第4話 京本渚の消失


 ホームルームが行われる朝の教室。北条廻は突発的に振り返り、背後にいる二階堂環と目を合わせた。

 廻は、自分の身に起こったことを冷静に振り返る。

 彼は自宅で机に向かい、午前零時が来るのを待っていたはずだった。しかし、その瞬間を見届けることは出来なかった。零時になる前に強烈な眠気に襲われ、廻はそのまま意識を失った。

 そして次の瞬間、気が付くと教室で自分の席に座っていた。

 目が覚めて、ここに来るまでの記憶が無い。

 アイコンタクトで、環も同じような状況に陥っていることを知る。目が合っていたのはほんの一刹那だった。廻はまたすぐに黒板の方へ向き直った。

 連絡事項を告げる早瀬の声を聞き流しながら、廻は冷静に思考を巡らせる。

 今は確かに六月三十日だ。未だ廻たちは七月に進めていない。しかし、その始まりが変わっている。ループの起点がズレているのだ。廻たちの意識は、午後十一時五十九分から、現在──午前八時四十分ごろに飛ばされた。


 ホームルームが終わると、廻は環を廊下に連れ出した。周りに聞こえないよう、小声で用件を話す。

「あのさ、環。なんて聞いたらいいか分からないんだけど……」

 環は、廻の言わんとすることを理解して頷く。

「うん。私も、ついさっき巻き戻った。廻もそうなんでしょ?」

「そう。それを言いたかった」廻は頷いた。「やっぱり、ループの起点が変わってるってこと?」

「そうかもしれない」

 環はそれだけ答えた。

 廻はてっきり、このループは朝目覚めるところから始まるのだと思っていた。しかし、必ずしもそうとは限らないことが今回の周回で明らかになった。

「まあ……でも、考えようによっては、良い傾向かもしれないよな」

 廻は呟いた。「良い傾向?」と環が聞き返す。

「だって、そうだろ。少なくとも、変化が起こってるんだから。もしかしたら、ループが終わる前兆かも」そこまで言ってから、廻は思い出したように付け足す。「いや……その。別に、楽観視するつもりは無いんだけど」

「そうね」環は小さく頷いた。「そうだと良いって、私も思う」

 廻は小さく息をついた。そこでチャイムが鳴り、廻たちは教室の中に戻っていった。



 昼食の時間。廻は同席する早乙女に一言断りを入れると、おもむろに立ち上がって、一人のクラスメイトの元へ歩み寄った。

 その名は、橘葵。写真部と図書委員に所属するクラスメイトであり、早乙女啓の恋人でもある。しかし、その事実を知るのは、当人たちを除けば廻と環の二人しかいない。その上に、廻たちがその事実を知るきっかけとなった事件は、「この世界」では未来の出来事だ。

 早乙女の「分身騒動」をきっかけとして、廻は多少なりとも橘と会話を交わした。しかし、その事実は全てリセットされている。当然、早乙女との関係についても、廻は知らないことにしなければならなかった。

 突然近づいてきた廻に、橘は少し怯えたような視線を返す。ほとんど話したこともないクラスメイトが突然近づいてきたのだから、それも当然だろうと廻は思う。

 廻はなるたけ柔和な表情を作り、橘に忠告を与えた。

「そこに置いてあるお茶のボトル……ちゃんとキャップ閉めないと、危ないと思うよ」

「えっ……?」橘は、廻の顔と卓上のボトルを交互に見た。「あ……うん。そうかも……」

 相変わらず橘は困惑しているようだったが、廻の言葉には納得してくれたようだった。橘の隣に座る女子生徒も、廻の言葉に従ってキャップを閉め直す。

 廻は「それだけ」と告げて、早乙女が待つ自分の席へと戻った。

 突然こんなことを言って、きっとお節介焼きだと思われただろう。早乙女も心なしか怪訝そうな顔でこちらを見ているような気がする。

 いずれにせよ、これで橘がお茶を被ることはなくなった。早乙女が彼女にパーカーを貸すこともなくなり、橘たちが思い悩むこともなくなる。

 弁当の唐揚げを早乙女に分け与えながら、廻は思う。これで未来を変えることには成功した。しかし、自分の問題は? ループはもう四周目に入った。起点のズレという事態は発生しているが、それが本当に良い兆候なのかどうか、廻には分からない。


 昼休み。早乙女はいつの間にか姿を消していた。彼の神出鬼没は今に始まったことではないが、あんなことがあった後だと、どうしても行方が気になってしまう。

 だが、廻は早乙女を探しに行くわけにはいかなかった。環が廻を廊下に連れ出したからだ。

 環は廊下の隅で窓を背に立っている。廻はその正面に立った。

「さっきの話の続きだけど、」環は廻の目を見ながら切り出した。「ループの起点が変わったって事実から、分かることがあると思う」

「分かることって?」

 廻は環の隣に移動して聞き返す。

「私と君とは、同じ原理で巻き戻ってるってこと」環は言った。「私たち二人がループ前の記憶を持っているのは、きっと偶然じゃない。同じタイミングに巻き戻ったのがその証左。それに、私たち以外にループ前の記憶を保持している人がいないこともほぼ確実だと思う。少なくとも、私たちの周りには」

「そうだろうね」廻は頷いた。「僕たちの干渉と無関係に行動を変えていた人間がいたら、僕たちが気づかないはずがない」

 そこまで言ってから、廻はふと思い出す。

 クラスメイトの円谷まどかのことだ。前の世界において、円谷はこれまでと違う行動を見せていた。それは単に登校時間が早まったというだけのことだったが、廻にはその一件が妙に引っかかっていた。

 廻は周囲に散らばる問題を排除するためにいくつかの行動を起こした。その結果として、一見無関係な人間の行動が連鎖的に変化することは考えられる。いわゆるバタフライ・エフェクトのように、その行動の変化は廻自身にも想像が付かない範疇に及ぶこともあり得るだろう。

 しかし、円谷が行動を変えたのは、まだ朝早くのことだった。周りに他の生徒も少ない。学校に行くまでの間、廻はほとんど行動を変えていない。一度は環の行動が影響を与えたのだと納得したが、本当にそうだろうか?

 渦巻く廻の思考を中断させたのは、環の声だった。

「とにかく、ループの中で記憶を持っているのは私たちだけ。だったら、その原因も私たちにあるんじゃないかな」

「原因……理由、か」

 廻は、そんなことは考えたことが無かった、とでも言うような表情をした。

「私たちの共通点。それがこの現象の原因と繋がってるのかもしれない」

「共通点ね」廻はその言葉を舌の上で転がした。「住んでる家が隣同士ってこととか?」

「どうかな」

 環は不意に目を背けた。廻は尋ねる。

「そういうお前はどう思うんだよ、環」

「私は……」環は何か言いさして、すぐに口を閉じてしまった。「……分からない」

「まあ、仕方ないよ」廻は言った。「こんなことになるなんて、昨日まで──六月二十九日まで、想像もしてなかったんだから」

 その時、廊下のスピーカーから呼び出しの音が鳴った。次いで今泉を呼び出す声が響く。

 放送が終わったタイミングで、廻は環と目を合わせた。

「それじゃ、とにかく今は、原因を探るのが喫緊の課題ってわけだね」

「そうかな」

 と、環は頷いた。彼女が教室に戻っていくので、廻はその後ろに続いた。



 廻と環は教室に戻ってきた。環が教室の扉を開く。不意に、教室の中にいる一人と目が合った。

 銀色の髪に、蒼い瞳。円谷まどかだ。その瞳に磔にされたように、廻の体は固着した。円谷は銀の髪を揺らしながら、廻と環がいる方へ歩み寄ってくる。その瞳は、何か疑いを持っているかのようでもあった。

