夜桜トンネル
かけふら
前編 四阿にて
灰色のTシャツに少し汗の滴ができている。季節外れ、といっても最近はそれが当たり前になっていた。
今から向かうのは満開の桜、それが一キロ近く並ぶ風景は素晴らしいもので、自宅からはその桜は見えないが、毎年のようにこの季節にはその場所に訪れるようにしている。幸いしたのはこの場所はマイナーだったということだ。この場所を知っているのは自分の街の住民ぐらいで、観光客は住んでいる街の中心からかなり離れた、ある意味不便な所にある桜を見に行く。恐らくどう考えてもこちらの方が交通の便は良い方であるのに、だ。
私は自転車を倉庫から動かし桜並木へと向かっていた。いつもなら十数ある駐車兼駐輪場に停めることなど訳ない、というのに今日はそれが満員でチラと「路駐禁止」という看板を見た。流石に看板の隣で堂々と停める気は無いのだが、その向こう黒山の人だかりができている。
その理由は大方予想ができていた。近々とあるドラマの撮影がこの街で敢行されるらしく、さらに豪華なキャストも揃えている、とのことだった。その桜並木で恋愛シーンでも撮るのであろう、それを観に大勢が来ていた、ということだった。私はくるりと引き返し、汗を流しただけで外出は終わってしまった。
私はTシャツと下着を洗濯機に放り込み、換気のため少し窓を開けていた。花粉症のため換気は嫌なのであるが、酸欠になるのも困るのでその網戸から入ってくる風に身を委ねていた。
ソファに座った私はそのドラマのキャスト陣を調べていた。あと二、三時間もすれば撮影も終わるだろうか、と吞気に冷房を付け寝転んだ。まだ春の季節だというのに夏張りに暑い。数年前の四月中旬と言えば春の始まり、そんな時期だが今はただの夏の始まりであろう。そのキャストの中、一人の名前を見つけた。
「
幸川薫、その人は天才子役として知られる人だった。子役として六歳から活躍し、私と同年代だったから母はテレビでの活躍を見る度、
「へー、しっかし同じ年齢ねえ……」
と言っていた。確かに天才だ、と弟がいる今ならわかる。六歳で感情をコントロールしながらセリフを覚え、そして完璧にそれをこなすのだ。マルチタスクどころの話では無い。
少しだけ日の光が強まってきたその夕暮れ、私は綿の無いジャンパーを被り自転車に跨った。予想通り、撮影は終了しており駐輪を楽に済ませ、堤防の上を歩いていた。
桜の枝は隅々まで広がり、堤防もあいまって、その花びらに触れようと思えば触れられるほどだった。ただそれで下手に折って腐らせてしまえば、それはあまりにも可哀想だから、その桜一つ一つをただ眺めていた。
桜並木の写真を撮るために、私はあえて桜並木の先端まで歩いた。堤防があるということが表す通り、桜並木は二本の川の流れ込む湖畔に位置している。だから半分を湖、半分を桜、そして降り注ぐ夕焼けが美しいのだ。その光景が見える場所、その近くの四阿に私は腰を下ろす。
四阿には先客がいたようで、その人はぼうっと、その景色を眺めていた。だから私は少し気まずくなり、写真を撮るため柵へ向かおうと立ち上がった。
「……別に座ってもらっても構いませんよ」
「隣にいるのが嫌になったわけじゃないです。ほら、綺麗な景色でしょ? 写真を撮りに」
「綺麗、ねえ」
「そう思いませんか?」
「そういう風に思えなくなって」
彼女はいわゆる「Doomer」なのか、少なくとも冗談ではないような言いぶりではあった。
「じゃあ、失礼」
私はベンチに腰を下ろし、変わりゆく空を眺めて、最も美しい瞬間を探していた。
「飽きないんですか?」
彼女は立ち上がり私を見下ろす。
「君は? 俺より長い時間いるんじゃないの?」
「何も考えてないから」
「そっか。何か飲まない? あそこに自販機あるし、奢るよ?」
「良いの?」
「遊ぶ人はいないからね。お小遣いも余ってるし」
私は彼女と自販機に向かう。西日が水に反射しキラキラ、と目に映っていった。
「何が欲しいの?」
「……水」
「水? 別にわざわざ買うほどでもないと思うけど」
「いいや、これがいいの」
彼女は一〇〇円のボトルを手にし、そのキャップを外す。私はオレンジジュースを二本買い、もう一本をベンチに腰掛ける彼女に一つそれを置く。
「良いの?」
