第4話

 彼の登場に辺境の領地は沸いた。領主である父親も彼に熱い眼差しを向けていた。異世界人と言えば勇者である。そうでなくても高い戦闘力を持っている。そう思われていたからである。


 ところが彼は、剣の達人でも、大魔法使いでも、まして勇者でもなかった。しかも引退した祖父より年上だった。また――あまり長くは生きられないかもしれない――とも言っていた。


 「僕はここへ来ることをずっと望んでいたし、楽しみにしてたんだ」


 彼は自身を音楽家だと言った。


 そして初めて耳にした彼の奏でる音楽に、幼いマルコは衝撃を受けた。心を奪われたと言っても良い。


 それからのマルコは吸い寄せられるように気づけば彼の元を訪ねるようになっていた。彼の歌声を聴いていると剣や魔法が途端ちっぽけでバカバカしいとさえ思えてしまう程に魂を揺さぶられた。


 だがマルコは辺境領主の息子だった。敵を剣で切り裂き、魔法で魔物を焼き尽くす為に生まれて来たのだと教えられて育った。


 マルコの幼い心は――マムと重なりあっている今の様に――グチャグチャに搔き乱されていた。


 そんな時、領主である父親はいろいろ難癖を付けて彼を領地から追い出したのだ。本当は勇者ではなかった異世界人である彼を疎んでいたことをマルコは知っている。


 「僕は人生を精一杯生きるよ」


 彼は別れ際にそう言って、自分が使っていたリュートをマルコに渡した。


 去り行く彼の姿はまるで誇り高き狼のようだった。


 マルコはショックでしばらく何もやる気になれなかった。剣も魔法もそこで放り投げた。判りやすく言えばグレたのである。

 

 その後、彼が王都へ身を寄せたという噂を聞いた。が、それ以上のニュースが辺境へ届くことはなかった。


 次に彼の話を聞いたのは王立アカデミーへ入学してからだった。離別から既に十年の月日が流れていた。


 その頃、王都の街ゆく若者たちは皆、耳に魔石イヤフォンを付けていた。王都へ到着してすぐの頃からマルコはずっと気になっていたが、その時はそれが何であるかを知らなかった。


 判ったのは偶々隣に座っていた学友がソレを耳に付けていたからである。田舎者丸出しで少し恥ずかしかったが、マルコは思い切って訊いてみたのだ。


 王都出身の学友は田舎者を諭すようにいろいろ教えてくれた。そして――試しに聴いてみろ――と渡された魔石イヤフォンを耳に差し込んだ瞬間、聴こえてきたのが彼のあの独特の歌声だったのである。


 マルコはつい興奮して思わず学友を問い詰めてしまった。


 聞くところによると――斬新な曲調とその個性的な歌声で、今、王都で最も注目されている音楽家とのことだった。また国王陛下より直々に子爵の地位も賜っているとのことだ。


 マルコは飛び上がるほど嬉しかった。


 あの途轍もない才能はやはり王都で認められたのだ。――戦えない異世界人に価値はない――と言った父親や領地の戦闘バカ共に――ざまぁみろ――と言ってやりたかった。――追放した者より下の地位にいる気分はどうだ?――と訊いてやりたかった。


 「自分が何者かは自分で決める」


 彼はそう言っていた。そしてその通りになった。こんなに痛快なことはなかった。マルコはすぐにでも彼に会いに行きたいという衝動に駆られた。……だが、今更どんな顔をして会えば良いか判らなかった。


 自分が、着の身着のままで領地を追い出したその領主の息子なのだと思うと途端足が竦んだ。成功したから擦り寄って来たと思われたくなかった。


 ――そもそも王室御用達となった爵位持ちの彼にそう簡単に会えるはずもない――と自分にそう言い聞かせて、マルコは彼と会うのを諦めた。いや怖気づいたのだ。

 

 領地にいる時――。王立アカデミーへの入学が決まった時――。


 王都へ行ったらとことん音楽をやるつもりでいた。気の合う仲間たちと出逢い、彼のようにバンドを組むのだ。そしていつかは彼の歌声に合わせてリュートを弾くことを夢を見ていた。


 けれど現実はまるで違ったものになった。


 音楽どころか、学生らしいこともまるでして来なかった。実家からの仕送りが途切れがちになり、金欲しさに歓楽街で働くようになった。長く伸ばしていた髪も切り、着たこともなかった執事服に袖を通した。そして欲望渦巻く世界に足を踏み入れたのである。


