第2話

 王立アカデミーへ入学して丸三年、マルコはドラゴン・ラッシュに沸いた歓楽街の高級クラブを渡り歩いた。


 マルコがまだ幼い頃、王都近郊にドラゴンの墓場が見つかったことは王国中でニュースになった。またそこから数年後には、百年に一つ見つかれば良いと言われていた貴重な魔晶石がゴロゴロ発掘されたというのである。本当のことは判らない。実は二、三個しか見つかっていないという話もあった。


 だが、そこから空前絶後の好景気は始まった。世界中からサムブ王国の王都に人が集まり、人口は以前の倍以上に膨れあがった。いわゆるそれがドラゴン・ラッシュである。


 片田舎の領主の三男坊だったマルコが、わざわざ王都の王立アカデミーへ通うようになったのも、それが要因だった。領主である父親はドラゴン・ラッシュの恩恵に少しでも与りたいと、王都へマルコを送り出したのであった。出来損ないの息子の使い道など、こんなことぐらいしかなかったのかもしれない。


 だが辺境の男爵風情が持っていた情報など大して当てにならない。マルコが王都へ着いた頃にはその景気もすでに翳りを見せ始めていた。それでも歓楽街の狂乱はまだ続いていたのだけれど……。


 マルコの世代というのは、もう少し早く生まれていればドラゴン・ラッシュを本格的に経験することが出来ただろうし、またもう少し遅く生まれていればその破廉恥な世界を知らずに済んだという、狭間にいるような若者たちだった。


 ドラゴン・ラッシュと深く関わっていないが、ドラゴン・ラッシュのお陰でおいしい仕事や妙な副収入にありついていた。


 いわゆる落穂拾いである。ドラゴン・ラッシュから零れ落ちた欠片を抜け目なく拾っていたのだ。


 ただそれはどこにでも落ちているものではなかった。薬草の採取や弱い魔物の討伐など、学生らしい小遣い稼ぎをしていても決して得ることの出来ないものだった。金銭感覚が尋常ならざる者が集まる場所でなければ、それを拾うことは出来なかったのである。それが王都でいうところの歓楽街だった。


 アイスペールに注がれた一本金貨5枚もするブランデーを一気に飲まされて祝儀を貰ったこともあった。成金商人のホームパーティーに貴族子息として参加して法外なギャラを貰ったこともある。音楽家の卵という奇妙な設定で貴族婦人たちの歌唱大会の審査員をしたこともあった。その時は袖の下に金貨が詰め込まれた。


 また豪商の若い妾の浮気調査をしてみたり、五十を超えた貴族の未亡人から体中を触られてみたりと、えげつない仕事もした。


 それから少しきな臭い話だが、木箱一杯の金貨や、麻袋に入った金塊を王都で借りているアパートで預かったこともあった。口止め料も含めたその時の謝礼金は手が震えるほどの額だった。


 ただそれを、マルコたち世代の若者はちゃんと異常だと知っていた。極彩色の宴を目の当たりにしても、金銭感覚が麻痺することはなかった。給料もまた過分なチップも狂人と共に吐き出すことはなく、コツコツとお金を貯めるという小賢しい世代だったのである。


 「チーフ、そこにいるんでしょ?」


 ややあってから、マムの声が聞こえた。声に少し苛立ちが混じっていたのは、何度か呼んでいたのかもしれない。マルコは魔石イヤフォンを耳から外して、慌ててキッチンから繋がるカウンターへ出た。


 壁に掛かった時計の針は既に午前二時を回っていた。そこにはもうマネージャーの姿はなく、若草色のドレスを着たマム一人がカウンターに片肘をついて項垂れていた。夕方、綺麗に結い上げられて出勤したはずの髪は四方八方に飛び散り、垂れ下がった前髪で顔の半分が隠れていた。


 本来のマムは多少きつい印象はあるが、細身で色が白く綺麗な人だった。ドレスもよく似合っていた。歳は三十前後だろうが、これまでマルコが働いてきた王都の歓楽街でも一、二を争う美人マムだった。


