僕、もうコドクじゃないんだね?

仲瀬 充

僕、もうコドクじゃないんだね?

 私と田辺氏は同じ美大卒で今年66歳になる。現在、私は都内で画廊を幾つか経営しイギリスのロンドンにも支店を開設している。一方、田辺氏はつい最近まで都下の古びたアパートに住んで食べるのがやっとの独り暮らしをしていた。彼がそれほどまでに困窮していたのには次のような背景がある。田辺氏は商業デザインの制作会社に勤めていた。美大卒の腕を生かして真面目に仕事に励んでいたのだが不幸な出来事が起こった。車を運転中に自損事故を起こして利き腕の神経を損傷してしまったのである。その後遺症で手が震え、仕事に支障をきたすこととなった。定年を数年後に控えての出来事だったが、それ以来田辺氏は酒びたりのすさんだ生活を送るようになった。子供がいなかったこともあって奥さんは夫を見限って田辺氏のもとを去った。生活を立て直すように私がいくら意見をしても彼は聞く耳を持たなかった。その彼が10年ぶりに私を訪ねて来たのである。以下の物語は田辺氏から聞いた話をもとに私がまとめたものである。


 田辺氏は去年の夏の終わりごろ、それまでよりも家賃の安いアパートに引っ越した。越して間もないある日、カップ酒を手にふらりと近所の公園に出かけた。すると一人の少年がやってきて田辺氏のベンチの端っこにちょこんと座った。少年は田辺氏を気にするふうもなくノートに鉛筆で絵を描き始めた。

「ぼうず、絵が好きなのか?」

「僕、お坊さんじゃないよ、耕太だよ」

「そうか、耕太は絵が上手だな」

見ていると、耕太は目前の風景ではなく空想の世界を熱心に描き続けた。次の土曜日もカップ酒持参で公園に行くと耕太少年がいた。

「ぼうず、じゃなかった、耕太、また描いてるのか」

「おじさんはお酒ばっかり飲んで仕事はしてないの?」

「おじさんは年金暮らしなんだよ」

「今日は土曜日だからネンキングラシは休みなの?」

「年金暮らしは仕事じゃないんだ」

「ふーん」

耕太は視線をノートに戻して絵を描き続けた。ノートの左下には傾いた家と花園が描かれ、右上では犬が空を駆けている。マルク・シャガールにも似た独特の感性に田辺氏は美大時代の出来事を思い出した。画家を目指していた美大生のころ、田辺氏がデパートに入ると階段脇の壁面に小学生の絵が何枚も貼り出されていた。家族を描いたそれらの絵を見ながら階段を上って行くうちに田辺氏の歩みは次第に遅くなった。ある絵では母親が画面中央に大きく描かれているのに対し、父親は隅っこに小さく描かれている。また母親だけを描いたある絵は母親の顔が大きく描かれ、体は非常に小さく描かれている。テクニックではなく子供は感じたままを見たままとして描いていた。独自の視点や技巧を模索していた田辺氏にとって子供たちの素朴な絵は衝撃的だった。自分は小学生にも及ばない。そう思った田辺氏は画家を目指すことを断念したのだった。


 過去の追憶から我に返ると口元の酒のカップは空になっており、日もだいぶ西に傾いていた。

「耕太、早く帰らないと親が心配するぞ」

「僕、コドクなんだ」

「孤独?」

聞けば耕太はみなし児で教会が運営する児童養護施設で暮らしているという。

「おじさんはコドクじゃないの?」

どうやら耕太は身寄りがないことを「コドク」と言っているようだ。

「おじさんもコドクだ。おまけにギックリ腰だからギックリコドク、ギッコドクだな」

「ふーん」

耕太の「ふーん」を翻訳すると「何だかよく分からないや」というところだろう。

しかし、そんなことよりも田辺氏は冗談交じりに口にした自分の言葉が気になった。

(ギッコドク? どこかで聞いたような……)

耕太は平日は施設と学校との往復で公園には来れない。日曜日も教会のミサなどで外出しづらいようだ。田辺氏は土曜日を心待ちにするようになった。ある土曜日、田辺氏は公園で耕太を待ち構えてスケッチブックをプレゼントした。耕太がいつもノートに鉛筆で絵を描いていたからだ。

