水曜日の放課後、彼女と。

@daisuke19980811

   

第1章 水曜日の居眠り姫


第2章 木曜日の英語


第3章 週末のガリ勉王子


第4章 月曜日の夢


第5章 火曜日の母


第6章 水曜日のドライブ


第7章 木曜日の雪


最終章 水曜日のクリスマス





















水曜日の放課後、彼女と。





















◆第1章 水曜日の眠り姫


僕の中学校のいいところは水曜日は5限目までしか授業がないことだ。

なぜそうなのかについて、ちゃんとした理由は知らない。

多分、週の真ん中で中だるみするから、みんな1限くらい早く帰りたかったのだろう。

今はまさに水曜の5限。

そんな本来であればちょっぴり嬉しいプレミアムウェンズデーのはずだが、僕は全く浮かれていなかった。

壁に貼られたカレンダーは12月。既に高校受験も3ヶ月後に迫った僕らの教室は放課後を目前にした高揚感とは程遠く、ぴりぴりとした緊張感と重苦しい雰囲気に包まれていた。

誰もが真面目に授業を受けるそんな中、僕の視界の端には思いっきり机に突っ伏しているやつが映っていた。

僕の席から左に一つと前に一つ、つまり斜め左の席に座ったそいつは教室の前から二番目という割と教師から見えやすい位置にも関わらず、そのまま微動だにせずにいた。

しかしクラスの誰も、教師さえもそいつのことを気にしていない。なぜならそいつが授業を真面目に受けないのは今に始まったことじゃないからだ。

結局授業が終わるまでそいつは眠ったままで、チャイムが鳴ってもなお起きないのを見かねた後ろの席の女子がそいつに「矢部さん」と声をかける。

そいつは何度か揺すられるとようやくゆっくりと上体を起こし、大きく背伸びをして「くぅぅぅ...」と炭酸の抜けかけたペットボトルのふたを回した時のような息を吐き、「あれ、もう終わったん?」と完全に寝起きの声で言った。

全くなんて奴だ。

受験が近づき周囲が真面目モードになる中でも依然として全く勉強にやる気を見せず、眠そうに目をこすっている彼女―そんな彼女についたあだ名は『居眠り姫』だった。

この『居眠り姫』こと矢部さん、受験生としてはまるで目も当てられないが、その容貌は見れば誰もが目を引かれるほどのものだった。

切れ長の特徴的な瞳に、かんなで削って作ったかのような整った形の鼻、いちごを一口で食べられなさそうなほど小さな口。肩に少しかかるくらいの髪は絹のように滑らか。僕の席から見える斜め後ろ姿の彼女の輪郭さえ、とても綺麗だった。

しかし、僕はそんな見た目にはうつつを抜かさない。この大切な時期に居眠りとはなにごとだ。みんな頑張って勉強しているのに、その士気に影響するじゃないか。今まで見て見ぬふりをしてきたがもう我慢ならん。一言言ってやる。


