻は二人の正面に立った。
小清水は、廻のことを上目遣いに見上げた。
「廻くん……ごめんね、いきなり電話とかかけちゃって。びっくりしたよね……?」
「それは……まあ、驚いたけど」
「あの時は、私もちょっと動転してて……」
「有紗、」横から環は言った。「何があったのか、話せるなら話してほしい。本当のことなの? 千晴が落ちた、っていうのは」
小清水の表情は石のように固まる。次の瞬間、彼女は急に前屈みになって口元を抑えた。
「小清水? 大丈夫か?」
廻は屈み込んで、彼女の表情を覗き込もうとする。環は小清水の背にそっと手を置いた。
「ごめん、有紗。言いたくないなら……」
「私のせいなの」
うずくまった姿勢のまま、小清水は絞り出すように声を発した。
「えっ?」
思わず廻は聞き返してしまう。
小清水は肘を膝の上に置き、両手で顔を覆った。そのまま彼女は話す。
「私が……私が屋上で待ち合わせようなんて言わなければ。千晴が落ちたのは私のせい」
「小清水のせいじゃない」廻は反射的に否定の言葉を発する。「どうして飛鳥は落ちたの? 何が原因で……?」
「分からない」小清水は力なくかぶりを振った。「私が屋上に来た時、千晴ちゃんは柵の横にいて。柵が外れて、私の目の前で、柵ごと落ちていって……」
柵が壊れたのか、と廻は理解する。だとすれば、飛鳥が落ちたのは事故だったことになる。手すりの強度に問題があったのだろうか?
「飛鳥は……?」廻は恐怖心を押し殺しながら聞いた。「飛鳥は無事なのか? 救急車で運ばれたって言ってたよね?」
「それも……分からない。中庭に降りていった時、千晴ちゃんの体は──」小清水は躊躇うように言葉を句切り、それからその先を話した。「──腕が、変な方向に折れ曲がってて。頭から……血が出て、周りに飛び散ってて……」
その凄惨さを思い出してしまったかのように、小清水はまた口元を抑えた。
「ごめん、思い出させて……」
廻が謝ると小清水は、ううん、と首を横に振った。「私は大丈夫」
小清水の動揺は収まらず、精神が揺れているのは廻と環も同じだった。
もし彼女の言うことが真実なら。
果たして、飛鳥は無事なのだろうか。
廻は、心臓が内側から冷えるような感覚を味わった。
環は呆然としたまま、何も言わない。
そして小清水が立ち上がった。
「二人とも、心配かけてごめん。今日はもう……帰るね。さよなら」
一方的に言い残し、彼女は鞄を掴んで走り去った。廻と環は、彼女を追うことが出来なかった。
5
廻と環は夜道を歩き、螺旋神社まで戻ってきた。
日はすっかり暮れて、辺りは夜になっていた。満月よりわずかに欠けた月が上空に浮かんでいる。
賽銭箱の横に腰掛け、廻はスマホの画面を見ている。環はその横に、何をするでもなく立っていた。
クラスのLINEグループでも飛鳥の転落事故は既に噂になっていた。何人かの生徒は飛鳥が担架で運ばれるのを見たと言っている。その中にあって、小清水はずっと発言しないままだった。廻はトークルームの通知をオフにしてスマホをしまった。
「……どうしてこんなことが?」
廻は、誰に尋ねるわけでもなく、自然と呟いていた。
どうしてこんな事態が起こったのか、まるで分からない。
これまでのループの中で、飛鳥が屋上から落ちるなどという事件は一度も無かった。
それなのに、どうして「この世界」で飛鳥は落ちたのか?
今までの世界でも、同じような事件があったのだろうか。事故があった時間、廻たちは学校を離れていた。だから知るチャンスが無かったのではないか。廻はそう仮定する。しかし、すぐにその可能性がほとんど無いと気付いた。
小清水からの電話はさておくとしても、飛鳥の転落事故はクラスのグループでも話題になっている。もし前の世界でも同様の事態が起きていたなら、廻が気付かないはずがない。
やはり、飛鳥の転落はこの周回で初めて起こった出来事なのだ。
しかし、なぜ?
結局、思考はその疑問へと戻ってきてしまう。廻は乱暴に頭を掻いた。考えても答えが分からない。そのことへの苛立ちばかりが募っていく。
廻は環の顔を見上げた。彼女に問えば、また答えを教えてくれるだろうか。彼女は、どんな謎だって解いてくれるから。
縋るような廻の目を見下ろし、環はわずかにかぶりを振った。
「私にも分からない」
「そうか……そうだよな」
「千晴はどうなったんだろう」
環は呟いた。廻は何も答えず、膝に力を込めて立ち上がった。
「僕らが気にしてもしょうがないよ」
環は、憤ったような目で廻を見た。廻は弁明するように続ける。
「そうじゃない。言い方が悪かった。でも、なんにしたって世界はまた巻き戻るんだから、僕たちはやり直せる。そうだろ? だったら、次の世界では飛鳥から目を離さないで見張ってればいい。そうすれば事故も防げるし、原因だって分かるかもしれない」
「……そうね」
環は頷いた。それから彼女は、背後にある本殿を一瞥する。
「この神社に願えば、このループは終わるのかもしれない」
「それはその気になればいつだって試せる。今は飛鳥のことをなんとかしないと」
「そうだね」環は頷いた。足元に置いた鞄を手に取り、告げる。「帰ろう、廻」
廻は環と並んで夜道を歩き、家に辿り着いた。その道中で何を考えていたのか、廻は覚えていなかった。
周は部活が終わってからすぐに帰ったらしく、転落事故のことは知らなかった。廻も話題に出すことはせず、知らないふりをした。学校で勉強して帰りが遅くなることはあまり珍しくなかったから、両親も周も、廻の帰宅が遅かったことに疑念は持たなかった。
夜遅くになってから、廻の母のアドレスに学校からメールが届いた。土日の間校舎への出入りを禁止する旨を伝える一斉メールだった。メールの文面には詳しい事由は書かれていなかったようで、廻と周は何か知らないかと尋ねられた。実際に何も知らない周は元より、廻の方も何も知らないと答えた。
自室で一人になり、ベッドの上に仰向けに寝転がっていると、胸中にいくつもの感情がない交ぜになって沸き起こってくるのが分かった。今日一日、この周回で起こった出来事が、早回しにした映画の予告編のように、次々と脳内に立ち現れては消える。薄暗い土手のベンチで訥々と話す小清水の姿を思い出す。彼女が語ったことを思い出す。思い出したくもないことばかり、勝手に脳が拾い上げているかのようだ。心臓が冷えて、呼吸が浅くなるような感覚。
机の上に置いていたスマホが震えた。廻は体を起こして、スマホを手に取る。小清水から短いメッセージが届いていた。
〈今日はごめん〉
小清水から送られてくるメッセージは、普段はもっと感嘆符や絵文字が多様されていて、漢字と平仮名だけの簡素なテキストはどこか寂しげに見えた。
〈気にしないで〉
とだけ、廻は返信した。すぐに既読が付いて、
〈ありがとう〉
と返ってきた。廻はそれ以上何も返信せず、トークルームを閉じた。
トーク履歴の上の方に、飛鳥の名前を見付ける。廻はその画面を開いた。
最後の会話の履歴は三日前の日付を示していた。塾で出された課題の範囲を飛鳥が尋ねてきて、廻がそれに答えたのだった。画面をスクロールしていく。他愛のない会話を交わしている箇所もあった。例えば、YouTubeで見た動画の話や。あるいは、最近読んだ小説のことや。おすすめの音楽を教え合ったり。
トーク画面の一番下まで戻って、キーボードを表示させる。何度か文字を打ち込んでは消しを繰り返し、最終的に短い文章を送った。
〈大丈夫なら返信ください〉
送信ボタンを押してから、廻はしばらくそのまま画面を見つめていた。
既読は、いつまでも付かない。
画面の左上に表示された時刻を見た。十一時半を示している。あと三十分もすれば日付が変わる。日付が変われば、世界は巻き戻る。廻だって、今日中に飛鳥から返事が来るとは期待していなかった。だから、こんな行動に意味は無いのだと廻はよく分かっていた。
スマホを机の上に伏せて置き、廻は再びベッドに倒れ込んだ。うつ伏せになって枕に顔を埋め、目を閉じる。
歩き回ったせいか、体が疲れていた。それ以上に精神も疲弊している。まだ零時にはわずかに遠いが、大きな睡魔がのしかかってきた。
まだシャワーも浴びていないし、寝間着に着替えてもいなかった。けれど、そんなことが関係あるだろうか? どうせ世界は巻き戻る。何も関係ない。何も。
やがて廻は眠りに落ちた。
そして翌日。
廻は、自室のベッドの上で目を覚ました。
6
覚醒して最初に覚えたのは、違和感だった。カーテンの隙間から差し込む陽光が廻の顔を照らしていた。
廻は部屋着のままベッドの上でうつ伏せになって眠っていた。
寝ぼけ眼で体を起こし、机の上に置きっぱなしになっていたスマホの画面を確認する。時刻は九時頃だった。
おかしい。廻はそう思った。なぜ自分は家にいる? 朝の九時なら、廻は学校にいて、一時間目の国語の授業を受けているはずだ。
その時、廻の目に、日付の表示が飛び込んでくる。
廻は愕然とした。そこに表示されている日付は、六月三十日──ではない。
七月一日、土曜日。廻のスマホのロック画面には、はっきりとそう表示されていた。
廻は寝癖の付いた頭を撫で付けながら、一階のリビングへと降りていった。
