第3話 すれちがいドッペルゲンガー


 六月三十日の朝。北条廻は、教室の扉を開いた。

 彼は、今し方昇降口で望月聖人との話を終えたところだった。廻の考えが正しければ、これで望月の行動を変え、ひいてはフルートに纏わる一連の〈謎〉を無かったことに出来る。

 廻がこの一日を経験するのは、これで三度目になる。二度あることは三度ある──という言葉を信じるわけではないが、廻はこうなることを予見していた。あるいは、予感と言うべきか。

 もしもう一度この一日を繰り返すことが出来たら、まずはフルートの一件を解決しようと廻は決めていた。だから朝起きてからの行動も極めてスムースだった。おかげで環と話す時間も取れなかったが、どうやら彼女はまだ学校には来ていないらしい。

 教室の明かりを付けると、不意に壁のカレンダーが目に飛び込んできた。マス目に区切られた六月の日付を眺める。放課後、早瀬によって破り捨てられたはずの六月のカレンダーは、確かにそこに復活していた。

 廻はカレンダーに手を伸ばす。そのカレンダーは、いつもの定位置から移動している。昨日、つまり六月二十九日の放課後、姫乃と桜庭という二人の生徒がこのカレンダーを動かしたのだ。

 カレンダーを留めていた画鋲を外し、定位置に戻してやる。廻はしばし壁の前に立ち、カレンダーの紙面をぼうっと眺めていた。

 自分はまた、六月三十日に帰ってきた。恐らくは環も。朝から動き詰めで忘れていた不安感が不意に頭をもたげる。

 果たして、自分たちはいつまで六月三十日に閉じ込められるのだろう?

 その時、教室の扉が開いた。

「おはよう、北条」

 そこに立っているのは、三つ編みに眼鏡の少女。飛鳥千晴だ。廻は、この後に彼女が続ける言葉を知っている。──今日は早いんだね。廻は、その台詞を先回りして心の中で呟いた。

「今日は早いんだね」

 飛鳥は言った。前の周回と全く同じ台詞だ。

 彼女は、時間が戻る前の記憶を失っている。それは廻と環を除く他の生徒も同様だ。飛鳥には、廻たちが直面している困難も、陥っている状況も、何も相談することは出来ない。まさか同じ一日を三度も繰り返しているなんて話、誰が信じてくれるだろう?

 挨拶もせずに沈んだ顔をしている廻を、飛鳥は不思議そうな顔で見つめた。上履きに包まれた飛鳥の足が、一歩廻の方へと近づいてくる。

「北条、平気?」

「え?」

「なんだか疲れてるように見える」

 顔に出ていたか、と廻は思う。今までの周回では、飛鳥にこんなことを言われたことは無かった。つまりこれは、実際に廻の心労が表出した結果なのだろう。

 廻は自分の頬に軽く手を当て、飛鳥から顔を背けた。

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから。編成テストも近いし。僕だって勉強してるんだよ? 一応は」

 廻はわざと冗談めかして言ってみたが、飛鳥はくすりともしなかった。彼女は廻の瞳を見つめたまま、真剣な声音で言った。

「言いたくないことなら言わなくてもいいけど。でも、あまり思い詰めない方がいいよ。私に言えないようなことなら、二階堂さんとか、早乙女くんとか、誰かに相談しなよ」

 諭すように言われ、廻はぱちくりと瞬きをした。目の前にいる、同い年のはずの少女が、今は自分より大人に見える。

 廻は小さく息をついた。

「……分かってるよ。でも、本当に大丈夫だから」

「そう」飛鳥は頷いて、廻の前から離れた。「分かった。じゃあ、もう気にしないことにする」

 廻は伏せていた顔を上げて、彼女の名を呼んだ。

「飛鳥、」

「なに?」

「その……ありがとう。心配してくれて」

「当然だよ」飛鳥はわずかに微笑んで、眼鏡の奥の双眸を細めて廻のことを見た。「北条は友達だからね」

 廻は、何か言葉を返そうとして口を開く。その口から声が出てくるより早く、引き戸が開かれる音が会話を中断させた。

 教室に入ってきたのは、円谷まどかだった。銀色の髪をなびかせ、廻のことを一瞥する。

 どうして彼女がここに? 廻は混乱した。前の周回も、その前も、円谷がこの時間に登校してくることは無かった。

 廻がぼうっとしていると、飛鳥は言った。

「おはよう、円谷さん」

「……おはようございます」

 円谷は透き通るような声音で言った。彼女は同級生にも敬語で話す。どこか一線を引いているような態度だと廻は感じていた。

 廻は円谷に向かって小さくお辞儀をした。円谷は同じように礼をして、蒼色の瞳を廻から背けた。



 午前の授業が終わり、昼食の時間。廻は例によって早乙女啓と机を囲んでいる。

 廻は、少し離れたところにいる環の方へ視線を動かした。彼女は、飛鳥や小清水有紗と一緒になって談笑しながら弁当を食べていた。

 環は今朝、始業時間ギリギリに教室に現れた。それから廻は彼女と情報を共有できていない。その時間が無いからだ。タイムリープに関する話題は、他の人間がいる前で口に出すことは出来ない。だから授業中に話すことは出来なかった。

 ただ、環が廻と同様に時間を巻き戻っていることは確実だと廻は思っていた。それは朝、彼女と会った時に交わした視線で分かった。

 廻はふと小清水のことを見た。彼女は爛漫な表情で箸を動かしている。時折、飛鳥や環と冗談を言い合い、歯を見せて笑っていた。

 小清水の表情に憂いは無かった。やはり、二度目までの周回とは違っている。あの時の小清水は、〈フルートの謎〉のために頭を悩ませていた。今度の世界では、そもそも謎が存在しないから、小清水も悩む必要は無い。普段通りの天真爛漫な表情が戻っている。

 良かったこともある、と廻は思った。小清水の悩みを先回りして消し去ることなんて、時間を超えでもしなければ到底できなかった。

 二周目の放課後、真実を知った小清水の表情が、廻の脳裏によぎる。彼女にあんな表情をさせずに済んだだけでも、この一日を繰り返した価値はあると思った。

 そして、それは同時に、小清水がループ前の記憶をすっかり無くしていることの証明でもある。もし記憶があったら、こんなふうに何も気にしない様子で過ごせるとは思えない。

 やはり、記憶を保ったままループしているのは、廻と環だけなのだ。

 そうなると、当然の疑問が頭の中に湧き起こってくる。なぜ自分と環だけが、前の世界の記憶を持っているのだろうか?

「──おい、聞いてるか?」

 正面から聞こえてくる声に、廻はまたしても自分が考え事に耽りすぎていたと気づく。早乙女が怪訝そうに廻の方を見ていた。

「聞いてるよ」流石に三度目ともなると廻も冷静だった。「そうだ。唐揚げ一個食べるか?」と、弁当箱を前に押し出す。

「お前、よく分かったな。俺が唐揚げを狙ってるってこと」

 早乙女は感心したように言った。

「目つきを見てれば分かるよ」

「本当にいいのか?」

「いいよ。明日はお前の誕生日だからな。僕からのプレゼントってことで」

「なら、遠慮なく」

 早乙女は唐揚げを箸で掴んで口の中に放り込む。

「うまいか?」

 廻は聞いた。

「ああ、うまい」早乙女は満足そうに頷いた。「しかし、お前が俺の誕生日をわざわざ覚えてるとはな」

「どうせお前の誕生日なんて、僕くらいしか覚えてないんだからな」

「ま、そうかもな」

 廻の言葉をいなすように、早乙女は爽やかに笑った。

 それからしばらくして、廻はふと背後を気にした。早乙女は首を傾げて聞いてくる。

「どうかしたか?」

「いや……」

 廻が言い訳を考えていると、その瞬間が訪れた。橘葵の隣に座っていた女子生徒がお茶を零す。そのお茶が橘の制服にかかった。

 橘は立ち上がってハンカチでお茶を拭いている。廻がこの光景を見るのは三度目だった。もしかすると、橘の身に降りかかるちょっとした災難を回避することも、廻の手にかかれば簡単なことだったのかもしれなかった。ほんのわずか、彼女に忠言を与えるだけで良いのだから。廻は橘とあまり話したことも無かったが、同じクラスのよしみということもある。

 しかし、と廻は思い直した。橘の行動に影響を与えれば、それが更に別の何かに影響を与えるかもしれない。連鎖的に反応が起これば、廻にも予期できない何かが起こる恐れもある。

 少なくとも、橘の一件は自分に関わりのあることではない。カレンダーの件やフルートの件は、廻にとって明確に関係のある事象だった。だが、今回は違う。明らかに無関係なことまで手を出すのは傲慢ではないか、と廻は思った。

 気が付くと橘は再び着席していて、騒動は一段落が付いていた。廻も思考を打ち切って、食事を再開させることにした。



 昼休み。廻と環は廊下に立っていた。階段の横の細長いスペースで、環は掃除用品の入るロッカーを背にして廻と向かい合った。

 廻は尋ねる。

「環。今日は──ていうか、今回の朝は遅かったね」

「色々と遠回りして、町の様子を見たりしてた。本当は学校に行くのもやめて情報収集に努めようかと思ったんだけど──」環は廻の顔を一瞥して、すぐにまた目を逸らした。「廻に相談しないと、心配かけるかと思って、中止した」

 廻は嘆息した。

「そうしてくれて良かったよ」

 今、この世界でループ前の記憶を持っているのは廻と環だけだ。この状況を理解してくれる人間は環以外にいない。彼女は携帯電話も持っていないし、直接会わないことには連絡も取れない。

 それから廻は、最も大切なことを確認していないことに気づいた。彼は周りを憚るように声を潜め、そして尋ねる。

「それで……環も、三周目なんだよね?」

「うん」環は頷いた。「私も廻に聞いておきたいことがある。有紗に何かしたの?」

「何かって?」

「有紗、今日はフルートの件を気にしてないみたいだったから。少なくとも二周目までとは明らかに態度が違ってた」

 廻は感心した。やはり、環には観察眼がある。

「〈フルートの謎〉は僕が先回りして潰した」廻は説明をする。「朝、望月と話して、四階の多目的室に行かないように誘導した。これで小清水が『謎のフルート吹き』の存在に気づくことはなくなる」

