第2話 あの笛の音は誰のもの


 北条廻が目を覚ましたのは、またしても朝早くのことだった。ベッドに潜ったままスマホに手を伸ばし、時刻を確認する。やっぱり、早く起きすぎた。

 土曜は塾の授業があるが、午後からなので午前中は特にやることもない。普段は八時半頃に起きて朝食を食べるのが廻のいつもの生活スタイルだ。この時間はまだ早すぎる。

 二度寝でもしようかと思ったが、寝付けそうになかった。妙に目が冴えている。廻は仕方なくベッドから抜け出して、寝間着のままリビングへ降りていった。


 リビングでは廻の母が皿を洗っているところだった。寝間着姿の廻を見て一瞬怪訝な顔をしてから、「今日は早いね」と声をかけてくる。

「また今日も目が覚めちゃってさ。何か体内時計がおかしくなってるのかな」

 廻が答えながらソファに座ると、母は「今日も……?」と首を傾げた。

 いつもしているようにテレビを付ける。情報番組のキャスターがニュースを伝えていた。

 その直後、リビングの扉が開かれる。そこに立っている少女は、廻の妹の周だ。その姿を見て、廻は「あれ?」と声を上げた。

 起床したばかりだからか、髪は結ばれていないものの、首から下は制服を着込んでいる。明らかに学校に行くための格好だ。

 吹奏楽部では土日や祝日の活動は行っていないはずだ。大会の直前、追い込みの時期になると土曜に練習を行うこともあるらしいが、今はその時期ではない。

 なぜ妹は制服を着ているのか? それも、こんな朝早くから。

 廻が不審な目つきを向けていることに気づき、周は不快そうな顔をした。

「……なに? 廻。何か変?」

「いや……お前、なんで制服なんか着てるんだ」

「学校行くからに決まってんじゃん」

「部活か?」

「いや、確かに私、ほぼ部活やりに学校行ってるようなところあるけどさ。授業も受けるよ、ちゃんと」

「は?」廻は思わず素っ頓狂な声を発してしまう。「授業って……なに、お前。補習とか受けるわけ?」

 廻が知らないだけで、二年生には土曜に補習があるのだろうか。周の成績は(特に英語周りに)不安が残るので、あり得ない話ではないな、と廻は思った。

 しかし周は、不思議そうな顔をしながら首を横に振った。

「いや、普通の授業だけど。ていうか、廻は受けないわけ? 授業。三年だけ休みとか?」

「なに言ってるんだ。今日は土曜だろ」

 廻が言うと、リビングに一瞬、沈黙が降りた。

 一拍の間を置いて、周の声が響く。

「……えっ?」周は笑いを漏らしながら聞き返す。「廻、本気で言ってる?」

「ほ、本気だけど……」

 廻は少しだけ意気消沈しながら答えた。

 昨日が金曜日だったのは確実に覚えている。今日は土曜日で間違いない。しかし、目の前に立つ周の顔は冗談を言っている風には見えなかった。

 その時、廻の視界にテレビの画面が飛び込んできた。廻の視線は画面の方へ吸い寄せられていく。

 アナウンサーとMCの芸能人が談笑している画面の左上に、現在の時刻と日付が表示されている。

 丸みを帯びたフォントで、日付がはっきりと記されていた。〈六月三十日 金曜日〉と。廻はそれを見て目を丸くする。

 急いでスマホを取り出して、ホーム画面に表示された日付も確認する。そこに書かれている日付も金曜日のものだった。

「マジか……」

 廻は我知らず呟いていた。

「えっ、ちょっと待って」周が廻を見下ろしながら告げた。「廻、本気で言ってたの? 冗談じゃなくて?」

 廻はばつが悪そうにスマホの画面と周の顔を交互に見る。

「いや……まあ、ちょっと勘違いしてて」

 すると、周は笑いを堪えきれなくなったように口元に手を当てた。やがてそれすらもやめて、大口を開けて哄笑し始める。「あははははっ!」という声は家中に響き渡りそうなくらいだった。

「ちょっとお母さん聞いた? 廻、今日が土曜だって勘違いしてたんだけど!」

「聞いた」母は皿を拭きながら頷いている。「まだ若いのに、曜日感覚まで無くなっちゃって……」

「廻、土曜も塾行ってるせいで変になっちゃってるんじゃないの?」

 周はからかうように廻の顔を覗き込んできた。廻は口を尖らせる。

「そんな笑うなよ……。ちょっと勘違いしてただけだって。なんだか……リアルな夢を見て」

「なに、リアルな夢って」

 あいかわらず周は笑っている。廻は何も言い返すことが出来なかった。

 それから朝食を食べている間も廻は散々周から嗤われて肩身の狭い思いをした。廻は急いでトーストを口の中に詰め込み、着替えるために自室へと向かった。

 自室に戻って改めてスマホを見たが、やはり日付は金曜日で変わらなかった。

 再び一階に降りると、周は洗面所で髪をセットしているところだった。もうしばらく時間がかかるだろう。さっき散々馬鹿にされたことへの意趣返しの意も込めて、廻は周を置いて一人で家を出た。時刻は七時よりも前だった。


 廻は学校への道を一人で歩いていく。ふと、地面に違和感を覚えた。アスファルトの隅に、わずかに水溜まりがある。まるで雨上がりのようだ、と廻は思った。しかし、廻の中では、昨日は雨が降っていた記憶が無い。一昨日は夕立があったけれど、昨日は一日晴れていたから、すっかり地面も乾いていたはずだ。

 では、この水溜まりは一体? 廻が知らないだけで、夜中のうちにまた雨が降っていたのだろうか。納得できない思いを抱えながら、廻は螺旋神社の鳥居の前を通り過ぎていく。その日もまた、円谷まどかが参道の掃除をしていた。きっと彼女の日課なのだろう、と廻は思った。彼女と目が合う。廻は小さく会釈をして神社の前を通り過ぎた。

 何かがおかしい、という気がした。

 廻は我知らず、普段より速く足を動かしていた。



 学校に着いたのは七時を少し過ぎた頃だった。廻は昇降口で靴を履き替え、一人で教室に向かう。

 教室のドアを開く。廻の中で記憶が蘇ってきた。廻の中に残る「昨日」の記憶。学校に行き、授業を受けた「金曜日」の記憶が脳裏に浮かんだ。こうして無人の教室に入っていったのを、廻ははっきりと覚えている。

 しかし、現実には今日が金曜日なのだと言う。廻は内心で混乱していた。木曜と勘違いしていた──というわけではない。受けた授業の時間割も、確かに金曜日のものだったからだ。では、あれは一体何だったのだろう? 本当に夢を見ていたのか? それとも……。

 廻はしばし、教室の入り口のところで、電気も付けないまま立ち尽くしていた。我に返った廻はスイッチに手を伸ばし、明かりを付ける。教室の中が蛍光灯の光に照らされた。

 廻の視界に、不意に壁掛けのカレンダーが入ってきた。教室の壁、黒板のすぐ左に貼ってあるカレンダーだ。

 再び記憶が喚起される。あのカレンダーの「謎」を追って、飛鳥たちと議論したり、姫乃たちに話を聞いたり──あの記憶も、全て夢の中のことだったのだろうか?

 そこで、不意に違和感が廻を襲ってくる。

 廻はカレンダーをはっきりと視界の中心に捉えた。そして、思う。

 これは、おかしい。

 カレンダーは再び動いていた。廻の記憶では、カレンダーは確かに元の定位置に戻しておいたはずなのに。今、再び右方向へと位置がずれてしまっている。

 カレンダーを動かしたのは同じクラスに通う姫野と桜庭だったと結論が出ていた。彼女たちは写真撮影のために邪魔なカレンダーを動かし、うっかりそのままにしてしまったのだ。彼女たちがカレンダーを再び動かす理由は無い。では、なぜ再びカレンダーが動いているのか?

 怪訝に思いながら、廻はカレンダーに近づいていく。理由は分からないが、ひとまず元に戻そう。そう思いながら、廻はカレンダーを留めている画鋲に手を伸ばした。

 そして、廻の手は宙空で静止した。

「……なんだこれ」

 廻は思わず独り言を呟いてしまう。それほどまでに、目の前の事態は異常だった。

 カレンダーが、六月のままになっている。

 廻は頭の中から、はっきりと記憶を呼び起こした。放課後の教室で、担任の早瀬は確かに六月のページを破いたはずだ。ミシン目に沿って切り離すタイプのカレンダーだから、一度破いたものを元に戻すことは出来ない。当然、セロハンテープで貼り付けたような痕跡も無かった。

 カレンダーがすり替わっている? 廻は穴が空きそうになるほど、カレンダーの紙面を凝視した。日付のところに早瀬の筆跡で書き込みがされている。廻が記憶する限り、六月の間中ずっと貼られていたカレンダーで間違いが無かった。この几帳面な筆跡は、他の誰でもない早瀬のものだ。

 しかし、なぜ破いたはずのカレンダーが元通りになっているのか。廻は更に混乱した。自分の記憶の方が間違っているのだろうか? しかし、とてもそうとは思えない。これほど鮮明に思い出すことが出来るのだ。そればかりか、破いたカレンダーを早瀬から押しつけられたことさえ思い出せる。しかし、その紙は家に置いてきてしまった。

 廻は力なく画鋲を引き抜き、カレンダーを定位置に戻して画鋲を刺し直した。

 その時、教室の扉が開く。廻が振り返ると、そこには飛鳥千晴が立っていた。一つ結びの三つ編みが肩の横から垂れている。眼鏡の奥の瞳が廻の姿を捉えた。

「おはよう、北条。今日は早いね」

 その台詞に廻は違和感を覚える。まるで、昨日は早くなかったかのようではないか。

「ああ」廻は気のない返事をしてから、カレンダーの方を指さした。「それより飛鳥、聞いてくれよ。あのカレンダー、また動いてたんだ。そっちは何か知らないか?」

「『また』?」飛鳥は怪訝に聞き返して、廻の背後にあるカレンダーへと目を向ける。「そもそも、カレンダーが動いてたって、どういうこと?」

「覚えてないのか?」

 廻は愕然とした。

「覚えてない、も何も、そもそも何の話なのかすら分からない」

 飛鳥は正直に、率直に答えた。

「だから、カレンダーのことだよ。あのカレンダーが動かされてて、どうしてなんだろうって、環も一緒になって色々調べたじゃないか。忘れたのか?」

「えっと……ごめん」飛鳥は当惑したような表情を浮かべた。「本当に知らないから……。それ、誰か他の人と勘違いしてるんじゃない?」

「そんなはずは──」

 言いさして、廻は口を噤んだ。目の前にいる飛鳥の表情は、知っていてとぼけているようには見えない。飛鳥は、そんなに嘘や演技が上手ではない。彼女は本当に知らないのだ。あの〈カレンダーの謎〉のことを。まるで、昨日の記憶が一切合切抜け落ちてしまったかのように。

 いや、あるいは、逆なのか?