リビングには周が一人でいた。ソファに座ってテレビを眺めつつ、片手でスマホを器用に操作している。
「あ、廻、起きたんだ。おはよ」
「周。今日、何曜日だ?」
「え? いや、土曜日でしょ」周は半笑いに答える。「大丈夫? 勉強のしすぎで曜日感覚失った?」
「いや……聞いてみただけ」
テレビでは民放の情報番組を放送していた。周はスマホの画面とテレビの画面を交互に眺めている。
「母さんたちは?」
「今日はスタジオ撮影だから早くに家出るって、こないだ言ってたじゃん」
そういえば、と廻は思い出す。確かその話を聞いたのは水曜日のことで、廻にとってはその日から既に一週間ほどの時間が流れているに等しかった。
「っていうか廻……」周は訝るような視線を向けてきた。「昨日、シャワー浴びずに寝たでしょ」
「ああ……うん。ちょっと疲れてたから」
「早く入ってきて。汚いから」
「言われなくてもそうするよ」
廻はリビングを出て風呂場へと向かった。
少し熱いシャワーを首筋に当てると、徐々に意識がはっきりとしてくるのが分かった。湯は首元から背中と胸を伝って全身に流れていく。
寝起きで朦朧としていた意識が明瞭になっていくにつれて、徐々に廻は理解していく。それは、この世界が現実であるということを。そして、今が七月一日であるということを。
何も驚くべきことはない。六月三十日の翌日が、七月一日であるという、ただそれだけのこと。
これまでの「異常」が是正され、「正常」になっただけのこと。
水滴の伝う鏡に、廻自身の顔が映っている。
その顔を見ながら、廻は理解し、実感した。
六月三十日を繰り返す現象。あのループは、既に終わっている。
リビングに戻ってきて、廻はスマホを手に取った。通知を切っていた、クラスのグループを確認する。
いくつかのメッセージが溜まっていた。昨日の晩のうちは喧しかったトークルームも、一晩が経つとすっかり静かになっている。
履歴を遡っても、特別見るべきメッセージは無い。
そこで廻は、ふと思い出した。環はどうしているのだろう? 廻と環は同じ原理でループを繰り返している、と以前に推測したことがある。それが正しいなら、環のループも同じタイミングで終了したと考えるのが自然だろう。
環は携帯電話を持っていない。だから連絡を取りたかったら、直接会いに行くしかない。
リビングの隅では、相変わらず周がだらしない姿勢でソファに座ってテレビを見ている。テレビではニュース番組を放送していた。テレビ局の報道フロアを背景に、アナウンサーがニュースを読み上げていく。
「これ、うちの学校じゃない?」
周は突然声を上げてテレビの画面を指さす。姿勢を正して食い入るように画面を見た。
「ねえ、廻」
言われて、廻は画面に目を向けた。
そこに映し出されていたのは、廻たちが毎日通う道堂中学校の校舎だった。
男性のアナウンサーが、淡々とニュースを読み上げていく。
『昨日午後、──県道堂市の公立中学で、生徒の一人が屋上から転落しました。転落したのは同じ中学校に通う飛鳥千晴さん十四歳で、病院に搬送されましたが、その後に死亡が確認されたということです』
廻の顔が、サッと冷たくなった。血の気が引くとはこういうことかと思った。
画面には、ほのかな笑みを浮かべる飛鳥の写真があった。ブレザーの制服に身を包み、お下げの髪を三つ編みにして、銀縁の眼鏡の奥の瞳を細めている。去年の修学旅行の時に撮った写真を、飛鳥のところだけ切り抜いたものだ、と廻は察する。写真の下に〈飛鳥千晴さん(14)〉と名前が書かれ、その隣には〈死亡〉の二文字がはっきりと並んでいた。
死亡。
飛鳥が死んだ?
「飛鳥さんって、廻のクラスメイトの人じゃなかった?」
周が聞いてくる。廻はそれに返事をすることが出来ない。焦点の合わない目で、じっと画面を凝視している。
何かの間違いだろうと思った。
それでもアナウンサーは訂正を入れる素振りもなく、淡々と原稿を読み進めていく。
『──屋上は生徒が自由に出入りできる状況にあったということで、警察は事故とみて捜査を進める方針です。学校は取材に対し次のようなコメントを発表しています──』
淡々とした声で、アナウンサーがコメントを読み上げていく。その声が廻の耳を通り抜けていった。
「ちょっと廻、大丈夫……?」
周は不安そうな表情になって廻の顔を覗き込んだ。
その時、玄関の方からチャイムの音が聞こえてきた。ピンポーンと、場違いなまでに軽薄な電子音が鳴り響く。テレビ画面を見て立ち尽くしている廻に代わって、周が立ち上がってインターホンを確認しに向かう。
周はインターホンのモニターを確認し、振り返って廻のことを呼んだ。
「廻、環さんが来てるよ」
その名前を聞き、廻は我に返る。
「あ……うん。今出る」
廻は足早に玄関の方へ向かった。
扉を開けると、玄関先に環が立っていた。長袖のボーダーTシャツに、ゆったりとしたジーンズを穿いている。
「廻。今、時間ある?」
「うん」廻は頷いた。「上がる?」
「そうする。お邪魔します」
環はローファーを脱いで丁寧に揃え、北条家の床を踏んだ。
階段を上がり、自室に環を通す。環を机の前の椅子に座らせ、廻はソファの縁に腰掛けた。こうして自分の部屋に環がいるのは随分と久しぶりな気がした。
環は尋ねてきた。
「これって、夢じゃないよね? 廻」
「環も……終わったの? あのループ」
「やっぱり、廻もそうなんだ」環は呟いた。「最後の周回で……千晴が落ちて。そのままループが終わった」
「僕も同じだよ」廻は上半身を屈めると、床を見ながら大きなため息をついた。「どうしてこのタイミングなんだ。僕も環も、あの時にループが終わることなんて望んでなかった。むしろやり直したいと願ってたはずなのに……」
「そんなこと、どうでもいい」
環は言った。廻は顔を上げて彼女のことを見た。環は、何かを拒絶するように首を横に振っていた。
「もう全部どうでもいい。理由なんて。さっきニュースで言ってた。千晴が死んだって。全然信じられない。千晴が……」環は縋るように廻の顔を見た。「私たち、もうやり直せないのかな?」
「それは……」廻は言葉に詰まりながらも、なんとかして目の前の環へ声をかけようとする。そうしなければ、彼女が現実に押し潰されてしまうような気がした。「で……でも。まだ分からない。ループの起点が変わることは今までもあっただろ? だったら、終点が変わることもあるかもしれない」
「私にはそうは思えない」環は言った。「感覚で分かる。もう私は、時間を遡ったりはしないんだって……。廻だって、本当は感じてるんじゃない?」
廻は何も答えない。
環の言う通りだった。
「私、千晴に伝えてないことが沢山あるな」環は呟いた。「借りっぱなしの小説だってあるし、読んだ本の感想だって伝えられてないし。今度有紗も一緒に出かけようって約束してて……その日取りも決めてなかった。それから、私がもうすぐ引っ越すってことも」
環の口調から、やりきれない悔恨が伝わってくる。
彼女は椅子の背に体重を預けた。ギイ、と骨組みの軋む音がする。
「千晴に会いたい」
環は呟いた。
「……そうだね」
廻は言った。
それは心の奥底から溢れる感情だった。
どこか遠くを見るような環の瞳を見て、廻は今更ながら実感した。
飛鳥は、本当に死んでしまったのだと。
もう会えない。
話をすることも出来ない。
廻は一瞬、自分が泣くような予感がした。顔の内側から涙が溢れてくるかと思った。けれど、結局彼は泣かなかった。
コンコン、と控えめなノックの音が聞こえてきた。廻は立ち上がってドアを開けた。
扉の向こうの廊下に、周が立っている。
「どうした?」
廻は尋ねた。
「なんか……また別のお客さんが来てるみたいで」
「僕に?」
「うん……。なんか、銀髪の女の人」
その特徴から連想される知人は、廻には一人しかいなかった。
廻は階段を降り、玄関の扉を開いた。そこに立っていたのは円谷まどかだった。休日にもかかわらず制服に身を包んでいる。
「円谷さん? なんでここに……」
廻が聞くと、円谷は答えた。
「北条廻。話したいことがあります。あなたと……二階堂環にも」
すると、廊下の奥の階段から環が顔を覗かせた。
「私に?」
そう尋ね返しながら、階段を降りてくる。
「ここにいたんですね。ちょうどよかった」
「話っていうのは?」
廻は聞き返した。
「ここでは少し。私の家……螺旋神社に来てください。そこで話します」
廻は振り返り、環と顔を見合わせた。それから、リビングにいる周を呼び寄せる。
「周。少し出かけてくる。環も一緒に」
「それは……私は、別にいいけど」
周は不安そうな表情を浮かべている。さっきニュースを見ていた時の廻の態度がまだ引っかかっているのかもしれなかった。
「後で連絡するよ」
廻はそう言い残し、環と共に家を出た。
7
廻の家から螺旋神社まで歩いていく道すがら、三人は何も話さなかった。廻と環は、ただ円谷の後に続いてアスファルトの道を踏みつけていく。青い空に、薄い雲がかかっていた。雲を貫通した太陽の光が上空から降り注いでいた。
やがて三人は神社へ辿り着く。鳥居を潜り、円谷は社務所へ向かった。鍵を開けて扉を開く。円谷に導かれるまま、廻と環は社務所へ足を踏み入れた。
