第二話 『不変・永遠・合縁奇縁』

 早朝とも夕方ともつかない仄かな明かりが、キッチンに隣接したダイニングを窓越しに照らしていた。


 ぼんやりとした光の中、二つの人影がテーブル越しに向かい合っている。一つは長身痩軀の青年のもの。もう一つは、やけくそに長い髪が特徴的な少女のものだ。

 

 不気味なほどの静寂に支配された空間――ゆらゆらと湯気が立ち昇るコーヒーカップを見つめながら、少女が出し抜けに口を開いた。

 

「……私は、悪魔。なまえは…………ないけど、むかしはクオリアってよばれてた」 

 

「〝悪魔〟……? へぇ……」


「…………おどろかない、の?」


 ――そもそも、信じてもらえるとさえ、思っていなかったのに。

 平坦な語調、しかしわずかに訝しむような声で尋ねる少女――クオリアに、「んー……」と唸りながら、青年。


「なんだろ……僕が明日死ぬ人間だからかな。今さら現世で何が起ころうとも、なんというか…………――どうでもいい、というか」


「……………………」


 彼を見つめるのは、相変わらず、冷え切った――どこか物寂し気な色を含んだ瞳。

 表情こそ変わらないものの、憐憫や同情といった類の感情を抱いていることが見て取れるクオリアに、青年は自嘲気味に笑うと。


「……言っとくけど、同情とかはしなくていいからね。悩み抜いた末にだと信じた結末なんだから、後悔はないよ」


「…………を、えらぼうとは……おもわないの?」


「それがわかるなら、選びたいところなんだけどねぇ」


 コーヒーを一啜り。

 それから目の前の少女から視線を上げ、地平線をさえ見通すような遠い目をして、


「はは……クオリアちゃんも、小さい頃から本は読んでおくと良いよ。無教養の末に首を吊るしかできなくなった僕から、ささやかなアドバイス」


 と。

 その瞳には、喜びも悲しみもなかった。初めから決まっていた結末――それが望まない形であろうとも――〝運命〟を受け入れ、全てを諦観する目。

 

 空虚で、安らかな目。


 それを見たクオリアは、酸欠の魚のように、何度か口を開けたり閉じたりして。


 『かける言葉が見つからない』――そんな風に小さくため息を吐くと、目を伏せて言った。

 

「…………私、見た目ほどこどもじゃない」


「へぇ、いくつなの?」


「…………あなたより、一二〇歳くらいは……おとな」


「……それは、大人というより――」


 クオリアが小さな頬を膨らませたのが見えた。


「――いや、なんでもな」

 

 直後、

 

 衝撃。


「いて」

 

 机の下で、足を踏まれた。


「…………おとな、だから」


 机の上で、コーヒーが揺れた。

 

 

 ■■■■■■■■■■■■


 

 最初の出会いから

 僕はまだ、生きていた。

 

 ――いや、これは正確ではないか。

 

 訂正すると――最初の出会いから、

 僕はまだ、死なずにいる。


 というのも、彼女――クオリアが現れたその日から、時間の概念がなくなったらしいのだ。


 窓の外は、いつ見ても早朝だか夕方だかはっきりしない空。時計を見てみても、めちゃくちゃな速度で動いているかと思えば気まぐれに止まってみたり。酷い時には、長針と短針がそれぞれ逆の方向に回ってみたり。

 

 その関係なのか、腹も減らなければ喉も乾かない。ので、最初の『朝食』以来なにも口にしていない。たまにコーヒーを淹れてもらうくらいで、水すら飲む気にならなかった。

 あと、眠気も来なくなった。寝ようと思えば寝られるのだろうが、必要がないから一睡もしていない。意識は連続しているのに心身ともに疲れる気配がないというのはなんだか不思議な感覚で、長い夢を見ているような気分になる。

 

 そんなわけで、きっかけも明日にならないまま、ダラダラと死なずにいる――この状態を〝生きている〟と呼称してよいものか怪しいため、回りくどいがこう形容する――。死のうと思えばいつでも死ねるわけだから、そう死に急ぐ必要もない。


 社会的なしがらみも、肉体的なしがらみも無い――このところ、僕はほとんどの悩みから解放された生活をしていた。 


 ある日は「……これ、おもしろい…………らしい」と、クオリアがどこからか持ってきた、DVDの映画を観たり。

 ある日は「……私、これつよい…………」と、クオリアがどこからか持ってきた、二世代ほど前の機種の格闘ゲームで遊んだり。

 ある日は「……これ、すき…………」と、クオリアがどこからか持ってきた、妙に古ぼけた小説を背中合わせに読んだり。


 そんな具合に遊び倒して、かれこれ一ヵ月。


 ──最初こそ、様子のおかしい世界と、異様に距離感の近い彼女のダブルパンチに困惑し、無気力なりに右往左往したものだが。つくづく人間の適応力というものは侮れないもので、いつの間にか世界の異変は気にならなくなったし、彼女の態度にも慣れた。


 やることがなくなる度にクオリアが持ってくる娯楽を、いつの間にか疲労を忘れていた肉体で消化し続けた時間。


 そしてそれは、クオリアと共に過ごした時間と同義でもあった。

 初めて顔を合わせたあの日こそ、未知の他人たる彼女を怯え、恐怖に震えたものだが――今となっては、それも笑い話だ。

 