終礼が終わると、僕は思い切って彼女に声をかけてみた。

「矢部さん、お疲れ様。さっきの授業、すごい寝てたけど大丈夫なん?」

するとまず彼女の黒目が瞳を滑り、それからゆっくりと首をこちらへ動かした。

「小西くん。大丈夫って何が?」

―。

いつもの斜め後ろ45度から眺めている姿に慣れている分、正面から見る彼女はまるで初めて会う人のようで、僕は奇妙な胸のざわめきを感じていた。

「だって、もうすぐ受験やん、なんでそんなに余裕なんかなって」

彼女は小さな口を開き、何度か瞬きをする。

「余裕に見える?」

「見える。みんな必死で受験に向けて勉強してんのに、矢部さんだけ居眠りしててすごいなぁ」

「あはは、ばれてたか。いやーみんな頑張ってるなー」

「なんで勉強せえへんの?」

「なんで勉強すんの?」

そう言った彼女の瞳の奥の光が一瞬強くなる。僕は少しひるむ。

「それが将来の為に今できることやからや」

「ふうん」彼女は興味なさそうに言う。そしてこう続ける。

「今日、一緒に帰らん?」

「え?」

彼女の言った言葉の意味が理解できず、僕は聞き返す。

「嫌やった?」

「え、いや。」僕は慌てて答える。

「良かった。じゃ、帰ろっか」彼女その切れ長の瞳の終端をくいと下げ、笑った。

見ているこちらまで意図せず笑ってしまうような笑顔だった。

「え?あ、じゃあ。うん、わかった」僕はしどろもどろになりながら返事をした。

周りを見ると、いつの間にか教室には僕ら二人しか残っていなかった。


グラウンドでは12月にもなるのに野球部員が半袖で走っていた。3年生が抜けた今彼らは基礎練習に励んでいるのだろう。

僕と彼女は並んで正門をでた。僕は周りの生徒にどう見られているのかが気になって仕方がなかった。

「小西くんの家どっちやっけ」

「コンビニを左に曲がって、交番の先をまっすぐ行って二本折れた道から川に沿って歩いていったところ」

「じゃあ途中まで一緒やね」彼女は首にクリーム色のマフラーを巻き、そこに顔をうずめていた。目尻が下がっていることで、彼女が笑っていることがわかった。

「さっきの話の続きやねんけど」と僕は言った。

「さっきの話?」

「うん。勉強の話。矢部さんは塾とか行ってるん?」

僕の隣を歩く彼女はこちらを向かずに、少し考えるような間を置いてからこう答えた。

「行ってるで。ほんまは行きたくなかったけど、模試の結果が悪くて親に通わされとる」

「そうなんか。じゃあこれから頑張らなあかんな」

「あはは、そうやね」

「今日は塾ないん?」

「あるよー、はぁ。5時からやけどね。自習室は空いてんねんけど、せっかく早く授業終わったのに塾なんか行きたくないねん」彼女は不満げに言った。

「まあ、たしかに」

「小西くん、ガリ勉王子やのに分かってくれるんか!なんかすごい嬉しいわ!」彼女はこちらを向き、感激して跳ねた。

「えっ、なんて?」

「あっ、しまった。まあいいや。小西くんはあたしの中ではガリ勉王国のガリ勉王子やで」

「な...。矢部さん、俺のこと馬鹿にしてるやろ」

「してへんしてへん!いっつも勉強だけしててすごいなーって思ってるで」

「だけってなんやねん。俺だって別に勉強だけの人間じゃないで」

「うそやー。勉強してるところしか見たことないもん」

「矢部さんは居眠りしてるところしか見たことないけどな。とにかく、俺をガリ勉王子とか言うのはやめてくれや」

「んーどうしよっかなー。せやったら、これから遊びに行くん付き合ってくれたらやめてあげる」

「えっ」

僕は思わず彼女を見つめる。彼女もじっと僕の目をのぞき込んでいる。

「これからは...。その、無理やわ。明日の予習したいし」

僕がそう言った瞬間、彼女は微かに悲しそうな表情を浮かべた。なぜだ。なぜそんな顔をする。しかし彼女はすぐに笑顔を取り戻してこう言う。

「なーんや。じゃあね、ガリ勉王子。受験王に俺はなる!」

彼女は手を振りながら僕の前を走って追い越し、そのまま道を曲がって見えなくなった。


彼女と別れた僕はずっと後混乱していた。彼女はいったい何がしたかったんだ。

彼女は今頃塾行っているのだろうか。つまらなそうな顔をして自習室に入り、授業が始まるまで居眠りしているのだろうか。

帰り道、僕はずっとそんなことを考え続けた。

家に着くと僕は何も言わずに自分の部屋に入り、社会の教科書を開くと今日のことをすべて忘れるように歴史の年号を頭に詰め込んだ。


◆第2章 木曜日の英語


朝目が覚めた瞬間に昨日のことを思い出し、なんとなく憂鬱な気分のまま家を出る。天気は曇りで、どんよりとしていた。

別に僕は何も悪いことしてないよな。今の時期は勉強が大切なんだし、彼女に付き合う必要なんかない。

教室に着いたが彼女はまだ来ていなかった。

僕は少しホッとして自席に座り、左前の彼女の席を眺めた。

色々あったがこの場所に来ることですべては元通り昨日へと戻る気がした。

僕はトイレに行こうと思い席を立ち、教室を出た。

そのとき廊下を歩いていた彼女と目が合ってしまった。

「あっ」

「おはよう、ガリ勉王子。今日も絶好の勉強日和だね」彼女が言って笑った。僕が何か返そうとする前に彼女は教室に入ってしまった。

僕はもう彼女には取り合わないと決めた。彼女といると調子が狂う。僕はそんなことしてる場合じゃない。勉強に集中しなければ。

しかしそんな僕の思いはあっさりと砕かれた。その日英語の授業のペアワークで、僕の隣の席の女子が休みであったため彼女と組むことになったのだ。僕らは教科書の例文をお互いに読み合うことになった。

「It's a misunderstanding! I swear there's no relationship whatsoever with her(誤解だ!彼女とは誓って何の関係もない)」僕は言った。

「ゆ、You are lying! ず、Then why is the bedroom wet?(嘘よ!じゃあなぜベッドが濡れているの?)」彼女がカタコトで言う。

「bedroomじゃなくてbathroom!。それやったらちょっと中3の教科書にしては刺激が強すぎるやろ」

「どっちにしても強くない?」

「I just took a shower because I was sweating. You worry too much.(汗をかいていたから、シャワーを浴びただけだよ。君は心配性だな)」

「お、Oh, is that so? ず、Then why are there two towels in the dryer?(あら、そうだったの?じゃあなぜ乾燥機にバスタオルが二枚入っているのかしら?)」

「おいおいふざけないで真剣に...って合ってる!なんなんだこの昼ドラみたいな例文!明らかに官能小説だろ!」

「Did you enjoy your time with her? Did you also do such and such things with her?(彼女とは楽しかった?あんなことやそんなこともしたの?) 」

「もういいもういい!結局ベッド濡れちゃってるじゃねーか!てかなんで矢部さんこういう文章はすらすら言えるんだ!」僕は叫びは教室中に響いた。


そんな一幕があったのち、今日の授業が全て終わった。

終礼が終わると、彼女がこちらを振り向いて言った。

「おつかれ。やっと終わったなあ」

「そうやな...なんかめちゃくちゃ疲れた」

「午後は寝てたから一瞬やったわ」彼女はあくびした。

「おいおい、ほんまに大丈夫なんか。さっきの数学聞いてたか?あの範囲は受験でも大体出るからちゃんとやっといた方がええぞ」

「そうなん?さすが王子。塾講師にでもなんにでもなってまいれ。」

「姫、多分中一でやった範囲の復習です」

「わらわはそんなことしりとうない」彼女はいやいやと首を振る。僕はため息をついた。

「矢部さん、教科書開いて。」

「え?」

「数学の教科書開いて。さっきやってたところ教えるから」

「ええー?小西が教えんの?あたしの身体が目的なの?」

「俺は変態家庭教師じゃない。勉強にしか興味がないガリ勉王子だ」

「あ、認めた」

僕は立ち上がり一つ前の席、つまりは彼女の隣の席に座った。

左隣に座る彼女の長い睫毛が見える。

「矢部さん二次方程式の公式は分かってる?」

「虹方程式?」

「多分間違ってる。えーとこれは骨が折れるな」

僕は少し間が空いていた机をぴったりとくっつけて、教科書広げて指さし彼女に教えて見せた。

彼女はちょっと心配になるくらい眉間にしわを寄せながら僕の話を聞いている。揺れる彼女の髪はとても艶やかだ。

「...だからこれをさっきの公式に代入すれば、あとは簡単な計算やろ」

「なるほど、こんな楽なやり方があったんか。ずるい!卑怯!」

「公式を作った人が泣いてるよ」

「もっとはよ知りたかった。でも小西が教えてくれへんかったらずっとわからんかったわ。ありがとうガリ勉皇帝」

「国の象徴になっちゃったよ」

チャイムがなる。時計の針を見ると5時を指していた。

「うわっもうこんな時間か、しまった!」

「どうしたん?」

「塾もう始まる!急がないと」

「ええ!皆勤賞取れなくなってまうね」

「まったくな!それじゃ!!」僕はカバンをつかみ教室を出る。

「ってちょっと待って!」

「...はぁ、はぁ」

「ってばてるのはや」余裕な顔して彼女が僕に付いてくる。

「...はぁ、はぁ、うるさぃ...」

「あっ、余裕がなくなってボキャ貧になってる。もっと運動とかしなよー」

僕はそれ以上彼女には取り合わず、昇降口まで降り、靴を脱げそうになりながら履き替え正門を出た。

「ファイト~!横断歩道を渡るときは左見て右見てもう一回左見るんやで~!」

彼女の声が後ろで聞こえる。

結局塾の開始時間には間に合わなかった。


◆第3章 週末の塾


翌日、彼女は学校を休んでいた。風邪をひいたらしいとのことを教師が言っていた。

暖房が切られた教室で、ずっと勉強したからかもしれない。そういえば彼女はいつもマフラーをしていた。なんで気づかなかったんだ。

「お前らも気をつけろよ。今の時期、気の緩みが体調に直結するんだからな。常に緊張感を忘れるな」

その日学校が終わると僕は塾へ行き、夜遅くまで授業を受けた。

その次の日の土曜と日曜も朝から晩まで塾だった。日曜の夜には疲れ果て、何もする気が起きなかった。しかし頭の中では公式や英単語の羅列や意味のない年号が羽虫のように飛び交っていた。