社務所に足を踏み入れるのは初めてだった。クリーム色の床の上に事務机が置いてあり、近くにはオフィスチェアがあった。壁際には縦に長いロッカーがあって、その中には紅白の巫女装束がしまってある。
円谷は椅子には座らず、制服のポケットから何かの端末を取り出して、それを操作した。手で握り込めるほどのサイズの、円筒状の機械である。円谷が側面に指で触れると、そこから透明な板が飛び出してきた。よく見ると、それはホログラム映像の一種だった。スマホのようでもあるが、あんなスマホは見たことがなかった。新製品だろうか、と廻は考える。
端末の円筒部分を円谷は操作する。それに呼応するようにして、クリーム色の床に正方形の切れ込みが入った。ガコン、と音がして、床の切れ込みがスライドした。床にぽっかりと空いた正方形の穴の奥には、地下へと続く階段があった。
階段の側面の壁に設置された照明が、地下へと続く道を明るく照らし出す。白一色に覆われた、どこか近未来的な雰囲気を持つ空間が、隠し扉の奥に広がっていた。
「こちらへどうぞ」
円谷は階段に足を踏み入れ、廻たちの方を振り返った。廻と環は、恐る恐る円谷の後に続いて階段を降りた。
階段を降りていくと、そこには白い部屋があった。部屋の中央に置かれた机と椅子も白で統一されており、角の丸まった流線的なデザインをしている。まるで昔のSF映画に出てくる宇宙船の内装のようだった。
円谷は椅子に座り、廻たちにも椅子に座るよう勧めた。廻たちは机を挟んで円谷の正面に着席する。
部屋の奥からお盆を乗せた自走式のロボットが現れ、飲み物を運んでくる。廻と環はそれを受け取った。何の変哲も無い湯飲みの中は緑色の液体で満たされ、渋い香りと共に湯気を立てている。円谷は自分の分の湯飲みを傾けつつ言った。
「ただの緑茶です。この次元の飲み物ですから、心配なさらず」
廻は曖昧に頷きながら緑茶に口を付けた。苦みと甘みの入り交じった味が舌の上に広がった。
円谷は湯飲みを卓上に置き、蒼色の双眸で廻と環の顔を見た。
「ここへ呼んだのは、聞きたいことがあったからです。お二人は、同じ一日を何度も繰り返しているような感覚に陥ったことはありませんか?」
単刀直入に円谷は聞いてきた。
廻は思わず立ち上がる。
「やっぱり、円谷さんも知っていたのか」
環は質問を返した。
「円谷さん。あなたもループの記憶を保持していたの?」
「厳密に言えば、私は別の時間軸の記憶を保持することは出来ません。私は『特異点』ではありませんから。しかし、世界が巻き戻っているという事実は知っている」
廻は椅子に座り直し、熱いお茶を喉に流し入れて息をついた。
「……円谷さん、君は何者?」
「私はこの次元を監視するため別次元から派遣された、並行時空観測員三四〇号。〈円谷まどか〉という名前、螺旋神社の娘としての生い立ち、道堂中学校三年一組の生徒としての立場。全て架空のものです。全ては北条廻──あなたを監視するためです」
自分を監視するとはどういうことか。廻には円谷の発言の真意が分からず、彼は混乱するばかりだった。
環は円谷に向かって聞き返す。
「並行時空……つまり、マルチバース?」
廻も、その言葉には聞き覚えがあった。
宇宙の外には、また別の宇宙がある。無数に存在する宇宙は、それぞれが独立した歴史を歩む。
廻は言った。
「それって、あくまで映画とかの中の話だろ?」
「いいえ。マルチバースは実在します」
円谷は答えた。彼女の口調は真剣で、とても冗談を言っているようには聞こえない。
そもそも、冗談で神社の地下にこんな秘密基地めいた空間を作ったりはしないだろう。廻は半ば直感的に、彼女の言葉が真実であることを悟った。
「分かった。信じるよ」
「安心しました。信じてもらえないことには、話が前に進まないので」円谷は小さく息をついた。「創作文化が発展している次元は、理解が早くて助かります」
環は更に質問を重ねる。
「私と廻がループしていたことも、あなたの出自と関係が?」
「同一時間の繰り返し──あなたたちの言う、『時間のループ』を引き起こしていたのは、私です」
「円谷さんが?」
廻は聞き返す。円谷は頷いた。
「厳密に言えば、私たちの所属する、並行宇宙を管理する組織が、ということになりますが」
「なんのためにそんなことを?」
と、環は聞いた。
「並行宇宙間の相対的な時間のズレを是正するためです」
理解が追いつかず怪訝な顔をしている廻たちへ、円谷は問う。
「この次元には、うるう年という概念がありますよね?」
「ああ……うん。あるけど」
突然の質問に当惑しながらも、廻は首肯する。
「それと同じことです」円谷は言った。「平行宇宙の時間の進み方は一定ではありません。宇宙ごとに、微弱ながら時間の進み方に違いがある。単一の宇宙のみで一生を終える生命体にとっては問題になりませんが、我々のように平行宇宙間を移動する者にとっては障害になり得る。故に我々は、特定の平行宇宙において同一の時間を繰り返す処理を意図的に行うことにより、並行宇宙間の相対的な時間の差を是正しているのです。我々はこれを、〈特定次元領域内時空間反復処理〉と呼んでいます」
廻は、円谷の言葉を一つずつ頭の中で咀嚼していく。
「とにかく、円谷さんとその仲間が、あのループを引き起こしてたってことか」廻は言った。「じゃあ、やっぱり円谷さんもループの記憶を持ってたんじゃないか?」
「いいえ」円谷はかぶりを振って、廻の顔を見据えた。「北条廻。あなたがループの中で記憶を保持できたのは、あなたが〈特異点〉だからです」
「特異点って……なんのこと?」
廻は聞き返した。
「次元全体の情報がリセットされても、あなただけは情報を失わない。あなたは生まれつき、そういう特異体質なんです。脳の構造が他の人間とは違っている。故にあなたは記憶を保持している」
「生まれつき……遺伝的なことなのか? 僕の両親や妹は、記憶を失ってるようだったけど」
「突然変異のようなものです。おそらくこの宇宙に同様の体質を持つ人間は、二人といるかどうか。私も話には聞いていましたが、実際に特異点に会うのはあなたが初めてです」円谷は言葉を句切り、廻の顔をまじまじと見つめた。「特異点は他の知的生命体と異なる脳波を発しています。それを利用して我々はあなたが特異点であることを突き止め、私が監視のために派遣されたのです」
「そうか」環は呟いた。「この螺旋神社を拠点としているのも、道堂中学の生徒を装っているのも、全て廻を監視するためだった。違う?」
「その通りです」
円谷は、環の方を見て頷いた。
「じゃあ、環はどうなるんだ」廻は言った。「環もその、特異点ってやつなのか?」
「二階堂さんは特異点ではありません。しかし、北条さんに対して強く精神的に同調していた。私が反復処理を実行した時も、あなたは北条さんと物理的に距離が近かった。だからループに巻き込まれたのです」
「そうか……」廻は隣にいる環の横顔を見た。「僕が巻き込んでたってことか」
「そういうわけでは……」円谷は言った。「北条さんの意思が介在した結果ではありませんから」
円谷は、彼女なりに廻のことを擁護して、慰めようとしているのかもしれない。廻は彼女の蒼い瞳と目を合わせて、小さく呟いた。
「ありがとう」
「いえ、」円谷は短く答えて、居住まいを正す。「さて……ここからが、本題になります。つまり、私があなた方に正体を明かし、反復処理や特異点のことを教えた理由ということでもあります」
廻は我知らず椅子に深く座り直し、円谷の話の続きを待った。円谷は口を開く。
「あなたたちは反復処理の中で、六月三十日を何度も繰り返した。その中で、意図的に時間の運航に影響を与えるよう振る舞ったのではありませんか?」
「つまり……」環は円谷の問いを換言する。「過去を変えるように行動したか、ということを聞きたいの?」
「そういう理解で問題ありません」
「だったら、答えはイエスだ」廻は答えた。「僕たちは周回の中で過去を変えようと考え……そして、実際その通りに行動してきた」
円谷は小さく頷き、それから言った。
「あなた方が何を目的として時間運航を変えてきたのか、それについては問いません。問題は、それによってこの宇宙の時間軸が移動したということです」
また新しい単語が出てきた。廻は何とか理解しようと努める。円谷は、更に詳細な説明を加えた。
「通常、反復処理の中で繰り返す時間は全く同一のものにはなりません。微弱な差異が生じる。それは特異点の介入の有無にかかわらず、という意味です」
「なぜだ?」廻は聞き返す。「特異点以外は記憶を持たないはずだろ。だったら、同じ一日を繰り返すはずじゃ」
「それは世界の微妙な揺らぎのためです。生命体の思考にはある種のランダム性があります。それは人間個人の意識とは異なる、無意識のレベルの問題。個人の思考や意思で制御できない部分に現れる揺らぎのことです。例えば、朝に家を出る時に、右足から靴を履くのか、左足からなのか。そういう無意識の行動が周回ごとに異なってしまう」
「なるほど。だから微妙に変化するってことか……」
廻は、口に出さずに頭の中で考える。
ランダム性を持った個々人の無意識的な行動は予測が出来ない。もしかすると、飛鳥の転落もそれに関係があるのだろうか?
