後編 花びら一つ
彼女は立ち上がり、私も彼女に続き堤防までの道を歩いていた。
「子役、今はもう女優みたいな扱いだけど……、子役に一番大事なのってなんだと思う?」
「なんだろ……。記憶力?」
「ううん。子役だから案外アドリブでも許されるよ。まあ……そればかりしてたら怒られるけど」
「じゃあ何?」
「それはね、泣くこと。泣かなきゃいけないシーンに笑っちゃいけない。逆もまた然りね。泣かなきゃいけない時に笑っちゃう、という人がいるって聞いたことはあるけど、じゃあドラマでそれやったら難しいよね」
「大変なんだな」
「私ね。泣くことは上手かったの。……これか」
彼女の頭越しに見えたのは紅白一つずつのライトに照らされる夜桜だった。何度も見たことがあるというのに今年の桜並木だけは不思議なほどに美しく見える。
「私は早熟だった。泣く演技をやるって、自慢じゃないけど六歳でそれをするって、とっても難しいこと。分かる?」
「俺も弟がいるから。その時のあいつがコントロールだなんてまあ無理だわな」
「だから天才だって、もてはやされて、確かにそうだったのかもしれない、けれど……」
「けれど?」
「アレは今思えば仕事だったし、当然ギャラもあった。ギャラだって、たくさん貰えたんだ。そりゃあ誰にもできる仕事なんかじゃないから。でも、今私の口座にそんなにお金は無いの」
「それって……」
「まあ、全部親だよね。親はさ、それを生活のアテにするようになったのかな。まあヒモと言えばいいのかしらね」
少し考えてみれば分かることだった。まだ幼稚園も行かない子どもが「私、女優さんになりたい」と意思表示するだろうか。
では未来の子役をオーディションに送り込むのは果たして誰だろうか。間違いなく親、それに近い保護者だろう。だから、正直子役というものは親のエゴ、自慢材料なのだった。
堤防から降りれば夜桜トンネルを味わえる三〇〇メートルほどの遊歩道がある。私と彼女はそこに降り、しばらく光の織り成すこの場所に身を委ねていた。
「それで、今はさ……」
「ねえ。君の話も聞きたいけど、けれど、今はこの景色さ、ちゃんと目に焼き付けて欲しいな。もうここには来ないでしょ? 正直」
「まあ。でもいいの? 私のこと聞かなくて」
「大丈夫、あと一時間はあるからさ。ロケ車は多分C駅北口のロータリーでしょ?」
「うん」
「これでも地元民だからね。もし君が話したくてそれでモヤモヤが解消されるなら全く構わないよ。でも、そうしたくなければ、綺麗な思い出のままここを残してほしいなって。ダメかな」
「ううん。ありがとね」
彼女も光の天井をひたすら眺め、少しだけ演技を私に見せてくれた。
「それいいの? なんか気軽に見せちゃダメ、とかあると思うけど」
「別に気にしてないよ。なんかさー、舞台に立ってるような感じ、しない?」
私は学習発表会で何度か経験した舞台を思い出した。緑、赤、それから……青だろうか、そこまでは覚えていないが、多分光の三原色だからそうだろう。その光が舞台に上がっている私の眼を刺していく、あの記憶が思い出された。
夜桜トンネルを抜けた私と彼女はもう一度堤防に戻り、残り二〇〇メートル程になった桜並木を歩いていた。この桜が彼女の慰めになってくれるだろうか、としばらく思案していた。
「ねえ、写真撮ってもらってもいい?」
「君からだなんて」
私は彼女のスマホを借り、一枚、二枚と彼女と夜桜を映していく。
「ねえ、あなたも入ってよ」
「良いの? 俺あんま顔は良くないけど」
「思い出として残さなきゃ」
彼女はどこからか自撮り棒を伸ばし、そのシャッターを押した。
「後で連絡先交換してよ。写真送りたいし」
私はスマホを渡し、しばらくすれば写真が数枚私の方に送られてきた。そこに映っていた彼女はやっぱり自然の笑顔だった。
「それで、C駅まで案内してくれる? 今六時半だからそろそろ」
「もちろん」
C駅から桜並木を結ぶ道から駐輪場は反対の場所にあり、私は流石に盗む人もいないだろう、と彼女を案内してからもう一度この場所に戻ることにした。
「聞きたい? 私の話」
