桜雨

なつの真波

桜雨

 入学式は雨だった。


 どきどきしながら袖を通した高校の制服もうっすら濡れてしまって、わたし、なんだか出鼻を挫かれた気分ですっかり落ち込んでいた。


 正直な話をするなら学校が好きだった記憶、わたしあんまり持っていない。小学校も中学校もいじめってはっきり言えるほどではないんだろうけど、疎外感たっぷりに過ごしてきた。でも分かっているんだ。それはたぶんわたしの性格に問題があるんだってこと。人見知りが激しくて、仲良くなるまでにすごく時間が掛かる。仲良くなればそれなりにいっぱい話もするけれどそうなるまでにたいてい皆飽きてしまって、わたしから離れていっちゃう。だから出来るなら高校から自分を変えたいな、なんて思ってた。


 わたし、たぶん人より劣等感が強いんだと思う。何より自分の外見が好きじゃないんだ。太ってて、顔も丸くて、いつもそれでからかわれてきた。小さいし丸いし可愛くないし消極的だし、人見知りが激しいから駄目なのか、こんな外見だから人見知りが激しくなったのか、どっちかは分からないけど両方あるってことはもうどうしようもない。

 でも高校から変えられたらって思ってた。美容院も行ったし眉も整えたし、ちょっと変われたかなってソワソワしてた。

 わたし、ちょっと自惚れていたのかもしれない。


 だからきっと今日の雨は、神様が現実見ろよってな具合で降らせている雨なんだろうな。


 入学式が終わって教室でのお話も終わって、クラスメイトたちの大半はみんな帰っていった。早速仲良くなったグループとかもあるみたいで、カラオケ行こうとか、ごはん食べて行こうとか言いながらにぎやかに去っていって、なんだかやっぱり落ち込んだ。


 その輪に入れない自分がみっともなく思えてしまって、ああわたしってだめだなぁって落ち込んだ。わたし、楽しみにしていた高校生活だけどちゃんとやっていけるのかなって、ちょっと不安だった。


 大体、みんななんだか可愛すぎた。背が高くてモデルさんみたいな子もいたし笑顔がすごく可愛い子もいたし、すんごくおしゃれな子もいた。わたしには、やっぱり華やかな高校生活とかって無理なのかなぁ。


 帰ろうっていってくれる子もいなくて、だからって帰ろうって誘えるほど勇気もなくて、しょんぼりしたまま教室を出た。


 この学校は本校舎が五階建てで、一番上がわたしたち一年生の教室、四階が二年生、三階が三年生で、二階はいろんな実習室とかが入ってる。一番上から傘を持ったままとことことこと降りていって、校門に向かう前に足が止まった。


 中庭だ。


 中庭はぱあっと明るい桜色――のはずが、今日はやっぱりしょんぼりしてた。雨に濡れてしょんぼりしてて、わたし、なんだか桜に同情してしまった。


 その中に誰かがいた。思わず気になってそっと中庭に顔出した。雨はまだ降っている。


 パンッ、と傘を開いてわたし、中庭に出てみた。


 男の人だった。


 先生……なのかな。まだ若い、男の先生。背がひょろって長くて、スーツがちょっと余っちゃってる雰囲気だ。その先生はスーツ姿のまま、ビニール傘を手に持って中庭の桜の下、ぼーっと突っ立っていた。


 雨、降ってるのに。


 どう考えたってお花見日和じゃないのに。


 しおしおの桜を見上げてのほほんとした緩んだ顔をしてた。

 しあわせそう、だけど。


 なに……してるんだろう。


 わたし、どうにも気になっちゃって。なんだか目が釘付けになっちゃって。その場を動けないで先生と同じように傘を持って雨の中、じっと突っ立ってしまった。時折、後ろ……廊下を通る人の気配があるだけで、中庭には他の人はやってこなかった。


 さらさら、って音が一番似合いそうな静かな静かな春の雨。


 もう寒くはないけれど、それでも暖かいって言うにはちょっと冷たい春の雨。


 桜の花びらはそれに打たれて時々花びらを散らしながら、静かに静かに佇んでいる。


 先生、それなのに全く身動きしないで雨に濡れてしおしおの桜、ぼーっとぼーっと見上げてる。


 ……仕事とかないのかな。


 わたしがそんな風にちょっと心配になっちゃったくらいだから、十分か十五分くらいはそうしていたと思う。少なくともわたしが見てた時間でだ。もしかしたら先生、もっと前からそうしていたのかもしれなくて、そう考えるとちょっとすごい。


