不思議なスナック

加賀倉 創作【書く精】

不思議なスナック

K氏は、大手商社に勤めるエリートサラリーマンだ。経済的には満たされていて、不自由ない暮らしをしていた。家庭を持っていてもおかしくない年齢だが、妻子はなく、自炊もしない。そのため仕事終わりはいつも、一人寂しくどこか外で食事を済ませるのが習慣になっていた。残業を終えオフィスを出て、生暖かい外気に触れたK氏の喉は、アルコールを欲していた。

「今日はよく働いたし金曜日だから、どこかで一杯飲もう」

 そう思い立った彼は、夜の街に出て、適当な店を探した。歩いていると、一人で飲めそうな居酒屋はいくらでも目に入るだが、何となく普通の店では済ませたくない気分だった。気がつけば、もうかれこれ三十分ほど歩いており、繁華街のはずれまで来ていた。もうだいぶ汗をかいていた。

「この辺りには飲める店はなさそうだな、引き返すか」

 そう思った矢先、目の前に一軒のスナックが現われた。

「こんなところに、珍しい。店構えも悪くない、ここに決めよう」

 入ってみると、K氏よりも一回りほど年上であろう女性が、店を切り盛りしていた。彼女はお世辞にも綺麗とは言えない外見だった。店の方はというと、内装はいたってシンプルで、細い通路に脚の長い椅子が十脚ほど並んでいて、カウンターを挟んで向こう側の壁には、酒のラックがあった。酒の品揃えは、そこまで良くないようだった。先客はおらず、流れている音楽はひと昔前のK氏が知らないようなものだった。

「いらっしゃい。こちらへどうぞ」

 彼は真ん中の席へ案内された。

「お兄さん、仕事終わりかしら。種類は豊富ではないですが、何にします」

「ジントニックをお願いします」

「ごめんなさい、今ジンを切らしているの」

「そうですか、それならウイスキーのロックをダブルで」

 彼女は非常に申し訳なさそうにウイスキーをグラスに注いだ。

「はい、どうぞ。おつまみのナッツはサービスしておくわ」

「そんな、悪いよ、お代はしっかり払うから、気にしないでください」

「わかりました。ありがとう……」

 少々気まずい雰囲気になり、彼はそこから世間話に繋げようと必死に考えたが、何も思いつかず、会話が弾まない。

「……今日はやけに暑いですね」

「あらやだ、空調の温度を下げるわね、気づかなくてごめんなさい」

「いえ、そういう意味ではないのですが」

 気まずさが一層増してしまった。結局その晩は店には彼ら二人しかいなかったのに、ほとんど話せず、閉店の時間が来てしまった。

「そろそろ店、閉めるわね」

「あ、はい。遅くまで居座っちゃって、すみません。ありがとうございました」

「ジンを買い足しておくから、また来てくださいね」

「ええ、また来ます」

 勘定を済ませ店を出ると、満月の綺麗な夜空から、大粒の雨が降ってきた。彼はあいにく傘を持ち合わせていなかったので、タクシーで帰ることにした。その日は寝つきが良くなかった。


翌週の金曜日、仕事を終えた彼は、再びあのスナックを訪れる気になった。

「あの女性、いるだろうか。今日はちゃんと話せるといいな」

 先週の気まずい時間を思い出しながら、スナックへ向かったが、どうも場所が思い出せない。地図アプリで検索もしてみたが、ヒットしなかった。

「おかしいな、このあたりのはずなのに」

 そうつぶやいた途端に、数メートル先に店の看板が見えた。

「あったあった。それにしても、神出鬼没な店だなあ」

 不思議に思いながら、店の扉を開けた。すると先週とは違う、彼よりも年下であろう、背の高い女性が、一人でせっせと働いているのが見えた。今日は店が賑わっているようだった。

「お兄さん、おひとり様?」

「はい。入れますかね」

「席あけるから、ちょっと待っていてね」

 待っている間に、もう一度店の中をよく見渡してみたが、やはり先週の女性はいなかった。

彼は席に案内されるとすぐ、質問を投げかけた。

「先週の方はいないのですか、金曜日の」

「あぁ、あの人? 辞めちゃったわ」

「そうですか」

「何よ、そんなに残念がって。私じゃダメってことかしら」

「いえ、そういうわけでは……」

「うふふ、冗談よ。意地悪言っちゃってごめんなさいね。で、飲み物、何にする?」

「あ、ジントニックを」

「ごめん、ジンは切らしているのよ。代わりにあたしが決めてあげるわ」

「というと、なんでしょう」

「ウイスキーのロックをダブルで、どうかしら」

「あぁ、それがいいですね」

「やっぱり、あなた好きそうだもん、そういうの。今入れるから、待っていてね」

 すっかり彼女のペースにのまれていた。先週の女性とは一転して、彼女はとても気さくだった。今日は会話が弾むようにと、いくつか話のネタを用意しておいたのだが、そんなものは不要なくらい、話し上手な女性だった。