「ギッコドクおじさん、ありがとう」

耕太は初めて田辺氏に笑顔を見せた。スケッチブックで気を許したのか、耕太は雨の日には田辺氏のアパートに来て絵を描くようになった。季節が秋から冬へ移って寒くなると土曜日が雨でも晴れでも田辺氏のアパートにやって来た。耕太の絵には気になる二つの特徴があった。画用紙の隅から描き始めて中央を空白のまま残してしまうのだ。もう一つは色彩感覚である。色鉛筆やパステル絵具を使わせたとき、田辺氏は耕太の特殊な色彩感覚に気づいた。3型2色覚と呼ばれるもので、以前は色覚異常として第3色盲とか青色盲とか 言われていた。耕太は青い空を緑っぽく塗り、緑の木々を青っぽく色づけする。そして全体をピンクがかった色調で整えた。一般人とは異なるこの独特の色覚はしかし、耕太の描く空想的な絵にはうってつけだった。そして耕太の描くメルヘンチックな絵は田辺氏の絵心をも呼び覚ました。事故の後遺症で田辺氏の右手は思い通りには動かせない。それでもかまわずに耕太の絵の中央の空白部分に田辺氏は筆を入れた。たとえば、耕太少年が画用紙の上部に空飛ぶ自転車を描くと田辺氏はその下に両手を空に突き上げる子供を描いた。震える手が描く線は一種の稚拙美を感じさせた。

「ちょっと見にはジョアン・ミロのようじゃないか」

田辺氏は自画自賛し、数十年ぶりに絵筆を握る喜びに浸った。

「ギッコドクおじさんも絵が描けるんだね」

「若いときは画家になろうと思っていたんだ」

「ふーん」


 学校が冬休みに入ると耕太少年は毎日のように田辺氏のところにやって来たが、その訪問にストップがかかった。年の瀬も押し迫ったころ、年配のシスターが田辺氏のアパートにやってきた。

「おたく様がどちら様かは存じませんが、わたくしどもの教会は児童を健全に養育する責任がございますので今後、耕太との接触はお控えくださいますように」

言葉づかいは丁寧だが厳しい口調で言うと、シスターは田辺氏の返事も待たずに耕太の手を引っ張って連れ帰った。年が明けたが耕太は田辺氏のところにやってこなかった。そんな中、1月中旬になって冒頭に記したように田辺氏が10年ぶりに私の画廊に姿を見せたのである。

「シスターはけがらわしそうに俺の部屋をじろじろ見やがった。実際、きたないんだけどな。しかし、貧乏ってのは情けないもんだな」

そして用件を述べ終えると田辺氏はよろしく頼むと頭を下げて帰って行った。社会的地位のある私の口添えがほしいという田辺氏からの依頼を受けて私は教会付属の児童養護施設を訪れた。そして施設長と面談し、耕太少年が田辺氏のところへ通い続けることの了承をとりつけた。私が田辺氏の身元保証人になるというのが条件だった。施設長の話によると、耕太の両親はお互いの愛人問題で喧嘩が絶えず、耕太が6歳の時に二人とも同時に蒸発してしまったそうだ。一人残された耕太少年は、飢えて家の中で衰弱していたところを保護されてこの施設に収容され、現在は小学3年生ということであった。施設長の案内で耕太少年の部屋にも行った。居室は2段ベッドが二組ある4人部屋で、少年の机の脇の狭い本棚にはノートやスケッチブックがぎっしりと並んでいた。耕太少年からスケッチブックを見せてもらった私はページをめくるごとに低く唸った。「シャガールとミロの合作だよ」と笑いながら言った田辺氏の言葉は冗談ではなかった。