「それは……有紗のため?」

 環は聞いた。

「そういうことになるかな」廻は頷く。「二周目の時、小清水はあの謎のせいで悩んでた。だったら最初から知らない方がいい」

「そう」環は納得したように頷いた。「まあ、成功したみたいなら、よかった」

「ああ。今の小清水はフルートの謎を知らない。カレンダーの一件も併せて考えると、やっぱり僕たちの行動は他の人間にも影響を与えるんだよ」

「うん。それは間違いないと思う」環も同意を示した。「私たち以外の人間は、ループの中で毎回記憶を失う。だから基本的に一周目と同じ行動を取る。だけど私たちは記憶があるから、任意に行動を変えることが出来る。すると、それに影響を受けた周りの行動も、合理的な範囲内で変化することがある。私たちに関わりの深い人間──同じクラスの人たち、とりわけ千晴や有紗、早乙女くんみたいな人は行動が大きく変容する。その行動が連鎖的に影響を与えることもあるだろうけど、私たちと無関係な人間の行動変化の振れ幅は小さいだろうね」

 環は現状分かっていることを列挙する形で纏めた。それは既に廻も把握している内容だったが、こうして声に出して確認することに意味があると知っていた。

「……でも、」環は付け足すように言った。「そうして周りの行動が変わっても、大した意味は無いと思う」

「それは……」

「何をやったところで、最終的に世界は巻き戻る。リセットされる。振り出しに戻るなら、何もしていないのと変わらない」

 環の口調は淡泊だった。小清水のために歴史を変えようとした手前、廻は何か反論しようとした。しかし、何も言葉にならない。環の言う通り、ループの中で歴史を変えることは無意味なのだろうか?

「いや、」廻は言葉を絞り出した。「完全に無意味ってことはないはずだよ。ループの中で行動を変えていけば、分かることも増える。そうすればループから抜け出す方法も分かるかも。まあ、そもそもこのループがずっと続くとも限らないけどね。今回で終わりかもしれないし」

 わずかに笑みを見せる廻とは対照的に、環の表情は浮かなかった。

「……楽観的だね、廻は」

「そうかな」

「私にはそう見える」

 環の言葉に、廻は何も答えることが出来なかった。

「私、行くところあるから」

 そう言うと、環は廻の横をすり抜けて行った。すれ違いざま、廻は彼女の顔を見る。平生と変わらぬ無表情な三白眼の奥に、ほんのわずか、普段と違う色が混じっていた。それは、不安を抱えている時の目だった。



 環と別れた後、廻は教室に戻ってきた。扉を開くと、不意に教卓の辺りにいた女子二人組に目を付けられる。姫乃夢芽と、桜庭希来梨の二人だ。

「あっ、北条。聞いてよ」

 姫乃は廻の方に歩み寄ってきた。廻は心の中で、げっ、と呟く。しかし廻が気づいた時にはもう遅かった。姫乃は馴れ馴れしく廻の肩に手を置いて言う。

「ちょっと聞いてよ。ヒドいんだよ?」

 主語も何も無い無秩序な発話だったが、廻には彼女の言わんとすることが分かった。と言うより、知っていた。

「スマホでも没収された?」

 廻は尋ねた。

「えー、なんで分かんの?」

 姫乃は不思議そうに首を傾げる。廻は笑いを噛み殺しながら答えた。

「日頃の行いを見てれば、大まかに分かるよ」

 廻が言ったことは、あながち嘘というわけでもなかった。横で聞いていた桜庭がケラケラ笑う。

「そうだよねぇ。日頃の行いだよねぇ」

「そういうわけだから、愚痴なら桜庭に聞かせなよ」

 廻は軽くあしらうように言った。姫乃は意外にも引き際を弁えていて、廻の方に興味が無いと分かるとあっさり引き下がり、別のクラスメイトに声をかけに行った。

 廻は自席に座る。まだ環は戻っていなかった。

 不意に廻は視線を感じた。姫野たちのものではない。誰かが見ている? 彼は振り返った。

 視線の主と目が合った。それは円谷だった。自席に座り、じいっと廻の方を観察するように見ている。が、目が合ったと思うとすぐに逸らされた。

 廻は不意に、今朝のことを思い出した。思えば円谷は、「前回」と「今回」で行動を変えている。登校時間を早めていたのだ。

 登校時間を早めたということは、その原因となった行動はそれよりも前、早朝の時間帯に存在しているはずだ。しかし廻がどれだけ記憶を辿っても、円谷の行動に変化を与えるような原因は思いつかなかった。

 とはいえ、あり得ないことでもない。廻は彼女のいる螺旋神社の前を通って登校する。その時に廻は円谷と顔を会わせている。自分では同じ行動を取ったつもりでも、わずかな差異は出ているだろう。それが間接的に影響を与えている可能性は否定できない。あるいはもっと単純に、環が何かしたという可能性もある。

 考え事をしている間に、いつの間にか円谷は去っていた。

 もしかすると……と、廻は別の可能性にも目を向ける。円谷もまた、ループ中の記憶を保持している一人なのではないか。廻の知る限り、今朝の一件以外に円谷が行動を大きく変えたことは無かった。だから他の者と同様に記憶は失っていると思っていたが、あえて同じ行動を繰り返している可能性も否定は出来ない。

 廻があれこれ考えていると、頭上から声が聞こえてきた。

「廻。頭痛いの?」

 環が机の横に立って廻の頭頂部を見下ろしていた。廻は顔を上げる。

「少し考え事。環は何してたの?」

「図書室で本を返してた。返却期限が今日までなの。面倒だけど、放置するのも気分が悪いから」

「真面目だな」

 廻は言った。どうせリセットされるなら、律儀に本を返す意味も無い。けれど、環の気持ちも分かる。それが消え去ると予感していても、どこかで日常的な行動を求め、実行しようとしている自分がいるからだ。

「そうだ、環。お前、今日円谷さんと話した?」

「話してない」環は簡潔に答えて首を振る。「どうして?」

「いや、ちょっと気になっただけだよ」

 先刻抱いた疑念は確証も無いことだから、まだ環に話すのはやめておこうと廻は思った。

「そういえば……」環はふと思い出したように呟いた。「あの神社って、いつも円谷さんが掃除とかしてるよね」

「そうなの?」

「朝早くに学校行くと、よく見かける」

「ふうん。まあ、神主の娘だか孫だかなんだし、別に不思議でもないだろ」

「でも、その神主──彼女の親とか家族とか、いつもいないような気がして」

 そう言われると、廻も確かに螺旋神社の本当の主の顔は見たことがなかった。

「偶然じゃないか? たまたま朝の時間は円谷さんが掃除とかを担当してるってだけかもしれないし。環だって一日中見てたわけじゃないだろ」

「それは確かに、そうだけど」

 環は納得し切れない様子だ。彼女にはわずかな疑念も捨て置けないようなところが昔からあった。

「気にするようなことじゃないと思うよ」

 廻は付け足すように言った。

 その時、教室のスピーカーから声が聞こえてくる。

『三年二組、今泉いまいずみ日々樹ひびきさん。三年二組、今泉日々樹さん。職員室まで来てください』

 若い女性教員の声が響き、それからぷつりと音が切れた。一瞬静まりかえった教室も、またすぐに喧噪を取り戻した。

 廻たちは先刻の会話を再開させる気にもなれず、しばらく沈黙していた。その沈黙を破ったのは二人のうちのどちらでもなく、いつの間にか教室に戻ってきていた飛鳥だった。

「二人とも、なんの話してたの?」飛鳥は廻の前の席に腰掛けると、体ごと後ろを向いて、廻の机の上で頬杖を突く。「秘密の話?」その表情はニヤリとしていた。

「別に、大した話じゃないけど」

 環は淡々と答えた。飛鳥は一層ニヤニヤして環の方へ視線を送る。

「じゃあ、やっぱり秘密の話だ」

「……なんでそうなるの」

「大丈夫。詮索はしないから」

 飛鳥の表情は微笑みへと変わった。廻は小さくため息をついた。飛鳥をないがしろにしたいわけではないが、今は聞かれると不都合な話も何かと多い。

 その時、環の背後を通り抜けようとした女子生徒が彼女の背に体をぶつけ、環はわずかによろめいた。

「あっ、ご、ごめんなさい……!」

 怯えたような声音で彼女は謝罪する。頭を下げているのは橘葵だった。

 女子にしては背が高く、環のことを見下ろすような格好になっている。しかし体躯と裏腹に気は小さく、どこかおどおどした雰囲気があった。ショートカットの髪の下で視線が泳いでいる。首から下は白い長袖のブラウスに覆われていた。

「こっちこそ、邪魔してた。ごめん」

 環が謝ると、橘はますます恐縮する。

 廻は橘とあまり話したことはない。しかし、環と飛鳥は多少関わりがあるようだった。橘は図書委員であり、図書館をよく利用する二人とは必然的に話をする機会も多くなるのだ。

「そういえば、昼休みは図書委員の集会じゃなかったっけ?」

 飛鳥は尋ねた。橘は、小動物じみた動きで、こくりと頷いた。

「あっ……うん。それはもう、終わったんだ。書架の整理とかの日程、知らされるだけだったから……」

 最初に「あっ」と付けてから喋り出すのは彼女の癖らしい。

 唯一共通の話題が無い廻は少しばかり疎外感を覚え、自分から話に入ろうとした。

「ところで、さっきのアレ、大丈夫だったの?」

「あ、アレって……?」

 橘は怯えたような目つきで廻を見下ろす。別に変わったことは言っていないのに、なぜか悪いことをしているような気分になってくる。

「ほら、お昼の時。お茶かけられてたでしょ?」

「あっ、あのこと?」橘は頷いた。「えっと……それなら、もう大丈夫。着替えたから」

 言われてみると、彼女の服装は午前とは変わっていた。夏服の半袖シャツではなく、冬用の長袖を着用し、その布地にはシミ一つ無い。既に夏服の時期に変わっているとは言え、この学校は服装には無頓着な教師も多く、この時期に長袖を着ていたからと言って見咎められることもない。

