【さよなら……フレディ】辺境貴族の息子が王都へ出て堕落して、失うことで自分を取り戻していくお話

はなだ とめと

第1話

 サムブ王国の歓楽街にある『キャバレークラブ・ナターシャ』の閉店後のカウンターで、店主であるマムとホールを担当するマネージャーが彼是一時間ほど言い争っていた。


 時刻は午前1時半。


 普段ならとっくに王都で借りている部屋へ帰宅している時間だったが、そのせいでマルコは店から出られなくなっていた。


 それは二人を心配してのことだとか、話に聞き耳を立てていたというわけではなく、たんに戸締りの問題だった。


 この店の鍵の管理をしていたのが、チーフのマルコだったからである。


 「僕はちゃんと言ったはずです」


 「だからあれは仕方がなかったのよ」


 とは言え、雇い主と上役である二人の話に割って入るわけにもいかず、マルコは暇を潰そうと歓楽街をぶらぶらして煙草と出たばかりの朝刊を買って店へ戻ってきた。


 「せっかく連れてきた女の子を勝手に辞めさせたのはマムでしょ?」


 「だってあの娘は、態度悪かったじゃない」


 が、彼らの口論はさらにエスカレートしていた……。


 マルコはやむなくキッチンにあった空いたエール樽に腰を据え、一つ溜息をついてから、魔石イヤフォンを耳に差し込んだ。そして買って来たばかりの新聞を広げたマルコは、その飛び込んで来た記事に目を見開いた。


 ……知らず知らずに流れ出た涙がポタポタと新聞の文字を滲ませている。


 悲しのか? 寂しいのか? 悔しいのか? マルコには自分の気持ちが判らなかった。ただ――どうやら俺は泣いてるようだ――とその事実だけを受け止め、そっとバッグに新聞を仕舞った。


 マルコはフッっと大きく息を吐いて気持ちを切り替える。


 ともあれ、どうしてマルコが鍵を持っていなければならないのかと言う話だ。それはキッチン担当であるチーフというその役目にあった。主な仕事は客から注文された酒や料理を用意することだが、それに伴って準備が必要になって来る。


 酒の注文をして、市場へ買出しにも行く。またある程度の仕込みも必要だった。だからマルコは誰よりも先に出勤しなければならなかったのである。


 それでも、こんな事さえなければチーフの仕事は気楽なものだった。閉店後はちゃちゃっと片付けを済ませ、店の入口の鍵を閉めさえすれば、それでお終いなのだから。


 それに比べてマネージャーは大変だ。ホールに出ているからには客と顔を合わせるわけで、誘われればマムやホステスたちと共にアフターに付き合わなければならなかった。


 だからマルコは歓楽街で働くようになって三年、ずっとキッチン担当だった。王都の歓楽街のボーイとしてはベテランの部類に入るが、ギャラが多少上がったとしてもマネージャーになるつもりはなかった。


 「朝は、慣れないけどな……」


 朝……と言っても夕方だが、出勤して店のドアを開けるその瞬間をマルコは苦手にしていた。


 と言うのも、無人であるはずの仄暗い店内からざわざわした気配を感じるからである。黒いガサゴソするアレではない。亡霊や魔物などの類でもない。狂騒のようなものが、ほんの一瞬だけ聞こえて来るのだ。


 だからいつも大きく深呼吸してからでなければ、店へ入る一歩が踏み出せなかった。


 ただ一旦店へ入ってしまえば何てことはなく、店にあるライトをすべて灯し終わる頃には、その気配は壁に吸い込まれるように消えていた。


 それはこの店に限ったことではなかった。今まで働いて来た王都の歓楽街にあるどの店でも同じだった。


 この話をマルコは一度だけ他店のチーフにしたことがあった。


 彼は――客とホステスの欲望の残滓――だとか――長年にわたって泥土のように滞積された人の邪念――などと言っていたが、マルコはそんな禍々しいモノじゃないと思っている。おそらくだけど、これは自身でも気がついていなかった無意識な拒否反応ではないかと考えていた。


 だから鍵をポンと置いて帰ってしまえば、明日になって困るのはマルコなのである。


 「もうこれ以上、僕にやれることは何もありませんよ」


 マネージャーの大きな声が聞こえてきた。憤るというより、呆れたような声だった。歳はマルコより一つ下だが、頑張り屋でやる気があり、歓楽街では滅多にお目に掛かれない誠実な男だ。


