断章(参)

 昼休み。桃色のパーカーを着た一人の男子が、屋上の扉を開いた。

 早乙女啓はこの場所が好きだった。近くを流れる千日川の流れもよく見える。昨日降った通り雨のせいで床が濡れているかと思ったが、今はもうすっかり乾いていた。

 早乙女は、先刻の出来事を思い出していた。昼食の時間にあった一幕だ。

 北条廻というクラスメイトがいる。早乙女にとって、友人と呼べる数少ない人間の一人だ。そんな彼と一緒に昼食を食べようとしていた矢先、「ちょっとごめん」と言って彼は立ち上がった。

 何をするのかと早乙女は彼を見守った。廻が向かったのは、少し離れた場所で昼食を食べている女子の一団だった。

 廻が話しかけたのは、意外な相手だった。それは早乙女にとって意外だった、という意味だが。

 その人物の名は、橘葵。廊下に近い場所で、仲の良い友人数人と昼食を取ろうとしているところだった。

 彼女は、早乙女と付き合っている。橘の所属する写真部の同期が、たまたま早乙女の幼なじみという立場だったのだ。彼女を介して二人は知り合い、付き合うことになった。けれど、まだそのことは誰にも話していない。二人を引き合わせた「彼女」にすら。橘は、秘密にすることを望んでいた。

 それは仕方の無いことだと早乙女も思っている。今の自分は、部活もやらず、勉強もろくにせず、日夜ゲームに明け暮れるだけの無気力な人間だ。そんな人と交際しているなんて吹聴したい物好きはいないだろう。

 だから早乙女も、橘の意思を汲んで、交際の事実は秘密にしている。元々教室ではあまり話すことも無いから、まだ誰にもバレてはいないはずだ。

 廻が橘に話しかけた時、一瞬早乙女は疑いを持った。彼が自分たちの関係に気づいているのではないか、と。少なくとも早乙女の知る限り、廻は橘と接点をほとんど持たないはずだ。

 橘は、突然現れた廻に、どこか怯えるような視線を返している。

 廻は意外なことを告げた。橘の隣に座っている生徒が飲んでいたペットボトルのお茶を指さして、倒れたら危ないから気をつけた方がいい、と忠告したのだ。

 確かに、その忠告は真っ当だった。キャップは開けっぱなしになっていたから、倒したら中身が零れる危険があったし、机の端に乗っていたから、どんな拍子に落下するか分からなかった。

 けれど、廻の忠言はあまりに脈絡が無く唐突だったので、橘も、その横にいたボトルの持ち主も困惑気味だった。ただ彼女は一応忠告を受け入れ、ボトルにキャップを閉め直した。


 早乙女は屋上で風を受けながら、その時のことを思い出す。

 廻の行動は確かに唐突だった。しかし早乙女が本当に驚いたのは、それから少し後のことだ。

 橘の横に置かれていたボトルに、別の生徒の肘が当たり、ボトルがごろん、と倒れた。

 中のお茶は入ったままだったが、キャップが閉まっていたから、中身が零れることはなかった。

 もし廻の忠告を無視してキャップを開けっぱなしにしていたら、きっと中身が零れてちょっとした惨事になっていただろう。ボトルの倒れた向きからして、お茶をかけられていたのは橘だったかもしれない。

 早乙女は思う。あの時の廻の行動は、まるで未来が見えているかのようだった。

「……まさかな」

 早乙女は独りごちた。パーカーのポケットに手を入れると、固い感触があった。

 紙パック入りのお汁粉だった。そういえば、今朝買って飲むタイミングを無くしていたな、と思い出す。すっかり常温になってしまっているが、お汁粉なのだから別に冷えていなくたって構わない。

 ストローをパックから外して飲み口に突き刺す。屋上を囲う柵に近づいていき、中庭を見下ろした。今頃橘は、図書委員の集会に出席している頃だろうか、と考えた。それから、今泉に『ゼルダの伝説』を返してもらう約束をしていたことも思い出した。

 少しだけ強い風が吹いた。パーカーの裾がはためく。

 カタカタ、と柵が揺れていることに気づいた。揺れているのは、ちょうと早乙女が立っている前の柵だった。見ると、床に取り付けてある部分が壊れてしまっている。早乙女はわずかに恐怖を感じた。あり得ないことだろうが──もしあの柵に体重をかけて、そのまま外れでもしたら、柵もろとも中庭に真っ逆さまだ。

 その動揺のためだろうか。早乙女は、持っていた紙パックを取り落としてしまう。慌てて拾い上げようとして躓き、上履きの底が床に落ちた紙パックを踏みつけた。

 パックが潰れ、中にあった液体が逆流してストローから噴出する。

「あーあ」

 やっちゃった、と心の中で呟く。茶色いお汁粉が床に広がっていた。

 流石に、このまま放置していくわけにもいかない。早乙女はポケットティッシュで床に零れた液体を拭き取った。それでも全てを拭き去ることは難しい。ヌルヌルとした質感が床に残っている。

 これ以上は水拭きでもしないと綺麗にならないだろう。今から雑巾を取ってきて掃除しようか。しかし、それは面倒だと早乙女は思った。

 元々屋上はあまり人も寄りつかない。今の時期はまだ雨も多いし、いずれは雨が洗い流してくれるはずだ。

 早乙女はそう結論づけて、中身のほとんど残らない紙パックを拾い上げ、屋上を後にした。

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