僕は眠る前、彼女のことを考えた。月曜日は塾が休みだ。もし明日彼女も用事がなければ、また一緒に勉強しよう。


◆第4章 月曜日の夢


翌朝目が覚めると窓の外を降る雨の音と、喉の痛みに気が付いた。熱を測ると37度代後半だった。

「まあ勉強の疲れが出たんやろな。今日はゆっくり休み」母はそういうと学校へ連絡を入れ、僕はいつもより味のしない朝食を食べた。飲み込むたびに粘膜が擦れて不快な痛みが喉を通った。

「つらそうやな。関節とかも痛いか?」

「いや、大丈夫。多分インフルじゃないと思う」

「そうか。ごめんやけど今日パート先から一人欠員出たって連絡あって、もうすぐ行かなあかんねん。お昼はおじやつくっとくから、冷蔵庫で冷えピタは冷やしとるし、後解熱剤は棚の下にあるからな。」

「ごめん、迷惑かけるな」

「何言うてんの。ええから寝とき。もしなんかあったら電話してな」

風邪のしんどさよりも体調を崩してしまったことで自分を情けなく思ってしまう気持ちの方が強かった。

もう12月も半ば。勉強のスケジュールは想定していたよりも遅れている。前回の模試の結果はC判定。こんな大切な時に僕はなにをやっているんだと焦る。僕は自分の部屋へ戻り、ふらふらと勉強机へ向かった。

塾でもらったプリントをカバンからだし、問題にとりかかる。既に何回もやったタイプの問題のはずなのに、解き方が分からない。部屋の空気が余計に冷えた気がする。

尚も問題を解き続けたが、途中で同じ問題をやっていることに気づいてやり直す、ということを3回繰り返した後、僕は勉強机から離れベッドに倒れこんだ。シャーペンを握りしめたまま、僕は泥に沈んでいくように眠りに引きずり込まれた。


なんとなく夢を見るような気がしていたが、やはり僕はその眠りの中で夢を見た。

僕はプールの中で泳いでいた。両隣のレーンを泳ぐ人影が僕を追い越すのがわかる。僕は負けるまいと焦り手足を動かすがなぜか水は粘度があり、僕はスローモーション動画のようにのろのろとしか泳げない。どんどん全身の力がその粘度を持った水の方へ流れ出していき、僕の力を吸った分その水はより粘度を増していく。僕の動きはさらに遅くなり、僕の中に流れている時間さえ遅くなっていく。やがて僕が完全に停止しそうになった時、どこかで自分の家のチャイムが鳴るのが聞こえた。


ベッドから起きると自分がかなり汗をかいているのがわかった。夢の中で泳いでいた疲れが現実と混じり合ったように身体がだるい。僕はやっとの思いで一階へ降りると、玄関の扉を開けた。

―なぜ僕は、インターホンを確認せずにそのまま玄関の扉を開けてしまったのだろう。

恐らくは意識が覚醒していなかったからだろう。僕は扉を開けた先にいる相手を見て驚いた。そして彼女もやはり驚いていた。

「小西」

彼女はいつものクリーム色のマフラーを巻き、ベージュのダッフルコートを着ていて、手にはビニール傘をさしていた。頬はまるで寒さでやけどをしてしまったように赤みを帯びていた。

「矢部さん」

「突然ごめんな。先生に家教えてもらっちゃった。今日学校行ったらびっくりしたわ。まさか小西も風邪ひいとるなんて。もしかしたら風邪うつしてもうたんかなあと思って」彼女はカバンから何かを取り出そうとする。傘を首で不安定に支えようとするので、彼女の肩が雨に濡れる。

「これ、つまらないものですが。差し入れ、いや、お見舞い?」

『マアムおじさんのチョコ焼いちゃいました!』と書かれたそのお菓子の袋には、おそらくマアムおじさんと思われるキャラクターが笑顔でチョコレートをかまどへ放り込んでいる絵が印刷されている。その下には『マアムおじさんはチョコレートが大好き!食べ物は基本全部焼くと上手くなると思っているマアムおじさんは、チョコレートも焼いちゃいました!これまでにないカリッとした新食感、焼きチョコレートをご賞味あれ!』と書いてある。

「ありがとう。あんまり食欲無くて、甘いものやったら食べられそうやから助かる。」

「それなら良かった。ほんまは果物とかの方がよかったんやろうけど、剥くのも大変やし、近くのスーパーやとバナナくらいしか売ってなかった。あとこれあたしのおすすめやし。」