 廻の目を眼前に捉えながら、円谷は口を開いた。

「北条廻。あなたは、もしかして──」

 そこまで言ってから、円谷は逡巡するように絶句した。

「ちょうどよかった。円谷さん、僕も君に聞きたいことが」

 廻が言うと、円谷は瞬間的に蒼い双眸を見開いた。

「……なんですか」

「今日の朝、学校に来るの、普段より早かったよね? 何か用事でもあったのかなって思って、それで」

「偶然です」

 円谷はすぐさま答えた。彼女の口調は同級生に対しても丁寧で、それがかえって精神的な距離を感じさせる。

「本当に?」廻は食い下がった。「何か理由があったんじゃない?」

「どうしてそう思うんですか」

「だって、二周目までの時は──」

 廻は、ついうっかりと失言をして、咄嗟に口を噤んだ。

 環の冷ややかな視線が背中に突き刺さる。廻は円谷の表情を観察した。

「あの……円谷さん」

「……ごめんなさい。よく聞いていませんでした。何か言いましたか?」

 円谷は言った。廻は心の内で安堵しながら、それを表に出さぬよう努めて言った。

「いや、なんでもない。呼び止めてごめん」

「分かりました」

 円谷はそう言い残して教室を出た。


 自分の席に戻るなり、廻は後ろから環に指先でつつかれた。彼女は小声で告げる。

「ああいうこと言うと、変に思われる」

 廻は振り返り、同じように小声で答えた。

「分かってるよ。さっきのは、うっかりしてたから」

「……まあ、どのみち無かったことになるんだから、別に構わないけど」

 環は呟いた。

「小声でなんの話?」

 横から声が飛んできて、二人は不意に顔を向けた。飛鳥千晴が、ニヤリとした笑みを湛えながら見ている。

「小声でコソコソと。怪しいよ? 今朝も廊下で何か話し込んでたし」

「千晴には関係ないこと」

 環は飛鳥を一蹴するように答えた。飛鳥は特に気を悪くしたふうでもなく、笑顔のまま廻の方を向いた。

「まあ、ここは敢えて詮索しないでおいてあげようかな」

「飛鳥が思ってるよりシリアスな話だったかもよ」

 と、廻は呟いた。

 その時、廻の机の横を一人の生徒が通り過ぎようとした。橘葵だ。ちょうど図書委員の集会から戻ってきたところらしい。

 廻は彼女を呼び止めた。

「橘さん、」

「えっ」橘は狼狽しながら振り返る。「あ……北条くん。な……何かな?」

「いや、大したことじゃないんだけど。さっき、昼食の時、なんともなかったかなって」

「ああ……うん」橘は頷いた。「おかげさまで、なんとも。北条くんが忠告してくれなかったら、確かにあのボトルの中身、零れちゃってたかも……。あの……ありがとう」

「どういたしまして……かな?」

 廻は小首を傾げながら答えた。

 それから、橘は不思議そうに尋ねてきた。

「でも……一体、どうして北条くんがそんなこと気にかけてくれるのか、全然分からなくて……」

「たまたまだよ。なんとなく、嫌な予感がしたから」

「そうなんだ……。なんて言うか……その。勘が鋭いんだね」

「そうかもね」

 廻は答えた。後ろにいた環が一瞬、失笑するような表情を見せたことに気づいたのは廻だけだった。何しろ未来を知っているのだから、勘が鋭いもへったくれもあったものではない。しかし橘は当然、廻が時間を巻き戻っているなど想像だにせず、本心から感心したような視線を向けている。

 廻は改めて橘の姿を観察した。半袖の白いシャツには染み一つ付いていない。

 扉が勢いよく開かれる音に、廻は視線をそちらの方へ動かす。扉の前に立っていたのは、今泉日々樹だった。

 廻は、「前回」の出来事を思い出す。今泉は早乙女のことを捜して三年一組の教室を訪れた。しかしそこで矛盾する証言が出てきたために、早乙女が分身したのではないか──という、よく分からない方向に話が進んでいったのだ。

 今回はあらかじめ、その原因──橘がお茶をかけられ、早乙女からパーカーを借りるという事象が起こらないよう行動したから、話は単純に済むはずだ。

 そう分かってはいても、廻はどこか警戒するような気分を打ち消すことが出来なかった。

 今泉は橘の姿を見付け、彼女の方に近づいてくる。廻は言った。

「今泉さん。誰か捜してるの?」

 彼女は目を見開いた。廻は、今日二度目の失言をしたことに気づいた。しかし、時は既に遅かった。

「えっと、ごめん。どこかで話したっけ? 言いにくいんだけど、全然思い出せなくて」

 廻の視線は不自然に泳いでいた。彼は今泉のことを知っている。しかし、それは「前の世界」でのこと。彼女と交わした会話は既にリセットされている。今の四周目の世界において、廻と今泉は初対面なのだ。

 つまり今泉からすれば、突然初対面のはずの同級生から名前を呼ばれ、話しかけられたことになるわけで、困惑するのも無理は無い。ループも四周目になると、記憶が混乱して不用意なことを口走ってしまう。

 後ろから、環の無言の圧を感じた。私、言ったよね?

「あー……その」廻は口を開いた。「前に橘さんから話を聞いて。写真も見せてもらって。それで一方的に知ってたんだよ。驚かせて悪かった」

「そうなんだ。じゃあ、葵と仲良いの?」

 今泉は聞いてきた。廻は曖昧に頷く。

「仲が良いってほどじゃないけど……まあ、クラスメイトだから」

「えっと……」横で話を聞いていた橘は、困惑がちに言った。「私、そんなことしたっけ……? いや……してないと思うんだけど……」

 すると、環が廻に助け船を出した。

「忘れてるだけかも」

「そんなはずは……」

「人間の記憶は曖昧で当てにならない。案外ね」

「そういうものかな……」

 元々押しに弱い橘なので、環に真顔で諭されると、それで納得してしまうのだった。廻は心の中で環に感謝しつつ、今泉の方へ向き直る。

「ええと……僕は北条廻」

 廻は自己紹介をした。今泉はすっかり疑問を無くしたようで、「よろしく」と笑顔を向けている。

「それで……日々樹ちゃん、何しに来たの?」

 橘は聞いた。廻は意識的に口を閉じている。今泉は答えて言った。

「早乙女のこと、探しに来た。けど、いないみたいだね」

「あいつになんの用事?」

 廻は尋ねた。

「借りてたゲーム、返さなくちゃいけなくて。Switchの『ゼルダの伝説』」

「それって、今持ってるの?」

 廻は聞いた。今泉は、なぜそんなことを聞くのかと、首を傾げながら答える。

「今は持ってないよ。部室のロッカーに置いてある」

「よかったら、僕が代わりに返しておくよ。あいつの居場所だったら、大体見当も付くし」

「えー……いいのかなぁ。一応借り物だし」

「大丈夫だから、信頼して。僕はどうせ暇だし、ちょうど早乙女に用事もあるから」

 それはでまかせだったが、今泉はそれに気づかない。わずかに逡巡した素振りを見せた後、言った。

「……よし! 分かった。じゃあ、お願いしようかな。ソフト預けるから、部室まで来てくれる?」

「もちろん」

 廻は立ち上がり、今泉と二人、教室を後にした。


 渡り廊下を歩いて、部室のある東棟を目指す。道中、今泉は廻に尋ねた。

「北条くん……だっけ。君、変わってるって言われない?」

「今泉さんはそう思うの?」

「まあね」彼女は頷いた。「初対面の私の代わりに早乙女のこと捜してくれるって言うんだもん」

「それは……さっきも言ったけど、たまたまで」

「念のため聞くけど、何か裏があるわけじゃないよね? ゲームを掠め取ろうとか」

「そんなことしないよ」

「分かってるよ」今泉は歯を見せて笑った。「言ってみただけ。君は早乙女の友達なんでしょ? だったら信用できるよ。多分ね」

 会話しているうちに、二人は写真部の部室──東棟四階にある、第二理科準備室の前まで辿り着いていた。

 今泉はスカートのポケットから鍵を取り出して扉を開ける。彼女が電気のスイッチを押すと、部屋の中が明るく照らされた。

 元々は実験器具などを置いていたこの教室は、完全に写真部に占拠されていた。廻は、お邪魔します、と言いながら足を踏み入れる。

 扉の正面に窓があり、中庭を見下ろすことが出来た。窓の前には、ちょうど同じ高さの棚があり、その上にはスタンド付きの鏡が置かれていた。部屋の中央に三脚が鎮座している。横の机には開封されたばかりと思しき段ボール箱が置かれ、その中には古びたカメラが入っていた。よく見ると、その形状は普通のカメラと少し違っていて、カードを排出するような形状の口が付いていた。

