第三話 『夜望方回』

「――――……………………? ……なに、が…………??」

 

 ――さしものクオリアも、この突拍子もない注文には困惑したと見える――常に無機質な彼女が、これ以上ないほどにわかりやすく訝しんで訊いてくるものだから、つい苦笑してしまった。見えないが、あの能面の眉根をほんのわずかに寄せながら僕の方を見ているのだろう。たぶん、僕の頭を心配しながら。


 とはいえ僕はまともで、その上でこんなことを言っていて、つまり健全な――果たして、それを〝健全〟と呼べるのかはさておき――精神状態にありながら首を絞められたいと願っているのだ。だからこそ、退くわけにはいかない。


「リアが、僕の首を。――僕はまともだよ?」


「……まともなひと……首しめて、とか……いわない」 


「じゃあ異常者たる僕が頼むからさ、首絞めてよ。できるだけ苦しくなる感じで」


「…………へんなの」


 呆れたようにそう呟くクオリアは――されど、『どうして』とは聞かず。

 ほんの少しの逡巡の後、のそのそと緩慢な動きでこちらに寄ると、遠慮する様子も見せず、仰向けに寝転ぶ僕の腰に座った。馬乗りの体勢だ。


 腰に、臀部の柔らかな感触。


 同時、少女の全体重。


「ぐえ」


「……それ、しつれい」


 おどけて声を漏らす僕に、クオリアが片頬を小さく膨らませて抗議する。――もっとも、ふざけた態度のその内心、軽そうな見た目を更に上回って軽かった彼女に驚いているのだが。

 悪魔だし、人とは構造が違うのかもしれないな――と、熱を持たない紅玉の瞳を見て、思う。腰から伝わる体温とか心拍数は、幼い外見相応に高いのだけど。


「冗談だよ、ごめん。――人の首を絞めたこと、ある?」


「…………ない。……けど、やりかたは、わかる。――悪魔、だから」


 彼女との距離感であれば目のやりどころに気を使う必要もないので、目をそらすことなく無遠慮に少女の顔を見つめる。そしてそれは彼女も同じようで、いつもの眠そうな半目でじっと僕の瞳を覗き込んでいた。

 

 上下の視線が絡み合う。


 安心と、不安と、ほんの少しのもどかしさ。どういうわけか、彼女を実感しているこの瞬間に、彼女を失う未来を想像してしまう。


 その感覚が妙に新鮮で、なぜだろうと考え――僕の人生の内に、誰かと目を合わせた経験が数えるほどしかなかったことに思い至る。重度の視線恐怖症であり、そうでなくとも人とのコミュニケーションを恐れて避け続けてきた僕が、顔を上げて誰かと話す機会などあるはずもないのだから。


 ともすると、胸を締め付けるこの気持ちこそ、〝愛〟なのかもしれない。


「リア。――リア…………っ」


 発作的に。衝動的に。

 愛おしいその名前を噛みしめるように呼びながら、彼女に向けて片手を伸ばす。


「……ん」


 ――自分でも驚くほど唐突な衝動だったから、彼女に驚かれたり引かれたりしないか、行動を起こしてから不安になったものだが。


 差し伸べたその手を、彼女は――ガラス細工にするように――柔らかく取ると、自身の頬にとあてがってくれた。

 鉄仮面のそのかおに、ほんの少しだけ熱を帯びさせて。

 

「…………あったかい」


 小首を傾げると、気持ちよさそうに目を細めて呟いた。

 邪気の欠片もないささやかな微笑が、幼い彼女の美貌を更に美しく飾る。


 少女の愛らしさと、女性の美しさ。


 どちらも兼ね備えた彼女の笑みに、思わず左の胸が跳ねる――その〝心〟が動く感覚は、退屈だった僕の人生にとって、あまりに新鮮な刺激だった。

 

「そりゃ、生きてるからね」


 いくら言葉を尽くそうとも名状しがたい充足感に包まれるが、それを彼女に気取られるのはなんとなく気恥ずかしかったので、上辺だけの軽口を叩く。

 

 それは、自殺志願者の、あまり笑えないジョークのつもりだったのだが。

 冷笑気味に返したその言葉。しかしクオリアは何を読み取ったのか、

 

「……うん。…………――………………っ」

 