円谷は、まるで廻の脳内の問いに答えるかのように言った。
「ですが、通常そのような揺らぎは、時間の運航に影響を与えることはありません。最終的に大きな影響が出ないよう収束する。これは実験によって判明している事実です」
「でも、実際に僕たちはループの中で過去を変えてきた」
「それは特異点であるあなたが介在したからです。さっき話したのは、あくまで特異点による意図的な介入が無い場合の話。特異点が介入した場合は話が別です。なぜなら、そこに意思が存在するから。意識の力は無意識の力を上回ります。あなたは意図的に時間に介入し、時間軸を移動した。そして、その世界を〈観測〉することによって時間軸を決定したのです」
廻は、学校の中で起こった〈謎〉を回避すべく、いくつかの行動を起こしていた。そこには確かに、廻自身の意思が強く介在していた。
結果的にそれが、円谷の言う「時間軸の移動」に繋がったと言うのだろうか。
「これに関しては客観的な証拠もあります」
円谷は端末を取り出して操作した。机の中央付近から空中に向けて、ホログラムのスクリーンが表示される。それは棒グラフだった。
「このグラフは、反復処理によって繰り返された時間を、処理が行われた回数ごとに示したものです」
廻と環は、そのグラフに目を向けた。
五本の線が横に並んでいる。最初の三本は同じ高さだが、四本目はわずかに短く、五本目は更に短い。
半透明のホログラムの奥で、円谷の口が動いている。
「通常、反復処理は当該次元において広汎に認識されている時間単位を利用します。この次元だと、『一日二十四時間』という単位で繰り返すことになります。そうすると制御がしやすく、我々にとって都合が良いからです」
「だったらこのグラフは、二十四時間で全部横並びになっていないとおかしい」
環は指摘した。円谷は頷く。
「三回目と四回目の反復は二四時間に満たない。反復の終点は自動的に設定され、変わることはありません。つまり、起点が後ろ倒しになっていることの証拠です」
「確かに、四周目からはループの起点が変わってた」廻は言った。「でも、それがどうして時間軸を移動した証拠になるんだ」
「時間軸は元の軸から枝分かれするように増えていきます。本来、この次元の反復処理では、七月一日の午前零時から六月三十日の午前零時へ、きっかり二十四時間を戻るはずだった。
しかし、移動後の時間軸は、枝分かれした瞬間からスタートします。それ以前の時間は存在しない。戻るべき『六月三十日午前零時』が無いのです。だから枝分かれの瞬間からスタートすることになる」
廻は、周回の中での出来事を思い返す。
三周目の時、廻は〈フルートの謎〉を回避しようとして行動した。そして、四周目が始まったのは朝のHR中のこと。つまり、実際に廻が行動を起こした直後から四周目は始まっている。
廻は意識していなかったが、あの時が「時間軸が移動した」瞬間だったのだろう。
五周目も同じだ。〈分身の謎〉を回避した直後の昼休みから周回が始まった。
「あなたたちは、周囲の状況に介入し、時間の運航を変えてきた」
円谷は、事実を確認するように言った。
そして、彼女は告げる。
「──その影響によって起こった事象。それが、飛鳥千晴さんの死という結果です」
飛鳥。
その名前を聞いた途端、廻の喉に吐き気がこみ上げてくる。
廻は慌てたように湯飲みを手に取ると、すっかりぬるくなった中身を一気に飲み干した。
緑茶を胃に流し込み、精神を落ち着かせる。
「……飛鳥は、どうして死んだ?」
「詳しいことは、私にも、まだ……。ただ言えるのは、本来であれば飛鳥さんはこの時間に死ぬはずではなかった、ということです」
「当然だ」廻は立ち上がらん勢いで言った。「それまでのどのループでも、飛鳥が死ぬようなことは一度も無かった。僕ははっきり覚えてる。あいつが死ぬはずがない。こんな世界は間違ってるんだ。何かの間違いなんだよ」
「廻、」横から聞こえてきたのは、環の冷静な声だった。「落ち着いて。円谷さんに怒鳴っても仕方ない」
その言葉で、廻もわずかに平静を取り戻す。
「分かってる。……ごめん」
「残念ながら……」円谷は口を開いた。「この時間軸では、飛鳥千晴は確実に死亡しています。あなたは観測者としてこの世界を観測し、決定してしまった」
「なぜ飛鳥は死んだんだ?」廻は聞いた。「僕にはその理由が分からない。僕の行動は、飛鳥には干渉しなかったはずだ。望月や橘さんに影響が出るならまだしも……」
「私も、このままじゃ納得できない」環も言った。「何か知ってるなら……全て教えて。円谷さん」
円谷は、すぐに頷いた。
「元より、あなた方をここに連れてきたのは、全てを見せるためです。私には特異点であるあなたの行動を制御できなかった責任がありますから」
8
円谷は立ち上がった。廻と環も、それに応じて立ち上がる。円谷は、端末を取り出して操作した。
足元の床へ、椅子と机が自動的に格納されていった。沈み込むように椅子と机が消えていき、床に空いた穴がスライド式の扉に閉じられる。扉はピッタリと閉じ、切れ目は見えなくなった。
机と椅子が消え、にわかに部屋は広くなった。
次いで、天井からミラーボールのような装置が降りてきた。球形の装置は、無数のレンズで覆われているように見える。
部屋が暗くなった。明かりが全て消えたのだ。太陽光の届かないこの地下では、人工の明かりが無くなるだけで完全な暗闇と化す。
しかし、暗闇の中にいたのは一瞬だけだった。すぐに頭上の球状の装置が光を発し始めた。
気が付くと、廻は外にいた。
頭上には、夕刻の赤い空が広がっている。薄い雲がたなびき、西の空に沈みゆく太陽が斜めから廻たちの顔を照らしている。
床は水色で、周囲は柵に覆われていた。遠くには、廻たちが暮らす道堂市の街並みが見下ろせる。
「これって……学校の屋上?」
環は呟いた。
それで廻も気が付く。間違いなかった。
ここは、道堂中学の屋上だ。
そしてそれは、飛鳥が転落した現場ということでもある。
「まさか、テレポートしたのか?」
廻は、少し離れた位置に立つ円谷へ尋ねた。
円谷はかぶりを振った。
「いいえ、流石に我々の技術でもそこまでは。これは六月三十日の午後五時頃、道堂中学校の校舎屋上を正確に記録・再現したホログラム映像です」
さっき天井から降りてきた、球形の装置を廻は思い出す。あれはおそらく、三百六十度に映像を投影する映写機の役割を果たしていたのだろう。これは単なる映像であり、実際には廻たちはまだ螺旋神社の地下にいるのだ。
「今から見せるのは、昨日の屋上で実際に起こった出来事です。ただしこれは、単なる映像に過ぎません。それに留意してください」
「……分かった」
廻は頷いた。
環は何も言わない。彼女は、映像の中の一点に注視していた。
屋上の塔屋の扉が開く。一人の少女が姿を現した。
「千晴……」
環は呟いた。
廻と円谷も、その姿を注視する。
映像の中の飛鳥は、当然現実の環たちに気付くことはない。手のひらを空に向けて、飛鳥は大きく背伸びをした。シャツとスカートの隙間から脇腹がわずかに露出する。それから、飛鳥は屋上を歩いていった。
ポケットからスマホを取り出し、飛鳥は画面を確認する。
『ちょっと早かったかな』
飛鳥は呟いた。屋上を囲う柵の付近へと歩いていく。中庭に面する柵の付近へ彼女は立った。
廻たちは、飛鳥を追ってホログラム映像の中を移動した。
静かに風が吹き、飛鳥のスカートの裾を揺らした。強風というほどではない。むしろ、屋上に吹く風としては弱い部類だ。風に煽られて転落したとは思えなかった。
ふと、飛鳥が何かに気付いたように顔を上げた。
その視線は、柵の向こう側へと向けられているように見えた。彼女は柵の手すりに手を置いて、柵の向こうを見ようと目を凝らす。
その時だった。飛鳥は、突如として足を滑らせた。
驚愕の表情が廻の目に入る。当然、映像の中の飛鳥には、廻たちの姿は見えていない。
飛鳥は咄嗟に柵の手すりを強く掴んだ。
柵に彼女の全体重がかかる。それでも、本来であればその柵は、中学生女子一人の体重程度、容易に受け止めるはずだった。
しかし、そうはならなかった。
柵が傾く。飛鳥の体も、一緒に傾く。
『え』
斜めになった飛鳥が、声を発した。
柵が屋上の床から外れる。
飛鳥は、柵と共に落ちていった。
廻は咄嗟に飛鳥の方へ駆け寄る。飛鳥の腕を掴もうとした。