「あれ?」


 ふいに、先生が声を上げた。桜を見上げていた顔がこっちを向いて、わたしびくんって体を硬直させてしまった。でも先生、気にした様子はなくてのほほんと微笑んだ。


「こんにちは」

「あ……こんにちは」

「新入生ですか?」

「は、はい」


 こくん、と小さく頷く。先生「そうですか」と頷いて、また桜を見上げた。


「僕、どれくらいこうしてたんでしょうかねぇ」


 変な先生だ。なんとなくわたし、それだけは直感で分かってしまった。


「あの、わたしが見てるだけで……十分くらいは……」

「おやぁ。随分な時間だ。今日は忙しいんですけどねぇ」


 全然そうは見えないけどなぁ……。


 のほほん先生は忙しさの欠片もないのんびりした口調で「困りましたねぇ」と呟いて、それからわたしの方を見た。


「僕のクラスの生徒さんじゃないですね。お名前は?」

「い、一年二組の田辺佳代、です」

「二組の田辺さん、ですね。はい、覚えました。僕は六組の担任の上原といいます。生徒さんには、どうしてだか上様なんていわれていますけど」


 上原先生はそう言って「よろしくお願いします」とにこりと笑った。


 穏やかな笑い方をする人だ。わたし、なんだか優しい気持ちを貰ってにっこり笑えた。


 上様……かぁ。何となく、分かる気もする。俗世から離れてのほほんとした雰囲気を貫き通しそうなところとか、ちょっと方向間違った上様って感じかもしれない。


「ところで田辺さんは僕に用事でもありましたか?」

「えっ。あ、えと、そういうんじゃないんですけど」

「そうですか?」

「その。……何、してるんだろうって」


 わたしの言葉に、先生、ぱちくりって目を瞬いて、それからもう一度しおしおの桜を見上げた。


「お花見です」


 ……上様だ。


「あの」

「はい?」

「……今日、雨降ってるし、その、お花見日和じゃないって思うし、それに先生にとって学校って、その、仕事場で、お花見には向かないんじゃないかって思ったり……するんですけど」

「そうかもしれないですねぇ」


 先生は気を悪くした風もなく、分かります分かります、と頷いている。でもひとしきり頷いたあと、ひょろりと長い背をかがめて、わたしの顔を覗きこんできた。


「でも、いいじゃないですか」

「え?」

「桜を見るときはこういう桜じゃなきゃ駄目だ、とか、そういうのは誰も決めてないでしょう。しおしおでもふにゃふにゃでも、雨の日も曇りの日も、桜は桜で、どこで見てもどう咲いてても、綺麗ですよ。この桜は、この桜らしく咲いていますから、今日の雨の日に僕を癒してくれています」


 先生はそれからおまじないでもかけるみたいに、そっと自分の唇に指を添えた。


「でもお仕事をサボってたのは、内緒にしてください」


 あはっ、とわたし思わず声を上げて笑ってた。先生は何で笑われたのか分からないっていう風に一度きょとんとしてから、ちょっと照れくさそうに頭をかいた。


 心がぽっかり、あったかくなる。


「はい、内緒にします」

「お願いします。さて、そろそろ田辺さんも帰りますか? 校門まで送りましょう」

「えっ。いいです、すぐそこだしっ」

「口止め料、みたいなものです」


 小さく笑って上原先生はわたしの隣に並んで歩き出した。廊下に入って一度傘を閉じて、またすぐ昇降口から傘をさして校門まで。


 わたし、なんだかどぎまぎしてしまってやっぱり上手くお話も出来なかったけど、上原先生は全くそんなこと問題ないです、と言うように微笑んでくれていた。


 校門まで送ってもらって、わたし、先生に思いっきり頭を下げた。


「ありがとうございました」

「いえいえ、気をつけて帰ってください」

「はい」

「それから、田辺さん」


 先生はさっきみたいにわたしに視線を合わせて、子犬みたいに穏やかな目で、桜を見上げていたのと同じ目で、にっこりゆるやかに微笑んだ。


「今日からの三年間、田辺さんも田辺さんらしく咲いて楽しんでくださいね」


 とくん。


 胸の奥がなんだかそんな音を立てた気がした。わたし、さあって顔が赤くなってしまって俯いたまま小さな声で「はい」とだけ言った。どきどきしてた。わたし、なんだかどきどきしてた。


 高校生って言葉に、わたしもしかしたら憧れだけを詰め込みすぎていたのかもしれない。


 綺麗で、細くて、おしゃれで、華やかな……そんなものだけ想像していたのかもしれない。


 でも、あの桜は雨の日でも曇りの日でも『あの桜』らしく咲いていて、それで先生を癒していたのなら、もしかしたらわたしにもわたしなりの咲き方、みたいなのがあるのかもしれない。


 丸くて可愛くもなくて消極的な田辺佳代だけど、でも田辺佳代なりの咲き方とか、あるって望んでもいいのかもしれない。なんだかそう言われた気がして、きっとそれはやっぱり自惚れもあるんだろうけど、でもそれでも良くって、だって嬉しくて、わたし顔にのぼった血をすぐにひっこめられなかった。


「田辺さん?」

「あの。先生」

「はい?」

「ありがとうございます」


 一生懸命顔を上げてそう言うと、先生は嬉しそうに笑って、それからさっきみたいに唇に指を添えて、ちょっとだけ声を潜めて囁いた。


「家に帰ると、きっと素敵なことがおきますよ」





 そして今、玄関には開いたままのわたしの傘が置いてある。


 乾かすためじゃなくて、先生の言った素敵なことがそこにおきていたからだ。


 あの雨と桜の降る中にほんの十分か十五分佇んでいただけで、わたしの傘、びっくりするくらいおしゃれになった。


 傘一面にてんてんと、愛らしい桜の花びらがついていたんだ。


 桜の花びらで水玉模様になった傘は、なんだかすぐに閉じてしまうのは惜しくって、乾くまでそのままにしておこうと思う。


 そして乾いてはがれた桜の花びらで、栞でも作ってみようかな。


 一枚は三年間続けて使おうと思う。

 そしてもう一枚、先生に作ってみようかな。きっと喜んでくれるだろうから。


 そこから、わたしの高校生活の一歩、踏み出してみようかな。


 わたしはわたしらしく、咲くために。




 入学式は雨だった。

 やさしいやさしい、桜雨だった。

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