 おかしいのは自分の方かもしれない。廻はそうも考える。自分が夢の中のことを、現実と錯覚してしまっているのだろうか?

 そこで教室のドアが開く音がして、廻の思考は中断された。

 そこに立っていたのは、二階堂環だった。彼女はわずかに狼狽したような、不安げな表情を浮かべている。飛鳥が「おはよう」と声をかけても、彼女は小さく頷くだけだった。

 やがて環は顔を上げて、廻と飛鳥の顔を見比べた。わずかに躊躇いがちに、環は声を発する。

「変なこと聞くんだけど……今日って、本当に金曜日?」



 廻は飛鳥を教室に残し、環一人を廊下に連れ出した。西棟の廊下の最奥、北端部に環のことを連れて行く。すぐ横にある空き教室は、現在は使用されていなかった。廻は非常階段への扉を背にして環と向かい合う。どこからか、金管楽器の音が聞こえていた。こことは別の階だろうか、と廻は頭の片隅で考える。

「それで、環は覚えてるの? 昨日のこと……六月三十日のこと」

「覚えてるよ」環は頷いた。「私の記憶では、昨日が金曜日で、今日は土曜日だと思ってた。だけど実際には今日が金曜日だった。妙だと思ったけど、家族もみんな金曜日だって言うし、テレビとか新聞を確認しても金曜日で間違いないみたいだったから、とりあえず学校に着た」

「僕も大体そんな感じだよ」廻は、環の顔を見て少しだけ安堵する。「でも、よかった。環はちゃんと覚えてるんだな」

「千晴は?」

 環の問いに、廻はかぶりを振った。

「ダメだ。綺麗さっぱり忘れてる。例のカレンダーの一件も覚えてない。ちなみに、僕の家族も同じような感じだと思う」

 家族に対しては直接確認したわけではないが、全員今日が金曜日であることに疑問は抱いていなかった。

「まさか」環は一瞬だけ言葉を句切ってから続けた。「私たちだけが、六月三十日をやり直してるんじゃ?」

「それって、タイムリープみたいなことか?」

 古くから映画や小説の中で語られてきた、時間の逆行。同じ時間を、記憶を保持しながら、何度も繰り返す。それと同じことを自分たちはしているのだろうか?

「いや、」環は首を横に振った。自分の中に芽生えた思考を振り払おうとしているかのようでもあった。「そんなのあり得ないよ。そんな……SFみたいな」

「だよなぁ」

 廻は頷いた。廻は元々、現実的な思考をするタイプの人間だ。タイムリープが実在するなんて話、にわかには信じることが出来ない。

「……やっぱり、夢だったんだよ」

 環は呟くように言った。

「それって、僕たちが経験した『昨日』が、全部夢の中の出来事だったってことか?」

「うん」

 環は短く頷いた。

 確かに、先刻までは廻もその可能性を疑っていた。しかしこうして環と話をしてからは、むしろそうではないと信じるようになっていた。

「でも、だったらどうして僕と環が同じ記憶を持ってるんだ? 二人が同時に同じ内容の夢を見るなんてあり得ない」

「確かにあり得ない、けど……。例えば、私たち二人が経験したことが、無意識に作用して、酷似した内容の夢を見せた、とか……それなら、まだあり得そうな気がしない? 少なくとも、タイムリープ云々よりは現実的な気がするんだけど」

「確かにそうかもしれないけど、それは『比較的』って意味であって、偶然の範疇は遥かに超えてると思うよ」

 廻は依然として納得していなかった。それは内心、環の方も同様のようで、二人は廊下の片隅でしかめっ面を付き合わせて黙り込む。

「あ……そうだ」廻が思いつきを口にした。「今が夢なんじゃないか?」

 環は眉を寄せて廻のことを見た。廻は話を続ける。

「僕たちが覚えてる六月三十日は現実の記憶。今、僕たちがいるのは夢の世界なんだよ。これだったら僕と環が両方記憶を持っていることとも矛盾しない」

 環は小さく息をついた。

「それ、本気でそう思ってる?」

「……いや。どうだろう」

 そう問われると、廻ははっきりと返答が出来ない。今、この空間が現実であることを証明するのは難しい。けれど、感覚的に分かることもある。廻の五感は、今立っている場所が現実の世界であることを盛んに訴えていた。

「でも、今の状況を説明できる方法は他に無い。違うか?」

「違わないけど」環は頷いた。「じゃあ、確かめてみる?」

「確かめる? 何を」

「今が夢か現実か」

「どうやって確かめるんだよ」

「ドラマとかでよくやってるのは、アレだよね」環は顔の横に人差し指を立てた。「痛みを利用する方法。刺激を与えて、痛かったら現実、痛くなかったら夢、っていう」

「ああ、あるね」廻は頷いた。「じゃあ、ほっぺたでもつねってみるか」

 自分の頬に指を伸ばす廻を、環は制止した。

「待って。それじゃ意味ないよ。自分で自分に痛みを与えようとしても、どうしても手加減しちゃうでしょ」

「じゃあどうすればいいんだ?」

「他人から痛みを与えてもらえばいい。私がやるよ」

 環はいきなり右手を振りかざした。平手を廻の顔の横に構える。

「ちょ、ちょっと待って。僕が殴られるの?」

「だって、そうじゃないと意味がないでしょ。もしこれが廻の見てる夢だとすれば、私は現実の二階堂環じゃなくて、廻の夢の中に出てくる一登場人物に過ぎないってことになる。だから私が夢か現実か判断したところで、それは廻の判断には何の参考にもならない。それは逆も言えることで、もしこれが私の見ている夢だとしたら、君は単なるキャラクターなんだから、この世界が夢かどうかは関係ない。だから廻の視点から考えれば、自分の痛覚で夢か現実か判断する他に選択肢は無いってこと」

 淡々と語る環の説明を聞いているうちに、廻は段々と丸め込まれたような気分になる。

「納得した?」

 環は廻の顔を覗き上げるように見て、再び手を振りかざす。廻は思わず身構えた。

「理屈は分かったけど、もっと穏便な方法があるんじゃないかな……? 例えばコマを回してみるとか」

 その提案を無視して、環は言った。

「行くよ」

 廻が目を瞑ったその瞬間。スパン!と小気味よい音が廊下に響き渡った。廻の頬に鋭い衝撃が走る。

「いったぁ……」

 廻の左の頬にはヒリヒリとした痛みが後を引き、わずかに紅潮している。

「痛い?」

 環は上目遣いに廻の顔を見上げた。

「痛いよ……」

 廻は環の顔を見下ろしながら、自分の頬を押さえた。

「ごめん。大丈夫?」

 環は廻の頬に手を伸ばそうとする。環の体が不意に近づいてきて、廻は思わず顔を背けた。

「だ……大丈夫だから」

「そう?」

「とにかく」廻は仕切り直すように言ってから、環とわずかに距離を取った。「痛かったってことは、これは夢じゃないってことだよね?」

「まあ、廻がそう思うなら、そうなんじゃないかな」

 環はいきなり突き放すようなことを言った。だったら殴る必要は無かったんじゃないかと言いたかったが、あえて口にすることはしない。

 それに、廻は殴られるまでもなく、すっかり確信を持っていた。やはりこれは現実だ。説明するのは難しいが、そういう感覚がある。現実感、とでも言うべき感覚が。

「それじゃあ、逆もやっておく? 気は進まないけど……」

 廻は環の頬を一瞥した。しかし環はあっさりと首を横に振る。

「私はいい。元から私は、この世界が夢じゃないか、なんて疑ってないもの」

 彼女はそれだけ告げると、教室の方へ歩き去った。廻は唖然としてその背中を見ていた。



 廻は教室で授業を受けていた。目の前には飛鳥の後頭部があり、その先には黒板と、教科書の内容を読み上げる教師の姿がある。

 今は一時限目で国語の授業中だった。担当である三十過ぎの女性教師は、眉間に皺を寄せながら睨み付けるようにして教卓の上に広げた教科書に目を落とし、その内容を音読している。今の単元は川端康成の『雪国』だった。しかし廻の記憶が正しければ、その内容は既に終わっているはずだった。しかし廻と環以外にそのことを覚えている者はいないようで、別段疑問が呈されることもなく授業は進んでいく。

 二時限目以降の授業も、廻が覚えている内容と全く同じものだった。

 授業で教わる内容を既に知っている、という程度の話ではない。教師が黒板に書き記す文言や、授業と関係なく話される雑談の内容、果てはチョークが折れるなどのアクシデントが起こるタイミングまで、廻は全てを知っていた。

 例えば、二時限目の数学の時間、例題として出された問題の解き方が分からないと言って隣の席の小清水有紗が泣きついてくる。そんな細かいところまで、廻の記憶している通りに運んでいった。

 一度教えたところだからか、一度目よりスムースに教えることが出来た。廻の説明を聞いた小清水は何度か小さく頷き、問題を解く。答えが合っていることを確認して礼を言う。どれもこれも、廻が経験した最初の六月三十日と同じ展開だった。