 幾つも歓楽街のクラブを渡り歩いて来たマルコと違って、マネージャーは『キャバレークラブ・ナターシャ』一筋でやって来た。


 マルコがこの店でチーフとして働くようになったのは三ヶ月前からのことだ。紹介所からは――短期のつもりでやれ――と言われていた。だから経営状況が芳しくないことは察しがついていたが、それでも当初は高級クラブとしての体裁はまだ何とか保っていた。


 傾いた店を立て直そうと昼日中から街中へ出て女の子をスカウトしたり、他店の客がついたホステスと交渉したり、マネージャーが獅子奮闘の働きをしていたからである。


 実際、売り上げはそう悪くなかったと思う。このまま地道に続けていけば、その内軌道に乗ってくるだろうとマルコも考えていた。


 けれど思うほど利益の方は上っていないようで、「今は我慢です」とマネージャーに言われても、良い頃を忘れられないマムは苛立ちを隠せなかった。


 ――以前は入店を断らなければならなかったこともあった――金貨5枚もするボトルが一日に何本も栓が抜かれた――などマムは昔を懐かしむばかりであった。


 ほんの少し前までの歓楽街は、大金をバラ撒くことが豪商のステイタスであり、態々高い店に通うことが貴族のプライドであるかのような、そんな時代だった。


 そんな客が、一人、また一人と店に顔を出さなくなった。さらには、掛売をしていた商人が、いつの間にか商会を辞めていたり、音信不通になったり、街から商会そのものが無くなってしまっていたなどということもあった。


 また売掛を担保したはずのホステスへ集金の矛先を向けると、煙のように姿を消してしまい、店には宙に浮いた請求書ばかりが嵩んでいった。


 ただそれはこの店の話だけでなく、王都の歓楽街全体が、いや王国中の歓楽街で同じような憂き目に遭っていた店は数多あったことだろうと思う。


 今だからこそ、あの頃は……などとドラゴン・ラッシュを懐かしむ声もあるが、当時はドラゴン・ラッシュがいつ始まって、いつ終わったかなど誰にも判らなかった。


 当時は皆、天国行きの馬車に乗っていたつもりだったのである。そのあまりの心地よさについウトウトして、気が付いたら地獄に到着していたというわけだ。


 それでもドラゴン・ラッシュにどっぷり浸かり込んだ人たちは、不況など一時的なものであり、またすぐに元の活気ある歓楽街に戻ると楽観していた。マムのように……。


 マルコもマネージャーに乞われ、酒の仕入れ値やメニューの見直しなど細かな協力をしていたが、痺れを切らしたマムが遂にパンドラの箱を開けてしまったのだった。


 ホステスの査定をやり直したのだ。


 経費の最大はやはり人件費であり、一時はマムの目論見通り利益を出すことにも成功していた。けれど不調だったからこそ、その箱は絶対に開けてはならなかった。


 歓楽街からは、客足も遠退いていたが、それと同時にホステスの数も減少していた。ホステスは商品であり、ギルドにおける冒険者のようなものである。


 査定に不満を抱いたホステスたちが次々に店を辞めていった。ホステスが一人去るたびに顧客を失い、これまで親密な関係にあった常連と呼ばれていた貴族たちまでもが、パタリと来なくなってしまった。ホステスの怒りは客の怒りなのだ。


 それまで崖っぷちで踏み留まっていた店も、構造的相互作用を欠いてしまっては、地滑りするように転げ落ちるしかなかった。


 この日も、安息日の翌日ということを差っ引いても酷い有様だった。客はたったの一組だけである。今月の売り上げは目も当てられない程だ。


 こうなってしまっては、マムの頼りはマネージャーだけだったが、そのマネージャーさえも店を見限ろうとしていた。


 「もう無理です。限界です」


 「ちょっと、待ってよ」


 マムの声は今にも泣きそうだった。


 突然――辞めたい――と申し出たマネージャーの気持ちは、マルコにもよく理解できた。これまでのマネージャーがして来た努力を水の泡にしてしまったのは、経営者であるマム自身だからである。


 それにもうこの店はマネージャ―の有無に拘らず、遠からず潰れることは疑いようがなかった。たとえ誠実な男であったとしても、泥舟に乗らないのが歓楽街で働く男なのだ。


 マルコも――そろそろ潮時かな――と考えていた。この店だけでなく、歓楽街そのものをである。

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