Thanks for being me

Lousism

track 1 grassfield

 私は絶対にここに来たことがあった。私は見晴らしのいい丘のうえから斜面を覆い尽くす草原が柔らかく風に波打っているのを眺めていた。低地には疎らに木々が散らばっていて、景色の遠方はのっぺりした水色の空に混じってしまって行方が知れなかった。あの境界のあたりに蛇行した河が流れているのを私は感覚的に理解していた。斜面を降りていけば木造の無人駅があるはずだった。がたがたの車両からホームへと降りたのは私だけで、音もなく電車が過ぎ去っていくと、波トタンの庇の合間から零れる蒼褪めた光が線路を仄かに輝かせていた。こめかみの奥底にある記憶がほろほろと溶かして、涙と一緒に流れ出していくような、そんな暖かい孤独だった。

 時刻表は読めなかった。極端に罫線が少なくて、その罫線に乗っかるように数字が散らばっていたけれど、私に判読出来る文字ではなかった。私は破れかけた健康促進ポスターがべたべたと壁に貼られた埃塗れの待合室で観光パンフレットを手に入れた。不自然に真新しいつるつるした質感のパンフレットだ。この無人駅が有名な仏教寺院の最寄り駅だということを私は最初から知っていた。誰もいない駅舎を抜けて硝子戸の外に出れば、私はもう寺院の敷地内に足を踏み入れているのだった。寺院といっても本堂とか鐘撞堂とかがあるわけではなくて、エキゾチックで複雑な装飾を瓦屋根から垂らした真っ白な漆喰壁が、切れ目なく一繋がりになってずっと向こうまで続いていた。こういう装飾を、どう言葉で表現したものだろう、金色や赤色の棒を複雑に絡み合わせて産み出された絶妙の統一感というのはどういう自然法則なのだろう。漆喰壁には等間隔で凝った扉や扁額が並んでいた。数段高いところにある扉は重たく、硬く閉ざされていて、透かし窓からは微かに紫がかった完璧な闇が漏れ出していた。観光客どころかお坊さんの気配すらなかった。私は垂れ下がる装飾を暫くじっと観察していたけれど、次第に形状が変形して難解な寄木細工のようなものに見えてきたから咄嗟に眼を逸らした。漆喰壁が内側に凹んだ部分が受付窓口になっていた。穴の開いた硝子の奥には顔が殆んど見えない中年の女性が座っていて、入場料として千八百円を要求した。千八百円ではちょっと高過ぎると思った。本当にこの金額ですか、と私がごねる素振りを見せると、おばさんはまともに聞き取れない濁声で何かを問い質し始めたものだから私も出鱈目な罵倒を言い返してしまった。私は乱暴に振り返ってぼうっと突っ立っていた瀬川の耳元に顔を寄せて、ぼったくられる、ぼったくられる、と呟いた。

 瀬川は鬱陶しそうに身を引いて、これがお寺ってのは無理があるわな、と独りごちながらぐるっと周囲を見回した。漆喰壁は中央の貧相な枯山水を囲むように長方形に繋がっていて向かいの辺にもやはり等間隔に扉と扁額がある。例の装飾は最早鮮やかなモザイク模様の塊となって大きさも出鱈目に散らばっていて、白々しくて退屈ですらあったはずの景色は今や爆発物をばら撒いたゲームのフィールドのようだ。一つ一つの扁額には私には到底読めないうねるような達筆が刻まれていて、或いは強力な護符によって、何か得体の知れないものを閉じ込めている牢獄のようにも思えてきて私は急に恐怖を感じ始めた。瀬川は私の動揺を軽く一瞥しただけでいつものように上半身を傾けて皮肉に薄ら笑っていた。これではお寺というよりむしろお城やんか、城壁っていうんか、長屋っていうんやっけ。お城の構造までは覚えとらんけども。せやなぁ、これだけずらっと扉があるんなら、そのうちにお侍さんがぞろぞろと溢れ出してくるよ。もう敵軍が間近まで押し寄せてきてても可笑しくない。このままここにおっても囲まれてしまうだけやから、これからとんでもない合戦が始まる前に、とっとと電車に乗って帰ってしもうたほうがええな。

 受付窓口のおばさんが硝子に顔のない顔を殆んど一体化させながら耳障りな呪詛を吐き続けていた。瀬川はその怒声を完璧に無視して歩き始めた。でもさ、私は絶対に一度ここに来たことがあるんだよ、あのカラフルな布が垂れてたのが有名な講堂で、ほら、パンフレットにもここにしかない特別な建築装飾があるって、と必死に説明を試みるのだけど私は肝心のパンフレットを紛失してくるくる回転しながら瀬川を追い掛けた。あ、眼を回す、眼を回しちゃ駄目だ、甲冑を纏った幽霊が、念仏のカーテンを切り刻みながら私達を追い掛けてくるのは間違いがなかった。瀬川のデニムの背中に縋り付くようにコンクリートのざらざらした地面を這い蹲っていたら私はいつの間にか鬱蒼とした草原に転がり出て、ちくちくと肌を刺す細くて柔らかな葉先を掻き分けて瀬川の黒いスニーカーを掴もうとしたらぐにゅっと膝からぬかるんだ地面にのめり込んで身動きが取れなくなってしまった。瀬川の黒いスニーカーは微かにこの湿地から浮かんでいて、腰まで生温いトルコアイスみたいな地面に沈んでしまった私には、そのシャープでくっきりとしたシルエットだけが最後の頼りだった。けれどこんな危険な沼地に線路なんて敷けるんだろうか。私は本当にあの無人駅から埼玉に帰れるんだろうか。あの時間が止まったような無人駅は、今でもちゃんと電車が動いているんだろうか?