 問題を解いてから、廻は小清水の横顔を盗み見た。どこか真剣な表情をしている。ノートを見ているのかと思ったが、よく見るとその焦点はどこにも結ばれていない。

 そういえば、と廻は思い出す。最初の時も、小清水はどこか様子がおかしかった。何か考え事をしているような素振りを一日中見せていたのだ。

 もしかすると、何か悩みでもあるのだろうか? 廻は尋ねようかと思ったが、ちょうどそこで教師が黒板の前で問題の解説を始めた。私語をすることは出来なくなり、廻は黒板の方へ目を向けた。


 落ち着かない気持ちを抱えたまま、廻は昼食の時間を迎えた。

 鞄の中から弁当箱を取り出す。中身の献立は、廻が記憶しているものと変わりが無かった。

 すぐ近くでは、環が飛鳥や小清水たちと机を付き合わせて昼食の準備をしている。廻が横目に視線を送ると、環と一瞬目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。

 この異常事態──未来の記憶を持っているという怪現象について知っているのは、廻と環しかいない。だから廻としては、なるべく環と情報を共有しておきたいところだった。しかし飛鳥たちが聞いている前で、正夢だタイムリープだのと話すわけにもいかない。

 その時だった。廻の前に突然、簡素なアルミの弁当箱が置かれた。

「北条。席借りるぞ」

 ピンクのパーカーに身を包んだ男子生徒の姿が視界に飛び込んでくる。早乙女啓は、椅子を引っ張ってきて廻の正面に座った。先に弁当箱を置いているあたり、断られることは想定していないらしい。廻も早乙女が来ることは分かっていたから、最初から机のスペースを空けておいた。

 早乙女は箸を手に取り、弁当箱の中身を突きながら話をする。廻は黙々と米を口に運びながら、頭では別のことを考えていた。

 もはや、今の状況が夢だという発想は毛ほども浮かばなくなっていた。これは現実だ。それは間違いない。しかし、ならば自分はこの時間を二度体験していることになる。

 もしかすると、本当に自分たちは時間を遡ったのではないか? 廻の頭に、そんな荒唐無稽な考えが入り込んできた。

「──おい、聞いてるか? 北条」

 目の前から聞こえてくる声に、廻は我に返った。早乙女の鋭い目が廻の顔を見ている。

「えっ……ああ、聞いてるよ。『1942』が五十円で遊べるゲーセンを見付けたって話だろ?」

 廻が答えると、早乙女はわずかに目を見開いた。

「……知ってたのか?」

 廻は、しまった、と思った。が、時は既に遅かった。早乙女はまだ、そのことを廻に話してはいなかったのだ。廻は一回目の記憶を呼び起こし、無意識に早乙女との会話を先回りしてしまったのだ。

「いや……僕も前にそのゲーセン、通りかかったことがあって」

「知ってたなら俺にも教えろ」早乙女は一瞬、面白くなさそうな顔をした。「そうだ、今度なんかやりに行くか? 久々に『バーチャファイター』で勝負するってのはどうだ」

「僕は受験が終わるまでゲーセンは行かないって決めてるから」

「つれないな」

 早乙女は廻の答えを予期していたのか、それほど残念がる素振りも見せなかった。

 不意に、早乙女は廻の弁当箱に目を向けた。

「その唐揚げ、うまそうだな」

「食べるか?」

 廻は弁当箱を差し出した。

「……いやにあっさりしてるな」

 廻はこの弁当を既に一度食べているし、そもそも唐揚げ自体昨晩の残り物だ。口にするのはこれで三度目になる。母の作る肉料理に飽きは来ないが、さすがに新鮮味は薄れてきた。だから早乙女にあげてしまっても惜しいとは思わない。

 その辺りの事情を説明するわけにもいかず、代わりに廻はこう告げた。

「明日はお前の誕生日だろ。僕からの誕生日プレゼントだ」

「そういうことなら遠慮無く」

 早乙女は唐揚げを口の中に放り入れた。

 それからしばらく経った頃だった。不意に、すぐ側にいる女子三人の方から声が聞こえてきた。飛鳥の声だ。

「──小清水さん?」飛鳥は小清水の顔を覗き込むように見ていた。「大丈夫? なんだかぼうっとしてるみたいだけど」

「えっ?」小清水はハッとして顔を上げた。「そ……そうかな?」

「そうね」と、環も頷いた。「何か考え事?」と、小清水へ向けて首を傾げる。

 廻は聞き耳を立てながら、思った。この会話は「一度目」の時には無かったものだ。

 廻が聞いていた限り、環は会話の流れを変えるような発言はしていなかった。会話の流れを変えたのは飛鳥だった。だが、飛鳥は一度目の記憶は持っていないはずだ。

 そのとき、廻の頭の中に一つの仮説が生まれた。

 一度目の六月三十日と、現在──つまり、二度目の六月三十日は、細かいところで違いがある。例えば、〈カレンダーの謎〉のこと。二度目の世界では廻がカレンダーを先に動かしてしまったから、そもそも飛鳥はカレンダーが動いていたことに気づいてすらいなかった。だから〈謎〉のことで頭を悩ませることもなく、小清水の様子を心配する余裕が生まれた──こういうことではないだろうか。

 廻の仮説はさておき、小清水は環の問いに答えた。廻は聞き耳を立て続ける。

「まあ、少しね。大した話じゃないんだけど……部活のことで」

「吹奏楽部の?」

 飛鳥は聞き返した。小清水はそれに答えようとしてさらに口を開く。その時だった。

 廻の背後で、カタン、と音がする。橘葵が隣の席のクラスメイトにお茶をかけられたのだ。平謝りする彼女に、恐縮する橘。廻が記憶している通りだった。

 教室の視線が橘の方へ集まる。小清水たちも、それは同様だった。彼女たちの会話は中断され、そのまま昼食の時間は終わった。



 昼休み。廻は教室で一人暇を持て余していた。環と話をしようと思ったが、彼女は「もう少し一人で考えたい」と言って教室を出て行ってしまった。

 確かに、それも判断としては間違っていないのかもしれない、と廻は思った。今の状況に混乱しているのは、きっと環も同じなのだろう。混乱している者同士が顔を付き合わせて話しても、混乱を深めるだけだ。

 廻は教室の窓際に立ち、眼下の景色を見下ろした。校舎の西棟は公道に面している。二車線の車道を挟んで、向こう側に見えるのは川堤だった。道堂市を南北に流れる二級河川・千日川だ。川面の水が太陽光を反射して煌めき、草の生えた堤防の上を、ランニングウェアに身を包んだ女性が走って行く。犬の散歩をしている初老の男性もいた。右から左へ、あるいは左から右へ行き交う人々の流れを、廻は目線だけで追った。

「廻くん」

 ふと、背後から声をかけられた。振り返ると、そこには小清水が立っていた。

「元気出しなよ。人生これからだよ?」

 彼女は乱暴に廻の背中をバシバシ叩いてきた。突然のことに面食らいながら、廻は聞き返す。

「なんの話だよ」

「誤魔化さなくていいって。聞いたよ? 廻くん、環ちゃんにフラれたんでしょ?」

「は?」

「今朝、廊下で廻くんが環ちゃんに思いっきり平手打ちされてたって、噂で聞いたから」

「それは……」

 廻は一瞬、二の句を告げなかった。それは事実だったからだ。考えてもみれば、いくら早朝とはいえ学校の中なのだから、誰かに見られていてもおかしくはない。特にこの小清水は噂を聞きつけるのが早いのだ。

「ていうか廻くん、あの温厚な環ちゃんに平手打ちされるとか、なに言ったの?」小清水は尋ねてくる。「余計なお世話かもしんないけどさ。悪いと思ってるなら、ちゃんと謝っといた方がいいよ。玉砕したんだとしても、友達でい続けることは出来るんだからさ」

「違う。それは誤解だ。そもそも僕は環にフラれたわけじゃないし」

「じゃあ尚更、なんで平手打ちされたわけ?」小清水は純粋に疑問をぶつけてくる。「やっぱり、廻くんがなんかしたんじゃないの? それとも、環ちゃんが正当な理由も無く一方的に廻くんのことをボコボコに?」

「いや、そういうわけでもないんだけど……」

 廻はどう説明したものか困り果てて、廻は頭を掻いた。

 そこへ、二人の横から突然声がかかった。

「その話は誤解」

 いつの間にか環が教室に戻っていた。先刻までの会話を聞いていたらしい。廻と小清水は同時に環の方を振り向く。

 小清水を説き伏せるようにして、環は淡々と続けた。

「確かに私は廻の頬を平手で殴ったけど、それは蚊がとまってたから。有紗が想像してるようなことは何も無い」

「そう?」

 小清水は疑うような視線を環に向けている。

「そういえば、」環は半ば強引に話題を変えた。「さっき言いかけてたこと、なんだったの?」

「さっき?」

「お昼食べてる時に、部活のことで悩み事があるって言ってたじゃない」

「ああ、そのことね」

 小清水は頷いた。環はすかさず、たたみかけるように質問を重ねる。

「さっきは聞きそびれたけど……なにかあったの?」

「いやぁ……大した話じゃ、ないんだけどね」そう前置きして、小清水は話した。「今朝、少し妙なことがあって。フルートの音を聴いたんだよ」

 小清水が担当する楽器はフルートである。妹である周も同じ楽器を担当しているから、廻もそのことはよく知っていた。

「それって朝練中のことだろ? 何も妙なことは無いと思うんだけど」

 廻は言った。

「そうなんだけど」小清水はかぶりを振った。「そのフルートを吹いてたのが誰なのかが分からないの」

「どういうこと?」

 環が尋ねた。小清水は詳細を話し始める。

「吹部の朝練は自由参加で、いつも各自で好きな場所を使うことになってる。それで、私はいつも二階の奥にある空き教室を使ってたんだけど、今朝はたまたまその部屋が使えなかったんだよね。だから別の練習場所を使おうってことで、四階の多目的室にしよう!って思いついた。あそこは他の部員もあまり使ってないはずだから、空いてると思って」