「前も言ったかもしれないけど、君がいたい君で良いんだよ。けれども、それで君が楽になるなら、それでいい」
「じゃあ、話してもいいかな? 親がオーディションに送り込んだ理由ってのがさ、今思えば分かるんだ」
「それは何?」
「……泣くのが上手かったから」
「泣くのが? ……それって」
「うん」
「虐待」
私はそう呟いた。それに彼女はただ首肯するだけで、私はなんとなく立ち止まりたくて星空を見上げる。
――彼女は幼少期から虐待を受けていた。暴力を受け、泣かなければさらに親がイラついて殴り続ける毎日。
その中で自然と獲得したものが噓泣きだったのだろう。涙を自然と流し、そして泣き止まなければ逆鱗に触れてしまうため涙を止める、ということにも長けるようになっていた。
数か月後、その嘘泣きが親にバレてしまい彼女は更なる虐待を覚悟したが、しかし親はその嘘泣きの精度に興味を覚えたのだろう、と彼女は語った。
「『これは子役になる』ってね。親は多分泣くことが子役に一番大事なことだってのを知ってたのかな」
「それで、子役を?」
「その時は子役だなんて思ってないよ。ちょっとばかり遊んでいるに近いかな」
「そっから今日まで?」
「まあ理由は違うよ。子役って凄い稼げるの。できる人が少ないから、それで親は寄生するようになって、何を思ったのか、FXを始めたの」
「FXって、投資?」
「まあギャンブルとそこまで変わらないよ。それでまあ大負けして、結構借金もできてさ。でも年齢が上がれば別に泣く演技の希少性は下がるの。だから……仕事も選べないし。今は働いている意味が分かんない」
世間では働くことに意味がない、特段意義を持ってなどしていない、とSNSに流すような人がいる。それと彼女は何かが違うように感じた。けれど、本当は何も変わらないような気がして、その答えを星空を縦横無尽に駆け巡る雲に問おうとした。
「麻木君、あなたには感謝してるの」
「感謝?」
「こんなこと言ってると厨二病に思われるかもしれないけど、久しぶりにこうやって笑えてさ。あなたにとっては気まぐれかもしれないけれど、それがとても嬉しかった」
「そっか」
「実はね、あの場所で飛び込もうって思ってたんだ。それで本気で死ねるとは思ってなかったけれど」
「今は?」
「何も思ってないよ。今はなんだか幸せだと思えているから」
「そっか」
気づけば駅舎の数倍の面積はあろうかという駐車場に入っていた。こちらは西口だから北口は駅舎の向こう、彼女と話すことができる時間ももう少しだ。最後に何と言えば彼女を励ますことができるのか、それを考えてみるものの、結局何の言葉も思いつくことなく時間が経っていった。
「これ、あなたから借りた上着。ありがとね」
「構わないよ、あとこれ」
そう言って私は諸々の入った紙袋を手渡す。
「ありがとう。もしさ、どうしても辛くなったらその時は電話してもいい?」
「俺で良ければ」
「……ドラマ、もうちょっとだけ頑張ってみるよ。そしていつか、あの夜桜もう一度見に行きたい」
「そっか。それが君の選択なら、良いんじゃない」
「うん。じゃあね」
私との関係がバレたら面倒だという理由で、彼女は一人で駅舎へと歩いて行く。私は踵を返し、駐輪場まで戻ることにした。
私はジュースを少し飲んで、四阿のベンチに腰を下ろした。時刻は七時を迎えており、既に彼女はロータリーより東京へと向かう車の中だろう。けれども二時間ほど前まで彼女はここにいた。今はもう夏だと思っていた。昼は確かにそうであるが、この今吹き抜ける冷たい風と、既に彼女の温かさを失ったベンチに春は未だ冬の延長戦でしかないことを感じた。
自転車を私は漕いでいく。紅白の光の世界は一瞬だけ私の心を奪い、それでふっと転びそうになった。
再び自転車を漕ごうと自転車を立ち上がらせた時、湖の方から一瞬強い風が吹いた。その風は桜を抜けていき、花びらが自転車のサドルに数枚落ちた。その中の一枚だけでも彼女に届いて欲しい、と祈ってペダルに足を掛けた。
夜桜トンネル かけふら @kakefura
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