「ああ、それ?」廻の視線に気づき、今泉はカメラを持ち上げた。「今朝届いたんだ。フリマアプリで買った中古だけどね」

「変わった形してるね」

「見たことない? インスタントカメラってやつだよ。撮った写真がここから出てくるんだ」

 今泉は、レンズの下に付いた排出口を指し示した。

「そういえば、昔の映画とかで見たことあるかも。警察が証拠写真撮るのに使うやつでしょ?」

「インスタントカメラはその場で現像とプリントもしてくれるからね。写真が改竄される心配が無いってこと。だから証拠にも使われる」

 今泉は滔々と説明した。なるほど、と廻は頷く。それから言った。

「それで、『ゼルダ』は?」

「ああ、忘れるところだった」

 今泉は、壁際にあるロッカーの扉を開けた。扉の横、部屋の窓の正面に当たる位置の足元に、いくつかのロッカーが並んでいる。今泉は屈み込んでその中の一つを開き、中からゲームのソフトが入ったケースを取り出した。

「はい、これ」

 廻は差し出されたソフトを受け取った。

「ああ。確かに受け取った。今日中には返しとくよ」

「うん、よろしくね」

 今泉は言った。廻は頷き、写真部の部室を後にした。



 早乙女を捜すのに時間はかからなかった。廻がソフトを受け取ったその足で映研の部室を訪ねると、ちょうど彼が部屋の前に現れたのである。

「捜したぞ。どこに行ってた?」

 廻は聞いた。早乙女はパーカーのポケットに両手を入れて答える。

「ちょっと屋上で風に当たってた。俺を捜してたって言ったか?」

「これを預かってたんだよ」

 廻はゲームソフトを早乙女に見せた。

「それ、今泉に貸したやつだろ。どうしてお前が持ってる。又借りか?」

「今泉さんが忙しそうだったから、僕が代わりに返しとこうかって提案したの」

「お前……今泉と親しかったか?」

「いや、そういうわけでもないけど」廻は言葉を濁した。「早乙女の友達だって言ったら信用して預けてくれたよ」

「まあ、別に構わないが」早乙女はソフトを受け取った。「それにしても解せないな。どうしてお前が運び屋なんて引き受けた?」

「気まぐれに親切心を発揮したまでだよ。僕だってそういう気分の時はある」

「まさかと思うが、あいつに気があるわけじゃないだろうな」

「心外だな。純粋な親切心だってば」

「そうだな」早乙女はわずかに笑った。「よくよく考えれば、お前には二階堂さんがいるんだった」

「僕ってそんなに分かりやすいのかな……」

 廻は自分だけに聞こえるような声音で独り言を言った。

 それから早乙女は告げた。

「なんにしろ、届けてくれて助かった。礼を言う」

「じゃ、確かに届けたからな」

 廻はそう言い残して早乙女と別れた。

 少々強引だったが、これで今泉が早乙女を捜す必要も無くなった。そもそも橘が早乙女からパーカーを借りなかった時点で〈分身の謎〉は起こり得ないのだが、念には念を入れたかった。いずれにせよ、これで橘たちが気を揉むことは無いはずだ。

 昼休みも残りわずかになっていた。廻は教室に戻ることにした。


 それから代わり映えの無い時間が流れ、そして放課後になった。

 廻と環は廊下を歩いていた。それぞれ鞄を持ち、当て所なくゆっくりと歩みを進める。

「早乙女くんには会えたの?」

 と、環は聞いてきた。

「会えたよ」廻は答えた。「今泉さんが借りてたゲームも返しておいた。これで問題は解決」

 それから彼は、環の方へ顔を向けた。

「ところで、環は何してたの?」

「極力、何もしないで過ごしてた。私のどんな行動がどう影響を与えるか分からないから」

「慎重だな、環は」

「廻はアクティブ過ぎる」

 環は冷静に言い放った。

 確かに、ループ前の記憶を保持している廻たちの行動は未来に影響を及ぼす。不用意に行動すれば、何が起こるか分からない。環が慎重になるのも無理は無いのかもしれない。

 ふと、環は意を決したように足を止めた。廻も同様に制止して、環の方を振り返る。

「どうかした? 環」

 彼女は廻の目をはっきりと見た。

「もし……このまま、このループが終わらなかったら、廻はどうする?」

「どうするって……」

「私たち意外の人は、時間が巻き戻れば記憶を失う。家族も、クラスメイトたちも、みんな。それって、意思を持ってるって言えると思う?」

「意思はあるはずだよ。そうじゃなかったら、僕たちの行動に反応して行動を変えるはずがないだろ?」

「でも、それだって全部、零時を過ぎたら忘れ去る。結局、全部を覚えていられるのは私たちだけなんだよ。私たちが何をしようと、他の人たちはみんな忘れる。千晴も、有紗も。早乙女くんだってそう」

「言いたいことは分かるよ」廻はなだめるように頷いた。「でも、それがどうしたって言うの」

「分からない?」環は廻の顔を見返した。「この世界で、本当に意思がある人間だって確信を持って言えるのは、私と廻だけなんだよ」

「それは……」

「このループがあと何回続くのか分からない。十回なのか、百回なのか、千回なのか……終わらないのかもしれない。その長い永い時間の中で、私たちはずっと二人きりで過ごさなくちゃならないかもしれない。廻は、それでもいいって思う?」

 問われて、廻は口を開いた。

「僕は……。今はまだ、四回目だからいいけど。でも正直言って、何万回もこれが続いたら、流石に嫌になるかも」

 そう、と環は言った。それから環はまた何かを話そうとした。しかし、それが言葉になって口から出てくる前に、廊下の曲がり角から見知った顔が現れた。

 今泉日々樹だった。口元に手を当て、何か思案するように難しい顔をしている。が、廻の顔を見ると、眉間の皺をかき消し、笑顔になって手を振った。

「北条くん。また会ったね」

「ああ、うん」

 廻は頷いた。それから今泉は、廻と環の顔を交互に見た。

「あ……取り込み中だった?」

「いや、大丈夫」廻は答えた。何の話をしていたのかと聞かれたら面倒なことになる。誤魔化すように廻は続けた。「ああ、そうだ。ゲーム、返しといたよ。早乙女に会ったから」

「うん、聞いた。昼に早乙女からLINE来てたから。わざわざありがとうね」

「いや、礼を言われるようなことじゃ……」

 廻は単に〈分身の謎〉を回避することだけが目的だった。真っ向から感謝されると、どうにもむず痒いような気分になってしまう。

 廻はまた話題を変えようとする。

「あー……そうだ。写真部って、普段どんなことやってるの?」

「写真撮ったり、現像したり、プリントしたり。ま、写真部だからね」今泉は簡潔に答えた。「ま、今はカメラも持ってないんだけど」

「じゃあ、今は何をしてるの?」

 後ろから環が尋ねた。

「今はね、漫研の部室に用があって」

「漫研?」

 廻は聞き返した。それから彼は、「前の世界」で聞いたことを思いだす。漫研の部長である京本渚と今泉は知り合いだと言っていた。もしかすると、京本に個人的な用事があるのかもしれない。

「そう、漫研」と今泉は頷いた。「そっちの部長に、ちょっと聞きたいことがあってね」

 やはり京本に用事があったのだ。廻は自分の考えが正しかったことを知った。

 それから、今泉はふと思い付いたように言葉を続けた。

「あ……そうだ。せっかくだし、北条くんにも聞いてもらおうかな。客観的な意見も欲しいし」

「聞くのはいいけど、何を?」

「少し妙なことがあってね」今泉は真剣な表情で言った。「私、心霊写真を撮っちゃったかも」

「心霊写真? 顔でも写り込んでたの?」

 廻は尋ねた。こんな非現実的な状況に放り込まれているから忘れがちになるが、廻は本来現実的な思考をするタイプだ。当然、心霊現象というものも、ほとんど全く信じていない。世に言う心霊写真だって、ガラスの反射とか、そういうことで説明が付くのだと思っていた。