「良いんだ。じゃあ水飲んでいる間、君さえよければ少し話そっか」
「うん」
「俺は
「私は……
彼女はそう名乗った。その名前に少しだけ見覚えがあった。
ここで撮影していたドラマのキャスト、その名前は「幸川」だった。しかし下の名前は同じである。そのキャストの写真にある顔と似ているかもしれないし、似ていないのかもしれない、そう思う。ただそれを聞くことはやめた。「幸川」として生きるのが多分ストレスになっているのだろう、と考えて視線を向こうの景色に移した。
「気づいた?」
「いや、あなたが誰であろうといいんですよ。ちょっと写真撮りませんか?」
「写真?」
「ええ。今一番綺麗ですから……」
夕焼けに紫が混じり、幻想的な、あまりに幻想的な世界が広がっていた。この景色を見せたかった、という訳ではない。ただ、この時間まで待っても後悔しない、と断言できるような風景。
「綺麗……だね、うん」
「スマホある? 良ければだけど君の写真撮るよ?」
「良いの?」
「別に理由なんてないさ。今日撮影あったみたいだけど、なんでこの景色映さないかねって、まあ、関係ないよ」
私は彼女のスマホを借り、ポチ、とその景色に物憂げに映る彼女を見つめていた。一瞬その姿に心を奪われそうになる。
「ほら、笑って」
「う、うん……」
彼女はそうは言っていたものの、すぐに笑顔になって、それを写真に収めた。その笑顔が何となく気味悪く覚えて、
「ごめん、もう一回してもらっていい?」
「そこまで撮る必要ある?」
「君をもっと映したいから」
「はっはは、バカみたい」
その笑い、彼女にとっては不本意なのかもしれないが……、その笑顔は確かにカメラの神様も微笑むような、そんなものだった。
やっぱり彼女はその「幸川」なる人なのだろう。表情を変化させるのがとても上手だった。それはやっぱり子役に必要な能力なのだろうし、けれども今は「佐々木」という人でいたいのかもしれない、そう考えていた。
「やっぱり、気づいたでしょ」
「……君がいたい君で構わないさ」
「ドラマの主人公みたいなセリフね。まあ、別に嬉しいけど。……じゃあ愚痴っても良いかな」
「良いさ。時間はまだある。……そうだ、夜桜でも見ないか? あとちょっとすれば日も落ちて、ライトアップするんだ。綺麗だよ。紅白に輝いてさ」
「良いね。でも七時までにご飯まで済ませて戻れ、だって。だから、それまで」
「そこまで話が長いという自信?」
「バカにしてる?」
彼女はまたさっきのように笑う。その姿はやっぱり綺麗だ。
「でも夜になったら冷えるよ。家に来て、なんても言えないから……。一回俺荷物取りに戻るよ。何かパンでも持ってくるから」
私は一度駐輪場まで戻るために堤防を歩いていた。駐輪場と真反対の位置にあるせいで非常に面倒である。その一キロをとぼとぼと歩いていくうちに、気づけばあの彼女に見せた空も暖色をほとんど失い、そして星々が少し目を凝らせば見えるようになっていた。
家に戻り、買い物に行っていた家族が戻っていたことに気づいた。
「どこ行ってたの? 電話もしたのに」
「ごめんね。桜を見に」
「それでも何時間も行く訳ないじゃない?」
「まあ、それでまだ用があるんだ。流石に寒いからね。服持ってくわ」
「いつ帰ってくるの?」
「七時」
「そう。まあ風邪引かないようにね」
私は上着と飲み物、幾分かのパン、それから紙袋をリュックに詰め込んで、あの四阿に戻る。確かそちら側にも駐輪場がある、ということを信じて家を飛び出した。
「ごめん。寒かった?」
「ううん、全然。でもこんなすぐに更けちゃうんだね」
四阿から見上げる空は目を細める必要が無いぐらい簡単に見えた。
「じゃあ、これ」
「これ貰っていいの?」
「全然。これ俺の所のご当地パン的なやつ。せめて雰囲気だけでも」
私は彼女にパンを渡すと、彼女はそれに静かにかぶりついた後、結局半分ぐらい食べたところで
「ちょっとお腹いっぱい」
「ごめんね。やっぱ全部は無理?」
「美味しいんだけどさ……。ロケ車の中で頂くよ。ありがとね」
とパンを少しだけちぎって、その残りを袋の中に入れた。
「じゃあ、夜桜、見に行こう?」
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