 廻は校内の様子を頭に思い浮かべる。今廻たちがいる教室があるのは三階。その一つ上の四階は、屋上を除けば最上階に当たる。

 四階の多目的室──正確には〈第二多目的教室〉という名前の部屋は、西棟四階の奥に位置している。授業で使われることはほとんど無く、多くの生徒にとっては用の無い場所で、廻も近づいたことはあまりなかった。

 小清水は話を続ける。

「でも、廊下を歩いていったらフルートの音が聞こえてきてね。あ、先客がいるんだなって思ったの。でも、同じフルートパートなら、一緒に練習してもいいかな、って思って。多目的室のドアをノックしてから、部屋に入ろうとした。でも、部屋には鍵がかかってた。

 でも、音は確実に部屋の中から聞こえてた。つまり、中にいる人は内側から鍵をかけてたってこと。もちろん、普通は練習の時に鍵をかけて立てこもるような真似はしない。扉越しに呼びかけたけど、反応が無かった。フルートの音も聞こえなくなって……変だなと思ったから、今度は奥の方──教材室の扉に回ったの」

 第二多目的教室は〈教材室〉という部屋に隣接し、直結している。教材室はその名の通り教材を保管するための部屋だが、位置的に不便なことから現在は使用されておらず、中には何年も(もしかすると何十年も)使われていない教材が数個放置されているだけになっていた。広さは通常の教室の三分の一程度の、細長い部屋だ。廊下に面した壁だけでなく、多目的室に面した側の壁にも扉があり、そこから二つの部屋を行き来することが可能な構造になっている。

「教材室の鍵はかかってなかったの?」

 と、環が聞いた。

「あっちの扉は鍵が壊れてるんだよね。使ってない部屋だから、学校側からも放置されてるみたい。ちなみに、多目的室に通じる方の扉には元々鍵は付いてないよ」

「そう。分かった」環は小清水へ目線を送る。「続けて」

「それで、教材室の方を回って、多目的室に入ったら、もうそこには誰もいなかったんだよ」

「逃げたってことか?」

 廻は聞いた。本当にフルートを吹いていた人物が多目的室の中にいたなら、小清水が回り込んでいる間に逃走したとしか思えない。

 小清水も頷いた。

「きっとね。多目的室から廊下に続く扉は開いてた。だから、そこから逃げたんだと思う。廊下に出て探したけど、『音の主』は見付からなかった」

「勘違いってことはないのか? 本当は隣の教室で吹いてたのを、多目的室から聞こえた音と勘違いした……とか」

 廻は思いついた可能性を口にした。しかし、小清水はブンブンと勢いよく首を横に振ってそれを否定する。

「それはあり得ないよ! わたしはちゃんとハッキリこの耳で聞いたし、もし多目的室の中が無人だったなら、閉まってた扉が開いてたことに説明が付かない」

 最初に小清水が部屋に入ろうとした時、多目的室の扉は閉まっていた。しかし教材室側から部屋に入った時、最初に入ろうとした扉は開け放たれていた。

 つまり、多目的室に小清水以外の何者かがいたことを示す証拠に他ならない。

「それに、」小清水は更に付け足した。「私以外にもちゃんと証人がいるから」

「誰のこと?」環は尋ねる。

「望月くんだよ」

 意外な名前が出てきて、廻は少し驚いた。同じクラスの望月聖人のことだろう。教室を軽く見回したが、どうやらどこかに出払っているらしい。姿を見付けることは出来なかった。

「廊下で音の主を探してる時に、たまたま望月くんとすれ違ったんだ。それで、フルートを持った子が通らなかったか、って聞いた。そしたら、望月くんも確かに見たって言ってたよ」

「望月のやつ、そんな時間に四階でなにしてたんだよ」

 廻が疑問を口にしたが、小清水も首を傾げた。

「さあ? カバン持ったままだったから、教室寄らずに直接来たんだと思うけど。委員会とか部活とかじゃない?」

 どうやら、その件については深く考えていなかったようだ。

「まあ、そのことはいいや」廻も小清水に倣って、その件は追求しないことにする。「それで、すれ違ったのが誰だったかも聞いたの?」

 しかし小清水は心底残念そうにかぶりを振った。

「いや……それがね。一瞬だったから、顔まではちゃんと見てないって。まあ、望月くんはフルートパートに知り合いもいないし、さもありなんって感じだけど」

「ふうん」一通り話を聞き、廻は腕を組んで唸った。「確かに妙だな。多目的室は練習に使っちゃダメとか、そういうわけじゃないんだよね?」

「ううん。基本的に他の生徒の迷惑にならない範囲なら、どこで練習してもいいことになってるから」

「だとすると、」環は言った。「フルートを吹いていた人が逃げ出す理由が分からない」

「そう!」小清水は、我が意を得たりというふうに指をさした。「そこが分からないんだよ。ついでに言えば、音の主が誰だったのかも」

「フルートパートって、確か四、五人だろ。直接聞けばいいじゃないか」

 廻は言った。

「当然聞いたよ。でも、全員『自分じゃない』って言うんだもん」

 そうなると、誰かが嘘をついているということだろうか? 廻は理由が分からず困惑する。

「それは何時頃のことだったか覚えてる?」

 環が尋ねると、小清水は口元に手を当てて記憶を辿った。

「えっとね……。確か、七時十五分頃だったと思う。時計見て確認したから覚えてるよ」

 小清水の左腕には、ピンクの革ベルトに金メッキのケースの、ガーリーな時計がはめられていた。普段から彼女が愛用している時計だ。いつだったか「小さいけれど、電波式だから時間は正確だ」と自慢げに言っていたのを廻は思い出した。

「時間が正確なら、調べようはあるかもしれない」

 環は言った。「どうやって?」と、小清水は身を乗り出す。

 環は口元に微かな笑みを乗せて答えた。

「アリバイ確認」



 アリバイ。日本語で言うと、現場不在証明。何らかの事件が起きた際、その現場にいなかったことを示し、無罪を立証すること。

 今回の場合、「犯人」のやっていたことはただフルートを吹いて多目的室から逃走しただけなので、「事件」と呼べるかがまずもって意見の分かれるところだったが、結局のところ廻たちがやろうとしていることは「アリバイ確認」に他ならなかった。

 廻と環は小清水に連れられて教室を出る。向かった先は、一つ隣の部屋。三年二組の教室だった。

 小清水は物怖じもせずに堂々とよその教室へ足を踏み入れる。廻たちもその後に続いた。

 目当ての生徒は、廊下に近い列の自席に座り、友人たちと談笑していた。どこかミステリアスな雰囲気を纏った、大人っぽい印象の少女である。フルートパートの一人、宮内香夜子がそこにいた。

 宮内は小清水たちの来訪に気づくと、級友との会話を切り上げて顔を向ける。椅子の背もたれに肩肘を置き、小首を傾げるようにして小清水たちを見上げた。

「どうかした? 有紗」

 後ろに控える廻たちのことも一瞥したが、あえて事情を尋ねることはしない。

「今朝のこと、もっと詳しく聞きたくて」

 小清水は言った。「ああ、あのこと」と宮内は頷く。

「多目的室から逃げたっていう、謎のフルート吹きのこと?」

「そう」

「有紗、まだ気にしてたんだね」

「だって気になるんだもん」

 小清水が言うと、宮内は苦笑した。

「まあ、気持ちは分かるけど。私は力にはなれないと思うよ。西棟には行ってないし」

 すると、後ろで話を聞いていた環が口を挟んだ。

「七時十五分ごろはどこで何をしてたの?」

 突然質問をしてきた環を見て、宮内は一瞬面食らったような表情をしたが、すぐにニヤリとした笑みを浮かべて環のことを見返した。

「なるほど。アリバイを調べてるってことか」

「理解が早くて助かる」

 環は言った。昼休みはそれほど長いわけではない。他の部員にも証言を聞くなら、なるべく手短に済ませるのが望ましい。

「私は今朝は東棟で練習してたよ。屋上へ続く階段の、踊り場のところね。ちょうど始めたのが七時十分ごろだったから、十五分には確実にそこにいた。あの辺は滅多に人も通らないからね」

 朝からわざわざ屋上に向かう生徒は少ない。確かに集中して練習するには適した環境だろう。

「じゃあ、証明は出来ないんじゃ?」

 廻は尋ねた。誰にも目撃されていないなら、アリバイとしては成立しない。

 宮内は廻の方へ目を向けて首を振る。

「いや、三香と一緒に練習してたから、証明は出来る」

 小清水が廻たちへ向けて補足した。「三香っていうのは、うちの部員ね。トロンボーンの三年の子」

「どう?」宮内は小首を傾げる。「分かった? 謎のフルート吹きの正体は、私じゃないってこと」

「うん、そうみたいだね……」小清水は頷いて、それから宮内に向かって尋ねた。「ちなみに、香夜子は誰だと思う? 周ちゃんか、芹奈ちゃんか……」

「全部有紗の狂言って可能性もあるけど?」

 宮内はニヤリと笑いながら言った。「そんなはずないじゃん!」と小清水が否定すると、宮内はフッと息を吹き出して笑った。

「言ってみただけだよ。私に分かるわけないでしょ。そもそも、そのフルートの音も聞いてないんだし」

「それもそっか」

「ちなみに、有紗」宮内の双眸が、鋭く小清水の表情を捉える。「そのフルート吹きの正体が分かったら、どうするつもりなの?」

 小清水は、一瞬虚を衝かれたように固まって、それから答えた。

「別に……どうもしないと思うよ。ただ気になるってだけで。なんでそんなこと聞くの?」

「だってその人、有紗が来たのに気づいて逃げたんでしょ。なにかしらの隠し事があるんじゃないかって思うのが自然じゃない。北条か白雪かは知らないけど、きっと何かの事情があるんだと思う」