 今泉は曖昧に首を振った。

「うーん、むしろ逆かな」

「逆?」

「写ってるはずの人が写ってないってこと」

「……どういうこと?」

 廻にはよく理解が追いつかなかった。それは果たして心霊写真と言うのだろうか。

 今泉は、大げさな身振り手振りを交え、更に詳しいことを説明して聞かせる。

「さっき部室でね、新しく届いたカメラの試運転をしてたんだよ。北条くんにもさっき見せたでしょ?」

「ああ、例のインスタントカメラね」

 開封されたばかりの、古びたカメラのことを廻は思い出す。確か、中古で購入したばかりなのだと言っていた。

「そう。それで、フィルムを入れて、とりあえず試し撮りしようってことになったわけ。で、葵にモデルになってもらって、写真を撮ったんだよ。一枚だけね」

「じゃあ、橘さんが写真から消えていたの?」

 環は尋ねた。いつの間にやら彼女も今泉の話を聞くことを受け入れていた。どうやら今泉日々樹という人には、有無を言わせず周りを巻き込むパワーのようなものがあるらしい。

「いや、消えたのは葵じゃないよ」

「じゃあ誰が」

 と、廻は聞いた。

「写真を撮る時、部室で窓を背景にして、カーテンを開けた状態で撮影してた。ほら、あの部室って東棟にあるから、窓から西棟の廊下が見えるでしょ?」

 廻は首肯した。前回、漫研の部室からそのことを確認したことを思い出す。

「西棟の廊下に、渚がいたの。えっと、私のクラスメイトなんだけどね。京本渚。漫研の部長」

「そうなんだ」

 廻はそのことを知っていたが、知らなかったかのように振る舞った。

「で、その渚が私に気づいて手を振ってた。私はファインダー越しにその姿を確かに見た。絶対。絶対に!」

 そのことを今泉はやたらめったらと強調した。少々気圧されながら廻は了解したことを態度で示す。

「分かった。それで?」

「でも、実際に撮れた写真には、渚の姿は写ってなかったんだよ」今泉はスカートのポケットから、一枚の写真を撮り出した。「ほら、これ」

 廻と環は、彼女の手の中にある写真を覗き込んだ。

 インスタントカメラで撮影されたその写真は、周囲に白い枠があり、その中央に図像がプリントされていた。スクエアのカラー写真で、写真部の部室の窓を背景に、橘がはにかむような笑顔でピースサインを向けている。普段教室では見たことのない表情に、廻は少し意外に思った。

 今泉は写真の隅を指さした。背景の窓の奥、ちょうど西棟四階の窓がある部分だ。

「ほら、ここ。誰もいないでしょ?」

 背景はピントがボケていて、はっきりとは見えない。しかし、その廊下に誰もいないことは見て取れる。

「まあ……確かに、誰も写ってないみたいだけど」廻は言った。「単なる見間違いじゃないの?」

「だから! 違うんだって。本当に見たんだよ、私。嘘じゃないから」

 今泉は力説した。

 とはいえ、廻はやはり懐疑的だった。今泉の証言と、写真という物証。どちらを信じるべきなのかは明白だ。

 しかし、今泉の主張には簡単に一蹴できない迫力があった。

 環は不意に口を開いた。

「今泉さん。あなたはその写真を撮った後、写真を肌身離さず持ってたの?」

「いや、そういうわけじゃないかな。写真が出るまでの間、ちょっとトイレに行ったりしてたから」

「インスタントカメラって、すぐに写真が出るわけじゃないんだね」

 廻は言った。今泉はかぶりを振る。

「写真そのものはすぐに出てくるんだけど、最初は白紙なんだよ。そこからじわじわと図像が浮かび上がってくるの」

「へえ、そうなんだ」

 インスタントカメラというものを触ったことがない廻は、その仕組みもまるで知らなかった。

「今泉さん」環が声をかけた。「部室に案内してほしい。そうしたら、その人が写真から消えた理由が分かるかも」

「本当?」今泉は笑みを浮かべて環の方へ身を乗り出した。「私の見間違いじゃないって証明してくれるの?」

「まだ断言は出来ないけど。でも、あなたは確かに見たんでしょ?」

「うん」今泉は大きく頷く。

「だったら、きっと消えたのには理由があるはず」

「そう言ってくれて嬉しいよ。日々樹ってば、全然私の言うこと信用してくれないんだもん。『見間違いでしょ』って。ありがとうね、ええっと……」

「二階堂」

「二階堂さんか。ありがとう」

「礼を言うなら謎を解いてからでいいよ」

 環は言った。

「そうだね」と、今泉は頷く。「じゃあ、早速部室に来てもらおうかな。北条くんも来るでしょ?」

 もちろん、と廻は答えた。三人は階段を上がって、四階にある写真部の部室を目指した。

 今泉が先導し、廻と環はその後を付いていく。

 階段を上がりながら、廻は声を潜めて環に尋ねた。

「今回は嫌に積極的だけど、どういう風の吹き回し?」

「だって、放っておいたら廻はどうせまた首を突っ込むんだろうと思って」

「それは……否定できないけど」

「だったらいっそ、さっさと解決しちゃった方がいい。話を聞く限り、そんなに複雑な話じゃなさそうだから」

「やっぱり、単なる見間違いかな」

「私はそうじゃないと思ってる。でも、まだ分からないかな。実際に見てみないことには」

 環は、現時点でそれ以上のことを述べるつもりは無いらしかった。廻は黙って今泉の後に続き階段を上がった。



 写真部の部室を訪れるのは、廻にとって今日二度目のことだった。

 机の上にあった段ボール箱は既に片付けられ、部屋の真ん中にある三脚の上に例のインスタントカメラが設置されている。机の横には椅子があり、そこに橘が座っていた。

 橘は今泉の後ろにいる廻たちの姿を見て目を丸くした。

「あれ……? なんで北条くんと二階堂さんがここに……?」

「私が呼んだんだよ」今泉は自分の腰に片手を置いた。「渚が消失した謎を解決してもらうためにね」

「あれは見間違いだって……。日々樹ちゃん、大げさだよ。二階堂さんたちまで巻き込んで……」

「私は構わない」環は言った。「どのみち時間は余ってるから」

「ほら、二階堂さんもこう言ってるし」今泉は環の方を一瞥し、橘へと向き直った。「第三者の目で公正公平に、どっちが正しいのか判断してもらおう」

「まあ……二階堂さんたちが良いって言うなら……」

 橘はそう答えたが、彼女はどうにも環たちの介入に気が乗らないように見えた。その態度はまるで何かを隠しているかのようで、前の世界で〈分身の謎〉に関わる情報を隠していた時の態度と似ている。

 今泉は机の上に問題の写真を置き、橘の横に立った。

 環は、部屋の中をぐるりと観察した。扉の横のロッカーは今は閉じられている。その正面にある窓はカーテンが開け放たれ、西から差し込む陽光を部屋の中に取り込んでいた。

 窓際の棚の上には鏡が置いてある。昼休みに見た時と変わらない角度だった。

 廻は、先ほど見せられた写真を思い出していた。あの写真でも、橘のすぐ横にあの鏡が写り込んでいた。廻は卓上の写真を確認する。ちょうど橘のすぐ右に置かれている鏡には、扉の閉じたロッカーが反射していた。

 環の目は、部屋の中央にある三脚と、その上にあるカメラに留まる。廻がよく知るデジタルカメラと違い、モニターなどは一切付いていない。上部にあるボタンはシャッターで、その横にあるダイヤルはセルフタイマーだろう。

 環は今泉の方を向いて尋ねた。

「この三脚を使って試し撮りをしていたの?」

「うん、そうだよ」今泉は頷いた。「失敗したらフィルムがもったいないし、三脚を使えば手ぶれもしないから」

「分かった」

 と、環は頷いた。

 今泉は尋ねる。

「どう? 二階堂さん。何か分かった?」

「そうね。大体分かってきた」

 しかし、環はまだ具体的な話をするつもりは無いようだ。廻にはそれが分かった。

 廻は間を持たせようとして、橘に向かって話しかける。

「橘さんは、信じてないの? 『心霊写真』のこと」

「う……うん」橘は椅子に座ったまま、廻の顔を見上げた。「だって……あり得ないでしょ……? 本当はいたはずの人が、写真に写らないなんて。あの写真には誰も写ってなかったと思うし……やっぱり、日々樹ちゃんの見間違いだと思う」

「じゃあ橘さんは見てないの? 京本さんのこと」

「私は、窓の方は見てなかったから……」

 橘は答えた。確かに、写真の中の彼女はカメラの方を向いていたから、窓に対しては背を向けていることになる。当然、西棟の窓も見ていないはずだ。

 すると、京本を見た言っているのは今泉ただ一人ということになる。唯一の物証である写真は、その今泉の証言と矛盾する結果を示している。

「今泉さんには悪いけど、やっぱり見間違いだったんじゃないかなあ」

「北条くんまでそんなことを!」今泉は抗議した。「私、絶対に見たんだって」

「でもなあ……」

 廻は腕を組んで考えた。

 もし今泉の言うことが真実だとしたら、写真の方が間違っていることになる。そこにいるはずの人間が写真に写らない。そんなことがあるだろうか?