「はい、どうぞ。これ、おつまみも置いておくわね。ジンを出せなかったから、サービスしとくわ」

「そんな、悪いですよ、お代はしっかり……」

 彼の言葉を遮るように、彼女は顔を近づけてこう言った。

「払わなくていいわ、これがあたしのやり方だから、ね」

 彼はドキッとして目をそらすと、向こうの方で他のお客が勘定を待っているようだった。

「姉ちゃん、勘定頼むよ」

「はぁい」

 すると、それに続くように他のお客も帰っていき、ついには二人きりになった。店は静寂に包まれた。その静寂を、案の定彼女が破った。

「お兄さん、お仕事は何をしているの」

「はい、商社で営業を」

「へぇ、素敵じゃない。けっこう忙しいの?」

「まぁ、ありがたいことに、たくさん仕事はもらっていますが……」

「何よ、硬いわね。ひょっとして緊張している?」

「恥ずかしながら、多少は」

「ここは取引先じゃないのだから、もっと肩の力を抜いていいのよ。」

「はい、すみません」

「それに、丁寧な言葉遣いも、行き過ぎると不愛想に聞こえるわよ。もっと砕けた雰囲気でいきましょう」

「そ、そうだね、助言をくれてありがとう」

 それからも会話は彼女のペースで進んだが、大いに盛り上がった。気が付くと、閉店時間が近づいていた。

「あら、もう零時なのね。お兄さん、こんな遅くまで飲んでいて大丈夫?」

「大丈夫さ。僕は独り身だからね。」

「そうだったのね。じゃあ、また来てくれる?」

「ああ、もちろんくるさ。」

「そう言ってくれて嬉しいわ。今度はジンを仕入れて待っているわね」

 勘定を済ませ店を出ると、夜空に浮かんだ三日月が綺麗で、雨が降っていた。その日も彼は、あまりぐっすり眠れなかった。彼の頭には、さっきの若い女性の顔がちらついていて、先週の女性のことはすっかり忘れていた。


そのまた翌週金曜日の仕事終わり、彼は何のためらいもなくいつものスナックへ向かった。例によって迷いながら店に着くと、今度は背が低めで同い年くらいの女性が、一人静かにグラスを磨いていた。切れ長の目をしていて、鼻の高い女性だった。

「いらっしゃいませ。こちらの席へどうぞ」

 彼は無言で席に着くと、店の奥の方を覗き込んだが、先週の女性はいないようだった。

「どうかしましたか」

「先週金曜日にいた方は……」

「辞めましたよ」

「そうですか。」

「ご注文は?」

「ジントニックを」

「ジンは切らしております」

「そうですか……では」

 彼が再び注文しようとしたとき、彼女は自信満々にこういった。

「ウイスキーをロックで、ダブルですね」

「あ、はい……」

 なぜ何を注文するか言い当てられたのかを、彼はしばらく考え込んだ。

「この店では、お客の注文履歴を記していたりするのですかそれを店内で共有しているだとか」

「いえ、そのようなことはありません」

「では、相手の心を読む超能力に長けた人ばかりを雇っていると見た」

「いいえ、違います」

「ひょっとして、そもそもウイスキーしか提供していないのでは?」

「ほかのお酒もございます」

「いったい、どういうことなんです。先週の女性も、僕がウイスキーのロックをダブルで頼むのを当てたんだ。偶然にしては出来過ぎている」

「実は……話があります。」

 さっきまでは不愛想だった彼女は、どうやら恥ずかしがっているようだった。

「と言いますと?」

「このお店、店員が変わったことはありません」

「どういうことです。僕は幻を見ていたとでも言うのですか」

「それが、近いかもしれません」

「なんだって。詳しく説明してほしい」

「はい、お話しします。実は、あなたが最初に店に来た時、ひと目惚れしてしまったんです。でもまた会うのが恥ずかしくって、他の人を演じていたというわけ」

「演じるって、でも本当に全くの別人に見えたけれど、どんな方法を使っていたんだい」

「私、人間ではないんです」

 彼は、開いた口が塞がらなかった。

「狐なんです。人の皮をかぶって、ひっそりと人間の社会に紛れ込んでいたんです。そこにあなたが来て、好きになってしまって、恥ずかしくって、久しぶりに姿を変えてみたんですけど。どの私が好みですか?」

 すると、狐は姿を変幻自在に変えて見せた。

「これは驚いた。すまないが僕には狐の相手はできない。帰ることにするよ」

 彼は急いで店を出た。ふと振り返ると、そこには何もない空き地が広がっていた。


〈完〉


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