 感じ入るように何度も反芻し、僕の手をより強く頬に押し付けた。

 普段の態度からは考えられないほど、露骨に感情を前面に出して微笑む彼女。――これほど積極的に求められた経験は、彼女との関係どころか、僕が生きた十九年と少しの人生でも初めてのことだったので、戸惑った。


 とはいえそれも一瞬のこと。

 子猫がするように、僕の手を掴んで離さず、手の甲に頬ずりする少女の微笑を眺めていると、困惑はみるみるうちに霧散していった。


 空いた胸を代わりに満たすのは、得も言われぬ多幸感。いや、あるいは、愛し愛されて健全に育った人間ならば、この気持ちを表現しうるのかもしれないが――少なくとも僕には、この、全身が湯に包まれているように温かくなり、同時に心臓がむず痒くなるこの気持ちを、言葉によって表現することは叶わなかった。


 だから、言葉を尽くす代わりに、彼女の背中にそっと手を回し、僕の胸へと抱き寄せる。


「――……んっ」


 胸の中で、クオリアが小さく声を漏らした。

 

 長く淡い灰色の髪の毛に顔をくすぐられるが、彼女の髪の毛だと思えばそれさえも心地よい。――これまでは、他人に触れられるだけで手に汗が滲んでいたというのに。


 愛の力って強いんだなぁとしみじみ思いながら、上体だけをわずかに起こし、愛する少女に目を向ける。


「……そろそろ、首、絞めてくれる気にな――ぐえっ」


「………………もう、ちょっと」


 僕の胸に、ちょっと鼻が心配になるくらいの勢いで顔を押し付けて、彼女は幸せそうに呟く。男の胸板なんて、硬いばかりで何も面白くないと思うのだが。

 

「楽しいの?」


「…………ん」

 

 普段より1オクターブ高い声で返事をされた。

 

「なら、いいけどさ」


 髪の流れに沿って、梳くように頭を撫でる――ゲームをしていない間、彼女は僕に頭を撫でるよう要求することが多かった――。

 差しいれた指先に伝わる、きめ細やかな髪の感触。砂漠の砂のようにサラサラしていて、力を入れずとも頭皮まで届いてしまう。爪を立てないよう注意しながら、指先で頭皮を撫でてみると、クオリアが心地よさそうに目を細めて顔を綻ばせる。いつも表情の硬い彼女がそんな反応を見せてくれるのが楽しくて、また、ひんやり冷たい髪の毛と、温かい頭皮の温度差が気持ち良くて。だから、猫を撫でているような気持ちになり、つい手が動いてしまう。

 そういえば、四六時中いっしょに居るが、彼女が髪の手入れをしている場面を見たことがない。にもかかわらずこんなに手触りが良いのは、時間の流れが狂っているからか、それとも彼女が人を惑わせる悪魔だからだろうか。わかったとて、だからなんだという話ではあるが。


 なんとなく、彼女の長い前髪を、掬うように持ち上げてみる。

 髪は、しかしその柔らかさ故に、重力に従った液体を思わせる動きで、僕の手のひらを細い毛先で撫でながら零れ落ちた。


 その感触がどうにも気持ちよかったので、再び前髪を、今度はさっきよりも多く掬ってみる。

 持ち上げると、すぐに波立って零れ落ちる髪。場所や毛量を変えてしばらく弄っていると、いつの間にか顔を上げていたクオリアが、眠そうな瞳の奥に疑問の色を浮かべて、


「…………たのしい、の?」


 と。


 ――…………。

 

「中々」

 

「…………なら……いい、けど……」


 言ったきり、頬を下にする形で顔を乗せて、目を瞑った。


「寝るの?」


「ん…………おや、すみ……ふぁふ…………」


 ――いくら軽いとはいえ、そこで寝られると困るんだけど。

 思いながらも、膝の上で眠る猫よろしく、僕をベッドに気持ちよさそうな寝顔を浮かべる彼女に、そんなことを言えるはずもなく。


「…………」


 仕方がないので、彼女を起こさない程度に身体をよじって、せめて違和感なく呼吸ができる体勢を模索する。――……お、いいかも。

 多少は息苦しいが、眠ろうと思えば問題なく眠れる程度。さっきよりはずっとマシだ。


 ──目を瞑ってみる。一月ひとつきぶりの眠気は、思いの外すぐに訪れた。起きている間は一度も眠くならなかったのに、つくづく都合の良いことだ。


「――じゃ、おやすみ」


「………………ん……」


 沈みかけの意識で、もうほとんど寝ているクオリアの声を聞きながら、頭を撫でる。

 