 自身を抑制することを覚えたのは歓楽街だった。


 自分を守る為に――傷つかない為に――幾多もの歯車で心を機械仕掛けにしてしまったのも歓楽街でだった。


 色を売る女社会で、従僕として生き抜くには、プライドを捨てて自制的である必要があった。また少し疑い深いぐらいでなければ、生きていけなかったのである。


 だが、それも今日で終わった――


 そう思うと、歓楽街でマルコの心を支えて来た幾つもの歯車が弾け飛んだ。そして奥から粘膜が剥き出しになった生々しい心がドクンドクンと鼓動を始めた。


 滅多なことでは揺るがないと思われたマムとの主従関係は、混じり合う唾液の中でいとも簡単に溶け消えた。柔らかな肌に吸い込まれるように、マルコの中にあった自制心は甘美な背徳感に変わった。

 

 機械仕掛けの心が壊れてしまったマルコはもう飼い犬には戻れなかった。ただひたすら自由に――、ただ心が赴くままに――、無我夢中で禁断の地を駆け廻ったのである。


 果てた後、「あら、中に出しちゃったの? 悪い子ね」と言われるまで、己が嘗て飼い犬であったことさえマルコはすっかり忘れてしまっていた。


 それから暫く窓からさす薄明かりの中で、高価なチーズをつまみに高級ブランデーを黙々と飲んだ。胡坐をかいたマルコの膝に顔を乗せたマムは、手遊びでもするようにマルコの陰茎をもてあそんだ。


 大きく見えていたマムはとても小さな人だった。マルコと同じ石鹸を使ったはずなのに桃のような甘い香りがした。スッピンのマムはどこかあどけなくキツく感じていた目も少し垂れて可愛いとさえ思えた。


 マムの涙がマルコの太腿を濡らしていた。この人は女なのだと、マルコは改めて気づいた。


 これからどうするのだろうか――自分に何か出来ることはあるだろうか――またこうやって会うこともあるのだろうか――


 ウトウトと微睡みながら、そんなことを考えていたマルコはいつの間にか眠ってしまっていた。


 マルコが目を覚ますと、窓から夕陽が射し込んできていた。テーブルに置かれた時計を見ると、午後五時を少し回っていた。


 一瞬ハッとして跳び起きたマルコだったが、店へ出勤する必要がないことを思い出してもう一度ベッドに倒れこんだ。


 部屋にマムの姿は既になく、夢でなかったことを示すようにつまみの食べ残しと高級ブランデーの空瓶が転がっていた。


 いつも持ち歩いていたバッグを手繰り寄せたマルコは、一応、中を確認した。


 そこには、小さく折り畳まれた昨晩買った新聞と、財布と魔石イヤフォンが入っているだけで、やはり店の鍵は無くなっていた。


 『キャバレークラブ・ナターシャ』はもう既に蛻の殻になってしまっているかもしれない。歓楽街で店が潰れた時の始末は電光石火である。業者によって一瞬にして片付けられ、次の新しい店の為の何も無いスペースになるのだ。


 「ん???」


 ふと違和感を覚えたマルコは、もう一度バッグの中をさぐった。中身をすべて放り出して、バッグの隅々まで確認したが、やはりそこにあるべき物が消えていた。


 立ち上がったマルコはベランダの窓を開けた。夕暮れの冷たい風が、部屋にこもった澱んだ空気を追い払うように吹き抜けた。放り出した新聞が部屋の中でパラパラと音を立てて捲れた。


 そしてマルコは「クククッ」と愉快そうに笑ったのだった。


 バッグから消えていたのはサムブ王都銀行の手形だった。マルコが歓楽街で働くようになってから貯めた金である。貧乏学生だと思っていたマルコが金貨200枚も貯め込んでいたことに、マムはさぞ驚いたことだろう。


 笑ったのは、ショックで頭のネジが飛んだわけではない。昨夜からずっと抱いていた微かな不安が解消されたからだった。


 「そんな元気があれば、死ぬなんてことはないだろう」


 あれだけ執着していた金を盗られたというのに、マルコは妙に清々した気分だったのが、自分でも可笑しかった。


 もちろん仕事と金を同時に失ったという現実を忘れたわけではないが、体から悪霊が離れていったような解放感に満たされていた。無くなっていた事にさえ気づいていなかった自由が、手を伸ばせばすぐ掴めそうな、そんな気がした。


 クローゼットを開け放ったマルコは、歓楽街で働くようになってから一度も触れていなかったリュートを取り出していた。


 「狼にはなれなかったけど、野良犬にならリュートを弾けるんじゃないかな?」


 秋風に翻弄されてパラパラと捲れる新聞には、時代の終わりを告げるように異世界から来た偉大な音楽家の死を伝える記事が大きく載っていた。


 マルコはベッドに凭れ、抱きしめたリュートにこびりついた埃を指先で削ぎ落しながら、天に向かって呟いた。


 「さよなら……フレディ」

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【さよなら……フレディ】辺境貴族の息子が王都へ出て堕落して、失うことで自分を取り戻していくお話 はなだ とめと @hanada-tometo

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