「……これがスマホで撮った写真とかだったら、話が単純なんだけどね。最近のスマホは、AIとかで背景に写り込んだものを消せるんでしょ?」

 廻のスマホは中学の入学と同時に買ったものなので、そういった最新式の機能は付いていなかった。

「よくCMでやってるよね」今泉は答えて言った。「でも、これはインスタントカメラだからね。加工されたような痕跡も無いし。私がトイレに行ってる間、部室には葵しかいなかったから、写真に何か悪戯できるとしたら葵しかいないけど……」

 今泉はそこで言葉を句切り、橘の方を見やった。橘は勢いよく首を振る。

「……まあ、流石にあの短時間で痕跡も無く完璧に渚の姿だけを消し去るなんて不可能だよね」

 廻は昼に今泉から聞いた話を思い出していた。インスタントカメラは撮影後、その場で写真をプリントするから、加工による捏造が難しい。橘にしろ、誰にしろ、写真に手を加えた可能性は絶無と言って差し支えないだろう。

 橘は、疑いが逸れたことに安堵するような表情を浮かべている。今泉はさらに重ねて言った。

「それに、葵にそんなことする理由、無いと思うし」

「それもそうだ」廻は腕を組んで首肯した。「念のため確認するけど、橘さんと京本さんがめちゃめちゃ不仲……とか、そういうわけじゃないよね?」

 橘は慌てたように両手を顔の前でブンブンと振り回した。

「ち……っ、違うよ。私、不仲とか、そういうの無いから。そもそも京本さんとは、ほとんど話したこともないし……」

 どうやら京本は今泉とだけ面識があり、橘とはさして親しくないようだ。友達の友達、という距離感だろうか。

「分かってる。冗談だよ」

 廻が言うと、橘は安堵したように息をついた。

 環は部屋の中の観察を続けている。手持ち無沙汰になった廻は、三脚の上に固定されているカメラのファインダーを覗き込んだ。

 夕暮れ時の窓が見え、その向こう側にある西棟の窓もはっきりと見える。今は無人だが、西棟の廊下に人がいれば気づくだろう。画角は先ほど見せられた写真と変わらない。おそらく、試し撮りをした時から三脚は動かされていないはずだ。

 それから廻は、窓際の棚に置かれた鏡に注目した。その鏡に映り込んでいたのは扉の横の壁だった。写真にはロッカーが写っていたが、鏡の角度がわずかに変わっているのだろうか?

 そこで廻は別の可能性に思い当たる。今覗いているファインダーと、写真を実際に撮っているレンズとでは、わずかに位置が異なっている。だから見えている図像にも、ほんの少しながらズレが生じる。今見ている景色と、実際に撮影される写真は、完全にイコールというわけではないのだ。

 そこから廻は、一つのひらめきを得る。

「あ……そうだ。角度の問題じゃないかな」

 廻の言葉に今泉が聞き返す。

「角度?」

「そう。ファインダーを覗いていた今泉さんには京本さんが見えていた。だけど京本さんが立っていたのは、レンズからは写らない位置だったんじゃないかな」

 廻は卓上の写真を持ち上げて、背景の窓を指さした。

「窓枠ギリギリのところに立ってたとしたら、壁に隠れて見えなくなるかも」

「なるほど」

 一瞬、今泉は納得したような表情になったが、すぐに「でも、」と続けた。

「渚が立ってたのって、窓の中央あたりだったと思う。私の目からは、はっきりと手を振ってるのが見えたし。それに、壁で隠れてたとしても、全身が完全に隠れるってことは無いんじゃない?」

 確かに、窓と窓の間の感覚は狭かった。この幅に人一人が完全に隠れることは難しいかもしれない。廻は自分の推理が誤っていたことを悟った。

「じゃあ、シャッターが切られる瞬間、咄嗟にしゃがんだとか」

 廻はまた別の推理を話す。廊下の窓は壁の上部にしか付いていない。下の方は外からは死角になる。だから身を伏せれば、東棟から姿を隠すことは可能なはずだ。

 しかし、今泉はこの説も否定した。

「私がシャッターを切る直後まで、渚は立って手を振ったままだったよ。しゃがんだりとかはしてなかったと思う」

「これもダメか……」

 様々な可能性が否定され、いよいよ本当に京本が消えたとしか思えなくなってきた。あるいは、今泉が幻覚を見ていたのか。

 しかし、見間違いにしては、先ほどから今泉の証言は子細に過ぎる。以前、〈分身の謎〉の時、結城は橘のことを早乙女と見間違えていた。だが今回は状況が違う。撮影された写真には、京本はおろか、誰一人として写り込んではいないのだ。別の誰かを京本と誤認した──というわけでもなさそうだ。

 廻が頭を悩ませていると、ずっと部屋の観察を続けていた環は、出し抜けに口を開いた。

「確かめてみようか」

「何を?」今泉は聞き返す。

「京本さんが本当に西棟の廊下にいたのかどうかを」

「誰に?」廻は聞き返す。

「京本さん本人に」

「そうだ!」今泉は突然大きな声を出した。「そうだよ。最初っから私はそうしようと思ってたんだ」

「どうしてそうしなかったの……?」

 と、橘は聞き返す。

「漫研の部室に行こうと思ってたんだけど、その途中で北条くんたちに会って、なりゆきで引き返したんだよ」今泉は説明した。「とにかく、本人に聞けばハッキリするはず。私が見た渚が、本物か幻か。早速行こう。善は急げだよ」

 彼女は机の上に置いていた写真を掴み、勢い込んで部屋を飛び出していく。廻はその後に続いた。

 環は部屋を出る前に一度振り返り、椅子に座る橘のことを見た。

「橘さんも来る?」

 彼女の三白眼から発せられる視線に射貫かれ、橘は一瞬身をすくめた。それから橘はかぶりを振る。

「あ……私は、残ってるよ。ここに」

「分かった」

 環は頷き、後ろ手に扉を閉めた。



 階段を降りて、廻たちは漫研の部室にやってくる。中から顔を出したのは、部長の京本渚だった。黒縁眼鏡に、片目を隠した長い前髪。前の世界で会った時と変わらない風貌だ。しかし当然彼女は廻たちのことを覚えていない。廻たちは二回目の自己紹介をした。

「日々樹の友達か。私は三年二組の京本渚。漫研の部長だ。以後お見知りおきを」

 廻は京本と握手を交わす。

 それから今泉は、早速本題に入った。

「突然だけど、渚。さっき私に向かって手振ってたよね?」

 京本は、そうだよ、と頷いた。

「やっぱり日々樹も気づいてたんだ。ポラロイドで写真撮ってたでしょ? どうかな。私は華麗に写り込んでた? 後で見せてよ、その写真」

「そうだよね? 四階の廊下で手を振ってたよね?」

 身を乗り出して確認する今泉に、京本は少々呆気に取られたようだった。

「そんなに重要な写真を撮ってるようには見えなかったけど?」

 今泉は京本に事情を説明した。写り込むはずだった京本の姿は、実際には写真に写っていなかった。写真の現物も見せて説明する。

 話を聞いた京本は口元に手を当てて頷いた。

「確かにそれは、摩訶不思議だね。知らない間に私も特殊能力に目覚めてたのかな。写真に写らない能力……ハズレ能力っぽいけど、監視カメラを欺くのには使えるかも。怪盗デビューの日も近いね」

 京本は制服の胸ポケットからスマホを取り出し、インカメラを起動して自撮りした。

「特殊能力は無いみたい。残念」

 彼女が見せてきた画面には、にこりともせずにカメラを見る京本自身の姿が写っていた。

「真面目な話、これで今泉さんの証言が正しかった可能性が出てきたわけだよね」

 廻は言った。京本の証言と矛盾が無かったからだ。今泉と京本が共謀して嘘をついているのでない限り、彼女たちの話は正しいことになる。そして、二人が示し合わせてそんな嘘をつく理由があるとは、廻には思えなかった。