しかし、当然ホログラム映像を掴めるはずなどなく。廻の手は、ただ虚空を掠める。廻は床に膝を付いた。固い床の感触が膝に伝わってきた。
『千晴ちゃん?』
背後から声が聞こえてきて、廻は振り返った。
塔屋の扉の前に、小脇に鞄を抱えた小清水が立っていた。目を丸くして、さっきまで飛鳥がいた場所を見ている。屋上を囲う柵の中、一つだけが歯抜けになったその場所を。
映像の中の小清水と、廻は目が合った。
ぐしゃ。
何かが潰れる音が、下の方から聞こえてきた。
小清水は屋上の縁へと歩み寄る。彼女はそこから、飛鳥が落ちていった中庭を見下ろした。
そして、小清水の目が見開かれる。驚愕と混乱と悲愴が混じった瞳で、中庭を見下ろしている。
『あ……』小清水は、持っていた鞄を取り落とした。声にならないうめき声のようなものが喉から漏れ出る。『え……いや……』
小清水は踵を返す。そのまま彼女は足早に屋上を後にした。
廻はゆっくり立ち上がる。後ろにいる円谷の方を見た。
「……悪かった。忠告されてたはずなのに……」
これはただの映像。そう頭では分かっていても、いざ目の前でその瞬間を見せられると、冷静ではいられなかった。
「いえ。辛いようなら、一度止めますか?」
円谷は廻のことを慮って尋ねる。しかし廻は首を横に振った。
「大丈夫。それより、飛鳥が落ちた原因だ」
今の映像では、飛鳥が落ちたのは事故だったように見えた。しかし、不可解な点もある。
飛鳥と共に転落した柵は、飛鳥が体重をかけた程度で壊れてしまった。本来なら、こんなことはあり得ない。校舎は古く、老朽化していた可能性はある。しかし、それまでの周回では転落事故は起きていなかったはずだ。
不可解な部分は他にもある。飛鳥は突然足を滑らせたように見えた。その原因は何か? そもそも、飛鳥は何を目撃して柵の付近へと近づいたのか?
環は、飛鳥が転落した場所へと近づく。屈み込んで床を注視した。
そこには、何か液体が零れている。
「何か落ちてる」
環は呟いた。
「本当だ」廻も同じ場所を見下ろした。「水溜まりが残ってたのかな。木曜は雨だったし」
環は周囲を見回した。
「ここ以外に液体が零れてる箇所は無い。水溜まりなら、もっと点在してるはず。金曜は朝から日差しも強かった。屋上は水はけも良いし、床は全部乾いてないとおかしい」
「だったらこの水溜まりみたいなものは何?」
廻が尋ねると、環は円谷の方を見た。
「円谷さん。この映像、どのくらい過去まで遡れるの?」
「一週間程度なら」
円谷は答えて、操作用のウィンドウを空中に展開した。
「六月三十日に屋上へ足を踏み入れたのは千晴と有紗だけじゃないはず。人が出てくるところまで巻き戻してほしい」
環の要求に円谷は従う。彼女の手がウィンドウに触れると、一瞬にして空の色や太陽の位置が変わった。ホログラム映像の時間が遡ったのだ。
太陽の位置は高い。正午ごろだろうか。
廻は辺りを見回す。飛鳥と一緒に落ちていった柵は、時間が遡ったことで、再び元通りになっていた。その柵の近くに、桃色のパーカーを着た一人の少年が佇んでいる。
「早乙女だ」
廻は言った。そこに立っているのは、早乙女啓だった。当然、本物ではない。この映像が示すのは、過去に彼が屋上を訪れたという事実だけだ。
「六月三十日、午後一時時五分の映像です」
円谷は言った。十三時五分は昼休みの時間帯だ。
早乙女はパーカーのポケットから何かを取り出した。それは紙パック入りの汁粉だった。一階の自販機で売っている、早乙女の好物だ。
風が吹き、柵が揺れた。彼は身を退くように後ずさった。紙パックを取り落とし、それを踏みつけてしまう。中身がわずかに床へ飛び散った。
早乙女は「あーあ」と呟く。わずかに逡巡した後、早乙女は零れた汁粉をそのままにして立ち去った。
「そういうことか」
環は呟いた。廻は聞き返す。
「何が?」
「あの水溜まりのようなものの正体は、早乙女くんが零した飲み物だった。お汁粉だったら水よりも滑りやすいかもしれない。足を取られるのにも納得がいく」
「そうか……」
廻は足元を見下ろした。先刻見た映像と、今の映像。飛鳥が足を滑らせた箇所と、早乙女が汁粉を零した箇所は、完全に一致している。
環は、重要なことを告げるように言った。
「そして、おそらく早乙女くんが飲み物を零したのは、本来の時間軸では起こらない出来事だった」
環は適応力が高い。円谷が使っていた「時間軸」という言葉の意味を正確に理解し、自分の発言に取り入れる。
「どうしてですか?」
と、円谷は尋ねる。環は推論の理由を説明した。
「早乙女くんがパーカーを着ていたから」
「パーカーを?」
廻は聞き返す。
「本来の世界で、早乙女くんはこの時間、橘さんにパーカーを貸していた」
環は言った。廻は頷く。だからこそ、あの〈分身の謎〉が起こったのだから。
「そして、あの飲み物のパックはおそらく、パーカーのポケットに入れっぱなしになっていた。早乙女くんはポケットから飲み物を取り出していたでしょう。きっと本来の時間軸では、ポケットの中から飲み物を回収せず、そのまま橘さんに貸してしまったんだと思う」
「どうしてそう言い切れる?」
廻は尋ねた。
「本来の時間軸で、早乙女くんは昼休みに自販機で飲み物を買っていた。それは樋口くんの証言から分かる」
環は言った。廻は、〈分身の謎〉の時のことを思い出す。あの時樋口は、こう証言していた。早乙女は一階の自販機で飲み物を買おうとしていた、と。
「もし飲み物をポケットから回収していたなら、改めて自販機に向かうとは考えにくい。だからあの汁粉はパーカーのポケットに入れっぱなしだったという推測が成り立つ。そして本来の時間軸で早乙女くんは、そのままパーカーを橘さんに貸してしまった。だから彼が屋上で飲み物を零すという事象は、私たちが介入した後でないと起こり得ない」
廻は〈分身の謎〉を無かったことにするため、橘が早乙女から上着を借りるという事象が起こらないよう手を回した。その結果パーカーは早乙女の手元に戻ることになり、屋上に飲み物のパックが持ち込まれる結果となった。
「なるほど、分かりました」円谷は頷いた。「ですが、飛鳥さんが転落した原因は、それだけではなかったはずですね?」
「うん」環は頷いた。「そもそも、柵の強度が十分なら、千晴が落ちることもなかった」
「柵は元々弱っていたのかな」
廻は呟いた。環は柵の方へ近づいて屈み込む。床と柵が接続されている部分に注目した。
「ここ、」環は柵の脚の根元を指さした。「折れかかってるように見える」
廻と円谷もそこに注目した。柵の根元に亀裂が入っている。
「単純に老朽化しただけなら、こうはならないはず」環は立ち上がり、円谷の方を振り返った。「何かきっかけがあったはず」
円谷は頷くと、再びウィンドウを操作した。
「屋上に人が出入りするところまで巻き戻します」
再び景色が変わる。今度は雲一つ無い青空が広がっていた。東の空から太陽光が差している。
「六月三十日、午前七時十五分の記録です」
円谷は言った。同じ日の早朝ということになる。早乙女が零した飲み物はこの時点ではまだ無く、代わりに小さな水溜まりが点々と残っている。この時点ではまだ、木曜日に降った雨がわずかに残っていたのだろう。
そこへ、また別の少年が姿を現す。望月聖人だった。鞄を肩にかけ、辺りを見回しながら屋上へ足を踏み入れた。
「望月? なんでここに……」
廻はそう言ってから、はっと何かに気付いたような表情になった。
「そうか、フルートだ……!」
環は冷静な表情で望月の行方を見ている。望月は屋上の一角で鞄からフルートを取り出し、それを組み立て始めた。
廻は確信した。望月は、フルートの練習をするために屋上に来ている。
「本来の時間軸で──」環は言った。「望月くんは、ここに来るはずじゃなかった。多目的室で練習をしているはずだったから。だけど……」環は躊躇いがちに続きを口にする。「……廻が忠告したから、練習場所を変えた。それで屋上に来た」
廻はそのことを覚えている。望月が多目的室で小清水と鉢合わせないよう、練習場所を変えるよう忠告したのだ。その結果、望月は屋上を代替の練習場所に定めたのだろう。
望月をここに誘導したのは、廻ということになる。
フルートを組み立て終えた望月は、屋上の縁に近づいていく。例の亀裂が入っていた柵の目の前だ。