僕はうなずく。

「お大事にな。あんま無理しすぎたらあかんで」と言い彼女がなぜかガッツポーズをする。そしてそのままじゃあ、と振り返ろうとする。

「待って」

彼女がこちらを振り向き僕を見る。

「金曜日、お見舞い行けなくてごめん」

「あはは!そうやで。来てくれるかなと思ってたのに、なんてな」

「早く良くなるといいな」と彼女は笑顔で言い、手を振りながら去っていった。

僕は雨の中小さくなっていく彼女が見えなくなるまで玄関に立っていた。


◆第5章 火曜日の母


翌朝になっても熱はあまり下がらず、寒気と鈍い喉の痛みも残ったままだった。

だが、これ以上勉強に遅れるわけにはいかない。僕は咳き込みながらリビングへ向かった。

「おはようさん、なんや早いな。調子どない?」

「なんとかましになったわ。色々迷惑かけてすまん」

「なんで謝んのよ。てゆうかあんた、まだ顔色悪いで?声もおかしいしなんかボーっとしてるし」

母が鍋から手を放し、僕の額に手を当てる。

「ほーら、まだ下がってないやんか」

「ちょっ、やめろって」

僕は母の手をふりほどく。

「ふふ。立派な反抗期やねぇ。満、今日も学校休んどきや。学校電話しとくから」

「いいって、大丈夫やから。解熱剤とか飲めば行けるし」

「はいはい駄々こねなさんな。今日無理して行ったら、また悪なるかもしれんやろ。まあ受験生にも休息は必要や。今日は家でごろごろしとき」

「...俺には休んでる余裕なんてない。これ以上勉強遅れられへん」

「そんなふらふらで学校行っても頭に入らんやろ」

「このままじゃ、絶対に受からへん。俺は行かなあかん」僕は部屋を出ようとする。

「満、いい加減にし」

振り返ると母が静かに僕を見ていた。ああ、これは無理だ。

「...わかったよ、学校は休む。でも」

「なに?」母の顔が微かに険しくなる。ひるむが僕は続ける。

「でも、夕方になって熱が下がってたら、塾には行きたい。」

「...。」

「それまではずっと部屋で休んどく。もし熱が37度切ってなかったら塾は休む。これでどう?」

母は大きなため息をついた。

「わかったわ。でもほんまに無理したらあかんで」

「ありがとう」

「ほな朝ごはんつくるから、横なっとき」

母はキッチンに戻る。僕はソファに横になり、母が鍋の火を調節するのを見ていた。


夕方、熱はなんとか下がっていた。のどの痛みは残っているが、今朝ほどではない。

「ほんまに大丈夫か」

「ちゃんと下がってるし大丈夫。行ってきます」心配そうな顔をした母に僕はそう言って家を出た。

既にほの暗くなった道を歩きながら、僕は今日僕を看病するためにパートを休んでくれた母のことを考えた。母は今3つのアルバイトを掛け持ちしている。もともとは小児科の受付と清掃員の二つだったが、今年に入って居酒屋のバイトも始めた。

母と父は、僕がまだ幼稚園の時に離婚した。

それ以来母は文字通り女手一つで僕を育ててくれた。母はつらい顔一つ見せず、いつも僕を見守ってくれていた。

僕がテストでいい成績を取ると、僕よりも喜んでくれるのが母だった。

「満、あんたはほんまにお利口さんやなあ」

僕は母の喜ぶ顔が見たくて、勉強をたくさんした。

そしてそれは今でも変わらない。僕は合格し、いい学校に入ってもっと勉強する。

そしていつか給料の良い会社に入って、母にうんと楽をさせてやる。

塾につくと僕は一番前の席に座り、食らいつくように授業を受けた。


◆第6章 水曜日のドライブ


朝起きるとすっかり体調は元に戻っていた。

「行ってきます」

「いってらっしゃい、気を付けてな」母が言った。

教室に入ると、僕の斜め左前の席にはもう彼女が座っていた。僕が来るのを見つけて小さく手を振る。

「おはよう。元気になったん?」

「まあまだ完全とは言えんけど、だいぶましになったわ」僕は言った。

「そっか。金曜すごい顔してたもんな」

「ええ、俺そんなに変な顔してた?」

「してたしてた。なんか鬼から逃げてきた村人みたいな顔してたで」

彼女が自分の頭に指でにょきっと角を生やす。

「鬼...」

「あっそうだ」僕は思い出して、カバンからお菓子の袋を周りにばれないように彼女へ渡す。

「なにこれ。『マアムおじさんのクッキー焦がしちゃいました』『おっちょこちょいなマアムおじさんはおやつの為にクッキーを作ろうとしましたが、焼く時間を間違えて全部焦がしてしまいました。しかしもったいないので一口食べてみたマアムおじさんはびっくり!案外いけるではありませんか!これはそんなトホホなマアムおじさんが作った焦げクッキーです。普通の甘いクッキーでは物足りないあなたに大人のビターな味わいを!』...。これってただロス分を売ろうとしてるだけちゃう?マアムも焼きが回ったな」

「クッキーなだけに?」

「HAHAHA」彼女が肩をすくめて見せる動作をする。

「てかこれ、どうしたん?」

「いや、この前のお礼。あの日ちゃんと言えへんかったけど、来てくれてありがとう

。あとこれ、以外といけるで」

「えっ、いやそんなわざわざ。律儀やねえ」とか言いつつ彼女は嬉しそうだ。

暫くすると始業を告げるチャイムが鳴った。水曜日が始まる。


午前午後とずっと教室での授業が続き、朝のさわやかな空気は段々と澱んでくる。

今はもう5時間目の数学。そして今は自習の時間。3年の12月ともなると生徒も勝手に勉強してくれるし、教師は楽でいいよな、と思う。僕たちとは反対に。

参考書を広げていると斜め前の彼女がくるりと体をこちらに向けてくる。

「なあ、何の勉強してんの」

「数学」

「ふうん、面白い?」

「まあ面白くはないけど、絶対に答えがあるって分かってるからそこは良いな」

僕が言うと、彼女は驚愕の表情を浮かべる。彼女の表情は大体笑顔と驚きが8:2

のような気がする。

「なるほどなあ。やっぱり頭の良い人は考えることが違うなあ。じゃあ国語とかは?」

「あれも登場人物の心情を読み取れとか言うけど、結局は文中に答えがあって、ある程度正しい答えの傾向はあるから数学とかと同じやと思ってる。答えがあるって時点で純粋な心情ではないし」

「へえ~。じゃあ保健体育は」

「あれは成長期における体の成り立ちを理解する学問であって、みんな性的な言葉で恥ずかしいとか面白いとか言ってあまり真剣にやってへんけど、大切さで言ったら受験科目にも入れていいんじゃないかと思ってる。とは言っても授業とかで教科書の音読とかをさせられるのは嫌だけど、って何言わせんだ」

「小西、エロい」彼女が上目遣いでいたずらっぽく笑う。

「そこ、周りの迷惑になってるぞ」と教師が僕らに注意する。

僕は再び数学の参考書に戻るが、ちらりと彼女の方を見ると窓の外を見やって、何か別のことを考えているようだった。


授業もすべて終わり、終礼のチャイムが鳴る。

クラスもすぐに人がまばらになる。この時期になると放課後の遊びの予定を話し合っている人もいない。

「あーあ、みんな真面目になっちゃってつまらん」彼女が体を机に倒し、頭だけこちらに向ける。

「矢部さんは勉強の調子どないなん」

「言わんくてもわかるやろ。やりたくもないのにやって調子なんか上がるはずないわ。最近なんかしんどいし」

放課後の校舎では、吹奏楽部がチューニングの音を響かせている。

「そうなんか。勉強疲れ?」

「うーん疲れるほど勉強はしてへんねんけど」彼女は情けなさそうに笑う。

「周りがみんな勉強モードになって行ってるから実はそれなりに焦りはあんねんけど、だからと言ってそれに合わせて勉強しないとあかんのかなって思うこともあって。それでも前まではしゃあないなあと思ってやってたんやけど、最近どんどん自分が何のためにこんなことしてんのかが分からんくなって、分からんのに勉強なんかしても意味ないんちゃうかって」彼女はチューニングの音がどこから鳴っているのか探すように窓の外を見ながらそう言う。