「着替えなんてよく持ってたね」

 飛鳥は感心したように言った。

「部室にいつも置いてるから。前に、現像液を服にこぼしちゃったことがあって。それ以来、念のために替えの制服を置くようにしてるんだ」

「橘さん、部活やってたんだね。知らなかった」

 廻は言った。

「あっ、うん……一応ね。写真部なんだけど……」

 そうなんだ、と廻は言った。同じクラスとは言え、やはり知らないことの方が多い。

 その時、教室の扉が勢いよく開かれた。ガラガラ、という音に反応し、廻は視線を扉の方へ向ける。

 見知らぬ女子生徒が立っていた。このクラスの人間ではない。六月だと言うのにもう日焼けをしているのか、肌はわずかに浅黒かった。睫毛は長く目はぱっちりとしていて、その表情は活発な印象を与えている。

 その生徒は誰かを探すようにキョロキョロと教室の中を見まわしていたが、橘のことを見付けると「あっ」と反応し、ズカズカと教室の中に入ってきた。

「あっ、日々樹ちゃん。噂をすれば……だね」

 橘は彼女のことを見下ろして言う。

「噂って?」

 と、彼女は聞き返した。

「ちょうど今、クラスの人に写真部の話、してたところだったから」橘は廻たちの方へ向き直る。「えっと……この子、写真部の部長の子で」

「今泉日々樹です」

 そう自己紹介をして、今泉は小さく会釈した。廻たちも軽く挨拶をする。

「もしかして、さっき呼び出されてた人?」

 廻は聞いた。昼休みに鳴っていた呼び出しの放送。そこで呼び出されていたのは三年二組の今泉日々樹だったはずだ。普通なら自分と無関係の放送などすぐに忘れてしまうだろうが、廻は都合三回もこの放送を聞いている。他の者よりは頭に残っていた。

「あー、そうそう。部活のことで、顧問からちょっと呼び出されてて」

「あっ、何かあったの……?」

 橘は不安そうに尋ねた。今泉は安心させるように首を振る。

「いや、注文してた機材が届いたから、そのチェックしてくれって言われてただけ。先生、午後は出張らしいから、昼のうちにって。ほら、中古のインスタントカメラ、メルカリで買ったじゃん? アレが届いたんだよ」

「そうなんだ……なら、よかった」

 橘は安堵した様子を見せる。

 今泉と話をする時、橘の表情が多少柔和になることに廻は気づいていた。きっと同じ部の仲間として、心を許せる関係性があるのだろう。

「じゃあ、用件はそのこと……?」

 橘は聞いた。

「ああ、いや、違くて」今泉はかぶりを振った。「葵さ、早乙女、見てない?」

「早乙女くん……?」橘は教室を見回した。「いや、私は知らないけど。図書委員の方行ってて、さっき戻ったばかりだったし……」

「そっか」と、今泉は呟いている。彼女が何の用事で早乙女を探しているのかは分からないが、口ぶりからして二人は親しい間柄なのではないか、と廻は思った。

「私たちも見てないよ」飛鳥が横から言った。「昼休みが始まってすぐに教室からいなくなってたのは覚えてる。けど、どこに行ったのかは分からないな」

 廻と環も同意を示すために頷いてみせた。それから廻は尋ねる。

「今泉さん、早乙女と知り合い?」

「まあ、一応ね」今泉は後頭部を掻きながら答えた。「同じマンションに住んでて、小学校も同じで。腐れ縁って感じかな」

 僕と環みたいなものか──と、廻は心の中で呟いた。

「あっ、勘違いしないでね?」今泉は取り繕うように言った。「今はもう、昔みたいに一緒に遊んだりはしないし。たまにゲームとか借りてるだけ」

「あいつ、有名どころのソフトは大体持ってるもんね」

 廻も二年生だった頃はしょっちゅう彼にゲームを借りていたものだ。

「こないだもあいつからゲーム借りて、クリアしたから返そうと思ってたんだ。Switchの『ゼルダの伝説』」

「なるほどね」廻は頷いた。「それで早乙女を捜してるのか」

「別に緊急じゃないんだけどね。どのみちマンションで会って返せばいいだけだし」

 今泉は腰元に両手を当てて、小さくため息をついた。

 彼女が諦めて踵を返そうとした、その時だった。また別の生徒が近づいてくる。

「早乙女だったら一階で見たぞ」

 今泉は彼の方へ目を向ける。サッカー部の男子、樋口ひぐち良平りょうへいだった。スポーツ刈りの黒髪が頭の上でフサフサとしている。

 彼は今泉とは面識が無いものの、会話を耳に挟んで情報を提供しに来たのだった。

「本当?」

 今泉は聞き返す。樋口は頷いた。

「ああ。購買部のところで」

 校舎の一階、昇降口の正面のところに購買部がある。文具やジャージなどの日用品を買えるところだ。

 すると、今度はまた別の生徒が話しかけてきた。

「ねえねえ」

 少しハスキーな女声だった。見ると、今泉の横に一人の女子生徒が立っている。

 彼女は結城ゆうき友愛ゆあ。女子バドミントン部に所属している生徒だ。セミロングの髪に、切れ長の目と、高い鼻。エキゾチックな顔立ちは端正だった。

「私も見たよ。さっき。早乙女くんのこと」

「ホント? どこで?」

 今泉は聞き返す。

「四階。彼がいたのはね」

 と、結城は簡潔に答えた。

「つまり、早乙女は一階から四階へ──」廻は言いさして、待てよ、と思い直す。「いや、四階から一階かもしれないのか?」

「時系列を確認すればいいと思う」

 横から環が言った。

「確かにね」今泉は頷く。「それ、何時くらいのことだったか覚えてる?」と、二人の証言者に向き直る。

「ああ、覚えてるぞ」樋口は言った。「ちょうど放送が鳴ったタイミングだったからな。ほら、三年二組の、ナントカって人が呼び出されてただろ」

「それって今泉日々樹さんのこと?」

 環が聞くと、「ああ、そんな名前だったな」と樋口は答える。

「それ私」今泉は小さく挙手した。「じゃあ、そっちの人は?」と結城の方へ目を向ける。

 視線を受けた結城は、小さく首を捻った。

「樋口くんの言ってること、間違ってると思うんだけど」

「えっ? なんでだよ」

 樋口は不服そうに聞き返した。

「だって、私が早乙女くんを見たのも同じタイミングだったから。その人──今泉さんを呼び出す放送を聞いたのと、早乙女くんの姿を見たのは、同時だった」

 結城の話を聞いて、今泉は怪訝そうに首を捻った。

「ちょっと待って。それって変じゃない?」

「そうだね」飛鳥は腕を組んで頷く。「樋口くんが早乙女くんを見たのは一階でのこと。だけど結城さんは四階で見たと言ってる。二人が彼を目撃したタイミングが同一なら、早乙女くんは二人いたことになる。確かに妙だよ」

 彼女の言う通り、二人の証言は真っ向から食い違っていた。しかし、どちらも自分が間違っているとは考えていないようだ。

 また〈謎〉だ。廻は思った。しかし、今回も環がいる。彼女ならこの謎に合理的な解決を見出すことが出来るはずだ。これまでのループでもそうしてきたように。

 それに、今回の〈謎〉は幾分か単純だ。早乙女は忍者ではない。本当に分身などするはずがないのだから、どちらかが勘違いをしているに決まっている。なら、それが誰かを見極めるだけで解決するのだ。

 廻は証言者二人に向き直った。

「じゃあ、もっと詳しく話してよ。どんなふうに早乙女を見付けたのか」

「じゃあ、俺から」樋口がわずかに前に歩み出た。「さっきも言ったけど、俺は購買部にいた。ボールペンを買おうと思って。それで新しいペンを買って廊下に出ようとしたところで、生徒の一団が来るのが見えた。多分、自販機で飲み物を買いに来たんだと思う」

 道堂中学の購買部には飲み物を買える自動販売機も設置されている。一部の生徒の間では集団でジャンケンをして負けた一人が全員分の飲み物を奢る──という遊びも横行していた。きっとその集団も、そういう目的のために訪れたに違いない。廻はそう想像した。

 樋口は更に話を続ける。

「早乙女は自販機の近くにいたけど、他の生徒が邪魔で買えないみたいだった。声をかけようと思ったんだけど、そのタイミングで例の放送が聞こえて、そっちに気を取られた。もう一度見た時には、早乙女の姿は他の生徒に紛れて分からなくなってたよ。だから諦めて教室に戻ってきたってわけ」

 それを聞くと、結城は聞き返した。

「じゃあ樋口くんは、早乙女くんと直接話したわけじゃないんだ」

 痛いところを突かれたと言うように、樋口はぐっと顔を歪めた。

「まあ、それはそうだけど……そういうお前はどうなんだよ、結城」

 今度は結城が子細を話す番になった。

「私が彼を見たのは四階だってさっき言ったけど。でも、実際に私がいたのは三階だった」

「は? どういうことだよ」

 樋口が口を挟むと、結城は目を細めてそれを制した。

「今から説明するから。……私がいたのは、三階の第一多目的室だよ。知ってるかな? 東棟の真ん中あたりにあるんだけど」

 廻はその部屋を頭の中に思い浮かべた。四階にある第二多目的室(例の〈フルートの謎〉の舞台になった場所だ)と同様、授業ではあまり使われず、普通の生徒には馴染みが無い。

「どうしてそんなところに?」

 そう聞き返したのは今泉だった。

「部室だから。私の」結城は答えた。「あの部屋は漫研の部室なんだよ。漫研、知ってる? 漫画研究部」

「それは知ってるけど」廻は答えた。「でも、うちの学校に漫研なんてあったんだな」

「細々とした部活だからね。私もバド部と兼部だから、あまり顔出してないし」

「私は知ってるよ」今泉が横から言った。「友達がね、漫研に所属してるから」

「へえ、そうだったんだ」と結城は頷いている。それから彼女は話を続けた。「それで、ええと、部室にいたんだよね、私は。ちょっと読みたい漫画もあったし。その時、西棟の四階に早乙女くんがいるのが見えたんだよ。私はちょうど窓際にいたからね」

