断章(肆)
東棟四階。第二理科準備室。橘葵は、カーテンを開いた窓際に立っている。目の前には、三脚にセットしたインスタントカメラを覗き込む友人の姿があった。
三脚やレンズが無造作に置かれた部屋。隅の方には現像用の道具もあって、白黒写真だったら自分たちで現像することも出来る。前に現像液を盛大にこぼして以来、橘は部室に予備の制服を常備していた。
窓から差し込む西日が部屋に舞う埃を照らして浮かび上がらせる。この埃っぽい部屋が、橘と今泉の部室だった。たった二人しか部員がいなくても、ここは確かに二人のための世界だった。
橘は写真を撮るのが好きだった。シャッターを切る感触も、フィルムを巻き取る音も。性格も交友関係も真逆の今泉と意気投合できたのは、写真という共通の趣味があったからに他ならない。
橘は、今泉に感謝している。彼女と出会わなかったら、きっと橘は友達の一人も出来ない学生生活を送っていただろうから。
だからこそ、橘の心は痛む。彼女に隠し事をしていることに。彼女を裏切っている現状に。
今泉は夢中でカメラのファインダーを覗き込んでいる。試し撮りなのだから、さっさと撮ればいいのに、と思う。一枚ずつに拘りを持つのが、彼女の撮影者としての長所なのだけれど。
ふと、視界の端に、扉の横のロッカーが入ってきた。
そのロッカーの扉は開いていた。蝶番が緩んでいたのだろう。そして、その中に入れておいた、包装されたプレゼントも。
瞬間、橘は息が止まりそうになった。今泉にそれを悟られないよう、ロッカーから目を背ける。
あのプレゼントは、恋人の──早乙女のために買ったものだ。中身はデパートで買ったハンカチだった。本当はゲームソフトの一つでも買おうかと思ったが、存外高かったし、欲しいゲームだったら彼は自分で買ってしまう。考えた末にハンカチを買った。
同級生に、それも異性に贈り物をするなんて、人生で初めてのことだったから、何が正解かなんてまるで分からなかった。それでも橘は、何かを贈りたかった。七月一日──彼と恋仲になって初めての誕生日は、明日に迫っていた。明日は土曜日だから、早乙女には会えない。だから橘は今日プレゼントを渡すつもりでいた。
「どうしたの? 葵。表情固いよ」
今泉に言われ、橘は我に返る。
「は……早く撮ってよ」
橘はカメラのレンズを見ながら取り繕った。
今泉はおそらく、あのプレゼントの存在に気づいていない。ロッカーは足元の位置にあって、視界には入りづらい。今はカメラのファインダーを見ていて、背後にあるロッカーには気づきそうにもない。
気づくな、と橘は念じた。きっと今泉があのプレゼントを見たら、誰に渡すつもりなのか、彼女は察するだろう。早乙女の誕生日を今泉が忘れているはずもないのだから。
誤魔化すことは不可能ではないのかもしれない。けれど、きっと今泉は疑念を持っている。追求されたら、口を閉ざし続ける自信は橘には無かった。
だから橘は、あのプレゼントを見られたくなかった。今泉にだけは。
今泉はシャッターを切った。ジイ、と音を立てて、カメラから写真が飛び出してくる。
写真はまだ白紙のままだった。今泉は何回かその写真を振って、机の上に置く。
「ちゃんと撮れてるかな」
「どうだろうね」
橘は曖昧に答えた。フリマアプリで買った中古カメラだから、正常に動くかどうかも分からない。図像が浮かび上がるまでにはしばらくかかる。
「私、ちょっとトイレ行ってくるね」
今泉は部屋を出て行った。部室には橘一人が残される。
橘は素早く扉の横のロッカーに駆け寄って、念入りにその戸を閉めた。ほっと安堵の息をつく。今泉は、ロッカーの中身に気づく素振りは無かった。
それから橘は机の横の椅子に腰掛け、今泉が置いていった写真を手に取った。
まだ図像は完全ではないが、ぼんやりと薄く浮かび上がっている。ぎこちない笑顔を浮かべて写真に写る自分の姿を橘は見た。
やがて図像がはっきりとしてくる。橘の視線は写真の中の一点へと向いた。
それは、被写体である自分のすぐ横に置かれている鏡だった。
その鏡は、ちょうどロッカーの正面に置いてある。もし角度が悪ければ、鏡にロッカーの様子が反射して、写真に写り込んでいたかもしれない。
しかし、幸いにして撮れた写真には、ロッカーは映っていなかった。鏡の表面は、窓の外を向いていたからだ。
橘は顔を上げて、鏡の実物を見る。
写真の通り、鏡は窓の方を向いていて、部屋の中にいる橘からは裏面しか見えない。
元々この鏡は、写真を撮影する前、前髪などをセルフチェックするのに便利だろうと置いているものだ。普段は当然、部屋の方に表を向けて置いてある。
それなのに、どうして今は部屋の外を向いているのか。橘には、まるで心当たりが無かった。
多分、今泉が裏返しにしたのだろう。その理由は想像も付かない。単なる気まぐれかもしれないし、何か特別な理由があるのかもしれない。
いずれにせよ、橘にとって重要なのは、あのプレゼントを今泉から隠し通せたことだった。
もちろん、分かっている。今は隠せていても、いずれは露見してしまうということも。これ以上ないくらいに理解している。
その時に彼女がどんな目を向けてくるのかは、想像したくなかった。
今はまだ、知られたくない。
橘にとって彼女は、たった一人の親友だから。
扉が開く。今泉が戻ってきた。
「どう? 写真出た?」部屋に入ってくるなり尋ねる。「実はさっき、向こうの窓で渚が手振ってたんだよ。葵も会ったことあるでしょ? 漫研の部長の子」今泉は机の上から写真を持ち上げた。「あ、写ってる。ボケボケだけど」
橘は写真を覗き込んだ。確かに、西棟の廊下の窓から誰かが手を振っている。それが誰かまでは、写真を見ただけでは分からなかったが。
撮れたばかりの写真を覗き込みながら、とりとめの無い話を二人で続ける。やがて橘は、鏡のことなどすっかり忘れた。
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