「って親に言ったら、『そんなん悩むひまがあったら勉強に悩みなさい!』って。まあ、確かにその通りやな」彼女はこちらを向いてはにかんだ。

「俺は矢部さんの考えてることも大切やと思うで。俺も含めてやけどみんな、答えはひとつしかないと思ってしまってるような気がする。テストの答えと一緒で、人生についても」

彼女はじっとこちらを見つめている。

「まあ、俺はその点は矢部さんより考えてへんかも知れへん。俺は結局勉強しか取り柄ないし。でも、そんなにしんどいんやったら少しは息抜きした方がええんかもな」

それを聞いた彼女は急に立ち上がる。

「なに、どうしたん」

「息抜きしよう!」

「そうやな、したらええわ」

彼女は僕のまえで腕を組み、勢いよくビシッと僕を指さす。

「小西も!」

「ええ?」

「嫌なん?放課後一緒にいるの嫌?」彼女はシュンとなる。

『まあ受験生にも休息は必要や』ふと昨日の母親の声が頭をよぎる。

「...矢部さんの塾が始まるまでやんな?」僕がそういうと彼女は顔を輝かせる。

「一緒に息抜きしてくれんの?」

僕はうなずく。

教室の外から聞こえるチューニングが、音階を駆け上がっていた。


揺れる黒髪と白いマフラー。彼女は高く地面を蹴って歩いている。

先週と同じ水曜日の放課後のこの時間。しかし空気は着実に冷たさを増している。

「息抜きったって、どこ行くん」僕が言うと、彼女は急に走り出す。10メートルくらい走ったところでこちらを振り返る。

「ゲームセンター!」と彼女が叫ぶ。

「いいけど俺、お金持ってないよ!」僕も彼女に聞こえるようにいう。彼女はこちらを見ながら後ろ歩きをしているので見ていて危なっかしい。電柱に頭をぶつけてこれ以上頭が悪くなったりしないだろうか。

「ええよ、あたし持ってるから!おごり!」

「はぁ。ゲームセンターってどこにあるん?」

それを聞いた彼女はいたずらっ子みたいに笑い、くるりと振り返って僕を置いて走り出した。

「おい!」僕は慌てて追いかける。

いつもより一時間早く授業が終わった放課後の空はその分だけ夜の闇も遠く、太陽が僕らを明るく照らしていた。


電子音と人の話し声、モーターの音が絡まったような空間を僕らは歩いている。

よく見るUFOキャッチャーやメダルゲームのほかに、シューティングゲームやエアホッケーなんかもあった。

彼女はずんずんとゲーム機の間の狭い通路を進んでいき、『両替機』と書いてある箱に財布から引っ張り出した1000円札を食わせてた。うぃーんと音がしてお札が機械に吸い込まれた後、ジャラジャラジャラと下の出口から小銭が出てきた。

彼女は小さな手でぐいとその10枚の百円玉をつかみ取る。

「手出して」と彼女が言う。僕は言われるがまま左手を差し出した。

彼女が100円玉を握りしめたままの右手を僕の手のひらに載せる。彼女が「お手」をしているポーズになった。

そのまま彼女がじわーっと拳を開く。僕の手には彼女の体温に近くなった100円玉がポロリ、ポロリと落とされる。

「これ小西の分」

「いや、悪いよ」

「ええの。明日返してね」

「でも、元とれなかったら悪いやん」

「もと?」彼女は目を丸くし、首を傾ける。

「だって俺UFOキャッチャーなんてほとんどやったことないで。こんだけ使って一個も取れへんかったら元返されへんやん」

彼女が僕の言葉を聞き終えてから、吹き出した。

「あはは!なんでUFOキャッチャーやる話になっとん!しかもUFOキャッチャーってもともと元取れへんように出来てるねんで。数百円やったくらいじゃ絶対取れへんで。少なくとも3000円くらいは使わんと」彼女は少し得意げに言う。

「3000円も」僕は驚く。「それってほとんどぼったくりやん」

「そうやで、UFOキャッチャーってぼったくりやねんで」

そう言いうと彼女はレーシングゲームを指さした。

「これ、ずっとやってみたかってんけどいっつもやってんの男ばっかりやろ。ちょっと恥ずかしくて。一緒にやろ!」

僕はうなずき、彼女に続いて運転席を模した筐体に入り込んだ。


運転席は見かけよりも狭く、お互いの肘が触れそうになる。彼女からはシャンプーでも洗剤でもない、焼きたてのクロワッサンのような、ふっくらとした良い匂いがした。シナモンシュガーもかかっているかもしれない。

「うわぁ、すごい!」運転席に乗り込んだ彼女は興奮した様子でハンドルを回し、アクセルを踏み、とりあえず目に入るボタンを押しまくっている。

100円を投入口に入れると、ドゥルン、という音とともに車がたくさん画面に表示された。どうやらここから選ぶみたいだ。

車の種類はスポーツカー、普通の乗用車、軽自動車、トラック、バン等色んなものがある。え、こんなリアルな感じなんだ。

「なにこれ!こんなんやったっけ?」と彼女が言う。

車を選ぶと次は運転手の選択画面に移った。スーツを着たサラリーマン、中年のおじさん、若目な運ちゃん、グラサンを書けた恵体の外国人、それぞれによって、スピートやテクニック、交通ルール順守傾向などが違う。...交通ルール順守傾向?