「スケッチブックを何冊かおじさんに貸してくれないかな」

「いくらでも持っていっていいよ。置くとこないから」

耕太少年は描き上げた絵には未練がないようだった。


 1月の末に田辺氏の部屋のドアがノックされた。

「ギッコドクおじさん、僕だよ、耕太だよ」

ほぼ1か月ぶりの耕太の弾んだ声だった。もちろん合作も再開されたのだが、ある日耕太少年が空を緑色で塗り始めたのを見て田辺氏がつぶやいた。

「やっぱり耕太にはそんな色に見えるんだな」

耕太はちらと田辺氏を見てまたスケッチブックに向かいながら言った。

「お父さんとお母さんがけんかして僕がコドクになったら景色が変わっちゃったんだ」

耕太少年の言葉に田辺氏は胸を突かれた。数万人に一人と言われる3型2色覚は後天的なもので、ストレスによって発現することが多い。耕太の場合も家庭のごたごた続きで視神経や網膜に何らかの変異が生じたのだろう。耕太の筆が画用紙の中央に向かわないのも精神的な委縮の現れだろうと思うと不憫ふびんでならない。田辺氏は横に座っている耕太少年の肩を抱いた。

「かわいそうにな。景色が変わって見えたのはいつごろなんだ?」

「京都の家からこっちの教会に連れてこられた時だよ」

「え? 偶然だな、おじさんも京都で生まれたんだよ。祇園ぎおんのすぐ近くで、」

そこまで言って田辺氏は耕太少年の肩から手を離し、自分の膝を叩いた。

「そうか、ギッコドクはギジュギッコドクオンだ! 思い出した!」

「ギッコドクおじさん、どうしたの?」

古代インドのある富豪が釈迦しゃかと弟子たちのために修道施設を寄進した。祇樹給孤独園精舎ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃと呼ばれたその寺院の略称が祇園精舎ぎおんしょうじゃであり、京都の祇園という地名も「祇園社(現在の八坂神社)」という神社にちなんでいる。祇樹給孤独園の「給孤独ぎっこどく」という部分は「児や居老人に食べ物を供した慈悲深い人」という意味で、精舎を寄進した富豪のことである。

「耕太、ギッコドクってのは大金持ちなんだよ!」

「ギッコドクおじさん、お金持ちなの?」

耕太の言葉で田辺氏の興奮は一瞬にして冷めた。

「おじさんが金持ちなら耕太を引き取って一緒に暮らせるのにな……」

二人がそんなやりとりを交わしていたころ、私はロンドンの支店で絵の展示即売会を開いていた。耕太少年と田辺氏の手になる作品は額縁に入れると見栄えがして立派な芸術作品だった。画廊の空きスペースに週替わりで10作品ずつ4週連続で開催することにした。作品のオリジナリティに自信を持つ私はかなり強気の価格設定をしたのだが客足はかんばしくなかった。だが私の不安は1週目の後半には払拭ふっしょくされた。口コミが口コミを呼び、2週目に入ると新聞やテレビでも紹介された。そのため月の後半は客が引きも切らなかった。帰国すると私はさっそく田辺氏のアパートを訪ねた。たまたま土曜日で耕太少年もいたので都合がよかった。私はロンドンでの展示即売会のことを田辺氏に説明した。

「という次第で展示した作品は完売だ。今後もどんどん描くといい」

そう言って私はかなりの額の売上金を田辺氏に手渡した。それを見た耕太少年はとことこと田辺氏の側に来た。

「よかったね。おじさん、ほんとのギッコドクになったね」

すると田辺氏は急に真面目な表情になり、腰を折って耕太少年に顔を近づけた。

「そうさ、わしらはお金持ちになったんだよ。もう酒もやめる。耕太、おじさんの子供にならないか。毎日一緒にいよう」

耕太少年は笑顔から一転して泣き顔になり、田辺氏の腰に両腕を回してしがみついた。そして田辺氏を見上げて言った。

「僕、もうコドクじゃないんだね?」

田辺氏は現在、私が都内に所有する画廊の一店舗の店長となり、養子縁組をした耕太少年と一緒に住んでいる。万事めでたしめでたしだが一つだけ残念なことがある。それは田辺氏が耕太少年との合作を打ち切ったことである。一緒に絵を描くことがリハビリの役目を果たし、田辺氏の右腕の機能が少しずつ回復していたのだった。さらに断酒による効果も加わって田辺氏は皮肉なことに以前のような稚拙美あふれる絵が描けなくなったのである。一方、耕太少年は現在油絵に挑戦中とのことだ。田辺氏の指導を受けながらキャンバス中央にも伸びやかに筆を走らせていることだろう。

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