斜陽的ファウンドフッテージ

望月祐希

第一話 『胡蝶の現』

 「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」

 ──────新共同訳聖書『ヨブ記』


 ▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼



 僕は明日、死ぬ予定だ。



 就寝前。ベッドの上に寝転んだ僕は、いつもの《呪文》を呟いた。


 「――"ああ神様、"」


 とくべつ信仰心が強いわけじゃない。何かの宗教に入信した覚えはないし、聖書なんて最初の一節も知らない。

 藁にも縋る思いで、信じてもいない神に祈っているだけ――仮に祈りが届いたとして、この有様では受理されるはずもないが。


 僕は今年で二十歳になる。ちょうど、ニヒリズムに浸って厭世的な物の見方をしてしまいがちな年頃だ。僕のこれもまた、周囲の大人たちに言わせてみればそれと同じ類のモノなのだろう。「俺にもそういう時期があった」とは父親の言だ。


 そう――実の親でさえ、これなのだ。


 一般には、二十歳の子供がこういう『歪んだ』価値観を持ったとしても、大人になるための変遷期に入った指標に過ぎない。

 成長期の子供の乳歯が抜けても、誰も気に留めないのと同じだ。無知な子供がどれだけ異常を訴えたとしても、両親は笑って済ませるのみ。微笑ましさ覚えるだろう。


 僕の絶望の根源は、もっと別のところにあるというのに。


 ――理解できない。理解されない。愛せない、愛されない。


 きっと、幼少からの――否、生まれついての欠陥なのだ。


 地球が爆発して、自分の死にすら気付かず消えることができれば、どれだけ楽なことか――望むべくもないを、ぼんやり考えたその時。


 ――コンコン。 僕の部屋の扉を、誰かがノックする音が聞こえた。


「あ、はい――」


 思考を遮った音の方に向き直り、反射的に返事をして――そこで、気付く。


 時刻はすでに丑三つ時。当然、両親はとっくに寝付いているし、兄弟だってこんな時間には訪ねてこないだろう。


 つまり、扉の奥にいるのは家族ではない。しかし、家族以外の可能性は絶無。

 ――では、いったい誰が?


「……


 ――それは、女性の、それも恐らくは幼い少女の声だった。

 少し低い声音に、落ち着いた口調。しかし、その節々に少女特有のあどけなさを含んだ話し方だ。


「……?」

 

 ……この時間に?

 怪訝に思って問い返すと、扉の奥の彼女は


「ん……パン、焼くけど…………たべる?」


 ――…………


 胸がざわつくのを感じながら、どう答えたものか思案する。明らかにおかしい質問だし、それに何より、


 ほんの少しだけ、不穏なものを感じる。触らぬ神に祟りなしとあるように、こういう突発的な意味の分からない事象は大抵ロクでもない結果を招きがちだから、関わらないのが賢明だ。

 そして、僕はそれを知っている。だから、


「――そうだね。食べようかな」

 

 少女の誘いを、受け入れた。

 ――恐れとは、死を忌避する人間が抱く感情だ。生への執着がない僕のような人間にとって、こんな面白そうな話を拒むなんていうのは到底ありあえない選択だった。


 少女は、心なしか先ほどよりも少しだけ高い声で、

 

「……わかった。すぐできるから、きてね」


 とだけ言い残すと、僕の部屋から遠ざかっていった。


 ――どこまでが現実で、どこからが夢なのだろうか。


 のことを思いながら、僕は部屋を出た。

 


 ▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼



 リビングに繋がる扉を開くと、香ばしいパンの匂いに鼻をくすぐられた。


「――……あ。 …………おはよ。ごはん、できてる」


 僕を迎えたのは、ついさっき扉越しに聞いた少女の声。

 声のする方に向き直ると、そこには淡い灰色の髪の幼い少女。食事の準備をしながら、感情の見えない紅玉の瞳で、じっとこちらを見つめていた。


 ――存在感の薄い子だな、と思う。ともすれば、煙のように消えてしまいそうなほど。

 年の頃は、目測で十から十二といったところだ。にもかかわらず、仕草は年不相応に落ち着き払っていて、動きにくいだろうに髪を腰まで伸ばしている。大人の女性を外見だけ幼くしたような、ひどくな印象を受けた。