 夏草や、やね、と瀬川の怠そうな声がギザギザの緑色の天井から落ちてきた。

 兵どもが夢の跡って感じや。全部が終わってしまったすっからかんの世界の景色よ。

 でも私達は帰らなきゃならないよ。自分の街まで電車に乗って帰るしかないんだよ。

 せやね、タクシーが呼べる場所でもないわな。

 この地面のしたには骸骨が沢山埋まってるのかな。頭蓋骨が沈殿してるかもしれない。

 骸骨が残っとる間はまだ世界は終わっておらんやろ、骸骨も何もかも分解されて跡形もなくなったらやっと全てが夢になるんよ。あとは、虫けら達の王国かな。甲の下のきりぎりす……

 私は既に胸元まで沈んでしまっていて、瀬川の理屈が正しければ、既に足先は分解されて夢の泡沫になっているはずだった。瀬川は私を助けない。瀬川の黒いスニーカーは奇麗なまま私の眼前で微かに踵を上げたり下げたりしているだけだ。瀬川のスニーカーは私のよりずっとサイズが大きい。瀬川は身長が高かった。それで丸っぽい顔付きで、普段から眼が細くて、いつもデニムのジャケットを羽織っていたから威圧感が凄くて、髪を短くしていた頃には男性と間違えられることすらあった。書店で働きたくて関西の田舎から関東まで引っ越してきたというわりに、休憩室では手元の文庫本を開きもしないで半ば白眼を見せながらうとうとしているばかりという変わった同僚だったけれど、態度が緩くて皮肉屋な性格が私には丁度良かったのか、休日を合わせて旅行に出掛けるぐらいには仲が良かった。家庭の事情で関西に帰ってしまってからも時々連絡を取り合って、間を取って名古屋あたりで合流する約束をすると、瀬川はどんな季節だって生地の厚さを変えてデニムのジャケットを着続けていたから雑踏から見つけ出すのが簡単だった。

 駿河って名前も変わったもんやね。やっぱり静岡が何か関係あるんやろか。

 でも父方の地元は千葉なんだよね。向こうでも駿河は珍しい苗字だったみたい。

 あとはお茶の水の駿河台? でもお茶の水も千葉では全然関係ないわな。

 ずっと昔に近所に馬追川ってのがあったから、それが起源じゃないかって言ってた。

 山奥の観光地とかで二人で歩いてると凸凹した身長差が際立って恥ずかしくなってしまうこともあるけれど、こうやって街中を歩くなら、瀬川の目立つ背格好は絶対に見失わないし、高いところで喋っているから多少周りが五月蝿くても聞き逃さなくていい。瀬川からすれば、時折ぐねっと上半身を横に倒さないと私の声が聞こえないことがるようで、長身を左右にぶらぶら揺らす癖が産まれ付きなのか、それとも私の前でだけ起こる現象なのか私には知れなかった。

 瀬川では何の面白い由来もなさそうや。川の瀬やもんな。そういや隣のクラスには川瀬くんがおったわ。紛らわしい紛らわしいとは言われたけど別に面識は全然なかったな。

 そういうもんだと思うよ。

 そんでこの道は、と瀬川は鬱陶しそうに周囲を見回しながら呟いた。

 さっきから全然景色が変わらんのやけど、結局何処に続いてるんやろ?

 私は一度ここを歩いたことがあるよ、と私は正直に答えた。車道を二つに割って、真ん中を一段高くして広葉樹の街路樹を植えて遊歩道にしているだけで、こんな構造の通りなら家の近所にだってある。名前も知らない街路樹はきっと欅だろうと思うことにしている。向かい合わせのベンチ、藤を這わせた休憩所、車止めの銀色のポール、往来するタクシー、市内の案内板に止まって私達をじっと眺めている烏、右手を挙げた青銅製の少女の指先に止まって私達から眼を逸らした烏、窮屈な排水溝で死んでいる烏、排水溝から仲間の死骸を引き摺り出して遊歩道を汚す烏、街路樹の葉を毟り取って寝床にする烏、電線という電線にぎゅうぎゅう詰めになって肩身の狭い思いをしている烏、そんな何処にでもありそうな騒々しい景色だった。道路の両脇を黒ずんだ青色の硝子で覆われた高層ビルがずっと、ずっと向こうまで続いているけれど、私はこの景色に果てがあるのを知っていた。このまま真っすぐ歩いていけば、そのうち美術館と放送局のでっかい電波塔があって、突き当たったところにはお城があるはずだよ。私はまだお城までは行ったことないけど、大学生の時に美術館でゴッホを観たことがあるよ。ゴッホの種まく人。

 瀬川は何か言いたげに奥歯を嚙み合わせていたけれど、結局諦めて何も言わなかった。私達は変わり映えのしない高層ビルの合間をただ黙々と歩いた。擦れ違う通行人は誰も彼も足音すら立てずにぴんと張り詰めた紫水晶のような喧騒のなかに消えていった。ひょこひょこと地べたを歩く鳩が必死に鳴いているけれど私達には何も聞こえやしなかった。そのうちこの街は名前も知らない街路樹を支配した無数の烏で覆い尽くされて骨の髄まで真っ黒に染まってしまうだろうが、けれどこの街では電車なんて何処にだって走っていて、いつだって簡単に埼玉まで帰ることが出来るということを私は最初から充分に理解していたのだった。

 

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