 後れ毛が、手のひらから零れて落ちた。


■■■■■■■■■■■■


 結局、その後もクオリアが僕の首を絞めてくれることはなかった。

 断っておくが、彼女に拒絶されたわけではない。まして、僕が興味を失ったわけでもない。

 ただ、ふたり、漫然と時間を過ごすうち、少しずつ話題が変わってゆき、お互いその流れを止めずに居たら、いつの間にか「ゲームでもしようか」ということになっていて、気付けばいつも通りの生活に戻っていた――それだけのこと。要するに、になったのだ。


 長年の夢であっただけに少しばかり残念ではあるが、とはいえクオリアとなら何をしていても大抵たのしいので、大した執心もない。――あるいは、これこそが彼女の狙いだったのかもしれないが。 

 


「…………そう、いえば……」  

 

 対戦型の格闘ゲームで、壁を背負って抵抗する僕を無被弾のままボコボコにしていたクオリアが、パーフェクトゲームを告げるシステムボイスを聞きながら、どこか満足げに呟いた。


「――――――…………なに……」


 腹の底から湧き出てくるやるせなさをため息として吐き出しながら、苦々しく言葉を返す。

 あれほどえげつない、ともすればグロテスクなまでのリンチを加えた直後なのだから、表面上だけでも申し訳なさそうな態度を取ってくれても良さそうな気がするのだが。恨めし気に見る僕の視線を、しかし彼女は――あるいは、単に気付いていないだけかもしれないが――微かに微笑んで受け流すと。


「……しにたい、の?」


「どう考えてもそのテンションで聞くことじゃなくない?」


 T時間P場所O場面の全部にそぐわない、これ以上ないほどいい加減で雑で、その割に重大な質問だった。

 かなりデリケートな部分なのだから、もう少し遠慮してもらうべきなのだろうが――そこはやはり悪魔クオリア。精神構造からして人間とは若干ズレている節があるので、今さら気にしたところで仕方がない。それに、この程度で気を悪くするような僕でもないから、受け入れた方が早い。

 

「――死にたい、ねぇ……」


 天を仰いで、考えてみる。


 ――僕は、明日が来れば自ら死ぬ。それはあの夜から今まで変わらない事実だ。明日が来ないこの空間だからこそ、僕はまだ生きている。

 『死の恐怖』というのも、今となってはよく分からないのだ。落ちれば間違いなく即死する高度のビルの柵を乗り越えたときも、特に何の感情も湧かなかった。その日がたまたまクリスマスで、晩御飯に焼肉だったか寿司だったか、とにかくそういった〝良いもの〟を食べる予定をしていたので、死なずに帰ったのだけど。


 つまり、死を厭う理由は、何一つとして無いのだ。


「…………私、は……」


「ん?」


 出し抜けに、おずおずとクオリアが口を開いた。口数こそ少ないものの、言いたいことは遠慮なく言う彼女にしては実に珍しい態度だ。

 彼女は、しばらく何か言いたげに、口をもにょもにょ動かしたり、手を伸ばしたり引っ込めたりした後。


「……や…………なんでも、ない…………わすれて」


 俯いて、ぽそりと呟いた。


「…………??」


 なにか、様子がおかしい。今まで、これほどしおらしい態度をクオリアが取ったことなんて、一度として無かった。


 今の彼女は、それこそ、他人を傷つけることを極端に恐れるのような――


「………………ねえ」


 首を傾げていると、俯いたままのクオリアが、再び話しかけてきた。その声は震えていて、何かに怯えているような。


「……どうしたの?」


「――――………………もし…………もし、だけど…………もし、私が…………え、と…………」


 妙に勿体ぶるなぁ、と思った。

 しかし、彼女にも彼女なりのリズムがあるだろうから、急かすことなく続きを待つ。

 


 時計の針が、妙にうるさく時間を刻む静寂。

 黙り込んでしまったクオリアの頭を胸に抱き、その頭をゆっくり撫でてやる。しばらくそうしていると、ようやく決心がついたのか、彼女は肩を震えさせながら口を開いた。



「…………もし、明後日……私が、いなかったら…………どう、おもう…………?」


 ――背中から、嫌な汗が滲み出すのを感じた。

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