 そして――やはりというべきか――僕は、この子を知らない。


「……バターの量、わかんない、から…………勝手にぬって、たべて」

 

 起伏のない声で、そう言われた。

 食卓の上に視線を移すと、湯気を立てるコーヒーが入ったマグカップと、溶けたバターの香りが匂い立つ二つのクロワッサンが用意されていた。朝食としては完璧な献立だ。文句のつけようもない。


「……いらないなら、いいけど」


「いや、頂くよ」 


 促されるまま、席に着く。

 座ってみると、コーヒーから立ち昇る湯気と共に、熱を含んだほろ苦い香りが鼻孔に入ってきた。耳の奥の、更に奥で燻っていた眠気が、熱いカフェインの香りで弾けて消えるのを感じる。


 なんというか、絵に描いたような『朝食』だ。

 よく漫画や小説なんかで、新聞を読みながらコーヒーを啜る”優雅な朝”の描写があると思うのだが、この朝食が正にそれだ。


 すっかり感心して、僕は少女の顔を拝むべく顔を上げる。

 いつの間にか僕の対面に座っていた彼女は、相変わらず張り付けたような能面で、ぼんやりとこちらを見ていた。少女の前に食べ物はない。もう既に食べたのか、朝は食べないタイプなのだろう――あぁいや、今は夜だけど。

 真正面から見て気付いたが、彼女の顔立ちはこの世の物とは思えないほど整っている。表情こそ薄いものの、文句のつけようもなく美少女と分類できる彼女と相席してこの素敵な朝食を食べられることは、男として心躍るものがあった。

 

 希望を見失い、絶望の底まで沈んだ人間だとしても、本能の歓びを理性が抑え切ることはないのだ。


「いただきます」


「……ん」


 手を合わせ、眼前の少女に宣誓。

 サクサクのクロワッサンを手に取り、口に運ぶ。


 全体にムラなく焼き色が付いている表面に、サクリと歯を入れて――


「――おいしっ」


 思わず、声が漏れた。


 ――これまで食べたクロワッサンの中でも、群を抜いた完成度だった。

 触れるだけで表面が剥がれるほどサクサクなのに、一度ひとたび歯を差し込むとしっとりした食感の中から溶けたバターが溢れてくる。


 文字に起こしてみればありふれたおいしいクロワッサンだが、いま食べたこれの凄いところは、これら要素の一つ一つが〝完成〟しているところにある。


 わずかな湿気すら感じられないカラッとした表面。にもかかわらず内部は非常にしっとりとしており、高級な和牛の肉汁のようにバターが溢れてくる。――一つの完成形と言って差し支えない


「これ、すごいね。どうしたの?」


 食べる手は止めないまま、賞賛ついでに聞いてみる。

 こんなに美味しいものが売っているだろうか。この子の正体は、世界有数のパン職人だったりするのだろうか――と考え、すぐに『この深夜にぼくの家に忍び込んでパンを作っている少女が実は世界有数のパン職人だった』という筋書きの荒唐無稽っぷりに気付き、内心苦笑する。


 僕の称賛を、しかしほんのわずかにさえ喜ぶ仕草を見せずに、退屈そうに少女は答える。

 

「んと……バターいれて、まるめて、焼く…………おわり」


「手順の話じゃなくて……まぁいいや」 


 どうせ聞いても分からないだろうし。というか、ほんとに作ったのか。


 天然なのか、話を誤魔化しているのか――少女がこてんと小首を傾げた、天然っぽいな。


 明らかにわかってなさそうな苦笑いして、熱い湯気を立たせているコーヒーを啜る。

 