 廻は再び校舎の位置関係を頭に思い浮かべる。

 知っての通り、道堂中学の校舎は西棟と東棟に分かれている。二つの校舎は中庭を挟んで向かい合っており、いずれの棟でも教室は西側に、廊下は東側にあった。つまり、東棟の教室の窓から外に目を向けると、西棟廊下の窓が目に入ってくることになるのだ。

「東棟から西棟って、まあまあ距離あるだろ。本当にちゃんと見えたのか?」

 樋口が疑うような目線を向ける。しかし結城は自信満々で頷いた。

「まあ、多少距離はあったけど、間違いないよ。はっきり見えたし。あの人目立つし」

 本当だろうか、と廻も懐疑的に思いながら、続きを促した。「それで?」

「それで、しばらく窓の外を目で追ってたんだけど、スピーカーから例の放送が聞こえてきてね。今泉さん、職員室までお願いしますってやつ。私もそれに気を取られて、窓から目を離した。一瞬ね。で、もう一度窓の外に目を向けると、もう早乙女くんはいなくなってたんだ」

「なんだ、それだけか」樋口は言った。「お前だって一瞬見ただけじゃないか。と言うか、距離が空いてる分、結城の証言の方が信憑性低いだろ」

「でも、樋口が早乙女くんを見たのは人混みの中での話だよね? そっちもなかなかに曖昧だと思うけど」

 二人の主張は平行線で、どちらも譲るつもりは無いようだった。廻は視線をかち合わせる二人の様子を見て心の中で息をつく。樋口と結城──この二人は、何かと衝突していることが多いような気がする。突っかからずにはいられない、というような感じ。馬が合わないのかもしれないし、ある意味で気が合っているのかもしれない。

 廻は頭の中で二人の証言をそれぞれ検証してみる。確かに、どちらの主張も曖昧というか、決め手に欠けるような気がしてならなかった。これではどちらが見間違えていたのか判断するのは難しい。

 二人の証言で共通して明確なのは、今泉を呼び出した放送に纏わる部分だ。廻の記憶が正しければ、あの放送がされたのは一度きり。昼休みの間、現在に至るまで、他の放送は一切されていない。二人が聞いた放送が同一のものであることは明確だ。そして、まさにそれこそが矛盾の種だった。

「なんか、複雑な話になっちゃったね」今泉は気まずそうに頭を掻いた。「私は単純に、あいつがどこにいたか知りたいだけだったんだけど」

 樋口と結城はすっかり二人だけで何やら言い合っている。しかしどちらも互いの主張の穴を突くばかりで、建設的な結論が出るとは思えなかった。

 そんな二人のことは放っておいて、廻はずっと黙っていた環へと尋ねる。

「どう? 環。本物の早乙女はどこにいたのか分かりそう?」

 環は廻の顔を一瞥した。

「さあ」

「さあ、って……」

 廻は当惑気味に呟く。環はそれきり何も言わなかった。流石にこれだけの情報では彼女にも真相が分からないのか、それとも分かっていて敢えて黙っているのだろうか?

 その時、スピーカーから予鈴が鳴った。

「あ、もうこんな時間か」今泉は壁の時計を見上げた。「もう戻るね。みんな、色々教えてくれてありがとう」

 彼女は教室を去った。樋口と結城の二人も、やいのやいの言いながら自分の席へ戻っていく。

 廻は机の横に立っていた橘の顔を見上げた。元々引っ込み思案な彼女は、先刻の議論にもほとんど参加してこなかった。

「橘さんはどう思う? あの二人の話」

「えっ……あ、私……?」

「橘さんも聞いてたでしょ」

「えっと……私は、分からないかな。多分、どっちかがなにか勘違いしてるんだとは思うけど……」

 橘は曖昧な答えを寄越すばかりだった。しかし、その視線の泳ぎ方は先刻までとはわずかに違っているような気がした。何かを知っていて隠しているかのような──廻は、そんな直感を持った。

 それから橘は自分の席へと戻っていった。

 五限目の美術は移動教室だった。廻は鞄から授業道具一式を取り出す。教科書は使わないから、持っていくのは筆記具くらいのものだ。

 廻は机の中から筆箱を取り出しながら、ふと橘のことを横目に見た。彼女の席は廻と同じ列にある。彼女も廻と同様、授業の準備をしている最中だった。

 ふと廻は、橘の机に見慣れないものが置かれていることに気づいた。紙パック入りのお汁粉だ。校舎一階の自販機で売っている、あの汁粉ドリンクだ。橘がアレを飲んでいるなんて少し意外だった。あんなものを好んで飲むのは早乙女くらいかと思っていたが。

「北条、行かないの?」

 飛鳥の声が聞こえてきて、廻は橘から視線を外した。彼女は既に支度を済ませている。

「ああ、うん」

 頷いて、廻は席から立ち上がった。



 五時間目、美術の授業中。

 廻たちが美術室に着いた時には、既に早乙女は先に来て席に座っていた。これは前回までの周回と変わらない。席が離れているせいで、〈分身の謎〉について本人に尋ねることは出来ずにいた。

 廻は仕方なく頭の中で思考を巡らせる。

 樋口と結城の証言は完全に矛盾していた。どちらかが間違っていると考えなければ道理が通らない。さもなくば、早乙女が同時に二人いたことになってしまう。

 件の放送をもう一度思い出す。

『三年二組、今泉日々樹さん。三年二組、今泉日々樹さん。職員室まで来てください』

 実際の放送は、同じ内容を二度繰り返していた。放送の最初と最後には、ピンポンパンポーン、という音階のチャイムも鳴らされていた。実際に放送が行われていた時間は二十秒ほどあったはずだ。それだけの時間があれば、放送がされている間に一階から四階まで(あるいは四階から一階まで)移動するのも不可能ではないかもしれない。

 しかし、二人の証言はどちらも「放送が鳴る直前に」早乙女の姿を目撃したというものだった。前後関係を誤認している可能性までは否定できないが、時系列に関する証言は詳細なだけに、非常に薄い可能性と言わざるを得ない。

 それに、二十秒足らずで一階と四階を行き来するためには、相当な速度で階段を駆け上がる(または駆け下りる)ことが必要だ。早乙女も昔はテニス部に所属するアウトドア少年だった時代もあるらしいが、今や日陰に生きる無気力なゲーマーである。理由も無くそんなことをするとは思えなかった。

 やっぱり、どちらかが見間違いを起こしている。そう考えるのが最も自然だと廻は思った。けれど、それがどちらなのか、それが分からない。樋口も結城も、自分の証言にはそれなりに自信を持っているようだった。しかしその実、どちらもはっきりと顔を見たわけではない。双方に信憑性があって、それでいて、いずれも信用に値しない。

 少し離れたところで退屈そうに鉛筆を動かす早乙女の姿を盗み見た。

 彼は、自分を取り巻く〈謎〉なんて何も知らない。

 けれど彼に確認すれば、この謎は簡単に解決するだろう。


 放課後。廻は早乙女に話しかけようと、早速椅子から立とうとする。しかし同じタイミングで飛鳥が廻のことを呼び止めた。

「北条」

 飛鳥は椅子の背に片腕を乗せて振り返ってくる。廻は浮かせかけた腰をもう一度下ろした。

「なに?」

「昼にしてた話の続きだけど。〈早乙女啓分身事件〉の謎は解けたの?」

「いや、さっぱり分からない」廻は正直に首を振った。「あの二人の証言だけじゃ、何にも。でも、今回は話が単純だと思う」

「え? 『今回は』って?」

「あっ、いや」廻は口元を押さえた。「たまにあるだろ。こういう妙な話」

「そうかな……」飛鳥は小首を傾げた。「それで、話が単純っていうのは?」

「だって、早乙女本人に聞けば分かることだろ。そういうわけで、今から本人に確認しようと思って──」

 廻は早乙女の席を振り返った。しかし、そこには既に彼の姿は無かった。

「……逃がしたか」

「逃げ足が速いね。忍者説に信憑性が出てきたな」

 と、飛鳥は軽口を叩いていた。

 そこへリュックを背負った橘が通りかかった。飛鳥は彼女を呼び止める。

「橘さん。帰るの?」

「あっ、うん」彼女はピクッと全身を震わせて、ちょうど廻の席の横で立ち止まった。「えっと……あの、部活に行くところ」

「少しいい?」

 飛鳥が聞くと、橘は小さく頷いた。

「あ、うん。なに……?」

「さっきの話、どう思った? 早乙女くんが分身してるかも、ってやつ」

「えっと……どう、って聞かれても」

「樋口くんと結城さん。どちらの証言が正しいのか、あるいはどちらも間違ってるか。もしくはどっちも正しいのか。橘さんはどう思う?」

「いや……私なんか、全然見当も付かないって言うか……。ただの見間違い、だと思う……よ。あの……どっちが見間違えたかは、分からないけど……」

 橘は、言葉を途切れさせながら答えた。少しつっかえながら話すのは、平生からの彼女の癖だ。けれど廻は、その時の橘が何かを隠しているように思えてならなかった。

 もしかすると、橘は二人の証言を聞いて、何かに気づいたのかもしれない。この〈謎〉の真相に繋がるような何かに。けれど彼女はそれを語ることを渋っている。それは彼女の引っ込み思案な性格のためか、それとも……。

 廻が考えていると、橘はおずおずと扉の方を指さした。

「あの……じゃあ、私、部室行くね。日々樹ちゃんのこと、待たせてるし……」

「ああ、ごめん呼び止めて。また来週ね」

 飛鳥が言うと、橘は頷いて教室を後にした。

 その時、廻の後ろからガタッと椅子を引く音が聞こえてきた。それは環が立ち上がった音だった。

「……先、行ってる」

 環は一言だけ告げて、スタスタと廊下へと去って行った。



 廻はリュックを背負って教室を出た。環は扉の前の廊下で窓を背にし、廻を待ち構えるように立っていた。

「あのさ、」廻は環の正面に立って口を開く。「環は分かってるんじゃないの?」

 すると彼女は視線を返してくる。その目つきは冷ややかで、廻は思わず身をすくめた。

「……そんなこと、どうでもいい」

 環はぽつりと呟いた。

「えっ……」廻は一瞬絶句してしまった。「……まあ確かに、どうでもいいと言えば、そうかもしれないけど」

「廻は本当に今の状況を分かってるの?」環は廻の方へ一歩詰め寄る。周囲を憚るように声を落とした。「私たちは同じ時間を繰り返してるんだよ? 常識じゃ測れない、めちゃくちゃな事態に巻き込まれてる。それなのに廻は全然真剣に考えてくれない。それどころか、フルートがどうしたとか、分身がどうしたとか、関係ないことばかり言って」