「でも、その事情が何なのか分からないと、対応することも出来ない」小清水は珍しく真剣な表情になって声を潜めた。「……もしかしたら、悪いことをしてるのかもしれないし。もしそうなら、パートリーダーとして見過ごせない」

「そう」宮内はあっさりと頷いた。「分かった。私も、何か情報があったら教えるよ」

「うん。ありがとう」

 小清水は教室を後にする。廻と環もその後に続いた。


 廻たちは階段を降りて、二階へやってくる。廊下でばったりと出くわしたのは、廻がよく知る人物だった。

「有紗先輩! どうしたんですか? こんなところで」

 北条周は、パタパタと上履きの足音を響かせながら、小走りに小清水の方へと駆け寄ってくる。家ではボサボサだった髪の毛は綺麗に整えられ、おさげに結われていた。

 期せずして小清水に会えた喜びのためか、破顔して彼女のことを見上げる。それから、ようやく後ろにいる二人の存在に気づいたかのように目を向けた。

「あれ、廻じゃん。環さんも。なにしてんの?」

 廻は答えて言う。

「お前も小清水から聞いてるだろ。多目的室に出た、謎のフルート吹きの話」

「あー、先輩が今朝言ってたやつですよね?」周は小清水の方を向いて尋ね返した。「あれ、結局誰か分かったんですか?」

 再び廻がそれに答える。

「いや、今調べてるところだ。一応聞いておくけど、お前じゃないよな?」

「私が有紗先輩に隠し事なんてするわけないよ。ですよね先輩?」

 周は目をぱちくりとして小清水のことを見た。

「そうかもしれないけど、念のためにね。えっと……周ちゃんにも、アリバイってやつ、確認すればいいのかな?」

「その必要はない」環は言った。「周に関しては、私が把握してるから」

「えっ、どういうこと?」

 周も意外そうに環の顔を見た。環は説明をする。

「周が今朝家を出たのは七時五分くらいでしょ。私はそのくらいの時間に家を出る姿を確認してる。二階の窓からたまたま見えたの」

「ああ、うん。そのくらいだったかも」

 周は頷いている。廻は環の言葉を聞きながら、今朝──彼にとっては二回目の、という意味だが──のことを思い出した。廻が家を出たのは六時五十分ごろのことで、周はその時まだ身支度をしている最中だった。最終的に周が家を出たのは廻から遅れること十分ほど経ってからだった、ということか。

「周たちの家から学校まで、最短経路で普通に歩いたら十五分くらい。全力で走れば五分くらいは縮まるかもしれないけど、それでも十分前後はかかると思う。それに、周は今朝、家を出る時にフルートを持ってなかった。だから音楽室に置きっぱなしにしてるはず。つまり、学校に着いてから音楽室で自分のフルートを回収して、そこから更に四階にある多目的室まで向かう時間も加味しなくちゃならない。とてもじゃないけど七時十五分には間に合わないと思う」

「確かに、実際に朝練始めたのは七時半くらいだったかな。十五分は、まだ通学路にいたと思う」それから周は小清水の方へ向き直った。「じゃあ、これで分かってもらえましたね? 私が先輩に隠し立てするような後輩じゃないってこと」

「大丈夫だよ。最初から分かってるし」

 小清水は周の頭を優しい手つきで撫で回している。普通は兄のいるところでそういうことはしないと思うのだが、今の周には廻たちのことは完全に眼中に無いらしい。

 小清水が撫でるのをやめたところで、周は話を再開させた。

「それにしても……気になりますね。どうしてその人は隠れるような真似をしたんでしょう。ただ朝練してただけなら、逃げる必要なんて無いと思いますし」

「そうだね。それはわたしも気になってる」

 と、小清水は頷いた。周は真剣な表情で顎に手を当て思案している。

 小清水から聞いた話だと、フルートを吹いていた人物は明らかに彼女から身を隠すように動いていた。そもそも最初、多目的室のドアに鍵をかけていた点からも、人目を憚るような意図を感じる。周の言う通り、単純に練習していただけなら、そんなことをする必要は無いはずだ。

「あ、一つ思いついたかも」

 周は唐突に顔を上げた。廻は聞き返す。

「何をだよ」

「当然、フルートを吹いていた人が姿を隠した理由だよ」

 得意そうな表情で、周は人差し指を立てる。それを指揮棒のように振りながら、周は自身の立てた仮説を披露した。

「有紗先輩が音を聞いたんだから、中で誰かがフルートを吹いていたのは間違いない。だけど、中にいるのは一人だけじゃなかったんだよ。きっとその人は、多目的室に誰かを連れ込んでいた。要するに密会だね、密会」

 その発想は廻には無いものだった。確かに小清水は多目的室の中を目で確認したわけではない。実際に部屋の中に何人いたのかは分からないのだ。

「しかしなぁ……『密会』だなんて大げさな」

 廻の突っ込みを無視して、周は推理を続ける。

「お相手はきっと吹部以外の人だね。同じ吹部の部員だったら、一緒に練習してたって誤魔化せばいいわけだから、わざわざ逃げる必要も無いし。そもそも、うちの吹部は女子しかいないからね。女の子同士だったら、そういうコソコソするような真似はしないと思う」

 最後の方は完全に周の持論だったが、納得できる部分もあると廻は思った。

「どうですか? 私の推察!」

 周は小清水の顔を見て双眸を煌めかせた。

「まあ、それくらいのことだったら平和だよね」

 と、小清水は答えた。


 周と別れてから、廻たちは更に階段を下っていく。小清水は尋ねた。

「環ちゃん、さっき周ちゃんが言ってたこと、どう思う?」

「推測として妥当かどうかってことなら、妥当性はあると思う。完全に正しいとは言い切れないけど」

「でもなぁ」小清水は唸った。「わたしが知る限り、フルートパートにそういう浮ついた話って無いと思うんだよなぁ」

「それは小清水が知らないだけじゃない?」廻は言った。「そもそも、周の推理が正しいなら、その人は『密会』の相手との関係性を隠したがってることになる。知らなくて当たり前だろ」

「まあ、そうだよね」小清水は、わずかに物憂げな顔を一瞬だけ見せた。「パーリーだからって、みんなのこと全部把握できるわけじゃないんだし」

「それで、」環は言った。「このまま一年の子にも話を聞きに行くの?」

「うん」小清水は平生の表情に戻って頷いた。「とは言っても、次で最後だから、もう確定してるようなものなんだけど……」

 フルートパートの部員は、小清水を含めて四人。うち二人には既にアリバイがあることが証明されたから、消去法で最後の一人が〈謎のフルート吹き〉の正体ということになる。

「ここまで来たんだから、一応話は聞いておいた方がスッキリするだろ」

 廻は言った。そうだね、と頷いて、小清水は階段を下っていった。


 一年一組の教室の前の廊下。小清水に呼び出された少女──白雪芹奈は、恐縮しながらそこに立っていた。

 まだ子どもの面影を残す、おっとりとした印象の少女だった。慣れない上級生相手に怯えたような目をしている様子は、動物園にいるウサギかモルモットのようでもあった。

「えっと……な、何かあったんですか……?」

 白雪はおずおずと小清水のことを見上げた。小清水は彼女を落ち着かせるように、優しげな声音で告げる。

「今朝聞いたこと、覚えてる?」

「今朝って……あ、朝練の後に言ってたことですか? 多目的室で朝練してたのが誰かって……」

「そう。そのことなんだけど、やっぱりあそこにいたのって、芹奈ちゃんだったんじゃないかなって思って」

「えっ……あの……でも、違うんです。本当に」

 白雪は答えた。しどろもどろなのは、突然疑いを向けられたことに対する当惑のためだろう。むしろ彼女は嘘をついているようには見えないと廻は感じた。

「今朝の七時十五分、どこで何をしていたか教えてくれる?」

 環は口を挟んだ。突然見知らぬ上級生に話しかけられ、白雪はぴくりと肩を震わせて吃驚する。ややあって、白雪は環の質問に答えた。

「えっと……私は、今朝はずっと音楽室で練習してたので。練習を始めたのが七時くらいで、それから八時ごろまでずっと吹いてたから、十五分も音楽室にいたはず……だと、思います」

「あ、そっか。確かに、わたしが楽器取りに行った時もいたね」

 小清水は頷いている。

「は、はい。私も、先輩が来たの覚えてます。あと、音楽室には他にも人がいたので、その人たちに聞けば、多分証明できるんじゃないかと……」

「分かった」環は頷いた。「君もアリバイはあるみたいだね」

「じゃあ、どういうことだ?」廻は首を捻った。「全員にアリバイがあることになるぞ」

 小清水は黙って何か思案しているようだった。

 彼女の気持ちも廻には分かるような気がした。全員にアリバイがあるということは、誰かが嘘をついているということだ。目の前から逃げ出したばかりか、巧妙な嘘を弄してそれを誤魔化そうとまでしている。となると、背後にある事情もそれなりに複雑で厄介なのではないか、と考えるのが自然だろう。

「やっぱり、わたしの勘違い?」小清水は独り言のように小さく呟いた。「でも、望月くんだって見たって言ってたし……」

 すると、その名前に反応して、白雪が尋ねた。

「望月……。もしかして、望月聖人さんですか?」

「ああ、うん。その望月だけど。芹奈ちゃん、知ってるの?」

「あ、はい。一応……小学校が同じだったので」

 その言葉が少し引っかかって、廻は尋ねる。

「珍しいね。普通、学年が二つ違ったら、あまり関わることもないと思うけど」

「あの……実は、小学校で音楽クラブっていうのに入ってて。みんなでちょっとした合奏とかするようなクラブだったんですけど。望月さんは、そこの先輩だったんです。別に、今はもう、ほとんど関わりもないんですけど。ちょっと名前聞いて思い出して。小清水先輩も、望月さんと知り合いだったんですね」