 「ねえ、お酒ちょうだい」


 そんなマムがいつもより十ばかり老けて見えた。


 マルコは何も言わずに頷いてロックグラスに氷を入れて、カウンター裏に置いたショット用の国産ブランデーを取り出した。


 「何よそれ、フェネスィーを出しなさいよ」


 フェネスィーとはサムブ王国より魔境を挟んだ西側にある農業大国のミドドルーエ王国で作られている貴重なブランデーである。王都には年間100本も輸入されない。


 「えっ、新しいボトルを開けるんですか?」


 「何を言っているの、そこに沢山あるじゃない」


 マムは、カウンターにある客のキープボトルが置かれた棚を、剣でも降るように指を差した。


 「し、しかし……これは……」


 「いいのよ。どうせもう客なんて来ないんだから」


 下卑た笑いを浮かべるマムを、マルコは目をパチクリさせて見つめた。その真意を推し量ろうとしたのである。そして、その厚い化粧の下にある悲哀を感じ取ったマルコは――この店はもう終りなのだ――と悟った。


 キープ棚から下膨れのリュートのような形をしたボトルを、マルコは手に取った。通常のフェネスィーより一つランクが上のフェネスィーXOというかなりお高い酒だ。店にもこの一本しかない。首に掛かった名札には○○伯爵と書かれてあった。


 「よしよし、それでいい」


 マルコがそのボトルを選んだことが痛快とでも言わんばかりに、マムは手を叩いて囃した。


 厳重に密封されたガラス蓋を引き抜くと、ポンという軽快な音と共に、一流の酒でしか成し得ない華やかでまろやかな香りが鼻に衝いた。


 マルコが振るえてしまいそうな手で恐る恐るボトルを傾けて琥珀色の液体をグラスに注ぎ込んでいると、マムは獲物を狩るネコ科の猛獣のようにグラスを引っ手繰った。そして喉の奥へと一気に流し込んだ。


 「ああ、美味しい。マコちゃんも飲みなさいよ」


 マムは、上機嫌な時だけ、マルコをマコちゃんと呼ぶ。


 「残念ながら、馬なんで……」


 「そうだったわね」――そして、しばらく考えてから――「ねえ、海が観たいわ。連れていってくれないかしら?」と言ったのだった。


 「今からですか?」


 「ダメかしら?」


 おそらく今日がマムへの最後の奉公になるはずだとマルコは思った。歓楽街の男は泥舟には乗らないが、雇われている間は全力で尽くすのもまた歓楽街の男だった。


 それは――男衆をどれだけ大事にするかが女の器量――という王都の歓楽街独特の気風に起因していた。無論、女尊男卑の世界であったが、歓楽街でホステスがボーイを苛めたなどという話は滅多に聞かない。マムにとってホステスは商品だったが、マネージャーやチーフなどはいわゆる郎党なのである。だから男衆もそれに報いる仁義を通す。


 「判りました。では参りましょうか」


 キャッと少女のような歓声を上げたマムは、少し背が高いカウンターの椅子から飛び降りるとキッチンへ駆け込んだ。そして太客に出すために取り置きしていた高価なチーズやつまみをありったけバッグの中に押し込んでいた。


 また高級ブランデーの尊厳などどこ吹く風で、先程のフェネスィーXOの瓶の首を逆手に持つと「しゅっぱーつ」と声高に叫んだのである。



 店の外はすっかり秋も深まり冷たい風が吹いていた。真夜中とは言え、大通りにも安酒で深酔いした若者がフラついているぐらいで、やはり以前のような活気はなかった。


 歓楽街のすぐ側にある厩舎から馬を出すと、ドレスのままのマムを手を引いてそのまま馬上に引き上げた。「何か、音楽をかけて」と言うので、先程まで魔石イヤフォンで聴いていた曲を鞍に取り付けたスピーカーに接続した。


 「へぇ、マコちゃんって変わった音楽を聴くのね。なんて曲?」


 「ボヘミアン・ラプソディー。異世界の音楽です」


 それから暫くマムは一言も喋らなかった。甘過ぎる香水の匂いがなければ、存在を忘れてしまいそうな程、静かに……ただひたすら景色を眺めていた。ふと振り返って見たマムは、すべての感情が抜け落ちたかのような顔をしていた。


 王都を囲む門を抜けて海へと向かう小道へ入ると、流れゆく景色はただの暗闇になった。


 「マリーナへ行くのね……」


 マムはポツリと言った。


 マルコにとって海と言えばマリーナだった。領地に海はなかった。王立アカデミーに入学したばかりの頃、先輩に戦艦を観に連れていかれたのだ。歓楽街で働くようになってからは、海へ行くことなど一度もなかった。


 「砂浜とかの方が良かったですか?」


 「うんん、大丈夫よ」


 月明りに照らされた夜のマリーナをしばし馬上から眺めた後、再び来た小道を引き返して王都へ戻った。

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