「ちょ……ちょっと待ってよ。フルートの時は環も一緒に考えてくれてただろ」

「あれは、有紗が困ってるみたいだったから。今回の話はそもそも何も関係ないし、私たちにとってはどうでもいいでしょ。それなのに廻はわざわざ首を突っ込んでる。普段ならいいけど、今そんなことするのは、ただの現実逃避としか私には思えない。廻はループから目を背けたいだけ。違う?」

「それは……」

 違う、と否定することは廻には出来なかった。

 むしろ、その通りだと思った。自分でも気づいていなかったが、廻の行動の要因、その心理を一言で表すなら「現実逃避」の四文字がぴったり当てはまる。

「……とにかく、そのことは廻一人で考えて」

 それだけ言い放つと、環は廻のことを置いて廊下を歩き去った。彼女を追いかける気にはなれず、廻はしばし廊下に立ち尽くしていた。

 きっと今、環を追いかけても、冷静に話すことが出来ない。そんな予感が廻にはあった。

 どうしようかとしばらく悩んで、廻は当初の予定通りに動くことにした。つまり、早乙女に話を聞くことにした。

 幸い、早乙女の行動は分かっている。もちろん、二周目と変わっていないという前提の下で。彼は部室でゲームをしているはずだ。

 廻は映研の部室を目指して歩き出した。



 東棟三階。社会科準備室(映研部室)前。廻は扉をノックして、扉越しに名乗る。

「早乙女、いるんだろ? 北条だけど」

「開いてる。入れよ」

 中から早乙女の声が聞こえてくる。廻は扉を開いた。

 相変わらず薄暗い部屋だった。早乙女はソファに仰向けで寝転がって、片耳にイヤホンを差してPSPでゲームをしている。

 廻はその辺に置いてあるパイプ椅子を引き寄せて、ソファの横に腰掛けた。早乙女のゲーム画面を覗き込む。鎧を着込んだキャラクターが草原で翼竜と戦っていた。

「モンハンか」

「2ndGだ」

 廻が言うと、早乙女は答えた。ゲームを一時停止して、本体をソファの上に放り出す。イヤホンが耳から外れて合皮の上に転がった。

 早乙女のゲームの趣味は手広い。最新作も一通り遊ぶが、一昔前のゲームも多く所蔵していた。

「お前もやるか? 予備のPSPを持ってきてある。ソフトも二つあるし」早乙女は机の上にある、もう一台のPSPを指さした。「本当は望月のやつにでも貸そうと思ってたんだが……早々に帰られた」

「自分以外のデータでやってもしょうがないだろ」

 廻は淡々と言った。それから彼は、寝転がったままの早乙女に目を向ける。彼は相変わらず薄桃色のパーカーを着ていた。この時期にもなると少々暑苦しいが、廻は今更指摘しない。彼は人前で腕を露出することを嫌っているのだ。とはいえ、体育の授業の時などは流石に半袖なので、そこまで強い拘りというわけでもないらしい。

 早乙女は廻の顔を見上げて言った。

「二階堂さんと喧嘩でもしたか?」

「えっ……」

 廻は一瞬ドキリとした。さっき口論していた時には、早乙女はその場にいなかったはずだが。廊下でビンタされた件も、「この世界」では無かったことになっているはずだ。

 廻の動揺を表情から読み取り、早乙女は面白そうに笑いを漏らした。

「目が泳ぎすぎだ。図星か? 分かりやすい奴め」

「悪かったな、分かりやすくて……」

 廻は面白くなさそうに答えた。

「ま、そんな捨てられた子犬みたいな顔してたら俺じゃなくても分かる。お前がそんなふうになるのは、二階堂さん絡みに決まってる」

 自分はそんな顔をしていたのか、と廻は自分の頬に手を当てた。

「早めに謝った方がいいぞ」

 早乙女は言った。廻は不服そうに言い返す。

「ちょっと待て。なんで僕が悪い前提なんだ」

「なんとなく。それとも違うのか?」

「いや……」廻は先刻の環との会話を思い出し、斜め上に視線を逸らした。「違う……とも、言えないけど」

「じゃあ俺のところで油売ってないで早く謝りに行け」

「それは……分かってる。ていうか、大きなお世話だよ。こっちだって色々考えてるんだから」

「そうか。ならいいが」

 早乙女は言った。心配しているのか、面白がっているのか。多分、その両方だろう。

 廻は話題を変えようとして、本題を切り出した。

「お前、今日の昼休み、何してた?」

「昼休み?」

 早乙女は片眉をつり上げた。

「念のために確認しておくけど、お前、忍者の末裔とかじゃないよな? 分身の術とか使えたりしないよな?」

 自分でも馬鹿馬鹿しい話だと思ったが、実際廻はもっと馬鹿馬鹿しい状況──つまり、世界が巻き戻るという事態に巻き込まれているのだから。この世界に忍者が存在しないと誰が証明できる?

「はぁ?」早乙女の視線は冷徹を通り越して虚無だった。「何言ってんだお前」

「冗談じゃん……」

「表情が真剣すぎて冗談に見えない」

「いや……実はな。お前は知らないだろうけど、昼休みにちょっと色々あったんだよ。お前はその渦中でな──」

 廻は昼休みにあった一幕を早乙女に話した。樋口と結城の証言、そして早乙女の「分身」疑惑について。

 話を聞く間に、早乙女は体を起こしてソファに座っていた。

「なんと言うか……」話を聞き終えた早乙女は呟いた。「どうでもいい話だな」

「早乙女までそんなことを……」廻は言った。「自分に分身疑惑がかけられてるんだぞ」

「別に忍者だと思われたところで、俺に不都合無いだろ」

「そうか……?」廻は腕を組んだ。「そうかもしれない……」

「ま、なんにしろ、俺は分身なんかしてないな」

「教えてくれ早乙女。お前は本当はどこにいたんだ? 間違ってたのはどっちの証言なんだ?」

「どっちも間違ってない。あいつらが見たのは、両方とも本物の俺だ」

「どういうこと?」廻は聞き返した。「だったらやっぱり分身じゃないか」

 早乙女は昼休みの行動について廻に説明し始めた。

「まず初めに言っておくが、俺は昼休み、一階から四階に移動してた。だから実際には結城が俺を目撃した時間の方が後だったはずだ」

「放送の件はどうなる?」

「北条、お前は知らないだろうが、漫研部室のスピーカーにはちょっとしたバグがある。全館放送をした時、漫研のスピーカーだけ鳴るタイミングがズレるんだ」

「そんなの初耳だけど」

 廻は言った。そうだろうな、と早乙女は頷く。

「いつも鳴ってるチャイムは全館放送とはシステムが違うから他の教室と同時に鳴る。ズレるのはあくまでああいう呼び出しやお知らせの放送だけだ。それに、あの教室は授業じゃ使わないから、漫研と関わりのある人間くらいしか知らないだろう。俺は前に知り合いから聞いたんでたまたま知ってたが、そうじゃなかったら知らなくても無理はない」

 廻は昼に話をしていた時のことを思い出す。あの場にいた漫研の関係者は結城のみだ。彼女はバドミントン部と掛け持ちだから漫研にはあまり顔を出していないと言っていた。スピーカーのバグについて知らなくても不思議は無い。

「第一多目的室のスピーカーからは、他のスピーカーから三十秒ほど遅れて放送が始まる。それだけあれば一階から四階まで移動するのに十分だろ? まあ、俺がその間に移動したのは単なる偶然だが、その結果妙な勘違いが発生したってわけだな」

「なるほど……じゃあ、二人とも間違ったことを言ってたわけじゃなかったんだな」

「そういうことだ」

 早乙女は言った。廻はすっかり得心している。しかし、今回の〈謎〉は、あのまま考えていても真実を明らかにするのは難しかっただろう。何せ、謎を解くための最も重要な前提条件──「漫研部室のスピーカーは壊れている」という情報が廻たちから抜け落ちていたのだから。環が答えを出せないのも頷ける。

 あるいは、あのまま調査を続ければ、環だって同じ推理に辿り着いたかもしれない。しかし今となってはそれも必要の無いことだ。

 早乙女に聞けば問題が解決すると期待していたのは確かだが、勘違いが起こった理由まであっさりと判明してしまうとは思っていなかった。廻は少し拍子抜けすると同時に、また別の問題が頭をもたげていることに気づく。

 そもそも廻が〈分身の謎〉に拘泥していたのは、現実逃避のためだった。その手段を失った今、廻はより大きな問題に否が応でも向き合うことを強制されている。

 廻は小さくため息をついた。その様子を見て、早乙女は卓上のPSPを掴み、押しつけるようにして廻に渡す。

「やっぱり、お前も一緒にやれ」

 廻は差し出されたゲーム機を見ながら逡巡する。

「いや……そもそも、前に言っただろ。僕は受験終わるまでゲームとかはやらないって……」

「勉強せずにここで俺と駄弁ってる時点で同じことだ」

 そう正論で言い返されると立つ瀬が無かった。

 それに、そうやって勧めてくれるのが、彼なりの励まし方だと早乙女は知っていた。彼はああ見えて他人の心の機微を察するのに長けているから、廻が困難を抱えていることを態度から察したのだろう。

 廻は「一クエストだけな」と言ってゲーム機を受け取った。

 二人はそれぞれ無言でゲーム機の液晶に目を落としている。廻の手の中のゲーム機のスピーカーから漏れ聞こえるゲーム音声と、カチカチというボタンのクリック音だけが室内に響き、時折ゲームディスクを読み込むガリガリという音が混じった。