「そんなに話すわけじゃないけど、クラスメイトだからね」

 と、小清水は答えた。

 廻は頭の中で今得た情報を確認する。白雪と望月は旧知だった。この情報には何か意味があるだろうか? 白雪自身は「今はもう関わりがない」と言っていたが、それが本当かどうかは廻には判別が付かなかった。

「あの……他には、なにかありますか……?」

 白雪は、恐る恐るといった体で尋ねてくる。小清水は柔和な笑みを浮かべながら答えた。

「いや、もう大丈夫。昼休みに邪魔しちゃってごめんね?」

「いえ、私は全然……です。それじゃあ、失礼します」

「うん。ありがとー」

 何回もお辞儀をしながら、白雪は教室の中に戻っていった。



 その日の五限目は美術の授業だった。

 東棟一階にある美術室に移動する。今の課題は静物の鉛筆スケッチだった。廻の目の前にはリンゴの形をした石膏像が置かれている。廻は鉛筆を動かしてその形状や陰影をスケッチブックに描いていく。

 廻の記憶の中では、既に一度このモチーフを描いたことがあった。リンゴの形状から、机に落ちた影まで描き込んだ記憶がある。しかし、その事実は既に無かったことにされていた。今、廻は一からリンゴの絵を描いている。積み上げたはずの成果が無に帰されるというのは、あまり気持ちの良いものではない。廻の手の動かし方も、自然と気持ちの入らないものになる。

 美術室での授業だが、席次は普段の教室と変わらない。廻の横では、小清水が真剣な表情で石膏のリンゴを見ている。モデルの石膏像は、隣同士の生徒二人で一つを共有することになっていた。

 小清水は廻のスケッチブックを覗き込んできた。

「うわっ、廻くん描くの速っ」

「そう?」

 廻は既にリンゴの形状を描き終えたところだった。

「でも丁寧さではわたしの方が上だね」

 小清水は得意そうに言った。確かに彼女のスケッチは線の一つ一つが精緻に描かれている。

 それから彼女は石膏の方へ向き直り、鉛筆を手に取った。先の尖った鉛筆をスケッチブックの上に乗せ、それを動かしながら再び口を開く。

「あのさ、さっきの話だけど」

「フルートの話?」

 廻が聞き返すと、小清水は頷いた。

「うん。『アリバイ』は誰にも無かったわけじゃん? どうしてなんだろうって、ずっと気になってて」

 気になっているのは廻も同じだった。

「普通に考えれば、誰かが嘘をついてるってことになるよな」

「だけど、嘘をつくような余地が無いからアリバイって言えるんじゃないの?」

「普通はね」廻も鉛筆を動かしながら答える。「でも、何らかの方法で誤魔化すことは出来るかもしれない。ほら、刑事ドラマとかでもよくあるだろ? アリバイトリックってやつ」

「トリックって言うと大げさだなぁ」小清水は苦笑した。「けど、具体的にどんな方法?」

「例えば、三年の宮内さんが嘘をついてるとしたら話は単純だと思う。あの人のアリバイは、一緒に練習してたっていう後輩が証人だろ? 僕たちはその後輩に確認を取ったわけじゃない。咄嗟にでまかせを言ったのかも」

「でも、それでその場は誤魔化せるとしても、その後でわたしたちが三香に確認しに行った可能性もあったわけだよね?」

「同じ部活だから、連絡先くらい知ってるだろ? こっそりLINEか何かで口裏を合わせるようにお願いすればいい」

「確かに……。じゃあ、嘘をついてたのは香夜子?」

「分からないよ。他の二人のどっちかかも」

「でも、例えば周ちゃんがフルート吹きの正体なら……」廻は後ろを少しだけ気にするような素振りを見せた。「環ちゃんが嘘を言ってることになるよ?」

 環は無表情に絵を描き続けている。廻と小清水の会話を気にしている素振りは無い。

「僕も環と周がグルになって嘘を言ってるとは思ってないけど……。例えば、時間の方を誤魔化したのかもしれない。フルートの音を聞いたのが七時十五分って言ってたけど、それがそもそも誤認で、本当はもっと後の時間だった、とか……」

 廻は自分で言いながら、これはあり得ないな、と思った。小清水は電波式の腕時計で時間を確認しているから、「七時十五分」の時間を動かすことは不可能に近い。

「まあ、周に限ってお前に嘘をつくとは思えないけどな」

 と、廻は言った。そちらの台詞は自分でも真実味があるような気がした。

「じゃあ芹奈ちゃんは?」

 と、小清水は聞いてくる。

「あの一年の子……白雪さん、だっけ。あの人が嘘を言ってる可能性も無いとは言えないな」

「でも、ずっと音楽室にいたって言ってるんだよ? 現にわたしも見たし」

「朝の音楽室は部員が何回も出入りしてるはずだよね?」

「そうだね。楽器を取りに行くには音楽室に入らないといけないし、音楽室で朝練やってたのも芹奈ちゃんだけじゃなかったし」

 廻は頷いた。

「人が出入りしてたなら、アリバイも結構曖昧ってことになる。一瞬抜け出したとしても、案外誰も気づかなかったかも」

「うーん」小清水は首を捻った。「そう考えると、アリバイって言ってもそこまで正確じゃないってことか。けど、そこまでして嘘をつく理由って?」

「さあ」廻は答えた。「よっぽどお前に知られたくない事情があるんじゃないのか」

「そうかな……」

 小清水は複雑そうな表情で自分のスケッチブックを見つめている。

 廻は尋ねた。

「小清水。お前はフルートの音を聞いたんだよな」

「うん」

「だったら、何となくでも正体が分かるんじゃない? 同じフルートでも人によって音色が違うはずでしょ。音の雰囲気とか、あるいはもっと単純に、上手いとかそうでもないとか」

 素人が聴いても、楽器の巧拙は案外分かるものだと廻は思っていた。周のフルートは、入部した直後からすると格段に上達したが、それでも小清水には及ばない。定期演奏会で聴いた小清水のソロは音が滑らかで、吹き手によってこうも違うものなのかと舌を巻いた記憶がある。

 廻は小清水の横顔を見た。彼女の手が止まっている。

「いや……」小清水は答えた。「分からなかった。一瞬聴いただけだし」

「そうか」

 扉越しに聴いただけだと言っていたし、分からないのも仕方ないかもしれない。

 それから二人は黙々と作業を続け、それ以上フルートの件について話すことはなかった。



 放課後。

 小清水は早々に部活に向かった。廻と環は、二人横並びで廊下を歩いている。どこへ向かうというわけでもなかった。ただ、教室にはまだ担任の早瀬や他の生徒もいて、二人きりで話すのには適していなかった。

「廻」歩みを進めながら、環は口を開く。「有紗が言ってたフルートのこと、考えてたでしょ」

「まあ、それも気になってないって言ったら嘘になるけど」

 廻は答えた。

「さっきの美術の時間も二人で話してたもんね」

「やっぱり聞いてたのか」

「勝手に聞こえるんだよ。後ろの席だから」

「それで、どう思った? 誰かがアリバイを誤魔化してる可能性はあると思う?」

「可能性だけって意味ならね」

 環は含みを持たせた返答をした。

 ふと、廻は先刻の小清水の表情を思い出した。最後に廻が、フルートの音について聞いた時の彼女の表情は、まるで瞳から光が失われたかのようでもあった。彼女が語ったことは、本当に真実だったのだろうか?

「廻も本当は分かってるんでしょ」環は目を合わせないまま告げた。「今一番考えなくちゃならない問題は、他にあるって」

「分かってるよ。〈繰り返し〉の件だろ?」

 環は小さく頷いた。

「……やっぱり、夢なんかじゃない。私たちは本当に六月三十日を繰り返してる。授業の内容も、会話の内容も、知ってることばかりだったから」

「でも、全部が全部同じってわけじゃなかった。フルートの一件だってそうだろ? 僕たちの行動が影響を与えて、僕ら以外の人間の行動も変わってるんだよ」

「そうだね。単純に記憶を再生してるわけじゃない。つまり、私たちが過去に戻っていることの証拠……そういうことになる」

「まさか」廻は思わず足を止めた。「本当にタイムリープしてるって言うの?」

 環は廻より数歩進んだところで立ち止まり、廻の方を振り返る。

「色々考えたけど、そうとしか思えない」

 その口調は淡々としていて、表情は真剣だった。廻はわずかに息を呑む。

「……本気?」

「私は、否定は出来ないと思ってる。廻がどう考えるかは自由だけど」

 環は再び廊下を歩いていく。廻は少し早足で彼女の横に追いついた。

 その時、後ろから小走りに駆けてくる足音を廻は聞いた。振り返ると、それは小清水だった。そういえば、と廻は思い出す。〈一周目〉の放課後、廻たちが残っていた教室に、忘れ物をした小清水が現れたのだ。

 小清水は廻たちに気づいて立ち止まる。

「忘れ物?」

 廻は先回りして聞いた。小清水は苦笑しつつ頭を掻く。

「いやー、そうなんだよね。最近多くてさ」見ると、彼女の片手には水色の筆箱が握られている。彼女は所在なさげに手の中の筆箱を見つめた。「まあ、どうせ個人連するつもりだったから、ちょっとくらい抜けても迷惑かけないし」

「一人で練習するってこと?」

 環は尋ねた。小清水は頷く。

「うん。みんなと一緒だと、余計なこと考えちゃいそうで」

「あのフルートのことを?」

 環は更に尋ねた。小清水は、周囲を憚るように少しばかり視線を動かした。

「……さっき廻くん、あのフルートの音について聞いたでしょ?」

 小清水は、わずかに声を潜めて話した。

「ああ、聞いたな。上手かったか、そうでもなかったかって」

「あの時は、よく聞こえなかったって答えたけど。でも、本当はそれ、嘘なんだ」

 小清水は視線を伏せながら言った。

「じゃあ、本当は分かってるのか? 誰がフルートを吹いていたのか」

「ううん。そういうわけじゃないの」小清水はかぶりを振って、廻の顔を見た。「あのフルートはね、上手かったんだ」

 廻は話が見えずに困惑する。小清水は更に説明を加えた。

「フルパの部員の、誰の音にも似てなかった。誰よりも上手かったんだよ。香夜子よりも……多分、私より上手かったと思う。音の一つ一つが丁寧で、力強くて……。あんなふうに吹ける子がいるなんて、わたし、知らなかった」