廻は柵の根元に注目した。この時点ではまだ、柵の脚に亀裂は入っていない。
望月は柵に向かい合うようにしてフルートを構える。しかしすぐには演奏しようとしない。少し逡巡する素振りを見せた後、柵に背を向けてフルートを構え直す。
息を吹き込もうとするのと同時に、望月は背中で柵に体重をかけた。
バキ、と音がした。望月は慌てたように身を引く。何の音なのか、廻たちにはすぐに分かった。望月は練習する気も失せたのか、すぐにフルートをしまって屋上を後にした。
後に残された柵を環は観察した。柵の根元には、真新しい亀裂が入っていた。
「おそらく……」環は口を開いた。「柵は前から老朽化で脆くなっていた。そこに望月くんが意図せず体重をかけたことで完全に壊れてしまった。些細なきっかけで、簡単に外れて落ちてしまうくらいに」
「そして飛鳥が実際に──」
廻が言うと、環は無言で頷いた。
ホログラムの青い空の下、廻は眩しい日差しに目をしかめる。しばしの間、廻はただ呆然と中庭の方を見ていた。
環は、円谷に向かって言う。
「もう一度、千晴が落ちる直前の映像を見せてほしい」
円谷は神妙に頷く。廻はもう、あの場面を見たくはなかった。飛鳥の顔を見るだけで、暗澹とした気持ちになりそうだった。廻はその場に屈み込んで顔を伏せた。
再び、辺りは夕刻になる。一度見た映像の繰り返しだった。飛鳥が屋上に現れ、中庭に面する柵へと近づいていく。飛鳥が、柵の向こうに存在する何かに気付く。
「止めて」
環は言った。円谷はその指示に従ってウィンドウを操作した。ホログラム映像の時が止まる。映像の中の飛鳥は、何かに目を凝らしたまま、ピタリと動かなくなった。
「千晴は何を見たの?」
環は独り言を言いながら、静止する飛鳥の横に立った。彼女は飛鳥と同じ方を向く。
「あそこ、」円谷は、反対側に見える校舎の東棟を指さした。「何か光っているように見えます」
廻も顔を上げて、同じ方向を見た。
円谷が指さしているのは、校舎の四階の窓だった。中庭に面した窓の一つが、不自然に光を放っている。よく見ると、飛鳥の視線も、その光る窓へ注がれていた。眼鏡の奥の双眸を見開き、光の正体を見極めようとしている。
「あそこって、写真部の」
廻は呟いた。光っている窓は、第二理科準備室のものだ。そこは写真部の部室でもある。廻は、立ち上がって言った。
「そうか分かった。あれは鏡だ」
「鏡……ですか?」
円谷は聞き返す。廻はふらふらとした足取りで中庭の方へ近づいていく。
「写真部の部室には、窓際に鏡が置いてある。その鏡が太陽の光を反射して、窓が光ってるように見えたんだ」
「あの鏡か」
環は思い出したように呟く。〈消失の謎〉に際して写真部の部室を訪れた際、環もあの鏡を目にしている。
「どうして鏡が窓の方を向いているのですか? 普通、鏡なら部屋の中を向いているはずだと思いますが」
円谷は言う。廻は顔を背けつつ答えた。
「僕が動かした」
廻はあの時、鏡を百八十度回転させたのだ。そうすることで、今泉が撮った写真に橘の秘密が写り込むことを回避しようとした。
「円谷さん、もう十分だと思う」環は言った。「千晴が転落した原因は、大体──いいえ、全て分かった
「はい。……どうやら、そのようですね」
ウィンドウを操作すると、映像が消えた。周囲は再び真っ白い部屋に戻る。天井に球状の映写機が格納され、床からは再び椅子と机が姿を現した。
廻は力なく椅子に座る。目線を真っ白な机の表面に落としたまま、絞り出すような声で言った。
「……僕のせいか?」
「違う。廻のせいじゃない」
環は咄嗟に否定した。しかし廻に、その言葉は届かない。
「全部完全に僕のせいじゃないか!」
望月が屋上で練習しなければ、柵が壊れることはなかった。
早乙女が屋上で飲み物を零さなければ、飛鳥が足を滑らせることもなかった。
写真部部室の鏡が窓の方を向いていなければ、飛鳥は柵の方へ近づくことすらなかったかもしれない。
廻は当然、そんな事態は予測していなかった。三つの要因が全て重ならなければ、飛鳥の転落という結果は起こらなかっただろう。これはあらゆる要因が絡み合った末に起こった事故だ。故に、最後の世界以外では、この事故は起こらなかった。
そして、その要因は、大元を辿っていけば、全て廻の行動と関連付いている。
柵の耐久性には元々問題があったのだろう。学校側には責任があるはずだし、実際世論はそのように傾いている。望月や早乙女に責任を求めることだって不可能ではないだろう。
だけど、もし廻が時間に介入しようとしなければ。飛鳥が屋上から落ちることはなかった。それだけは確実に言える事実なのだ。
だから廻は、自分以外の誰も責めようとは思わなかった。
きっと環も、そのことに気付いている。
「廻は悪くない。だって、こんなことになるなんて、誰も予想できなかった」
環は言った。廻は、その言葉を受け入れることが出来ない。
「そんな問題じゃない。僕が余計なことしなかったら、飛鳥は死なずに済んだんだよ。環の言う通り、余計なことなんかせず、自分のことだけ考えていればよかった。飛鳥を死なせたのは、僕の……」
「私だって」環は言った。「廻に頼んだ。自分の失敗を無かったことにしてほしいって。だから廻は、あの鏡を動かしたんでしょ? 廻が千晴のことを死なせたって言うなら、それは廻だけのせいじゃない。私も同じ」
「違う。僕はそんなつもりで言ったんじゃ……」
「……分かってる。でも、それが事実だから」
環は目を合わせないまま答えた。廻が何と答えるべきか迷っていると、環は言った。
「私、外の空気を吸ってくる」
地下室に入ってきた階段を環は一人で登っていく。後を追おうとする円谷を、環は目で制した。
「ごめんなさい、円谷さん。今は、一人で考えたい」
「……分かりました」
円谷はその場に留まった。環の背中は、やがて見えなくなった。
廻は椅子に座ったまま、張り付いたように動けなかった。
9
環がいなくなり、地下室には廻と円谷の二人が残された。
廻は、吹っ切れたように長く大きなため息をついた。脚を組み、横に立つ円谷の顔を見上げる。
「まさか円谷さんが別次元の人だったとはね」
「黙っていてすみませんでした。ですが、これが仕事ですから」
「仕事……観測員だって言ってたよな。円谷さんの故郷の宇宙では、僕らくらいの年齢から働くのが普通なのか?」
「いえ……私の実年齢は、この惑星の単位に換算すると二十五歳くらいですから」
「十歳も年上……ですか?」
廻は、たどたどしく丁寧語を付け足した。
「普通にしていいですよ」と、円谷は言う。「この場所では、あなたと同じ中学生ですから」
「でも……全然見えない」
円谷は、銀の髪や蒼の瞳こそ人目を惹くが、それ以外は体格も顔立ちも普通の中学生でしかない。とても二十五歳の大人には見えなかった。
「この体は、本来の体じゃないんです。私の生まれた次元では、身体をリデザインする技術が確立しています。その技術で肉体年齢を十四歳程度まで作り替えたんです」
「便利なんだな、別次元っていうのは」
円谷は銀色の前髪をつまみ上げた。
「この地域に住む以上、本来ならこの髪や目もリデザインすべきだったんでしょうが……そこまで意識が回りませんでした」
「体を若返らせることが出来るなら、不老不死になれるってこと?」
「残念ながら、そういうわけでは。肉体を作り替えても、細胞はいずれ死滅しますから。避けられない寿命は必ず訪れます。医療技術は発展していますから、平均寿命は百四十四年程度になっていますが」
「百四十四歳か……」
廻は呟いた。
「事故や病気の場合は、もっと短くなりますが」
「僕は今、十四歳。円谷さんからしてみれば、まだ人生は十分の一ってことだね」
もし一生が三百ページの本だったら、と廻は想定する。自分たちはまだ、たったの三十ページしか読み進めていない。
「僕らの世界の医療技術じゃ、せいぜい百年かそこら生きるのが関の山だ。でも……十四歳っていうのは、死ぬには若すぎる」
「……そうですね」
円谷は頷いた。
「飛鳥はまだ生きられるはずだった。高校に行って、大学に行ったり、仕事をしたり、そうやってあと何十年も生きていくはずだったんだ」
円谷は何も言わず、黙って廻の横顔を見つめている。
「飛鳥は……。また来週、って言ってたんだよ」