 廻は早乙女と初めて会話を交わした時のことを思い出していた。あれは廻たちが二年生の夏のことで、こんなふうに薄暗い場所でのことだった。そこは学校から二駅ほど離れた街にあるゲームセンターで、地下にあるアーケードゲームのコーナーの一角、最新よりは少し古めの格闘ゲームが並ぶエリアで彼を見付けたのだ。

 その日、廻は塾の模試を受けるために普段とは違う校舎を訪れていた。模試が終わってから飛鳥や他の友人たちと分かれ、気まぐれに近くのゲームセンターに寄ってみた。

 何の気はなしに見慣れない格闘ゲームの筐体の前に座り、百円玉を入れてプレイをしていた。吸血鬼や異能力者が出てきて戦うゲームだ。

 格闘ゲームは大抵、同じ筐体同士が向かい合う形で設置されている。そして、向かい合った反対側の筐体に座った相手が「乱入」をしてくることがある。その瞬間から、プレイヤーはコンピューターではなく生身の人間が操作するキャラと戦うことになる。

 廻が遊び始めて数十秒ほどで、誰かが「乱入」してきた。筐体を挟んでいるから、向こう側にいるのがどんな顔をした誰なのかは分からない。

 そして廻は、完膚なきまでに叩きのめされ、ものの一分ほどでストレート負けを喫した。

 立ち上がり、向こう側にいる人間の顔を見る。きっとベテランだろうと思った。このゲームを何年も、あるいは何十年もやり込んでいる猛者を想像していた。

 しかし、そこに悠々と座っていたのは、廻と同じ中学生の少年だった。

 それが早乙女啓だった。同じ学年だから名前と顔くらいは知っていたが、クラスも違うから接点が無かった。捉えどころの無い印象だったのだ。その頃、入学と同時に入ったテニス部を最近辞めたとかで少し噂になっていたから、余計に印象に残っていたのかもしれない。サボり癖があって不真面目な不良予備軍だと聞いていたが、実際間近で見ると、鋭い目つきも相まって噂通りの人かもしれないと思ってしまったのを覚えている。

 早乙女は廻のことを見上げて、「よくやるのか? メルブラ」と聞いてきた。

 廻が「今日初めて触った」と答えると、「だろうな」と早乙女は言った。

 早乙女と話すようになったのは、それがきっかけだった。

 廻は回想をやめて現在に意識を戻す。ゲーム画面では、二人のキャラクターが翼竜と戦っている真っ最中だった。

「それで……」早乙女はボタンを操作しながら聞いてくる。「二階堂さんとの間に何があったんだ」

「言いたくない」廻もまたゲーム画面から目を逸らさないまま、きっぱりと答えた。「……と言うか、言えない」

「俺に隠し事か。偉くなったもんだな」

「別にいいだろ。僕と環の間の問題なんだから」

「それもそうか」

 すると早乙女はそれ以上何も言わない。再び薄暗い部屋の中に沈黙が満ちる。

 しばらくしてから、廻はぽつぽつと話し始めた。

「実は……詳しいことは話せないんだけど、今僕たちは少し大きめの問題を抱えてる。僕と環の二人がね」

 早乙女は黙ってその話を聞いている。二人ともゲームを進める手は止めない。画面の中で翼竜を切り刻みながら廻は続ける。

「環はそれを解決しようと頑張ってるけど、僕は力になれないって言うか……何をどうしたらいいのか分からないんだよ。そのための力も無いし。だからちょっと……環とどう接したらいいか分からなくなって。僕の言いたいこと、分かる?」

「大体分かる」早乙女は嘯いた。「その問題っていうのは、そんなに解決しづらい話なのか」

「まあね。人智を超えてるから」

 それは本当のことだったが、早乙女は冗談として解釈したらしかった。

「だったら、一緒になって悩めばいいんじゃないか」

「だから、僕が一緒になって悩んだところで解決に寄与しないんだってば」

「それでもいいだろ。二人で悩んだ方がいい。一人で悩むより気が楽になるからな。どうせお前と二階堂さんしか関与できない問題なら、お前しか一緒に悩めない」

「……環は、そういう観念的なことを求めるタイプじゃない」

「本人がそう言ったのか?」

「いや……」

 廻はそう言って口を噤んだ。ややあって、横目に彼のことを見ると、

「早乙女のくせに、知ったようなことを……」

 不服そうに、そう呟いた。

 よそ見をしているうちに、廻はゲームの方の操作がおろそかになる。翼竜から手痛い一撃を貰って、廻の操作するキャラはその場にくずおれた。〈クエスト失敗〉と画面に表示される。廻のキャラが死んだのはそれで三度目だった。

 廻はゲーム機を卓上に置き、リュックを背負って立ち上がった。

「そろそろ帰る。じゃあな」

「ああ。また来週」

 早乙女はヒラヒラと手を振った。廻は映研の部室を辞して、環を探しに向かった。



 廻が向かったのは図書室だった。扉を開き、閲覧スペースに目を向ける。角の方の席に座っている飛鳥と目が合う。机には勉強道具が広げられていた。

 環は飛鳥の正面に座って本を読んでいた。廻の立ち位置からだと背中しか見えず、その表情はうかがい知れない。

 飛鳥は廻の来訪に気づくと、環に小声で告げた。

「迎えが来たみたいだよ」

 環は振り返った。何か困ったように、眉尻がわずかに下がっている。

 彼女がここにいるという確信は廻にはなかった。しかし学校に残っているだろうとは思っていた。所在が無い時に図書室に来るのは昔からの環の行動パターンだった。

 廻は環の背後に立った。

「えっと……環。僕はそろそろ……帰るんだけど……」

 環は読んでいた本を閉じた。

「じゃあ、私も帰る」

 廻は安堵して小さく息をつく。飛鳥はニヤリと笑みを浮かべながら頬杖を突き、廻の顔を見上げていた。何かよからぬ勘違いをされているような気もするが、廻はあえて指摘しない。

 環は荷物を纏めて立ち上がった。飛鳥は彼女の方へ視線を動かした。

「じゃあね、二階堂さん。私は小清水さんのこと待たなくちゃいけないから、もうしばらくここに残るよ」

 そういえば、飛鳥は小清水と一緒に帰る約束をしたと言っていたのを思い出す。それを廻が聞いたのは、一周目の世界だったか、二周目だったか。何はともあれ、吹部の活動が終わるまではまだ時間があるから、飛鳥は当面の間ここで待っていなければならないのだ。

「北条も、また来週」

 飛鳥は廻に微笑みかけてくる。

「……うん」

 廻は環の後に続くようにして図書室を辞した。


 図書室を出て、廻は扉を後ろ手に閉めた。廊下にひと気は無く、どこからか管楽器の音が響いている。

 環は振り返った。困惑したような表情。三白眼に見つめられ、廻は一瞬固まった。

「ごめん、廻」環は出し抜けに謝罪した。「さっきは冷たくして」

「いや……僕が現実逃避してたのは事実だから」

 廻は気まずそうに目を逸らす。

「私、さっきは気が立ってたんだと思う。このままずっとループに閉じ込められるかと思うと、怖くて。だから廻に八つ当たりみたいなことした。ごめん」

「分かるよ。僕もちょっと怖いから。今はまだいいけど、これが何日も続いたらって思うと……」

 廻はそれ以上明言するのを避けた。十秒ほどの間、二人は互いに何も言わなかった。

 先に沈黙を破ったのは環の方だった。

「ところで、」彼女は普段と変わらぬ無表情を取り戻していた。「さっきの話、どうなったの。早乙女くんが分身したって話」

「ああ……あのことなら、もう大丈夫だよ。解決したから。本人に確認したんだ」

「本人?」

「早乙女だよ。それで謎も解けた」

 廻は早乙女から聞いた話を環にも聞かせた。

 しかし話を聞いた環は胡乱げに首を捻った。

「スピーカーのバグなんて話、私は聞いたこともないけど」

「それは僕も初耳だったけど、そもそも三階の多目的室なんて授業じゃ使わないだろ。知らなくても不思議ないよ」

「そうかな……」

 環は早乙女の語った解決に対して懐疑的なようだった。

「じゃあ、確認してみる?」

 廻が冗談交じりに聞くと、環は真面目な顔で頷いた。

「そうだね。行ってみよう」


 階段を上がり、廻と環は東棟三階へやってきた。廊下を中程まで進むと、多目的室の扉が見える。通常の教室と比べると半分程度の面積しかなく、出入り口も一つだけだ。

 扉には〈漫研〉と書かれた張り紙がしてあった。右下にはジャイアントロボと、左下にはウルトラセブンのイラストが描いてある。

 廻は扉をノックした。ややあって、扉が開く。中から出てきたのは、黒縁の眼鏡をかけた女子生徒だった。長い前髪で右の目が隠れている。もう片方の目で彼女は廻のことを見た。

「おや?」彼女は首を傾げた。前髪が揺れ、隠れていた瞳が垣間見える。「見ない顔だね。入部希望かな?」

「えっと……初めまして。僕は北条って言います。あの……結城さんのクラスメイトの」

 廻は、結城が漫研に所属しているという話を咄嗟に思い出した。

「友愛の友達か」彼女は納得したように数回頷いた。「私は三年二組の京本きょうもとなぎさ。漫研の部長だ。今後ともよろしく」

 京本と名乗ったその生徒は片手を差し出してくる。その手はインクと黒鉛でわずかに黒ずんでいた。廻がおずおずとその手を取ると、京本は数回上下に手を振って離した。

 漫研の部室は雑然としていた。中央には机が数台並べて置かれ、その上にノートや漫画の原稿が描かれた紙が散らばっている。机の上には鉛筆やGペンの類いも転がっていた。壁際に置かれた本棚には、多種多様なジャンルの漫画や、イラストの指南書、ポーズ集などがずらりと並んでいる。

 京本は机の前にある古びたオフィスチェアに腰掛け、スカートの下で脚を組んだ。椅子を回して体ごと廻たちの方へ向き直る。

「それで、何の用かな? 北条くんは。漫画を借りに来たのかい? 最近のおすすめはね……」

 彼女は本棚の方へ目を向ける。廻はそれを制した。

「いや、それはありがたいんだけど、そうじゃなくて」

「この部室のチャイムが壊れてるって聞いた。それは本当?」

 環は、廻の後ろから顔を出して尋ねた。京本は頬の横に手を当てて思案する。

「壊れてるって、どういうふうに?」

 それに答えたのは廻だった。

「全館放送が他のスピーカーより遅れて聞こえるって」

 京本は首を傾げた。

「いや……そんな事実は無いと思うな」

「えっ?」廻は聞き返した。「本当に?」

「うん。私が言うんだから間違いない。ここのスピーカーは正常だよ。もし本当にここのスピーカーだけ放送が遅れてるなら、私が気づかないはずがない。部室の中にいても廊下のスピーカーの音は聞こえるからね」

「じゃあ、別にスピーカーは壊れてないってこと?」

「そうだね」京本は首肯した。「私は、放課後は大抵ここにいる。もちろん、ここで放送を聞いたこともある。その私が知らないって言うんだから、その事実は無かったと考えるのが自然な思考だよ」

 廻は混乱していた。京本の態度は嘘を言っているようには見えない。しかし、そうだとすると、早乙女が語っていた推理は何だったのだろうか?