 小清水はどこか哀しげな、複雑そうな表情をしていた。廻と環は黙ってその話を聞いている。

「あのね。これは二人にだから話すんだけど……。周ちゃんにも言わないでね?」

 小清水は念を押した。廻は小さく頷く。小清水は安堵したように続きを話した。

「わたしね、フルートパートで一番上手いのは自分だって思ってた。香夜子だって確かに上手だと思うよ。芹奈ちゃんは小学生の頃からの経験値があるし、周ちゃんだって毎日練習してどんどん上手くなってる。だけど、わたしだって練習してるし、まだまだ負けてないと思ってた。本当は分かってたはずなのにね。先輩だからって、パートリーダーだからって、他の子より上手いとは限らないってこと。

 あのフルートの音を聞いた時、思ったんだ。パートの中で、誰か実力を隠してる人がいるのかもって」

「実力を隠す……?」廻は聞き返した。「わざと下手に吹いてたってことか?」

「そこまでじゃないかもしれないけど……。でも、本気を出してなかった人がいるのかもしれない、って思って。本当はもっと上手く吹けるのに、実力を出さずに演奏してた。そういう人がいるのかもしれない。だったら、わたしが今朝多目的室で聞いた音が、その人の本当の実力なのかもしれない」

「わざわざ自分の実力を隠す必要なんてないだろ。上手い方が自分も周りも喜ぶんじゃないのか?」

 廻が疑問を呈すると、小清水は複雑な表情のまま苦笑した。

「普通ならね。でも……そうじゃない場合もある。後輩の方が上手いとさ、嫉妬みたいなことする人も中にはいるから」

「お前はそういう人間じゃないだろ?」

「そうだね」小清水は微笑んだ。「けど、みんなはそう思ってなかったのかも。パーリーとして信頼されるように頑張ってきたつもりだったけど……。でも、そう思ってたのはわたしだけで、みんなわたしに遠慮してたのかも」

 その表情を見れば、彼女が深刻に悩んでいることは容易に分かった。

 どう声をかけるべきか。廻が逡巡していると、代わりに声を発したのは環の方だった。

「そんなこと、ないと思う」

 環は、それ以上何も付け足そうとはしなかった。根拠も理由も告げなかった。小清水は環の方へ向き直って「ありがとう」と答える。

「フルートの謎は私たちが解決する。だから有紗は安心して部活に戻って」

 環が言うと、小清水は頷く。彼女は何かを拭うように指先を目尻に当てた。

 小清水は小さく深呼吸して、半ば無理矢理に口角を上げる。

「……よし! もう大丈夫。廻くんも環ちゃんも、いきなり愚痴聞かせちゃってごめん。じゃ、また来週ね!」

 そう言って、彼女は足早に廊下を去って行った。



 再び、二人になった。廊下を歩きながら、廻は横にいる環へ尋ねる。

「さっき言ってたの、本当? 例の謎を解決するって」

「本当だよ。私は本当に思ってることしか言わないから」環は淡々と答えた。「それに、もういくつかの『答え』は頭に浮かんでるし」

「誰が嘘をついてたか見抜いたの?」

「それはちょっと難しいけど」環は言う。「いずれにしても、目撃者に話を聞かないとね」

「目撃者って……」

「望月くんだよ。有紗を除けば、フルート吹きの姿を見たって言ってる唯一の人物。本人から話を聞かないことには、なにも言えないでしょ?」

「確かにね」廻は頷いた。「確か、あいつって早乙女と同じ映研だったよね? 部室にいるかな」

「行ってみよう」

 環は映研部室へと進路を取った。廻もその後に続いた。


 東棟三階の社会科準備室は、映画研究部の部室として利用されている。引き戸の横には乱雑な字で〈映研 部室〉と書かれた張り紙がしてあった。部屋の中は薄暗いが、だからと言って中に人がいないとは限らない。上映会をしている時は電気は消されているし、単に昼寝をしている可能性もある。中から映画の音らしきものは聞こえないから、おそらく後者だろうと廻は当たりを付けた。

 コンコン、とドアをノックする。「誰?」と中から声が聞こえてきた。早乙女の声だ。廻は答える。

「僕だ。北条。あと環もいる」

「入れよ。開いてるから」

 ぞんざいな返事が扉越しに聞こえてくる。廻は遠慮無く扉を開け放った。

 狭く、薄暗く、埃っぽい部屋だった。真っ黒なカーテンで窓が覆われ、太陽光はわずかに隙間から入ってくるのみだ。部屋の中央には机が一台あり、その上にはプロジェクターが置かれ、奥のスクリーンを向いている。しかし今、スクリーンには何も映し出されていなかった。

 部屋の片隅には映画のDVDが詰め込まれた本棚があり、その傍らに年季の入ったソファが置かれている。早乙女はその上に仰向けで寝転がっていた。片方の耳にだけイヤホンを差して、手に持ったPSPの画面から発せられる光が煌々と顔面を照らしている。あいかわらずピンク色のパーカーを着ていたから、薄暗い中でもすぐにその姿を認めることが出来た。

「何の用?」

 早乙女は器用にゲーム機のボタンを操作しながら尋ねてくる。廻は質問を返した。

「望月、来てない?」

「さっき来たけど、すぐ帰った。まだ学校の中にいるんじゃないか」

 どうやら入れ違いになったらしい。廻は「ありがとう」と言って部室を後にした。「ちゃんと扉閉めてけよ」と声がかかったので、廻はその通りにした。


 廻と環は早足で一階へと階段を降りていった。昇降口付近の廊下で周囲を見回す。

 三年生の下駄箱が並ぶ一角に、環はその姿を見付ける。「あっ」と小さく声を発するのを聞いて、廻も彼女と同じ方向を見た。

 そこには、今まさに上履きから外履きに履き替えている途中の望月聖人がいた。長く伸びた前髪の隙間から廻たちと目を合わせる。

「よかった」環は息をついた。「まだ帰ってなくて」

「えっと……」望月は、困惑したように廻と環の顔を交互に見た。「二階堂さん、俺に何か用?」

「話を聞きたくて」

 環は望月のいる方へ近づいていく。廻もその後ろに続いた。望月はスニーカーに足を突っ込んだまま、わずかに後ずさる。

「話、って?」

「今朝のこと、覚えてる? 有紗と四階の廊下で会ったはず」

 環が尋ねると、望月の顔色がわずかに変わる。彼女を警戒するような色が表情に浮かんだ。

「どうして二階堂さんがそのことを?」

 それに答えたのは廻だった。

「僕たちはその件について調べてるんだよ。ちょっと事情があってな」

 すかさず環が続けた。

「有紗は今朝、多目的室でフルートの音を聞いた。けれどそのフルートを吹いていた人は有紗から身を隠すように忽然と姿を消した。そして、そのフルート吹きの姿を唯一見たと証言しているのが望月くん、君だよね」

 環の目は真っ直ぐ望月の顔を捉えている。望月は頷いた。

「確かに……そんなこと、小清水さんに聞かれたような気もするけど。でも、俺ははっきりと姿を見たわけじゃないから、誰だったかまでは分からない。小清水さんにも、そう言ったはずだけど?」

「ううん。私が聞きたいのは、望月くんが見たのが誰だったかじゃない」

「じゃあ、何を……」

「望月くんは今朝、四階の廊下で何をしていたの?」

 望月は目に見えて動揺し、視線を泳がせた。

「それは……」

 彼が答えに窮するのを見て、環は更に質問を重ねる。

「じゃあ、別の質問。君は本当に、吹奏楽部員が通り過ぎるのを見たの?」

 望月は何も答えない。

 後ろで聞いていた廻が口を挟んだ。

「どういうこと? もしかして……本当はフルート吹きの姿を見てないのか?」

 望月は相変わらず何も答えないままだったが、その沈黙が何よりも雄弁に廻の問いを肯定していた。望月は、本質的に嘘をつくのに向いていないタイプの人間だった。

 廻は混乱していた。

「本当は見ていないのに、見たって嘘をついたってこと? でも、なんで望月がそんな嘘を?」

「多分だけど、」そう前置きして環は言った。「望月くんが、謎のフルート吹きの正体だからだよ」

「望月が?」

 廻は思わず聞き返す。彼の名前は、正体の候補者リストに挙がってすらいなかった。

 環は振り返って説明をする。

「私たちはフルートパートの全員から話を聞いた。だけど小清水さんが言っていた時刻の『アリバイ』は全員に成立してた。じゃあ、誰かがアリバイを誤魔化して嘘をついてるか、あるいは有紗が勘違いをしているか? だけど話を聞く限り有紗の記憶は正確そうだったし、他の三人にも嘘をついている雰囲気は無かった。

 けど、第三の可能性もある。つまり、フルートパート以外にその〈フルート吹き〉がいる可能性」

 廻は膝を打った。そもそもフルートを吹いていたからと言って、容疑者を吹奏楽部の部員に限定する必要は無い。ただ、学校の中でフルートを演奏するのは吹部の部員くらいだろうと思い込んでしまっていたのだ。おそらく、小清水も同じような先入観を持っていたのだろう。

 望月は黙って環の話を聞いている。彼女は続けた。

「フルートの値段もモノによってピンキリだけど、決して個人所有出来ない値段じゃない。吹奏楽部に属さず、個人でフルートを持っている人がいたって不思議じゃない。

 それに、もし正体が吹部以外の人間なら、逃げ出した理由にも説明が付く。勝手に練習場所を使っているのが見られたらまずいって思ったんじゃないかな。四階の多目的室は普段は朝練に使われないことが多かったって有紗も言っていたし、教材室の鍵が壊れてたから、誰でも入り込める状態にあった。言ってみれば『穴場』だったわけだから、もしかしたら今朝だけじゃなくて前から使っていたのかもね」