廻は、円谷と顔を合わせないまま言った。彼女に語りかけているのか、自分に言い聞かせているのか、廻には分からなかった。
「別れ際に、そう言ってた。でも、『来週』なんて来なかった」
廻は円谷の顔を見上げて、懇願するように問う。
「飛鳥は……助けられないのか? ループを引き起こしてたのは円谷さんなんだろ? だったら、もう一度ループを起こして過去に遡れば……。僕が特異点ってやつなら、飛鳥の死も回避できるはず」
「時空間反復処理は、私の一存で実行できるものではありません。中央管理所の許可が無ければ……」
「現状を伝えて、円谷さんの上司か誰かに嘆願できないの?」
円谷は、難しい顔でかぶりを振った。
「必要以上に反復処理を行えば、平行宇宙の時間運航に重篤な影響を及ぼす恐れもあります。最悪の場合、時空間が崩壊しかねない。許可が降りる可能性は絶無と言っていいでしょう」
「どうしようもないのか……」
「せめて、反復処理がもう一度実行されればよかったのですが……。相対時間の差が是正された段階で、反復処理は自動的に終了してしまうんです」
「どうしようもない……ってことか」
廻は呟いた。
円谷は、廻に向かって頭を下げる。
「申し訳ありませんでした。私があなたの特異点としての能力を過小評価していたせいで、取り返しの付かない事態を招いてしまった。監視者として、私の不行き届きでした」
「円谷さんのせいじゃないよ。結局は、僕が招いたことなんだから」
廻が言うと、円谷はおずおずと頭を上げた。
廻は立ち上がった。
「環の様子を見に行ってくる」
「私も行きます」
廻と円谷は、揃って階段を昇り、地上へ向かった。
環は境内にいた。賽銭箱の横に腰掛け、じっと空を見つめている。
廻たちが近づいていくと、環はそれに気付き、彼らの方へ目を向ける。
廻は環の正面に立って、彼女の顔を見下ろした。
「ごめん環。さっきは少し取り乱した」
「ううん。仕方ないよ」環はわずかに首を振った。「私だって、ショックだから」
廻を介する形で、環は飛鳥と知り合った。
一緒に行動をすることが徐々に増えて、本を貸し合ったり、一緒に勉強したりして。段々と環は、飛鳥を近しく感じるようになっていた。
環にとっても、飛鳥は大切な友人だった。
今、目の前にいる環の表情を見て、廻は、そんな単純な事実を改めて思い知った。
「私は……千晴に、お別れも言えなかった。本当は引っ越すこともちゃんと話して、さよならって言いたかったのに。迷っている間に、会うことも話すことも出来なくなるなんて。想像してなかった」
強い後悔と自責の念が、環から伝わってくる。
廻は何も言わなかった。
しばらくの間、沈黙があった。
住宅街の中にあると言うのに螺旋神社の境内は静謐で、周囲とは隔絶されているかのようでもあった。時折聞こえてくるのは、風が木々を揺らす音と、鳥の鳴き声ばかりだった。
やがて静寂を破ったのは、円谷の声だった。
「北条さんは……飛鳥さんを助けたいと思っているんですよね」
「当然だ」廻は、円谷に掴みかからん勢いで詰め寄った。「そういう言い方をするってことは、やっぱり何か方法があるんだな」
「あることには、あります。平行宇宙の崩壊に対処するための特別対応マニュアルです」
「平行宇宙の崩壊?」
廻は聞き返す。
「一つの宇宙から、知的生命体が滅亡する。あるいは、宇宙全体が不可逆的に消滅する。無数に並行宇宙が存在する以上、そういった事態も稀に起こり得ます。我々は平行宇宙の監視者として、他の宇宙を救済するよう努める義務がある。故に、歴史を改変するための方策を私たちは保持しています」
「そうか。それを使えば、飛鳥が落ちたことも……」廻はそう言ってから、円谷に向かって尋ねる。「でも、さっき言ってたよな。必要以上にループを起こすと、宇宙の崩壊に繋がるって。それって本末転倒なんじゃ?」
「その通りです。だから、宇宙全体の時空間を巻き戻すのではなく、個人の意識のみを過去の時間に送り込むのです。時間軸を遡る、一種のタイムマシンのような装置を使って」
「そんなことが可能なのか? だったら今すぐに……」
廻を制するように、円谷は続けた。
「ただし。誰が行くか、という問題があります。過去に意識を飛ばした後、記憶を保持できるのは特異点だけです。ですから通常、中央管理所に特別エージェントの派遣を要請し、彼らが任務に当たることになります。特別エージェントは全員が特異点であり、かつ任務に従事するための特殊な訓練を修了しています。私は特異点ではないので、タイムマシンを使っても同じ行動を繰り返すことしか出来ません。単純なメッセージを送ることすら私には出来ないんです」
「つまり、特異点になら出来る?」
環は聞いた。円谷は、廻の方へ目線を向けて頷く。
「そうです。通常、この対応はレベル5以上のカタルシスに対応するためのものです。中央に連絡しても、エージェントは派遣されません。ただし……北条さんなら」
「分かった」廻は即答した。「やらせてくれ」
「しかし……本来は正当な訓練を経なければならない危険な行為です。単一の時間軸を遡ることになるから、記憶を二重に保持するリスクもあります。最悪の場合、脳がオーバーヒートするかもしれない。それでもやりますか?」
廻は今まで、知らずのうちに時間軸を移動してきた。
だが、今度は違う。単一の軸を遡る。故に脳にかかる負荷は常人の二倍。遡上する時間の幅が大きければ大きいほど、そのリスクは増大する。
説明を受けた廻は、それでも、しかと頷いて言った。
「やるよ。何があっても飛鳥のことは助ける。それが責任を取るってことなんだと思う」
10
円谷は、再び廻を社務所の地下へと連れて行った。
白い部屋の壁が、円谷の端末操作に呼応して開く。奥にあったのは、手術台のようなベッドだった。頭を置く部分には、いくつかの電極が付いたヘルメット状の装置が置いてある。
「これがタイムマシン?」
廻は円谷の方を振り返った。円谷は頷く。
「想像と違いましたか?」
「僕らの世界でタイムマシンと言えば、車っぽいやつとか、机の引き出しから入るやつとかがポピュラーだから」
「フィクションが流行りすぎているのも考え物ですね……」円谷は言った。「さっきも説明した通り、これは意識だけを過去に転送する装置です。ですから、特異点にしか使うことは出来ない」
「つまり……」横で見ていた環が、話に割って入る。「私には使えない、ってことだよね」
「そうなります」円谷は頷いた。「二階堂さんは、北条さんと一時的に同調していただけです。あなた自身が特異点というわけではない。普通の知的生命体が後天的に特異点になることはありませんから」
廻は、真剣な表情で言った。
「過去に遡るのは、僕ひとりでやるしかない。そういうことだよね」
「ええ」円谷もまた、神妙な面持ちだった。「繰り返しになりますが、時間軸を遡ることにはリスクがあります。そのリスクを最低限に抑えるため、『飛鳥千晴の死』という状況を回避し得る、最も近い過去へと北条さんを飛ばします。過去に戻ったら即座に行動してください。過去にいる私に事情を説明している時間は無いと思ってください」
「分かった」
「それと……」円谷は、重ねて告げる。「タイムマシンも、何度も繰り返し使えば中央管理所の目を欺けなくなります。今回のこれは、あくまで私の越権行為ですから。加えて、何度も時間を遡れば、そもそも北条さんの脳が耐えきれない。要するに──」
「チャンスは一度きり、だよね」
廻は、円谷の言葉を引き取るように言った。
「その通りです」と、円谷は言った。「話すべきことは、そのくらいです。では、準備を」
廻は装置の台の上に乗り、円谷が彼の頭に電極の付いたヘルメットを被せる。そのヘルメットが繋がったモニターの前に円谷は立ち、廻たちは見たこともない、パソコンのキーボードにも近いような形状の装置を操作し始める。
台の上に仰向けになり、廻は歯医者の手術を待っているような心境になる。タイムスリップとは、どんな感覚なのか。痛いのか、苦しいのか。
モニターの前で手を動かしている円谷へ、廻はふと尋ねる。
「あのさ……さっき言ってたよね。円谷さんにとって、これは越権行為なんだって」
「ええ、言いました」
円谷はモニターに目を向けたまま答える。その手は一心不乱に動き続けている。
「だったら、どうして飛鳥のためにそこまでやってくれるの? やっぱり……僕を止められなかったことに、負い目があるから?」