彼女の方を見ると物凄く悲しそうな顔をしている。どうやら前に彼女がやりたかったものとは少し内容が変わってしまったようだ。

最後にコース選択の画面になった。選べるのは3つみたいだ。近所をのんびりコース、海へドライブコース、高速道路疾走コースとある。

「なあ、俺海へドライブコースがいいんやけど」

「なんでこんな選択肢しかないん...」彼女はなぜかすごいがっかりしている。いいじゃないか、どれも楽しそうだ。

彼女はじゃあこれ!と高速道路疾走コースを選んだ。

「ええ!?のんびり走りたかったのに」そう言うがお金も貸してもらってる手前仕方なく彼女に従った。

既に画面は切り替わり、僕の車はスタート位置についていた。

『アーユーレディ?』とゲーム機から音声が流れる。「いえーい!」と彼女がやけくそになって言う。

『スリイ,トゥウ,ワァン,ゴーウ!!』とやたらテンションの高い掛け声で、レースは始まる。僕が選んだサラリーマンは営業車に乗って、料金所を通過する。ここからどうやら高速道路に入るみたいだ。

僕は合流車線で徐々に加速をし、ミラーに何も映っていないのを確認し高速へ入った。よし、出だしは上々だ。

その後も僕は真ん中車線を走りながら、カーブやトンネルを順調に抜けていった。速度が100kmを超えるとサラリーマンは勝手に速度を落としてしまうので、僕は90km代で走り続ける。

ふと、ミラーに何かが近づいて来るのが見えた。それは物凄いスピードを出していて、ミラーに写る影はどんどん大きくなる。

それは真っ赤なポルシェで、その後ろにはパトカーが何台もサイレンをけたたましく鳴らしながら付いてきていた。僕のバックミラーに写るその深紅のポルシェの運転席には、グラサンをかけた屈強な外国人が載っていた。

ぎょっとして隣のゲーム画面を見ると、僕の視線に気づいた彼女はこちらを見て、獲物を見つけた肉食動物のように笑った。彼女はローファーでアクセルを思いっきり踏み込み、そのままの勢いで僕の車体へ向かってくる。

え、まさかそんなことないよなと思っていると「おらああ!」と叫んだ彼女(画面では恵体のおっさん)のフェラーリに僕のスポーツカーは横から思い切りタックルされた。

「おわあ!!」

僕の車はトンネルの壁にこすりつけられ、ハンドルを必死で回すが制御が出来なくなる。後に続いていたパトカー達がそれに巻き込まれ、次々クラッシュした。僕の画面はまるでハリウッド映画のワンシーンみたいに爆発の炎で包まれた。

彼女は「ファッ〇ュー!」と叫びながら尚もアクセル全開で走り抜け、そのまま料金所のバーを吹っ飛ばした。『ゴォール!』とアナウンスが流れる。

画面には『交通ルールはきちんと守って走行しましょう』と注意書きが表示され、ゲームは終了した。

「はあ、面白かった、なんか、途中で、変なスイッチ入っちゃった。吹っ飛ばしてもた、ごめん、あはは!」

彼女は息が上がり、髪はほつれて額には軽く汗をかいている。

「矢部さん」

「え、なに?」

「眼鏡ずれてるよ」

「えっ、て眼鏡なんてつけてないやん!」

僕らはひとしきり笑った後、他のゲームもやってみた。

メダルゲーム、リズムゲーム等を遊び回り、楽しんでいた時僕はふと気づく。

「矢部さん、塾は大丈夫なん?」

彼女は今や大量に増えたメダルで、ジャックポットを狙おうとしていた。

返事をせずコインを入れ続ける彼女に、夢中になるあまり聞こえなかったのかと思い僕はもう一度言った。

「矢部さん塾」

     「いいやんか。そんなん」

ジャラジャラジャラ。また何枚かコインが落ちる。

「え?」

彼女はあいかわらず一定のリズムで動くバーを見つめている。

「だってもう塾始まってるんやろ?行かんで大丈夫なん?」

「大丈夫やって!」彼女は明るくそう言う。僕は彼女の横に近づいて言った。

「大丈夫って、何が大丈夫なん。そもそも塾が始まるまでって話やったやろ?今は大切な時期なんやで。色々悩んでしまう気持ちも分かるけど、やからと言ってなんもせんかったら後で後悔することになるで」

彼女がやっとメダルゲームから視線を外し、僕の目を見る。その表情は怒っているようにも見えた。彼女がゆっくりと口を開く。

「今が大切なんてこと、分かっとる。でも、このまま意味も分からんと嫌々勉強し続けたら、どうなってしまうんやろう。嫌なことをやることを段々受け入れてしまうようになってしまうんちゃうかな」彼女は続ける。

「自分が何になってしまうか分らんねん」

僕は何か言おうとする。しかし声がうまく出なかった。

彼女はふと諦めたみたいに笑った。

「ごめんな。へんな言って困らせて。馬鹿みたい」

彼女は立ちあがり、去っていこうとする。

「矢部さん!」

彼女がこちらを振り向く。

「今日は楽しかったわ。ありがとうね」

彼女の涙は僕をその場に凍り付け、僕は小さくなっていく彼女を見つめることしかできなかった。


彼女が去った後も僕はしばらくそこから動けず、ようやくメダルゲームの席に戻ると僕のカバンの隣に、彼女のクリーム色のマフラーがあった。僕はそれを抱えると、ふらふらとゲームセンターを出た。

外に出ると闇が既に夕方の光を喰らい尽くし、我が物顔で僕の上空にのさばっていた。

僕は見慣れない道を薄暗い中歩いた。彼女が出て行ったときにはこの道はもう少し明るかっただろうか。僕はマフラーを手に抱えたまま、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

風が強く吹く。そのたびに細かく区切られた季節がその一生を終えていくようだった。暗闇の中の田んぼは昼間と比べて大きく膨張して見え、まるで巨大な生き物が眠っているかのようだった。

