断章(弐)

 どこかから鳥の鳴き声が聞こえる早朝の学校。望月聖人は正門を潜り、昇降口に辿り着く。

 望月には目的があった。鞄の中にしまってあるフルート。家ではなかなか吹くことが出来ない。近所の公園も住宅街の中にあって、思い切り吹くのには向いていなかった。吹奏楽部に紛れて校内で吹くという方法を考えついたのは、二年生も終わりに近づいた頃のことだった。吹部の部員たちはそれぞれ好き勝手な場所で練習しているし、課題曲の息抜きに自分の好きな曲を演奏している者も多いから、校内に音が響き渡っても存外バレることはない。むしろ、放課後の校舎に自分のフルートの音が通り抜けていくのは快感ですらあった。

 普段使っている四階は、最上階で通常の教室もなく、比較的生徒が少ない。早朝ともなれば尚更だ。加えて、奥の多目的室は隣にある教材室を経由すれば簡単に入り込むことが出来る。まさに望月の目的のためにはうってつけの場所だった。

 下駄箱を開き、上履きを取り出す。スニーカーを脱いで、上履きに履き替える。

 その動作をしている最中、不意に横から声が聞こえてきた。

「おはよう、望月」

 見ると、そこにはクラスメイトの北条廻が立っていた。これといって特徴の無い顔立ちの中で、目の奥の瞳だけが普段と違っているような気がした。まるで、未来を全て見通しているかのような──。

「ああ、おはよう。今日は早いんだね」

「ちょっとね」

 廻は答えた。その視線が、望月の腕の鞄に向く。望月は半ば無意識に鞄を隠すように身を動かした。

「そういえば、」廻は言った。「聞いた? 三階の空き教室、改装のために一時閉鎖するんだって」

 突然、無関係な世間話を始めたので、望月は少し驚いた。廻とはあまり他愛のない話をするような間柄ではなかったからだ。とはいえクラスメイトだし、拒絶するようなものではないので、望月は適当に相づちを打つ。

「へえ、そうか」

「今朝からもう入れなくするらしくて。それでさ、小清水が困ってたんだよ」

 小清水と言えば、吹部に所属するクラスメイトだったはずだ。望月は彼女の顔を頭に思い浮かべる。フルートをやっているので、何となく顔と名前は覚えているが、同じクラスになってからは大して会話も交わしていない。確か今は廻と席が隣同士で、それなりに仲も良かったと記憶している。けれど、どうして今の文脈で小清水の名前が出てくるのだろう?

 その疑問に答えるように、廻は続ける。

「ほら、あそこの教室って、吹部が朝練の時とかに使ってるだろ? 小清水もあそこをいつも使ってたらしくて」

「そういうことか」望月は得心した。「大変そうだね」

「でも、代わりの場所を見付けたって言ってたよ。西棟の四階の奥に、多目的室があるだろ? あそこは他の部員もあまり使ってないらしいから、ちょうどいいだろうって」

 四階の多目的室。それを聞いて、望月は一瞬ドキリと心臓を跳ねさせた。

 それは、今から彼が向かおうとしていた場所だった。望月は小清水が朝練の場所を変えようとしていたことなど知らなかった。もしこのまま多目的室に向かっていたら、早晩彼女と鉢合わせていたかもしれない。

 吹奏楽部の部員でない彼が学校の中で演奏をしていたからと言って、それは別に犯罪ではない。けれど部員たちだって譲り合って練習場所を確保しているのだろうし、いくら普段は使われていない場所とはいえ、部外者がその一つを勝手に占拠していると知られたらいい顔はされないだろう。望月はそう思っていた。それに、ついうっかり小清水と顔を合わせることになったら、きっと気まずい。望月は一度吹部に入ることを検討して、それを断念した身だ。向こうが覚えているか定かではないが、入学して間もない頃、部活の見学の時に望月と小清水は顔を合わせている。

 一方的に話を終えた廻は、さっさと上履きを履いて教室の方へと向かった。望月は、しばし下駄箱の前で立ち尽くしていた。

 なぜ廻は今の話を自分にしたのだろうか? ただの世間話? けれど、どうしていきなり多目的室に纏わる話を聞かせたのだろう。あれではまるで、今から自分が多目的室に向かおうとしていることを知っていたかのようだ……。

 そこまで思ってから、考えすぎだ、と望月は思い直す。きっと、ただの偶然だろう。

 望月はスニーカーを下駄箱に入れて扉を閉めた。


 校舎の中をしばらく歩いて、望月が辿り着いたのは屋上だった。

 校舎の屋上は晴れの日には生徒にも開放されている。東棟の屋上へ続く階段には練習中の吹奏楽部員がいて近づけなかったが、西棟の方には誰もいなかった。

 扉を開け、塔屋から屋上に出る。上空には青空が見え、正面には西棟の方の屋上が見えた。幸い、先客はいないようだ。空色を写し取ったような水色の床には、昨日の通り雨の水溜まりがわずかに残っている。しかし床の水はけは良いようで、きっと後数時間もすれば残った水もすっかり乾いてしまうだろう。幸い、今日はよく晴れていた。

 鞄から取り出したフルートを組み立てる。屋上の際、中庭が見える方に近づいていった。校舎に三方を取り囲まれた中庭を見下ろせる位置に立つ。屋上の周囲は、望月の首ほどの高さまである柵で隙間無く囲われていた。その柵の隙間から中庭を見下ろし、フルートを構える。

 そこで望月は、ふと思い直して反対側を向いた。

 中庭に向かって吹くと音が反響しすぎるかもしれない。それに、東棟の窓から誰かが見ている可能性もあった。こうして中庭に背を向けていれば、万が一見られても顔までは判別されないはずだ。

 改めてフルートを顔の前に構えた。ほんのわずか、リッププレートに唇を乗せる。

 半ば無意識のうちに、背に付いた柵に体重がかかる。

 演奏を始めようとした、その時だった。パキ、と何かが割れるような音がした。望月が体重を預けていた柵がわずかに動いたような気がして、彼は慌てて身を引く。

 見ると、柵の一つの位置が微妙にずれている。元々老朽化していたのだろうが、そこに望月が体重をかけたことで、付け根の部分が壊れてしまったらしい。すんでのところで身を引いたから良いものを、あのまま体重をかけ続けていたら、柵もろとも落下していたかもしれない。望月は肝を冷やした。

 幸い、柵は落ちずに残っている。位置は少しずれているけれど、見た目には分からない程度だった。

 本当は教師か用務員かに相談すべきなのだろう。けれど、学校の設備を壊してしまったことを打ち明けるのは望月にとって気が進まなかった。

 結局望月は、そのことを誰にも打ち明けず、自分の胸の内にしまっておくことにした。

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