 漫研の部室を辞してから、廊下で今泉は環へと顔を向ける。

「さて、私の話が正しいことは証明されたわけだけど……。どう? 渚が消えた理由、分かった?」

「さっきも言ったけど、大体はね」

 環は答えた。

「じゃあ教えてよ。大体でもいいから」

「いや、まだ一番重要なところが分かってない」

「もったいぶるんだね、随分」

 今泉はそう言って笑った。環は何も答えない。

 写真部の部室へ戻る道すがら、廻は環へ耳打ちした。

「ねえ、環。分かってないことって?」

「〈ホワイ〉の部分。つまり……どうして京本さんの姿が消されなくちゃならなかったのか、ってこと」

 環の方も小声で答えた。

「やっぱり、誰かが人為的に写真から京本さんを消したの? でも、さっき加工は無理だって……」

 廻の疑問に環は答えず、代わりに前を行く今泉へ声をかけた。

「今泉さん。少し橘さんと二人で話してもいい?」

「えっと……それは、構わないけど」

 今泉は振り返り、困惑しながらもそれを了承する。廻は横から聞いた。

「それって僕も外さないとダメ?」

「廻は別。いていいよ」

「でも二人でって言ってた」

「廻のこと、勘定に入れるの忘れてた」

 環は淡々と言い放った。廻は閉口して環の後に続いた。


 部室に戻ると、橘は先ほどと同じように椅子に座り、机の上に置いた写真の束をめくっていた。見ると、写真を保管するものと捨てるものに選別しているようだった。

 橘は作業する手を止め、今泉の方を向いて尋ねた。

「あの……京本さん、なんて言ってた?」

「私が言った通り、あそこの廊下に立ってたって言ってたよ」今泉は西棟の窓を見ながら言った。「それに、私が写真撮ってるところも、ちゃんと見たって」彼女は勝ち誇るような表情を橘へ向ける。「どう? これで私が嘘ついてないって分かったでしょ?」

「ま……まあ、信じるよ。だけど……京本さんが写真から消えた理由は分かったの……?」

 橘が尋ねると、今泉の顔から余裕綽々な笑みが消えた。

「それは……まだ分かってないけど。でも、二階堂さんは大体分かってるらしい」

 橘は環の方を見た。環は無言のまま小さく頷く。今泉は話を続けた。

「それで、二階堂さんが、私抜きで葵に話を聞きたいって言うから、ちょっと協力してよ。私はしばらく校内を撮影して回ってるから」

 今泉はそう言ってロッカーの扉を開き、中からまた別の一眼レフカメラを取り出した。ストラップを首にかけ、入ってきたばかりの扉を再び潜る。

「ありがとう、今泉さん。多分、十分くらいで終わると思うから」

 環は言った。今泉は、了解、と言い残して部屋を出て行った。

 足音が遠く離れるのを確認してから、環は橘の横に腰掛けて目線を合わせた。廻はその後ろに立ってことの成り行きを見守る。

「えっと……あの、二階堂さん。なんで日々樹ちゃんを……?」

「あの人がいたら、橘さんが話しづらいと思って」

「な……なんのこと?」

「橘さんだよね? 写真から京本さんを消したのは」

「え……どうして」

 橘は瞬間的に目を見開く。彼女が動揺していることは誰の目にも明らかだった。

「橘さんが写真に細工したってこと? でも、フィルムの、ましてやインスタントカメラに短時間で加工するなんて無理なんじゃ……」

 廻が横から疑問を挟むと、環は冷静に答えた。

「写真そのものに細工をしたわけじゃない。写真から京本さんを消すのは簡単だよ。同じ構図の別の写真にすり替えればいい」

「すり替える?」

「そう。あの写真は三脚に固定された状態で撮られていた。今泉さんが離席した後、カメラはそのままになっていたから、セルフタイマーを使えば一人でも同じ構図で写真が撮れる。今泉さんは最初に撮ったオリジナルの写真を見る前に席を立ったから、写真がすり替えられたらそれに気づくのは難しい。あのカメラはモニターの類いが一切付いていなかったから、フィルムの残り枚数も確認できないし」

「そうか」廻は得心して言った。「最初に今泉さんがシャッターを切った時には京本さんがいた。だけど二回目に写真が撮られた時には既に京本さんはいなくなってた。僕たちがずっと見てたのは、実は二回目に撮られた方の写真だったんだ」

 環は小さく頷き、その後を引き継ぐように話を続けた。

「今泉さんがいなくなった後、部室で二枚目の写真が撮れたのは橘さんしかいない。だから、あなたが写真をすり替えたんだと思ったんだけど。違う?」

 橘は答えない。しかしその目は、環の言葉が真実を射貫いていることを明確に語っていた。

 やがて橘は口を開く。

「そっか……それを確かめるために、わざわざ日々樹ちゃんのことを追い払ったの……?」

「そう。あなたが写真をすり替えた理由は分からない。けど、きっと今泉さんに関係のあることなんでしょう?」

「それは……どうして分かるの」

「少なくとも写真が撮られた時点で、その写真を見る可能性があったのは、あなたを除けば今泉さんしかいないから」

「そういうことか……」

 橘は、小さく息をついてから環の方へ向き直った。

「確かに……二階堂さんの言う通りだよ。私が写真をすり替えた。でも、京本さんがいたことは知らなくて……それで、日々樹ちゃんにも疑われることになって」

 橘はスカートのポケットに手を入れて、中から一枚の写真を取り出す。先刻見たばかりの写真とほとんど似たような写真だった。

 今泉に見せられた写真と同じ用紙に、同じ構図、同じポーズ、同じ表情で橘が写っている。しかし背景の窓には、ピンボケしてよく判別できないが、確かに誰か人影が映り込んで手を振っていた。おそらく、これが京本なのだろう。

 もちろん、橘がセルフタイマーを使って再現した写真だから、細々とした違いはある。しかし廻は、最初に見た写真と、今目の前にある写真の間に、何か別の違和感があるような気がした。背景に写り込んだ京本の有無とは別の何かが。

 いずれにせよ、廻には解せなかった。

「なんで写真のすり替えなんてしたの? 同じ写真を二枚撮っても仕方ないと思うけど……。まさか、京本さんが写り込んでたのが気に入らなかったわけじゃないでしょ?」

 そもそも、彼女は「京本がいたことに気づいてすらいなかった」と言っていた。

「それは……」

 橘は言い淀んだ。環は彼女が出した写真を瞥見して言う。

「その本物の写真を見てようやく分かった。橘さんが本当は何を消したかったのか」

 橘はわずかに息を呑んだ。廻は環に向かって尋ねる。

「やっぱり、何か別の目的があったってこと?」

 環はそれに答えて言った。

「この写真、被写体である橘さんの横に鏡が置いてあるでしょ?」

 廻は写真に目を落とした。窓際には棚が置かれ、その上にスタンド付きの鏡が置かれて部屋の様子を反射している。

 その部分に注目した瞬間、廻は「あっ」と声を上げた。

 鏡に映っている光景が違っている。

 廻が最初に見た二枚目の写真では、鏡に扉の閉じたロッカーが写り込んでいた。

 今、目の前にある「本当の」写真も、鏡にロッカーが写り込んでいることは変わらない。しかし、その扉は開いていた。そして、そのロッカーの奥には、リボンで包装されたチェック柄の紙袋がある。

「これ、最初に見た写真には写ってなかったよね?」

 廻が問うと、環は頷いた。橘は観念したような表情で俯いている。

 やはり、橘が写真をすり替えてまで隠そうとしていたものはこれだったのだ。そして、先刻廻が感じたもう一つの違和感の正体も。

「これ……プレゼント、かな?」

 リボンは綺麗に結ばれている。誰かへの贈り物でなければ、こんなふうに包装することは無いだろう。よく見ると、ハートの意匠のシールもあしらわれていた。

 環は話を続けた。

「おそらく、そこに写っているプレゼントは、橘さんにとって見られたくないものだった。少なくとも、今泉さん相手には。だから人目に付かない部室のロッカーに保管しておいた。だけど、今泉さんが試し撮りをした時、ロッカーの扉は開いていた。うっかり開けっぱなしにしたのか、勝手に開いてしまったのか。そのあたりはよく分からないけど……とにかく、橘さんはそのことに気づいた。被写体として窓に背を向けて立っていた橘さんは、正面にあるロッカーが目に入ったはずだから。

