ジグソーパズル

はいの あすか

ジグソーパズル

 豪華客船が洋々と岸を蹴って走り出す様が、間もなく完成するはずだった。空や、波のうねりの占める部分が想像させる全体図を無数のパーツの中からおおよそ見出してから先は、風を掴んだように進んだ。しかし、ヒカリがあと3ピース分の空白を残すまでになった時、傍らにあったのが2ピースであることに気がついた。

 不足した1ピースはどこにもなかった。まだ絵像のなかに置かれていない残った2ピースも、空いたマスのどの位置にあってもしっくりこなかった。友好関係を築いてきたゆえの集中と熱狂が、一方の背信によって急激に冷める冷め方で、ヒカリはジグソーパズルを中断した。

 ある日、ヒカリが洗面台で顔を洗い、鏡に反射する見飽きた自分の顔を確認するともなく見ると、ヒカリの後ろの白い壁にジグソーパズルのピースが1つ、くっついていた。

 ヒカリは探し求めたいたそれを壁から引っ剥がすために振り向いた。しかし、そこにピースは無かった。もう一度鏡へ向き直す。やはり、ピースが壁に接着し、ヒカリの視線はその不規則な形をした一点から逃れられなかった。鏡の表面のピースがある位置を、爪でカリカリとやってみたが剥がすことはできない。これは反射する自分の背後にあるものなのだと、思い知らされるばかりであった。

 その日の夢で、ヒカリは同じ洗面所に立っていた。しかし、ヒカリの背後にあるはずの壁は密茂した葉に覆われていた。ヒカリは鏡の方へ手を伸ばした。その手はするすると鏡の中へ入り込み、向こう側のヒカリの横を通り、ひんやりとした植物を触った。そのまま、複雑な角度に重なり合った草葉を掻き分けていった。途中、茎から突き出したトゲが無防備な腕を刺した。腕を引き込めることもできたが、ヒカリはいま、肘から肩の中間地点にその界面が位置している鏡の境界線が閉じられる方向に向かって固まっていっている、と感じていた。一度閉じられたら多分入り直すことはできない。腕の、筋肉の盛り上がった部分から小さく血が伝っているのには構わず、草葉の層を進み続けた。

 そのうち、トゲに刺される度に、ヒカリの記憶の地図の端っこにあるものが浮かんできた。意識の上では常に何重もの鎖がかけられてあって抑え込まれているが、ふとした物事の着想から記憶の連想が起こり、度々その鎖を破って出てくる、そういう記憶たちだった。

 あるトゲは、製鉄会社に入社したとき、研修で同期社員に馴染めず自ら孤立したときの痛みに似ていた。ひとつの宿舎に50人もの新卒社員が生活を共にする製鉄所研修で、ヒカリは自分の部屋に閉じこもった。机と椅子、ベッドがあるだけの簡易な部屋。それぞれが自らのキャラクターを発揮して集団の中での役割を定めていくのに対して、ヒカリはずっとその外側で浮遊していた。最初は彼らもヒカリを誘った。しかし何かと理由をこじ付けて部屋から出てこないヒカリを、みんなも次第にそういうものだと認識するようになった。

 再び、鏡の中の植物を掻き分け進む。

 また別のあるトゲは、友だち数人で下校する小学校の帰り道の記憶を刺激した。普段一緒に遊ぶことのない男女混合でのグループで、ヒカリは少し自慢げな気持ちになっていた。実際は、男女の親しい4人組のうちのひとりとヒカリが親しかったことで、偶然行動を共にしただけであって、他の3人にとっては異物に違いなかった。歩きながら、異性のクラスメイトの家での遊びの計画が持ち上がった。ヒカリも計画に含まれていると思っていた。あ、君はだめ。そのひと言で純粋な笑いが起こった。晩夏の曇り空、短い坂道に吹く湿気のある風。彼らはいつもの集団に戻り、その生徒の家に向かっていった。ヒカリは自分の家に帰って行った。

 短く弱い痛みだが刺された箇所がその被害をジンジンと確実に主張する、そんな痛みだった。耐えながら葉の集合体を手で左右に押しのけて間をあけると、ようやく壁にくっついたピースが形を現した。ヒカリはつまんで引き剥がそうとした。人差し指がピースに触れると、ピースは角度を変え真下に落ちた。それは植物の滝のなかに消え、鏡を覗き込んでももうどこにも見つからなかった。

 ヒカリはそこで目を覚ました。夢で見たことははっきりと憶えている。ベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。植物など生えていない、いつもの洗面所だった。しかし、鏡台の反対側の壁沿いに、ジグソーパズルのピースがひとつ、落ちていた。夢での出来事が現実になっていた。それを拾い上げると、ヒカリはリビングに未完成のまま放置してあるジグソーパズルのところへ持って行った。なくなったピースと合わせて嵌められることなく、パズルの包装箱のなかに置かれていた2ピースは今度は簡単に正しい位置を見つけることができた。あとは残る空白に最後のピースを嵌めるだけだった。にもかかわらず、今しがた発掘したピースはそのスペースのものではなかった。用意された余白に、その周囲の風景に、最後のピースは馴染まなかった。

 ヒカリは一瞬たじろいだ。苦痛の末に手に入れたピースは完成図には不要なものだった。それでもヒカリはそれを空白部分に当てはめた。そして、棚の文房具入れから修正ペンを取り出すと、最後に嵌めたピースの周りを塗りつぶし始めた。豪華客船の甲板上に当たる部分に、徐々に白い何もない空間が広がった。まるで突如として未知の入り口が開いたようだった。ヒカリは彩色ペンを持ち出し、白色の無味乾燥な空間に最後のピースに連なる情景を描いて行った。それは甲板のうえで手をつないで踊る人々だった。荘厳さを強調するような豪華客船の現実的なタッチとは違う、きわめて拙い線描ではあったが、その異質さが踊る人々の自由と何ものにも縛られぬ平和を表現していた。

 ヒカリの腕には刺し傷が、たとえ濃い色の痕と残ったとしても、修復に向かって固まりつつあった。

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