今から彼女の塾へ行ってマフラーを返しに行くことも頭をよぎったが、塾がどこだか分らなかった。明日返そうと決めて、僕は歩くスピードを上げた。


「なにしてたんこんな遅くまで」日本中の子供達が親から言われているであろうそのセリフを、やはり僕も言われることなった。

「ごめん。でも、心配しなくて大丈夫だから」

「ご飯冷めてもうてるで。手洗い」そう言うと母はラップをかけられた夕食をチンしてくれた。


夕食を食べると自分の部屋に入った。

彼女のマフラーはまだ僕の手にあった。僕の手にあることでそれはまるで彼女から切り離された身体の一部であるように思えた。

僕は適当な紙袋を探し出してそこに彼女のマフラーを入れると、椅子に座った。

僕の目は、まだ彼女の最後の泣き顔を映し出していた。

僕はとにかく何かをして気を紛らわすことにした。過去問題集を取り出し、間違えたところを復習することにした。

しかし僕の頭には暗闇の中を一人歩く彼女の姿が浮かんだ。

僕は問題集を閉じ、大きくため息をついた。

『自分が何になってしまうか分らんねん』

彼女の言葉が頭で繰り返された。

なぜ彼女はあんなことを言ったのだろう。

単に勉強したくないことの言い訳に過ぎないんじゃないか。やるべきことから目を背けているんじゃないか。それとも...。

僕はそれ以上考えるのになんだか疲れてきて、明日マフラーを返す時に彼女と話そうと決めて参考書を開いた。


◆第7章 木曜日の雪


朝起きると寒気を感じた。まさかまた風邪をひいてしまったのかと思いながらリビングへ行くと驚いた。窓から見える雪は、普段見える景色をうっすらと白く染めていた。

テレビが付いており、数十年に一度の大寒波が関西一帯を覆い、昼過ぎから夜にかけては平野部でも積雪の恐れがあるでしょう、と告げていた。

「あーあー、こんなに降んのいつ振りやろな。満、長靴履いてきや」

母親がフライパンでじゅうじゅうと卵焼きを作りながら言う。リビングにはバターの匂いが広がっている。

「いいよ、そんな大げさな」

「何いうてんの。雪に慣れてへん地域のもんは絶対履かなアカンで。みんなつるつる滑りよるわ。頭なんか打ったら大けがやで」

「わかったわかった」僕は大根入りの味噌汁をすすりながら答える。我が家では大根入りの味噌汁は白みそが多めにブレンドされている。

朝食を食べ終え準備を終えると僕は彼女のマフラーが入った紙袋を手に持ち、いつもの使い古したナイキのシューズを履いて家を出た。


教室へ着くと彼女はまだ来ていなかった。窓の外を眺めると相変わらず雪は降り続いており、何人かは廊下へ出て空を見上げていた。お雪見、と僕は思った。

そんな雪の中彼女はいつものダッフルコートを着て教室へ入って来た。

セーラー服の肩には雪がかかり、頬は朱に染まっていた。なぜ寒いと人の頬は温かい色になるんだろう、と僕は思った。僕は紙袋を持って席を立ち、彼女に声をかけた。

「矢部さん」

彼女は今僕の存在に気が付いた、というようにこちらを振り返った。

「あ、小西。おはよう。昨日はごめん!急に帰ったりしちゃって、あの後メダルはゲームはどうだった?」彼女はいつも通りといった様子で答えた。

「いや、席に戻ったら誰かに全部取られてた」僕が言うと彼女はええー、と残念そうな声をあげた。

「悪い奴がおるもんやね。まあ結局使い切れんかったかも知れへんし、同じか!」彼女は笑い、これでもうこの話は終わり、というように前を向いた。

「さー、なんか天気もおかしいけど大丈夫かな。学校来るまでに雪食べてみた?」

「矢部さん」僕はもう一度言う。

「あれってどんな味するんやろうな。ふわふわして美味しそうやけど、なんかばっちい気もするな」彼女は窓の外を眺めながら言う。

「昨日のことなんやけど」

「昨日?もう忘れてって!小西は何も気にすることないよ。なんか変な日やったな」僕の言葉にかぶせるように彼女が言う。その表情は笑っているが、僕は微かに拒絶を感じた。

結局僕はそれ以上何も言えなくなり、彼女のマフラーが入った紙袋を持ったまま自分の席に戻った。


2限、3限と授業が進むに連れて、雪の降りかたはどんどんと勢いを増していった。

4限目が始まる頃には窓の外が見えないほどの降り方になり、クラスはその景色に興奮をして落ち着きを失っていた。チャイムから10分ほど遅れて教室に入ってきた教師が静かに、と言った。

「えー、本日の授業だが、関西全域に大雪警報が発令されたため、4限目以降の授業は中止とし順次帰宅とする」

クラス中がワッと沸いた。

「静かに。帰宅の際は転ばないように十分気を付けること。また視界が悪い為事故などには気を付けること。珍しいからと言って公園に寄り道等せず、まっすぐ帰ること。いいな」

誰かが雪合戦しよーぜ、と言っている。私ママに迎えに来てもらおーかな。車動けへんのちゃうん。それぞれがこの突然の非日常の訪れに少し恐怖し、楽しんでいるように見えた。

彼女を見ると、そこまで厚いとは言えないいつものダッフルコートを着て、心配そうに折り畳み傘を持ちながら教室を出ようとしていた。

「ちょっと待って」僕は慌てて声をかける。

「一緒に帰ろう」

彼女はまるで僕の言った言葉が500メートル離れたところから聞こえたみたいに間をおいてから、ゆっくりとこちらを振り返った。

「一緒に帰るって、この雪やで。今日はさすがに小西の塾もないやろ。帰る方向は別々やね」彼女は残念だね、というような顔をした。

「その傘やったら家に着く前に肩で雪崩が起きるって。帰り道で何か事故とかあったら危ないし、途中まで一緒に帰ろう。塾は多分ないと思うけど、一応行って自習するつもりだし」