 一方、今泉さんの方はロッカーを背にしているから、扉が開いていることに気づかない。そして写真を撮った後も気づかないまま離席した。あのロッカーは背が低いから、普通にしていたら視界に入らないことも十分あり得ると思う。だけどあなたは、浮かび上がってきた写真を見て、ちょうどあの鏡にプレゼントが映り込んでいることを知った」

 廻は、あのインスタントカメラのファインダーを覗き見た時のことを思い出す。ファインダーから見た時には、鏡には壁しか映っていなかった。だから今泉も、写真を撮っている時には気づかなかったのかもしれない。加えて彼女は窓の外にいる京本に気を取られていた。

 環は更に続ける。

「橘さん。あなたは写真を見た今泉さんが、このプレゼントの存在に気づくことを恐れた。だから写真のすり替えを行った。そうなんでしょ?」

「でも、あんな何の変哲も無いプレゼント、どうして隠す必要が?」

 廻にはどうしてもそれが疑問だった。しかし環の表情を見るに、彼女はその部分まで察しているようだった。

「……二階堂さんには、分かってるんでしょ?」

 と、橘は聞いた。

「いいの? 私が話しても」

「いいよ」と、橘は頷く。「言ってみて」

「とは言っても、これは推理というより、勘に近いんだけど」環は自嘲気味に言った。「そのプレゼントが、橘さんが受け取ったものなのか、あるいはこれから誰かに渡そうとしていたものなのか。それは分からないけど、もし後者だとすると、一人相手に心当たりがある。橘さんに近しくて、直近で誕生日を迎える人が一人いる」

「それってもしかして……」

 廻も、その人物のことを思い出す。明日が誕生日だからと言って、廻の弁当箱から唐揚げを掠め取っていくあの男。

「そのプレゼントを贈る相手は、早乙女くんなんじゃないかな?」

 環は口にしなかったが、彼女がそう考えた根拠はきっともう一つあるはずだ。

 それは、橘が早乙女と交際をしているという事実。しかし、廻たちがその事実を知ったのは「前の世界」でのことだ。今の世界で二人はそれを知らないことになっている。

「……知らなかった。二階堂さんが、そんなに勘が鋭い人だったなんて」橘は、ぽつりと独白するように言った。それから顔を上げて環の方を見る。「その分だと、私と早乙女くんのことも、気づいてたりするの……? その……私たちが……つ、付き合ってる……こと、とか……」

 この世界の橘にとって、そのことを第三者に明かすのはこれが初めてなのだろう。頬は朱に染まり、声音は小さくなっていく。

「それが今泉さんからプレゼントを隠した理由なの?」

 と、環は尋ね返した。

「う……うん。実はね」橘は小さく頷いた。「日々樹ちゃんにも……そのことはまだ、言ってないから」

「だけど、今泉さんとは仲が良いんだろ? 話してもいいんじゃないか」

 廻は言った。今泉は早乙女と幼なじみの間柄だったはず。二人のことはよく知っているはずだ。よからぬ噂を広めるような人とも思えない。せめて彼女くらいには、関係を明かしても問題ないはずだと廻は思った。

 しかし、橘は首を横に振る。

「そ……それは」

 言い淀む橘に代わって、環が説明した。

「きっと橘さんは、今泉さんが相手だからこそプレゼントを隠そうとしたんだと思う」

「それって……」

 環の言葉の真意を掴みあぐねている廻に、橘は語った。

「あ……あのね。私が早乙女くんと知り合ったきっかけは……そもそも、日々樹ちゃんと早乙女くんが友達だったからで。私は日々樹ちゃんを介して彼と知り合ったんだ。それで……日々樹ちゃんは、ずっと早乙女くんのこと、好きだったって言ってたから」

 廻は内心、呆気に取られていた。

 今泉は、早乙女のことを前から好いていた。

 しかしその早乙女は、今泉の友人である橘と交際している。

 これは世に言う、三角関係というやつではないか。ラブコメ漫画の世界ではよく見かけるが、まさか現実でお目にかかることになろうとは。おまけに、その頂点の一角を自分の友人が担っていようとは、廻には思いも寄らなかった。

 よく考えると、早乙女はモテる。背は高いし、顔も良い。サボり癖が強くゲーセン通いの癖があるが、かえってそういうダウナーな雰囲気が他人を惹き付ける部分があるらしい。何度か告白されたこともあると聞いたことがあった。

 そのことを思うと、早乙女をめぐる三角関係というのも、あながち現実味の無いことではない。

 橘は話を続ける。

「最初は私も、日々樹ちゃんのこと、応援したいって思ってた。だけど……私も、早乙女くんと話して、一緒に過ごしてるうちに、段々と……その」

 ごにょごにょと橘は言葉を濁した。おそらくは、「彼に惹かれていった」という旨の言葉が続くのだろうと廻は推察する。

「──それで、結局、早乙女くんは私と付き合うことになったけど」

「今泉さんには、まだ話せてないのか」

 廻が言うと、橘は頷いた。

「私……怖くて。私が早乙女くんと付き合ってるって知ったら、日々樹ちゃんがどんなふうに思うか分からないから。もしかしたら……抜け駆けしたって思われるかもしれない。嫌われるんじゃないかって……怖い」

 橘が吐露したのは、率直な感情だった。

 きっと彼女は、誰にも相談できずに悩みを抱え続けていたのだろう。誰かに吐き出したいと思っていた。その感情に繋がる秘密を、環が暴いた。

 そして、廻は「前の世界」のことを思い出す。

 前の世界でも、橘は早乙女との交際を秘密にしようとしていた。彼女は「自分と付き合っていることが発覚したら、早乙女の価値を下げてしまうから」とその理由を話していた。だが、それは表向きの理由で、本当の理由は別にあったのではないか。廻はそう推測する。

 本当の理由。それは、今泉に対して交際を隠したかったから。

 学校は狭い。同じ学年なら、噂が広まるのなんて一瞬だ。もし誰かに交際していることを知られたら、早晩今泉の耳にも入ってくる。

 だから橘は選んだ。誰にもその事実を明かさない、という道を。

 橘は、感情が昂ぶったかのように立ち上がり、環に縋り付くようにして言った。

「二階堂さん……お願い。誰にも言わないで。日々樹ちゃんに内緒にして」

 それが本当に良いことなのか、廻には分からなかった。

 確かに、橘の懸念は理解できる。だけど、彼女はこの先、ずっと友人に隠し事をして生きていかなければならないのか? ただ好きな人と付き合っている。それだけのことを、まるで罪か何かのように秘密にしていかなければならないのか?

 環は逡巡の末、何かを言おうとして口を開いた。

 しかし、突然開かれた扉の音が、環の言葉を口の中に押し止めた。

 そこに立っていたのは、カメラを片手に持った今泉だった。呼吸は荒く、動揺と怒りが混じった目で橘のことを見ている。

「葵……」

 名前を呼ばれ、橘は体を硬直させる。

 きっと今泉は、少し前から扉のすぐ近くにいたのだろう。一旦離れたはいいが、会話の内容が気になって戻ってきた。その時には、部屋の中にいる三人は話に夢中になっていて気づかなかったのに違いない。そして今泉は、会話を全て聞いていた。もちろん、橘の告白も。