 アメリカンコーヒーだ。やはり、こちらもおいしい。

 触れた舌先から伝わるのは、熱と苦みと、わずかな酸味。一切の雑味を取り除きつつ、苦みと酸味を理想的なバランスで両立している。

 それでいて、後味コクは驚くほどさっぱりとしたものだ。液体が喉を通ったあとの口内に残るのは、熱とわずかな苦みのみ。コーヒーのコクは嫌いではない。が、こと手軽に済ませたい朝食においては、味わいや香りといった余韻が長々と残るコーヒーよりも、尾を引かない味わいのコーヒーの方が適しているというのが僕の持論だ。無論、少女がそれを知ってこのコーヒーを淹れているわけはないが。

 また、油が控えめなのも、バターが多いクロワッサンと一緒に飲む都合上ありがたい。もともとコーヒーの油は少ない方が好みな上、口内に残ったクロワッサンの脂をコーヒーで流せるからだ。


 透明クリアでシンプル。味わい深く、それでいてすっきりした味わい――エグみや渋みといった雑味を徹底して取り除いているからこそ、純粋にコーヒー本来の味を楽しむことができるのだ。きっと、相当な研究を重ねたに違いない。

 

 総じて、慎重かつ丁寧に作られた、非常に僕好みの朝食。

 特にお腹が空いていたわけでもないのに、食べる手は一瞬たりとも止まることはない。二つあったクロワッサンは見る間になくなり、コーヒーも三度ほど少女に注ぎ直してもらった。


 そして、心を躍らせながら僕が朝食を食べている間、少女はぼんやりと遠くを見つめていた。





「――ごちそうさまでした。ありがとう、すごく美味しかった」


 食後のコーヒー(先の物よりもコクと味わいを濃いめに調整されていて、おいしい。)を飲み干し、手を合わせながら深々と頭を下げる。ずっと昔に忘れてしまっていた食事の歓びを思い出させてくれた彼女への、純粋な感謝だ。


「……ん」


 しかし彼女は、相変わらずの死人のような無表情で短く返事をするのみ。僕を一瞥だけすると、さっさと食器を片付け始めてしまった。

 あれだけおいしいご飯を作ってくれた彼女に、あまつさえ食器まで片付けさせてしまっては、流石に僕の立つ瀬がない。焦燥から、思わず彼女の方に手を伸ばして、


「あ、え、と……」

 

「…………?」


 ――しまった、と思った。

 少女は手を止めて、話しかけてしまった僕の方を見ている。恐らく、というかほぼ間違いなく、僕が言葉を続けるのを待っているのだろう。


 だが。


「――あ、その…………食器……」


「…………」


 少女に〝見られている〟――視線を意識してしまった途端、思考が空白に染まった。

 そう――僕は、他者とのコミュニケーションが致命的に苦手だ。主な理由は二つ、生来の視線恐怖症と、人見知り。


 無数にある単語の中から状況に応じて適したものを探し、それらを文法に従って組み立て、言葉にして発声する――ただでさえ無理難題に見えるそれを、


 ――不可能だ。

 眠そうな半目の少女と視線が合うと、それだけで額に脂汗が浮かび、思考は空転するばかりでまとまらず、冷汗が背中を伝う。先ほどまでは僕がいる方を見ているだけだった少女が、今は他ならない『僕』を見ている――その事実が、手で煙を払うように僕の思考を霧散させる。


 とにかく、何かを話さなければ。

 酸欠の魚のように何度か口をパクパクさせたあと、喉の奥から絞り出して言葉を紡ぐ。


「ごっ……ご飯、作ってくれたし、食器くらいは…………」


「……つくったのは、私」


「や……それは、そうだけど…………」 


「…………きにしなくていい。私が、すきでやってること……だから」 


 そこまで否定されてしまうと、絞り出した勇気も押し黙るというもの。

 

 沈黙する僕との会話は終わったとでも言うように、少女は視線を手元に戻して黙々と作業を再開した。


 ――せめて、手伝いでも。


 そう思い、立ち上がろうとした矢先のこと。彼女は再び僕の方を見ると、ポツリと呟くように言った。


「……あとで、説明する、から…………いまは、すわってて」


 ……わたしのこと、とか――

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