円谷は、ぴたりと手を止めて、しばし考えた。それから答えて言う。
「私は……任務として、一年以上あなたを監視していました。だから、あなたのことをそれなりに知っているつもりです。あなたはひたむきな人だと思います。そういう若者を応援したい、贔屓したいと思ってしまうのは……あらゆる宇宙で、共通する感情なんだと思います」
それだけ言うと、円谷は再び装置を操作する。
「準備、完了しました。いつでも実行できます」
廻は目だけで頷く。それから彼は、横にいる環の方を見た。
「廻、」環は、少しだけ泣きそうな目をしていた。「千晴のこと、お願い」
「うん」
「それと……。廻も、無事でいてね。廻にもしものことがあったら……多分、私、今よりもっと辛くなる」
台の上にある廻の手を、環の手が包み込むようにして握った。
その手のひらの温かさを廻は感じる。
「大丈夫だよ」
廻が一言、そう告げると、環は安堵したような表情に変わって、ゆっくりと手を離した。
「円谷さん、やってくれ」
廻の要求に、彼女は従う。
円谷は装置にコマンドを入力した。
廻の意識が混濁する。夢と現実、未来と過去、自分と他人。それらが混じり合って掻き回されるような感覚。脳が、記憶が、自我が流転する。
廻の視界がブラックアウトした。
【六月三十日】
廻が意識を取り戻したのは、道端でのことだった。痛烈に頭が痛み、思わず自分のこめかみを押さえる。記憶が二重に流れ込んでくる。過去に自分が経験したことと、今現在の映像が混じり合う。
違和感に慣れるのには十数秒ほどの時間を要した。ようやく冷静になると、廻は周囲を見渡した。見慣れた通学路。時刻は夕方に近いようだった。
最初に考えたのは、自分が「いつ」に戻ってきたかということだった。
隣を見る。環がそこにいた。今の彼女は、いつだって一緒に時間をやり直してきた二階堂環ではない。正真正銘、この時間軸に存在する、まだ未来を知らない環だ。廻は、彼女の目を見た瞬間にそれを理解した。
そして、環もまた、廻の目を見た途端に同じことを理解したのかもしれなかった。
「え……っ」環は、廻の瞳を見つめながら、わずかに声を漏らす。「廻、まさか……」
「ちょっとタイムマシンを使った。僕だけね」
廻は答えた。理解してもらえるとは思っていなかった。分からなくても構わない。今はただ、時間が惜しい。
スマホを取り出して、正確な時刻を確認する。
飛鳥が落ちるはずの時間まで、残り十五分弱。
全力で走れば間に合う。
廻は踵を返した。
「ごめん、環。緊急事態なんだ」
そう言い残し、廻は走り出した。
廻は走った。スニーカーで地面を蹴りつけ、走り続けた。息が上がって呼吸するのが辛くなっても脚を止めなかった。心臓が痛んでも、口の中が乾いても、体を動かし続けた。後ろは振り返らない。そんな時間は、廻には残されていない。
正門が見える。タイムリミットまで、あと数分。
飛鳥はもう屋上にいるはずだ。モタモタしていては間に合わないという確信があった。
廻は上履きに履き替えることもせず、土足のまま校舎に飛び込んでいく。近くにいた生徒が、ぎょっとした表情を浮かべていた。そんなことはお構いなしに廻は必死の形相のまま、土足のまま廊下を駆ける。
エレベーターを使うことも考えたが、降りてくるのに時間がかかるかもしれない。確実なのは自分の脚だけだ。廻は階段を一段飛ばしに駆け上がっていく。既に通学路をダッシュしてきた脚は、まるで鉄アレイでも括り付けられているかのように重い。それでも腿を上げ、階段を踏みしめ、上を目指す。
四階から屋上へ向かう階段を上がろうとする時、前方に人の背中が見えた。小脇に鞄を抱えたそのシルエットは、小清水のものだ。
タイムリミットは近い。小清水の姿を見て、廻はそのことを察する。
いや、まだだ。
まだ諦めるな。
彼女を追い越せば、まだ希望はある。
「ごめん小清水、どいて!」
廻は彼女の横をすり抜ける。
「えっ、廻くん? なんで……え、どうして靴履いてんの?」
疑問の絶えない小清水へ、廻は頭の中でもう一度謝罪を繰り返した。
ドアノブを捻り、勢いよく屋上の扉を開く。
真正面に、飛鳥の姿が見えた。
その体は、不安定な姿勢のまま、柵の手すりに体重をかけている。
ぐらり、と。飛鳥の体が傾いた。
「え」
飛鳥は声を発する。
その瞬間、彼女の瞳に、廻の姿が写り込んだ。
「飛鳥!」
廻は駆け出す。
傾きかけた飛鳥の体が、右手を伸ばした。
半袖のシャツから覗く、すらりとした腕。その先端の手首を、廻の手が掴む。
ややあって、下の方から、ガシャンと大きな音が聞こえてくる。鉄製の柵が中庭に落ちた音だった。
廻の手は、飛鳥の腕をしっかりと掴んでいる。
飛鳥の方も、斜めになった姿勢のまま、廻の手首を掴んでいた。
彼女の体重のほとんどを、廻は腕の力で支えていた。掴まれた手首がキリキリと痛む。まるで結束バンドでキュウと締め付けられているかのように、飛鳥の握力は強かった。
廻は、絶対に離すまいと、更に力を込める。
わずかな安堵が廻の胸中に差し込んだ。
全力疾走で鞭を打たれた脚が、限界だと叫び出す。膝がガクガクと震えて、立っていることもままならなくなる。
踏ん張る力が弱まって、代わりに重力が強まったかのように廻は錯覚を起こした。ぐい、と腕が引っ張られる。飛鳥の体が傾く。
まずい、と思った。それは、廻が人生で初めて感じる生命の危機。飛鳥の体もろとも、中庭に落下しようとしている。飛鳥は咄嗟に隣の柵を空いている左手で掴もうとするが、届かない。
このままでは、二人とも落ちる。
頭ではそう分かっているのに、廻の手は、決して飛鳥の腕を放すことが出来なかった。
ほんの刹那の間に、いくつもの思考が頭を駆け巡る。周囲の映像がスローモーションになった。飛鳥は、諦観のような表情を浮かべていた。
いよいよ体重を支えきれない。廻は察した。自分はこのまま落ちるのだと──。
けれど、その時は訪れない。
飛鳥の腕を掴んでいるのとは反対側の、もう一つの廻の腕を、何かが掴んだ。
体勢が安定する。その間に、廻は全身に力を込め、飛鳥のことを引っ張り上げた。
飛鳥の体が真っ直ぐになる。屋上の縁に立つ彼女を見て、もう大丈夫だと廻は思った。
後ろを振り返る。そこには環が立っていた。環が、廻の左腕を、強く強く握りしめていた。
廻よりも小さな体躯。その体で、たった一瞬ではあったけれど、廻と飛鳥二人分の体重を支えてくれたのだ。
廻は状況を正確に察知した。きっと環は、廻の態度にただならぬものを感じ、後を追いかけて来てくれたのだ。見れば、彼女も上履きではなくローファーを履いていた。
ただ、走るのに夢中になっていた廻はそれに気付かなかったし、環の方にも声をかける余裕すら無かったのだろう。
塔屋の近くには、呆気に取られたような表情で小清水が立っている。
飛鳥は、廻の腕から手を離し、呆けたような表情で廻と環のことを見ていた。まだ、自分に何が起こったのか理解できていないとでも言うような。混乱続きだろうから、無理もない。
廻は環の方へ向き直る。
「ありがとう、環。それと……」
環は小首を傾げる。
「ちょっと、痛い」
廻は言った。
環の手は、まだ廻の腕をしっかりと捉えて、ぎゅっと掴んだままだった。
「あ……」
環はようやく手を離す。廻の左腕には、環の手形が絡みつくように残っていた。
ジンジンと腕に走る痛みを感じつつ、廻は振り返って飛鳥の顔を見る。
彼女は、確かにそこに立っていた。
安堵の思いが胸にこみ上げてきた。それから、忘れようとしていた心身の疲労がどっと押し寄せてくる。
記憶が二重に絡み合い、頭の中でうるさくノイズを形成していく。
どさり、と。重たい荷物を落としたような音がした。
「廻」
「北条?」
「廻くん……!」
三者三様に廻の名を呼ぶ声が聞こえてきた。その声は近いはずなのに、どこか遠く、くぐもっているようにも聞こえる。
空が見えた。夕焼けに染められた空は真っ赤だった。
その夕景に割り込むようにして、環の顔が現れる。彼女は、今にも泣きそうな、心配そうな顔をして、廻のことを見下ろしていた。
その時、廻は初めて自分が倒れたことを理解した。
屋上の床に仰向けで倒れた廻は、安堵の表情を浮かべたまま気を失った。
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