 ふと環の方を窺うと、彼女は部室の窓に目を向けていた。本棚に挟まれた窓からは、反対側の西棟が見えている。真正面には三階が見え、少し視線を上に向けると、四階の窓も見える。確かに結城の証言と矛盾は無い。西棟四階の廊下に、重そうな金管楽器を抱えた生徒が歩いていくのが見えた。多分、吹奏楽部の部員だろう。抱えている楽器があまりに大きいものだから、生徒の上半身がすっかり覆い隠され、まるで楽器がひとりでに歩いているように見えた。

「それにしても、摩訶不思議だね」京本は一人腕を組んでいる。「どうしてそんな、スピーカーが壊れてるなんて妙ちきりんな噂が流れているんだろう。君はどこからその情報を?」

「いや……」早乙女の名前を出すことは、廻には憚られた。「ちょっと知り合いに聞いたんだけど、多分勘違いしてたんだと思う」

「そうかい? まあ、ただの勘違いなら、別にいいけどね」

 京本は組んでいた腕を解き、廻たちの方へ向き直った。

「さて、聞きたいことはそれだけかな?」

「ああ、うん。ありがとう。参考になったよ」

 廻は言った。

「じゃあせっかくだから、何か借りていくかい? 一週間以内に返してくれればいいよ」

 京本は本棚を手のひらで指し示す。思えば早乙女はよくゲームを貸してくれるし、環も飛鳥に推理小説をしょっちゅう貸していると聞いた。マニアというのは物の貸し借りが好きな人種らしい、と廻は思った。

 申し出はありがたいが、今の廻は他人から物を借りる気にはなれなかった。この世界は夜になればリセットされる。明日以降のことについて、廻は責任を持つことが出来ない。廻は京本の提案を断った。

「今は少し……」

 京本は気分を害したふうでもなく、柔和な表情で頷いた。

「分かった。無理強いはしないよ。漫画は読みたい時に読むのが一番だからね」

「ごめん。機会があったら、また今度貸してくれると嬉しい」

「もちろんだとも」

 京本は嬉しそうに頷いた。

 廻と環は京本に一礼して漫研の部室を辞した。


 廊下に出てから、廻は呟いた。

「スピーカーは壊れてない……。じゃあ、早乙女の推理は間違ってたってことか?」

 早乙女の言っていた推理は、漫研部室のスピーカーの不具合を根拠にしていた。その事実が無かったと断定された以上、推理そのものも間違っていたと考えざるを得ない。

「そうだね」環は頷いた。「早乙女くんは、どうして部室のスピーカーが壊れてると思っていたの?」

「確か……知り合いに聞いた、って言ってた気がする。じゃあ、その知り合いって人が勘違いしてたのかな。それとも、嘘を教えたとか?」

「どうだろうね」

「いや、それよりも」廻は環の顔に向き直った。「早乙女の言っていた話が間違いだったなら、本当の真相は何なんだろう?」

「やっぱり、見間違いだったんじゃないかな」

 環は淡々と告げた。

「それは……そうなんだろうけど。でも、どっちが見間違えたかまでは分からないでしょ?」

「分かるかもしれないよ」

「えっ、本当?」

「じゃあ、確認しに行こう。橘さんにね」

「橘さん?」廻は聞き返した。「なんで橘さんに?」

「本人に聞いてみたら、分かると思う」

 環はそれ以上説明するつもりが無いらしく、廊下を歩き出す。仕方なく廻はその後に続いた。



 橘葵の所属する写真部は、東棟四階にある化学実験室を部室としている。廻たちは階段を一つ上がって、その部屋を訪れた。

 先刻と同じようにノックをする。中から出てきたのは今泉だった。

 部室の真ん中に三脚が鎮座しているのが目に入る。その先端には変わった形状のカメラが取り付けてあった。

 三脚の横に置かれた椅子には、橘が座っていた。片手にカメラのレンズを持ち、ブロアーで埃を飛ばしている。

「あれ? 確かさっきの……」

 すると、橘の方も廻たちの存在に気づいて顔を上げた。

「あっ……北条くん。二階堂さんも、何かあったの?」

「ちょっと確認したいことがあるの。時間、いい?」

 環は聞いた。

「えっと……うん。大丈夫」橘は立ち上がって、レンズとブロアーを机の上に置いた。「じゃあ、ここじゃなんだから……」

 橘は廊下に出た。部室に今泉を一人残し、廻と環は橘の後に続いた。


 東棟四階の廊下。写真部部室から少し離れた一角で、環は橘と向かい合った。

 橘は緊張した面持ちで環が口を開くのを待っている。やがて環は告げた。

「単刀直入に聞く。昼休み、早乙女くんに見間違えられた生徒は、あなたなんじゃない? 橘さん」

 環の三白眼が真っ直ぐ橘のことを捉えている。その台詞は、廻にとって意外だった。しかし指摘を受けた本人である橘は、まるで観念したように微動だにしない。

「いやいや、橘さんはスカートだから、早乙女とは明らかに格好が違う。いくらなんでも見間違えるとは……」

 廻は横から反論した。環は短く息を吐く。

「じゃあ、最初から説明する」

 彼女は、その結論に至るまでの思考を語り始めた。

「初めに違和感があったのは、樋口くんの目撃証言。彼はこう言っていた。『早乙女くんの姿は、他の生徒に紛れて分からなくなった』って」

「その話のどこに違和感があるの? 自販機の前には十人くらい生徒がいたらしいし、後ろを向いてたりしたら分からなくなっても不思議は無いと思うけど」

「普通ならね。だけど、早乙女くんは今の時期でも制服の上からパーカーを着てる。あの桃色のパーカーをね。今の時期、他の生徒はほとんどみんな上着を着ていない。白シャツの集団の中に一人だけ桃色のパーカーを着ていたら、目立つはずでしょ? でも、実際にはそうじゃなかった。ここから導き出される推論は、早乙女くんはその時にパーカーを着ていなかったのではないか、ということ」

「なるほど」廻は頷いた。「でも、午後の授業の時はいつも通り着てたよね? パーカー」

「うん。だから、脱いでいたのは昼休みの間だけってこと」

「一体どうしてそんなことを?」

「それは後々説明する」

 環はそう言って、橘の方を一瞥した。彼女は黙って環の話を聞いている。

 環は更に続けた。

「次に考えたのは、結城さんの証言のこと。結城さんは校舎の東棟から西棟にいる早乙女くんの姿を見たと言っていた。その距離で彼のことが分かったということは、遠目にも分かるほどに目立っていたということ」

「そうか。結城さんが見た方の早乙女は、パーカーを着ていたってこと?」

「そう。早乙女くんのパーカーはただでさえ目立つし、今の時期に上着を着ている人はそもそも少ない。もし別人がそのパーカーを着ていたとして、結城さんが早乙女くん本人だと誤認しても違和感は無い」

「つまり、こういうことか」廻は環の言うことを整理する。「樋口が一階で見た早乙女は本物だった。結城さんが見た方の早乙女は、あいつのパーカーを着ているだけの別人だった」

「そういうこと」環は頷いた。「つまり、早乙女くんは昼休みの間、パーカーを誰かに貸していた。じゃあ問題は、パーカーを借りていたのは誰か?」

 橘は相変わらず何も答えない。環は話を続ける。

「そもそも、どうして上着を借りる必要があったのか。今日は別に特別寒いわけじゃない。今の時期はまだ冷房も付いていないし、学校の中で体を冷やすとは思えない。つまり、防寒のために借りた可能性はとても低い」

「じゃあ、なんのために?」廻は聞き返した。

「シャツを隠すため」環は答えて、橘の方へ目を向けた。「橘さんは昼食の時、隣の席の人にお茶をかけられていた。シャツには大きなシミが出来ていたはず」

「だからそれを隠すためにパーカーを借りたってこと?」廻は言って、橘のことを一瞬だけ見た。「でも、確か部室に着替えがあるって言ってたような……」

 環はそれに答えて言った。

「橘さんがお茶をかけられたのは昼食時間が終わる間際だった。そして、昼休みには図書委員の集会があった。橘さんは図書委員だから、昼休みが始まってすぐに集合場所に行かなくちゃならなかった。部室に寄っている時間は無かったんじゃないかな。今日は体育の授業も無かったから、ジャージも持っていなかったはず。でも、人前でシミの付いたシャツのままでいるのは普通抵抗がある。だから早乙女くんから上着を借りたんだと思う。パーカーだったら男女で共有しても違和感は無い。それに、橘さんは身長も高いから、サイズも合うはず」

 確かに橘は女子にしては身長が高い。早乙女と並んだら、ちょうど頭の高さが合うはずだ。

「集会が終わってから橘さんは部室に行って着替え、早乙女くんにパーカーを返した。だから私たちは、実際に彼女がパーカーを着ているところを見なかった」

「でも……やっぱりおかしいよ」廻は反論した。「さっきも言ったけど、橘さんはスカートを穿いてる。いくら同じ上着を着ていると言っても、スラックスを穿いてる早乙女と見間違えるとは、やっぱり思えない」