 

 

ってさ、怖くないよね」


 彼女が最も得意とするゲームであるチェスを打ちながら、僕はそう話しかけてみる。

 答えが返ってくるかは分からない。二人でゲームをしているとき、クオリアはあんまり僕と話してくれないからだ。


「…………私が、ちんちくりんだって……言いたいの?」


 戦況は五分。膠着状態に入った盤面から目を外さないまま、口先だけでそう返す彼女。

 盤面を覗き込んで考えるから、長い前髪が垂れて邪魔くさそうだ。

 

「邪推もいいところだよ……――いや、僕がこんなに心を開ける相手は、初めてだなって」


 これは、、本心だ。

 というのも。僕に気を許せる友達はいないし、恋人なんてもちろんいなかった。実の親にさえ引け目を感じながら生きていたから、そもそも人に心を開いた経験がない。


 つまり、本当に心を開けているのかもわからないのだが――少なくとも、〝一緒にいて楽〟な相手は、間違いなく初めてだから。


「……つまり、どういうこと…………?」


 しかし、なおも小首をかしげる彼女。

 悪魔だからか、それとも彼女自身の気質なのかは定かではないものの、彼女は筋金入りの天然だ。――というより、察しが悪い。


 そんな彼女に苦笑して、どう説明したものかと少し考え、

 

「つまり、リアのこと、誰より好きだってこと」


 これでいいや、と思う。

 ――字面だけ見れば、あるいはこれがリア以外の異性であれば、間違いなく意図したとおりに伝わることはないだろう言葉。


 チェスの盤外戦術としてはこれ以上ない、切り札といっても差し支えないレベルの言葉であるが――


「……あ、そういういみ…………――チェック」


「……え。あ」


 今この場において、僕の向かいに座る対戦相手は、そのクオリアに他ならない。

 ――〝一緒にいて楽〟とは、これほど適当な言葉でさえ正しく意図をくみ取ってくれるからであり。

 

 更に言えば、この少女の心を言葉だけで揺さぶることはまず不可能だろうから、盤外戦術とも呼び難い。


 そこまで理解しているからこそ、僕は気軽にこういうことを言えるのだ。


「んー…………?? ――ポーンで守るしかないか……」


 …………事実、ついさっきまで膠着していた戦況は、少女の革命的な一手により急転。たちまちに僕の大劣勢となっていた。

 苦し紛れに、延命策にしかならない手を打ってはみるものの――

  

「ん……チェック・メイト」


「――――あ」


 彼女がそう宣言すると同時。ノータイムで、コマを置かれる。

 

 ――〝チェック・メイト〟とは、将棋でいうところの王手とは違う。

 『打ち負かされた王』――つまり、という、完全な勝利宣言。


 それを、目の前の少女が行った。『…………した、よ……』と。


 そういうことだ。


「……〝500戦0勝500敗0分〟」


「…………キリ、いい……ね」


「……………………」


 …………三日間、文字通りの不眠不休で打ち続けたチェス――500戦。そしてその全てにおいて、僕にはただ一度の引き分けもなく、ただ一度の勝利もない。


 もはや言葉を返す気にもなれず、大きくため息を吐きながら後ろに倒れ込んだ。

 クオリアの顔やチェス盤といった風景が、急速に流れて消える。

 

「――――……」


 物言わぬ天井をぼんやり見つめて、再びため息。

 僕とクオリアしか存在しないのかと錯覚してしまいそうなほど――いや、今となっては、本当にいないのかもしれないか――静かなに、その音は妙に大きく響いた。

 

 いっそ耳が痛くなるほどの、完全な無音。


 僕もクオリアも、口数が多い方ではない。――いや、僕の方は、陽気に振舞っているから、クオリア以外に対しては目を付けられない程度に話すけど。実のところは極力話したくないというのが本音だし、そもそも人と向かい合うだけで吐き気を催すレベルで緊張しているわけだから、多くなる道理がないのだ。


 もっともクオリアとの会話に限れば、その限りではないけど――とはいえ、『無言でいても気まずくない相手』であるところの彼女だから、無理して会話の頻度を意識する必要もない。


 必然的に、こういう無言の時間が増える。

 ――瞬きした刹那、目の前にいたはずの彼女が、まるで煙のように消えてしまっても、違和感のない静寂。ような、安寧と呼ぶに相応しいそれが。


 〝冷たくない孤独〟〝一人じゃない孤独〟――僕は、この時間が好きだ。


 心が冷えたとき、手を伸ばせば握り返して温度を共有してくれる。

 それでも足りなければ、短い腕をいっぱいに伸ばして抱きしめてくれる。

 

 つくづく、心が通じ合った相手というのは、ありがたいものだと思う。


「ね、


 視線は動かさない。仰向けに天を仰いだまま、虚空に向かって語りかける。


 コトリ。


 視界の外、投げ出した足の方から、言葉の代わりとばかりにチェスの駒を置く音が返された。口を開くのが面倒なのだろうか。


 構わずに続ける。

 

「――首、絞めてくれない?」

 

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