 橘はその可能性に気づいていた。彼女の顔面は蒼白だった。

「日々樹ちゃん……これは」

「葵は……本気であんなこと、思ってたの?」

 今泉は、深淵のように暗く沈んだ瞳を向けて尋ねた。橘は顔を背けて聞き返す。

「あんなこと……って」

「早乙女とあんたが付き合ってるって知ったら、私が逆ギレするとか。本気でそう思ってたの?」

「それは……だって、抜け駆けしたみたいになっちゃったから、日々樹ちゃんに嫌われても仕方ない……って。そう……思ったから」

「……何それ」今泉は冷たく吐き捨てるように言った。「葵にそんなふうに思われてるなんて、知りたくなかった」

 今泉は机の上にカメラを乱暴に置き、そのまま踵を返す。

 橘は咄嗟に立ち上がって、今泉の手首を掴んだ。

「待って日々樹ちゃん……! 謝らせて……」

 今泉はその手を振り払った。ぶらりと垂れ下がった彼女の手を見て、橘は泣きそうな表情をする。

「ごめん」今泉は呟いた。「今は葵の顔、見れない」

 彼女は部室を出て行った。橘はただ、呆然と立ち尽くしていた。


 橘と環を二人部屋に残し、廻は今泉のことを追って廊下に出た。橘のことも心配だったが、それ以上に今泉を一人にしておいては良くないような予感がした。

 今泉は廊下の隅に屈み込んでいた。スカートに覆われた膝の上に顔を押しつけるようにしている。廻が近づいていくと、彼女は足音に気づいて顔を上げた。その目はわずかに腫れ上がり、目尻から頬にかけて液体が伝ったような跡が残っている。

「あ……北条くん」今泉は手の甲で目を拭い、立ち上がった。「ごめん。変なところ見せて」

「いや……」廻は何と声をかけるべきか分からなかった。「こっちこそ、ごめん。色々と余計なこと知っちゃって」

「私が早乙女くんに片思いしてたこととか?」

 今泉は自嘲するように乾いた笑みを浮かべた。

「まあ……そうだな」

「いいよ。もう終わったことだから」今泉はそう言って、廻の顔を見てきた。「君は知ってたの? 早乙女と葵が付き合ってること」

「それは……」

 廻は答えに窮した。知っているとも、知らなかったとも答えづらかった。今泉は重ねて言う。

「私は、分かってたよ。なんとなく」

「そうなの?」

 廻は聞き返した。

「そう。本当は分かってた。葵が早乙女のこと好きになってることも。早乙女の方も、葵に惹かれてるんだってことも。もちろん、直接言われたわけじゃないけどね。友達だもん。そのくらい、見てれば分かるよ。悪いのは私。分かってる。私は勇気が無かったから……」

 今泉はそこで目を伏せた。

「……でもね、本当にショックだったのは、葵がそれを私に隠してたこと。私ね、てっきり気恥ずかしいから話してくれないんだと思ってた。だから、いつか折を見て話してくれるんだと信じてた。それなのに……あんな理由だったなんて、思ってなかった」

 今泉の双眸にはわずかな怒りと寂しさが浮かんでいた。

 彼女はきっと、早乙女が本心から橘を好きになったなら、それを受け入れるつもりでいたのだ。けれど橘は、そうは思っていなかった。今泉が橘を逆恨みするのではないかと怯えていた。

「私……悲しかった」率直な言葉を使って、今泉は自分の心境を吐露していく。「葵は私のこと、友達って思ってなかったのかな」

 それは違う、と廻は思った。橘は、今泉のことを軽んじていたわけではないと、彼女のことを擁護したい気持ちに駆られた。けれど廻は口を出さない。これは橘と今泉の、二人の間の問題だった。

 今泉は悲しげな目のまま、口元にだけ笑みを張り付けて廻の方を向いた。

「ごめんね、北条くん。突然こんな話聞かされても困るよね」

「いや、そんなことは」

「たまたまだけど……君がいてくれて良かったかも」

「僕が?」と、廻は聞き返す。「僕なんてまるきり無関係な部外者じゃないか」

「だからこそ、だよ」今泉は言った。「無関係の人の方が話しやすいことってあるでしょ?」

「そうかもね」廻は頷いた。「まあ、僕は環と違って、話聞くくらいしか出来ないけど」

「それでも、ちょっと助かった。ありがとう、北条くん。……このことは、忘れてね」

「ああ、忘れるよ」

 廻が言うと、今泉は安堵したような顔を見せ、その場を立ち去った。



 廻が写真部の部室の方へ戻ると、反対側から環が歩いてきた。

「橘さんは?」

 廻が尋ねると、環は答えた。

「部室に残ってる。今は一人にした方がいいと思って」

「そっか……そうだね」

 環は言う。

「帰ろう、廻」


 まっすぐ帰りたくない、と環は言った。廻も同じことを考えていた。

 二人は学校の近くを流れる千日川を訪れた。川沿いの土手の上から川の流れを見下ろす。誰かに捨てられた空き缶が流れの途中の岩に引っかかっているのが見えた。

 ジャージを着込んだバレーボール部の部員たちが列を成し、リズミカルにかけ声を出しながら走っている。その姿を遠目に見ながら、廻の頭の中では、半ば自動的に先刻の出来事を反芻していた。

 橘と今泉は和解できるだろうか。今泉が怒る気持ちも分かるが、橘が隠し立てをした理由も理解できるように廻は思った。どちらが正しいとも間違っているとも断言できず、薄もやのような感傷だけが心に残る。

「……廻、」歩きながら、環が口を開いた。その横顔は赤々とした夕陽に照らされている。「ごめん。さっきのは失敗だった。私がもっと考えていれば、あんなことにはならなかった」

「環だけが悪いわけじゃないと思う。僕も、橘さんが早乙女との関係を隠してた本当の理由に気づいてなかった。結局、前の世界でやったことも無駄だったのかも」

「〈分身の謎〉を消し去ったこと?」

 環は聞き返した。廻は頷く。

「結局、僕がやってたことは、問題に一時的に蓋をしてただけだったんだと思う。だからこうやって、別の問題としてまた立ち上がってくる。根本的な問題を解決しないと意味は無いのかも」

「それでも、」環は廻の言葉に被せるようにして言った。「今日をやり直せたら、全部無かったことにしたいって、私は思う」

 彼女がそんなことを言うのは初めてだった。今までループの中で〈謎〉を消し去ってきたのは、廻が独断でやっていたことだった。しかし今、初めて環は過去を変えたいと自分の意思で願っている。

 廻は歩きながら頷く。

「そうだね。僕も……きっとそうすると思う」たとえそれが、ただ蓋をするだけの行為に過ぎないのだとしても。「まあ、もう一度この日を繰り返す保証なんて無いけどね」

 今回は、ループの起点が変わるというイレギュラーもあった。それがループの終焉の前兆であるとするなら、廻たちはもうやり直しが利かないことになる。

 しかし、環は首を振って断言した。

「きっと私たちはまた繰り返す」

 その根拠は廻には分からなかった。

 川の上に橋が架かっている。その上で環は足を止めた。欄干に手を置き、夕陽を反射する川を見下ろす。

「もし、またこの日を繰り返したら……次の放課後、話したいことがある。いい?」

「うん。聞くよ」

「じゃあ、今日は帰ろう」

 環は踵を返して家路に付いた。廻もその後に続く。夕陽は更に傾き、周囲は薄暗くなり始めていた。



 廻はその日、十二時より前にベッドに入った。色々なことがあって精神が摩耗していた。いつ終わるか分からないループ。無限に同じ日を繰り返すかもしれない恐怖。橘のこと。今泉のこと。早乙女のこと。考えるべきことがあまりに多かった。その全てが渦となって頭の中を満たした。

 廻は天井を見上げる。カーテンの隙間から月明かりが差し込み、明かりの消えた蛍光灯がぼんやりと浮かんでいた。

 彼の中には、一つの心当たりがあった。今、自分と環が「繰り返し」の中に巻き込まれている原因。それは廻の行動にあったのかもしれない。気が付けば、廻はその可能性ばかり検討している。

 廻は一度、ベッドの上で寝返りを打った。

 枕に顔を埋めて考える。やはり、環に隠しておくわけにはいかない。次の六月三十日が終わったら、環にそのことを打ち明けよう。廻は心の中で誓った。

 やがて睡魔が廻の脳からとりとめの無い思考をさらっていく。廻は眠りに落ちた。


 次に廻が意識を取り戻した時、彼は教室にいた。周りには談笑するクラスメイトの姿がまばらに見える。自分が椅子に座っているのだと遅れて気が付いた。

 後ろには環がいて、すぐ近くには飛鳥もいる。隣には橘が立って廻を見下ろしていた。

 しばらく辺りを見回して、時計を確認する。針が差していたのは十三時二十分ごろだった。

 廻たちはまた戻ってきた。六月三十日の昼休みに。

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