 環は冷静に反証を返した。

「結城さんは、東棟の三階から西棟の四階にいる早乙女くん(偽)を見た。つまり、見上げる角度だったってこと。廊下の壁が邪魔になるから、見えていたのは上半身だけだったはず。橘さんはショートカットだし、顔がはっきり見えなかったなら、一見して男子の早乙女くんに見間違えることもあり得る」

 廻は先刻、漫研部室の窓から西棟の校舎を見上げた時のことを思い出した。四階を歩く生徒は、廻の視点からは上半身しか見えていなかった。

「こういう理由で、橘さんがニセ早乙女くんの正体じゃないかと思ったんだけど……」環は、橘の方へ顔を向けた。「どう?」

 廻も、橘の方へ注目した。二人の視線を集めていた橘は、申し訳なさそうな表情で頷いた。

「えっと……うん。二階堂さんの言う通り……早乙女くんから上着、借りました。ていうか……私があたふたしてたから、見かねて貸してくれたって感じかな……」

 言われてみれば、早乙女は昼休みに入ってすぐに姿を消していた。それは、どこかで橘と話をしていたからかもしれなかった。

「そうだったのか」廻は呟いた。「それなら納得かも。あいつ、意外と気が利くところもあるからね」

「うん……優しいんだよね、意外と」

 橘は嬉しそうに言った。その頬がわずかに赤らんでいることに廻は気づかない。

「でも、だったら橘さんは真相に気づいてたんじゃない? どうして何も言わなかったのさ」

 思えば、橘の態度はずっと何かを隠しているようでもあった。橘がパーカーを借りていた本人なら、今し方環が話した推理に辿り着いても良さそうなものだし、そうでないにしろ、パーカーを借りていた件に一言も言及しなかったのには違和感がある。

 廻が真剣な顔をして橘に尋ねると、橘は答えに窮して目を逸らした。

「そっ、それは……」

 その時、廻は、環が冷ややかな視線でこちらを見ていることに気づいた。

「廻……本当に気づいてないの?」

「え……何に?」

「いい?」環は子どもに言い聞かせるような口調で告げた。「普通衣類は赤の他人に軽々しく貸したりしない。それが異性同士だったら尚更のこと」

「それはまあ、確かに」

 廻は頷いた。自分だって、環や飛鳥にだったら服を貸してもいいけれど、他の女子なら多少の抵抗はあるかもしれない。

「つまり……」環は橘の方を一瞥した。「橘さんと早乙女くんは、少なくとも他人以上の関係にあるってこと」

「えっ?」廻は思わず橘の顔を見た。「そうなの?」

 橘の顔は耳の先端まで紅潮していた。こうなると、流石の廻にも大まかな事情を察することが出来た。

「それで僕たちに隠してたってわけか……」

「あの……実はね」橘は、赤みを帯びたままの顔で、おずおずと口を開いた。「私と早乙女くん、その……少し前から……付き合ってて……」

 蚊が鳴くような、か細い声だった。廻は少し意外に思う。早乙女も橘も、全然そんな素振りは見せていなかった。むしろクラスの中では接点の少ない方だと思っていたのに。

 しかし、いくら友人とは言え、四六時中一緒にいるわけではない。むしろ一緒にいない時間の方が多いのだから、交友関係なんて全部を知らない方が普通なのかもしれなかった。

「でも……まだ、そのことは誰にも言ってない。だから、上着を借りたって知られたら、怪しまれるんじゃないかと思って。図書委員は他のクラスの人ばかりだから大丈夫だけど、同じクラスの人には見られないようにって……でも、まさか東棟の方から見られてたなんて思ってなかった」

「別に……無理に隠す必要も無いんじゃない?」

 廻は言った。しかし、橘は首を横に振るばかりだった。

「だって……私って、早乙女くんと、釣り合ってない……でしょ? どうして私みたいな人と付き合ってくれてるのか、自分でも分からないし。それに、もし噂が広まったら、早乙女くんの評判も落としちゃうと思う……。だから早乙女くんにも、内緒にするようにお願いしたの。私の方から……」

 そんなことはない、と廻は言いたかった。早乙女は、そんな外聞よりも目の前の人間と向き合うことの出来る人のはずだ。それが分かっているから、橘だって彼のことを好いているのではないのか? 廻はそう問いたかった。

 けれど、部外者である自分に、それを言う資格があるのか廻には分からなかった。きっと彼女には彼女なりの葛藤があるのだということも察していた。

 だから廻は、小さく息をついて、相手を安心させるように橘のことを見た。

「分かったよ。この件は忘れる。誰にも言わない。ね? 環」

「そうね」環も頷く。「私も口外しないって約束する。だから安心して、橘さん」

 橘が自分たちのことを信頼しているのかどうか、その表情から推し量ることは廻には難しかった。しかし橘は、少なくとも表面上は納得したような素振りを見せた。


10


 橘は写真部の部室へ戻っていった。廻と環は、二人で廊下を歩いている。

「そういえば……」ふと廻は思い出して口を開く。「早乙女の言ってたことって、結局なんだったんだろう」

 環はそれに答えて言った。

「きっと、わざと間違った推理を教えたんじゃないかな。漫研部室のチャイム云々の話、あれは全部咄嗟に考えたでたらめだと思う。知り合いに聞いたっていうのも嘘」

「それは……やっぱり、パーカーを貸してた事実を隠すために?」

「そう。早乙女くんはきっと、君の話を聞いて真相に気づいたんだろうね。だけど、橘さんと交際していることを隠したがっていた彼にとって、その真相に誰かが気づくことは不都合だった。だから先回りして嘘の解決を提示することで、廻の意識を逸らそうとしたんだと思う」

「でも……隠し通せるとは思えない」

 廻が言うと、環は、そうだね、と短く同意した。

 無言のままに二人は歩いていく。階段を降り、昇降口で靴を履き替えている最中、環は呟いた。

「もしもう一度ループしたら、廻はどうする?」

「どうする……って?」

「この〈謎〉も、無かったことにする? フルートの一件と同じように」

 廻はまるで心を読まれたかのように錯覚した。

 確かに廻はそのことを考えていた。橘と早乙女は自分たちの関係を隠したがっている。廻はそんなことをする必要は無いと思っているが、当人たちの意思を曲げることは出来ない。だったら初めからこんな〈謎〉は無かったことにした方が、二人の心労を取り除けるのではないか。

 廻はスニーカーに足を入れながら答えた。

「この世界が巻き戻って、記憶を持っているのは僕たちだけだ。確かに訳が分からなくて怖いって思うけど……でも、やり直せるんだよ。だったら、多少自分や周りにとって都合がいいようにやり直したって、バチは当たらないと思う」

 環は既にローファーを履き終えて、廻の後ろに立っていた。

「私は……廻のしたいようにしたら、いいと思う」

 廻は「分かった」と答えて靴を履いた。

 正門を潜り、学校を出る。アスファルトで舗装された道路に夕陽が照っていた。廻は西日に目をしかめる。上空を過ぎ去る一羽のカラスが鳴き声を残していった。

「廻、」

 名前を呼ばれ、廻は歩みを止めないまま横を向いた。環は目を合わせないまま言った。

「私……廻に話さなくちゃいけないことがあるかもしれない」

 随分と曖昧な言い方だな、と廻は思った。

「それは、今は言えないこと?」

「まだ今は。でも、いずれ話す」

「分かった」

 廻は頷いた。それきり二人は無言に戻った。

 伝えなければならないことがあるのは、廻も同じだった。

 廻は分かっていた。今の事態を招いているのは、自分に責任があることなのだと。

 だけどそれを環に告げる勇気はまだ無くて、問題を先送りにすることしか出来ずにいた。

 二人はそのまま会話も交わさず家路を歩き、自宅の門の前で別れた。


 その日の夜。

 廻は、一人自室の机に向かっていた。回転椅子に腰掛け、卓上の置き時計を見やる。時計の針は十二時に近い位置を示していた。

 彼の中には一つの仮説があった。

 このループは、六月三十日という一日を繰り返している。眠りに落ちると、目覚めた時には一日の最初に戻っている。その繰り返しだ。

 これまでの周回では、日付が変わる前に眠ってしまっていた。もしきっかり零時にループが起こるなら、その瞬間まで起きていればループを回避できるかもしれない。あるいは、回避できないにしても、この現象について詳しく知るチャンスがあるかもしれない。

 秒針をじっと見つめて、その瞬間を待つ。

 十一時五十九分を過ぎた頃だった。突然、廻は猛烈な眠気に襲われる。経験したことのない眠気だ。まるで一週間、一睡もせずに過ごしたかのような。あるいは、手術前に打たれる麻酔とは、こんな感覚に近いのかもしれない。廻は麻酔を打たれたことは無いが、そんな想像をしてしまうくらいだった。

 せめて日付が変わる瞬間は見届けようと、廻は必死に目を見開く。しかし、眠気はますます肥大化し、意識は遠のく一方だった。

 そして廻は、その睡魔に逆らうことが出来ない。

 深夜零時を迎える直前。廻は、まるで気を失うように眠った。

 そして、次に意識を取り戻した時、廻がいたのは自室の机の前ではなかった。

 何か、声が聞こえる。

「えー、今日は……昼休みに図書委員の集会ですね」

 聞き慣れた声だった。

 徐々に意識がはっきりしてきて、周りの様子が見えるようになってくる。

 そこは学校の教室だった。目の前には飛鳥の背中があり、隣には小清水の姿もある。壁のカレンダーを確認しながら喋っているのは担任の早瀬だった。

 廻は自分が制服を着ていることに気づいた。

 おかしい。自分はさっきまで私服で自分の部屋にいたはず。それなのに、なぜ突然学校に? 廻は混乱していた。このループは、自室で目を覚ますところから始まるはずではないのか?

 廻は後ろを振り返る。

 環は、予想外の事態に直面したように、わずかに目を見開いている。その視線と廻の視線が交錯した。

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