第3話


 城塞の門を潜ってから、マルコはずっと考えていた。送って行こうにもマルコはマムの家を知らなかった。店へ戻るにしても、おそらく夜明け前になってしまうだろう。さて、どうするかと……。


 「マコちゃんはどこに住んでいるんだっけ?」


 マムが唐突に話し掛けて来た。


 「すぐ、この辺りですよ」


 「あら、そうなの。なら少しお邪魔しても良いかしら。何だか飲み足りないわ」


 たぶんマムはまだ帰りたくないのだろう。どれぐらの負債があるかマルコは詳しくは知らないが、歓楽街に三年もいれば、この先マムの身に何が起こるかぐらいマルコにも想像できた。またマルコ自身の今月分の給金が未払いになってしまうことも覚悟していた。


 「それは構いませんが、狭くて何もありませんよ」


 「フフッ、そんなことを気にしなくて良いわ」


 ……と言っていたマムだったが、貸部屋の前に到着するなりあんぐりしていた。


 「マコちゃんって貴族だったわよね?」


 王立アカデミーがある表通りから少し入り組んだ小道を抜けたところにマルコの借りていた部屋はあった。周辺には平民が住む住宅地があり、かなり古い木造二階建てのアパートメントだった。


 「辺境男爵の三男坊なんて、騎士にでもならなければ平民と同じですよ」


 曲りなりにも貴族令息が住むような場所ではなかったが、マルコは領地から出て来て以来、ずっとこの部屋に住み続けていた。理由はたんに風呂トイレ馬房付きだったから、それだけである。


 「あら、だったら騎士学校へ通った方が良かったんじゃない?」


 「いや、まあ実家の都合というか……、騎士学校はお金が掛るんですよ。そこから騎士になるのなら、さらに大金が必要ですからね」


 王立アカデミーは講義に出席せずとも試験さえパスしてしまえば単位を貰えた。だからこそマルコは歓楽街で働くことが出来ていたのだが、騎士学校となればそうはいかない。


 「えっ 袖の下ってこと?」


 「まあ、ハッキリ言ってしまえば、そう言うことです」


 「……貴族も大変なのね」


 マルコは苦笑いを零す。


 そして玄関ドアを開けてマムを貸部屋に迎え入れると「あら、ホントに何もないのね……」呆れていた。


 実際、大袈裟ではなく部屋には何もなかった。左にキッチン右に風呂とトイレがあり、その先にある居住空間にはベッドと円形の小さなテーブルがあるだけだった。しかもそれは元々この貸部屋にあった備え付けである。


 私物と呼べる物はクローゼットの中に入っていたが、領地から越してきた時そのままの状態で荷解きもしていなかった。


 「辺境貴族って……そんなにお金に困ってるのかしら? でもマコちゃんはけっこう稼いでるんじゃないの?」


 マムは勘違いしているが、買えないのではなく、買わないのだ。ただ寝る為だけの部屋にせっかく稼いだ金を使う気にはなれなかったのだ。


 マムはトイレを開けて、次にお風呂を覗いた。


 「あらお風呂があるじゃない。借りちゃってもいい?」


 マムは、タテガミが生え揃っていない若いオスライオンのようになった髪をさらに両手で掻き乱した。


 マルコは「ええ、どうぞ」と一つ頷いて、久しぶりにクローゼットを開けた。立て掛けたリュートが視界に入り、ズキリと心が痛む。


 そして木箱の中から実家から持って来てまだ使っていなかった真新しいタオルと、あれこれ探して一番マシなガウンを差し出した。


 すると、それを見たマムが驚いたような顔をしたので「新品ですから」と慌てて付け加えた。


 「うんん、気が利くなと思っただけよ」


 それらを受け取ったマムの横を通り過ぎ、マルコがそのまま外へ出ようとしたら「どこへ行くの?」と止められた。この部屋には脱衣所がないことを伝えると、マムは「あっちを向いてくれていれば、大丈夫だから」と笑った。


 マムが脱いだ若草色のドレスをハンガーに掛けてカーテンレールに吊るしたマルコは、シャワーから噴き出す水の音を聞きながら煙草に火をつけた。


 いつの間にかマルコも王立アカデミーの四年生になっていた。これまで何とか留年せずにやって来たが、ゼミが始まってからは時間のやりくりに四苦八苦していた。マルコはあと少しで領地へ戻らなければならない。まったく成果を出さぬままに。


 ――足を洗う良い機会かもしれない――


 少し寂しくもあるが、歓楽街に未練はなかった。しばらく働かなくても、何とかなるだけの蓄えもあった。


 ただ今更まともな学生に戻れるのかという不安はあった。王立アカデミーには、顔見知り程度の知り合いはいたが、友達と呼べる人間は一人もいなかった。


 風呂の方からキュキュと蛇口を締める音が聞こえてきた。マルコはテーブルの上にある灰皿で煙草をもみ消すと、浴室の中折れドアがスライドする気配に体を壁の方へ向けた。


 「ありがとう、もういいわよ」


 振り返ると、タオルを体に巻いたマムが立っていた。マルコは慌てて目を逸らしたが、一瞬だけ視野に飛び込んできたのは、その二の腕の細さでさらに強調された豊満な胸だった。


 「マコちゃんも入ってきたら。その間に着替えておくから」


 「あ、はい」


 あたふたと下を向いてマムとすれ違ったマルコは、服を着たまま風呂場へ飛び込むと己の陰茎が起き上がってしまっていることに苦笑した。


 これまでマムを女として見たことなど一度もなかった。店主、いや飼主――エサをくれる人――である。


 マルコは風呂の扉を少し開けて脱いだ服を外へ放り出すと、頭からシャワーを浴びて己の不埒なモノが収まるのを待った。


 マルコが風呂から出ると、少しだぶついたガウンを着たマムはベッドで横になっていた。そっと近づいて様子を伺うと、どうやら眠ってしまったようだった。


 マルコはほんの少しだけ落胆した。もしかすると……と思わないわけではなかったからだ。ただ頭を冷やすと、やはり有り得ないことだった。


 マムとマルコは、所詮主人とその飼犬に過ぎず、決して男と女の関係に成り得るはずがなかったからである。


 大きく息をついたマルコはベッドの端にぐちゃぐちゃに丸まっているブランケットを広げると、マムの体にそっと掛けた。


 そして最後まで忠犬たらんことを改めて心に誓い、静かにベッドから離れようとしたその時である。ツタのような細い腕が伸びてきて、マルコの腕に絡みついたのだった。


 「灯りは消してね」


 不意を衝かれ一瞬怯んだマルコだったが、手を引かれるままにマムと重なり合った。


 身悶えするようなマムの声が響いた。


 その声は直接鼓膜を触れられたほど近くに感じる一方、こことはまるで違う別世界から漏れ出た音のようにも聞こえた。


 煽情的なその声にマルコの体はすぐに反応したが、気持ちの方は葛藤していた。


 不都合なく稼働していたはずのマルコの心は搔き乱された。


 減速することなく回り続けようとする歯車と不測の過負荷に停まろうとする歯車が鬩ぎ合って噛み合わなくなってしまったような……。


 けれどその感覚はどこか懐かしくも思えた。


 その時マルコの脳裏によぎっていたのは、領地で異世界から来たという男と過ごした日々だった。


 辺境のしかも魔境と接した領地を持つ貴族の息子として生まれたマルコは、よちよち歩き始めた頃から剣を持たされていた。まだ覚束ない言葉で魔法の詠唱をさせられた。


 辺境で生きていくからには、とにかく強くなければならなかった。


 そんな時、突如現れたのが異世界から来た彼だった。

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