 それから環は、望月の方へ向き直った。

「これは人づてに聞いた話だけど。望月くんって、小学校の頃に音楽クラブに入ってたんだってね。もしかしたら、そこでフルートをやっていたんじゃない? もしそうなら、数年単位の経験があることになる。有紗は自分が聞いたフルートの音を『自分より上手い』と評していた。それを考えると、昨日今日始めたばかりの初心者ってわけじゃなさそうだと思った。現場の近くに居合わせたことも含めて、諸々の条件に合致するのが望月くんだった」環は、目の前にいる望月と目を合わせ、小さく首を傾げる。「どう? 違ってる?」

 望月は小さく息をついて、観念したように前髪を片手でかき上げた。

「二階堂さんの言った通りだよ。朝に多目的室でフルートを吹いてたのは俺だ。いつもは誰も来なかったんだけど、その日はたまたま小清水さんが来て……それで咄嗟に逃げ出した。勝手に練習場所を使ってるって知られたら、いい顔をされないと思って。そのあとで小清水さんが追いかけてきたけど、フルートを吹いてたのが吹部の部員の誰かだって勘違いしてるみたいだった。だからそれに便乗して嘘をついたんだよ」

「けど、その話が本当なら、望月はフルートを持ってたはずだ。小清水はなんで気づかなかった?」

 廻が疑問を呈すると、環がそれに答える。

「望月くんは鞄を持ってたんでしょう。その中に分解して収納してたんだと思う」

 望月は、うん、と首肯しただけだった。環の推察は全て当たっていたらしい。

 廻はわずかに嘆息した。

「そういうことだったのか。人騒がせだなぁ」

「悪かった。あの時はちょっと混乱してたから」

「謝るなら僕じゃなくて小清水にしてくれ」

 望月は静かに、そうだな、と答えた。

「さっきの口ぶりからして、前からあの場所を練習場所として使っていたの?」

 環は尋ねた。望月は、これ以上隠し立てをしても無意味だと思ったのか、淀みなくその問いに答える。

「さっき二階堂さんが言ってた通り、あそこの教室は『穴場』だったからね。うちはマンションだから、家だとなかなか吹けなくて。いちいちカラオケボックスに行ったりするのも面倒で、学校で吹くのがいいかなって。気晴らしにもなるし」

「けど……今の今まで気づかれなかったのか?」

 廻は聞いた。小清水も含め、誰も望月がフルートを吹いていたとは考えていない様子だったからだ。

「朝や放課後の時間なら、校舎で練習してる人が他にも沢山いる。だから演奏の音も紛れるし、案外気づかれないものだよ。それでも堂々と吹いてると角が立つと思って、なかなか人が来ない多目的室を選んだんだけど……」望月は環の方を見て、自嘲的な表情を浮かべる。「まさか、吹部の部員でもない二階堂さんに真っ先にバレるなんて」

「別に、私は望月くんのことを糾弾しようとは思ってない。別に吹部の部員じゃなかろうと、誰がどこでフルートを吹こうが勝手だもの」

 望月はわずかに安堵したように息をついた。

 環が言ったことは、廻も同感だった。きっと小清水も、そのことで望月を責めるような真似はしないだろう。

 けれど、廻にはどうしても一つ解せないことが残っていた。

「……もう一つだけ、聞いていいか。望月は、なんで吹部に入らなかった? フルートは小学生の頃からやってたんだろ。今でも続けてるくらい好きなら、吹奏楽部に入ればよかった。そうすればコソコソしないで堂々と練習できたはずなのに」

 すると望月は、はにかむような表情を見せた後、おずおずとその問いに答えた。

「それは……くだらない理由なんだけど。うちの吹部って、女子しかいないから」

 突発的に、廻の脳裏に、妹の言っていた台詞が蘇る。

 ──そもそも、うちの吹部は女子しかいないからね。

「最初は俺も吹部に入ろうかと思ったんだよ。体験入部にも行ったし。だけど上級生は全員女子部員で、周りで見学に来てる新入生も全員女子で。男一人で入ってやっていけるのか不安になって、結局吹部には入らないことを決めた。フルートは、別に一人でも吹けるしね」

 その理由がくだらないものだとは、廻は思わなかった。フルートを演奏するのに性別は関係ないのかもしれない。多くの学校の吹奏楽部は、男女混成で活動しているはずだ。けれど、それでもやはり男女の間に壁は存在する。世の中は、異性の輪の中にすんなり入っていける人間ばかりではない。

 その時だった。カシャン、と廊下の方で何かが落ちるような音が響いた。

 咄嗟に廻は振り返る。廊下の床には水色の筆箱が落ちていた。下駄箱の影の死角になっているところから、小清水が姿を見せ、その筆箱を拾い上げる。彼女はどこか狼狽しているように見えた。廻と環、それから望月の姿を見て、咄嗟に顔を背ける。

「有紗。今の話、聞いてたの?」

 環は聞いた。

「え……えっと」

 小清水は、答えに窮してしどろもどろになっている。

 彼女もまた、嘘をつくのが苦手な人種だった。廻は事態を正確に把握する。小清水はずっと下駄箱の影で三人の会話を聞いていたのだ。そして、望月の言葉に動揺を来たし、持っていた筆箱を取り落とした。

「あの、小清水さん」

 望月が呼びかけると、彼女は肩を震わせて居住まいを正した。

「騙すような真似して、ごめん。もう学校でコソコソ演奏したりしない」

 望月は頭を下げる。

「あの……わたしも──」

 小清水は何か伝えようとしたが、望月は続きを言わせないまま振り返り、逃げるように校舎を出て行った。

 小清水の口から出ようとした言葉は行き場を失い、そのまま彼女の口は紡がれる。彼女は下駄箱の横に立ち尽くしていた。


 廻と環は小清水のいる方へ歩み寄った。

「聞いてたんだよね?」

 廻が尋ねると、小清水は小さく首肯する。

「よかったじゃないか。パートの人たちが嘘ついてないって分かって」

「うん……そうだね」

 小清水は言葉と裏腹に浮かない顔をしていた。廻は重ねて告げる。

「まあ、望月も悪気があったわけじゃないって、さっきの話聞いてたら分かっただろ。部外者がこういうこと言うべきじゃないかもしれないけど、本人も謝ってたし、怒るようなことじゃないと思うよ」

「違うの」小清水は首を横に振った。「望月くんに怒ってるんじゃない。怒ってるのは、わたしに」

「自分に?」

 廻が聞き返すと、小清水はぽつぽつとそのわけを話し始める。

「わたし、すっかり忘れてた。入学したばかりの頃、吹部の見学で望月くんと顔を合わせてたってこと。あの時ね、見学に来てる新入生の中で、男子は望月くんだけだった。わたしはたまたま望月くんの近くにいて……そのときに、少し相談されたの。男子一人でもやっていけるかな、って……」

 小清水の言葉が途切れる。

「それで、」環は続きを促した。「有紗は、何て言ったの」

 小清水は目を伏せながら続きを話した。

「……望月くんが不安に思ってるのは分かってた。だけど、わたしは手を差し伸べてあげられなかった。音楽をやるのに、性別が重要なことだって、わたしは思ってなかったから。そんなの分からないって、突き放すようなこと、言っちゃった。だから……望月くんが吹部に入るのを諦めちゃったのは、わたしのせいなの」

「考えすぎだよ。小清水が責任を感じるようなことじゃない」

 廻は言った。しかし小清水はかぶりを振るばかりだった。

「わたし、ずっと心のどこかで後悔してたんだと思う。あの時、ちゃんと望月くんに言えてたらって。合奏するのに、音楽をやるのに、性別なんて関係ないって。仲良くなれるかは分からないけど、一緒に頑張ることは出来るって、そう伝えられてたらよかったのにって」


10


 あれから小清水は、複雑な表情のまま部活に戻っていった。

 最後に別れた時の寂しげな表情を廻は忘れることが出来なかった。きっと彼女は、本心から自分の発言を悔いていた。望月の話を聞いたことで、心の奥底にしまい込んでいた後悔が溢れ出してしまったに違いない。

 その後悔は一見して些細なものでも、彼女の内側で成長し、肥大化し、彼女の心を蝕んでいた。

 廻と環は、わずかに日が傾きかけた、夕暮れ前の空の下、二人並んで家路を歩いていた。

 右肩にかけた通学鞄の持ち手を握りながら、環は呟くように言う。

「私は……あのフルートの謎を解くって言ったけど。でも、あんな顔をさせたいわけじゃなかった」

「分かってるよ」廻は歩みを止めず、前を見たまま答える。「環のせいじゃない」

「……うん」

 廻は話題を変えようとして言った。

「そういえば、あの〈繰り返し〉のことは結局分からないままだったな」

「そうだね……。でも、もういいかなって思う。確かに不思議な体験だったけど、それだけだもの。きっと寝て起きたら、普通の七月一日が始まってる」

「……そうだといいけどね」

 廻は内心、そうならないような予感がしてならなかった。小説や映画の中では、往々にして同じ時間が何度も繰り返される。もしかすると、自分たちもまた……。

 頭の中から芽生えてくる疑念に、廻は小さく頭を振ってそれを振り払おうとした。

 こんなことが、そうそう何度も起こるはずがない。環の言う通り、一度きりで終わると考えるのが普通だ。

 けれど、もし。もしも仮に、もう一度同じことが起きたなら。もう一度、廻が六月三十日の初めに戻ったなら。

 きっと、小清水があんな顔をしなくて済むようにするだろう。彼女が自分の中の後悔を掘り起こさなくていいように、最善を尽くすだろう。

 廻は横にいる環の顔を一瞥した。彼女も同じことを考えているという予感があった。


 *


 朝。目を覚ました廻は、ベッドの中でスマホのロック画面を確認する。

 時刻は六時二十分ごろ。日付は、六月三十日の金曜日だった。

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