僕の言葉を聞いた彼女は固まった。

「え、こんな日にまで塾行くつもりなん?ほんまに勉強のことしか考えてへんねんな」と彼女は言う。寒さのせいなのか彼女の身体は震えている。

「そうや。僕は勉強を頑張る。矢部さんとは違って」

彼女が僕の目を見た。

「そうやね、あたしとは違って、小西君は頑張ってるね。今まで、勉強の邪魔ばっかりしてごめんね?」彼女の声も震えていた。

「違う、そういうことじゃない」

「ずっと我慢して付き合ってくれてたんやね。あたし気づいてなかった。ごめんね?アホみたい。じゃあ、もうこれからは話しかけん方がいいよね」

「聞いてくれ、俺が言いたいのは」

「じゃあね!これからも勉強頑張ってね!!」

彼女が教室を去る。嗚咽が聞こえる。

昨日と同じで、僕は立ち尽くしている。

もう、彼女を追うことはしない方がいいだろう。

僕は、窓の外に降りしきる雪を眺め、手を握りしめる。

僕の手には、彼女のマフラーが入った紙袋が握られていた。

窓の外には一面の雪。僕は彼女がこの雪の中一人で帰るところを想像する。

―僕はまた彼女を一人で帰すのか。

気が付くと僕は紙袋から彼女のマフラーを取り出し、教室を駆け出していた。

廊下を全速力で走り抜け、昇降口へ向かう。しかし彼女の姿はもうない。彼女の下駄箱を確認すると、上履きだけが入っていた。

僕は靴を履き替え、彼女のマフラーを手に、真っ白なグラウンドを横切って正門をでた。

正門を出るとあたり一面すっかり雪景色に変わってしまっていて、一瞬自分がどこにいるのかがわからなくなった。

歩道も、畑も、電柱も、すべて雪に覆われている。

僕は踏み固められた歩道の雪の上を走り、彼女の姿を探した。

道を曲がって大通りに出ると、その先に小さな傘を持った人影を見つけた。降りしきる雪で視界は悪い為良く見えないが僕はそれが彼女だとわかる。

「矢部さん!」僕は叫んだ。彼女はどこからその声が聞こえたのかわからないようで周囲を振り返り、それから後ろを向いた。

彼女の驚く表情が朧げに見えた。彼女僕を見ると大通りの先へと走り出した。

僕は彼女の名前を呼び追いかけた。吸い込む息の冷たさで、肺がキシキシと痛む。既に鼻の先から手の甲にまで雪はつもり、身体の感覚は冷たさを通り越し痺れてきている。

大通りと幹線道路の交差点まで辿りつくとちょうど信号が変わり、その先に彼女の姿が見えた。

「クソッ」

しかし信号が赤になったにも関わらず、車はまだ動き出していなかった。

そうだ、こんな地域で冬用タイヤを付けている車はない。

僕は意を決し、どこかが横断歩道だったのか全くわからなくなった一面真っ白な交差点を横切る。すぐ前に彼女が雪に足を取られながら歩いている姿が見えた。

「矢部さん!」僕がもう一度呼んだその声は、耳をつんざくクラクションの音にかき消された。

振り返るといつか見たような、真っ赤なポルシェにサングラスをかけた運転手が僕の目の前へと突っ込んできていた。

―頭へ浮かんだのは、ムキになってハンドルを握ってる彼女。自慢気な顔をしてこちらを見る彼女。そして声を上げて笑う彼女。

僕は視界は激しく揺れる。僕は自分が雪の中へ倒れたんだと気づいた。

「小西!」

車が急ブレーキを踏む音に重なって彼女の悲鳴が聞こえた。

僕は地面に倒れた雪の中から、彼女が傘もカバンも放り捨ててこちらへ走って来るのを見ていた。

「小西!!」彼女は真っ白な雪の中、僕のもとへしゃがみ込んだ。

周りの雪が赤く染まっているのが見える。これは、血なのか。

何度も僕の名前を呼ぶ彼女。その髪にも、肩にも、雪がかかっている。

「矢部さん、ごめん。俺は矢部さんを二回も傷つけてしまったんやな」

彼女が首を振る。雪より涙の方が落ちるのが早いのだと思った。

僕は手に握りしめていたマフラーを広げ、彼女に巻いた。

「俺は矢部さんが好きだ」

彼女が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で僕を見る。

僕は彼女を抱き寄せた。

―ああ、焼きたてのパンの匂い。

彼女の体温を感じながら、シナモンシュガーの乗ったクロワッサンのような匂いを嗅ぐと僕は急に安心した。そのまま僕の意識は、雪が降り積もっていくように真っ白になっていった。














病院で目が覚めた後、母親にはそうとうこっぴどく叱られた。

「やから長靴履いて行きって言ったやろ!」と泣きながら言う母に、「心配かけてごめんなさい」と僕は心から言った。

ポルシェを運転していたおじさんも僕が目を覚ますまでずっと付き添っていてくれていたらしく、僕と母親には土下座までしようとしたので、さすがにそれは母が止めた。

雪道で見通しが悪い中、信号を無視して横断歩道からも外れたところを歩いていた僕に直前で気づき、急いでクラクションと急ブレーキをしてくれたおかげで僕は寸でのところで車との衝突は避けられた。その時避けようとして足を滑らせ、思い切り地面へ転んだのだからどう考えたって僕が悪かった。

不幸中の幸いにもあの雪が多少はクッションになったらしく、僕は頭を数針縫う程度で済んだ。

退院までの間、一度も彼女は姿を見せなかった。


◆最終章 水曜日のクリスマス


いたるところが緑と赤の飾りで溢れる町を歩き、僕はほぼ一週間ぶりに学校へ登校した。

午前中は退院手続きがあったため、時間的にはもう最後の5限目である。母親には今日は休んだら?と言われたが、「勉強の遅れを取り戻したい、あと頭を打ったショックで今までのことが全部抜け落ちてないかが不安」というと「勝手にしーや」と言ってくれた。

下駄箱についたあたりで終礼のチャイムがなる。ああ、結局間に合わなかったかと思うが、教室へ向かった。

廊下をすれ違う3年生達はみな少し重苦しい顔で、これからやって来る社会から初めて自分たちへ下される審判の瞬間を待っている、ようにも見える。ただその表情は確かに学生のものとは違ったものが混ざっていた。

ようやく教室の前までたどり着いた。教室へ入るとずいぶんと久しぶりなようなそうでもないような気がした。

「おかえり」

「ただいま」と僕は言った。

「ごめんね、お見舞い行けんくて。あの事故の後警察呼んで、その日はそのまま事情徴収やってん。その後気が動転して倒れちゃって高熱が出て、あたしも今日から学校来てん」

「大変やったな」と僕は言う。

「小西に比べたらなんてことないよ」

彼女はカバンから小さな箱を取り出し、僕に差し出した。

「メリークリスマス」

僕は彼女の手から小箱を受け取り、リボンを解いた。箱を開けるとグレーの手編みのマフラーが入っていた。『合格!』と刺繍がしてある。

「ありがとう。頭にまいて徹夜して勉強するわ」

彼女が声を出して笑う。それは本当に久しぶりに見た彼女の笑顔だった。

「あたしね、専門高校行ってみようかなって」

僕はうなずく。

「正直まだ勉強することが本当に何かの役に立つのかってのは分からなくて、でも中学を出ていきなり働くなんてアルバイトくらいしかできひんやろ。やからひとまずは最低限の勉強もしながら、何かスキルを身につけられるような学校に行くつもり。まあその学校はこれから探すんやけどね」彼女は苦笑する。

僕は彼女がくれたマフラーを巻く。丁寧に何千回と編み込まれた毛糸は肌触りがよく、じんわりと首が暖かくなる。

それにクロワッサンの匂いもする。彼女の家はいつもクロワッサンを焼いているのだろうか。

「帰ろうか」と僕が言う。彼女は頷きクリーム色のマフラーを巻いた。

僕らは手を繋ぎ、水曜の放課後の教室をどこかへ向かって歩きだした。







彼女からもらったプレゼントの箱には、一枚の手紙が入っていた。


「小西へ。

事故について、あなたを危険にさらすようなことになってしまい本当にごめんなさい。私はクラクションと急ブレーキの音が聞こえて振り返って倒れていたあなたを見たとき、全部が終わってしまったように思いました。あなたと一緒にいた時間も、これから一緒にいれるはずだと思っていた時間もすべて自分が壊してしまったのだと思いました。

初めて一緒に帰ろうと声をかけた日、びっくりさせてしまったと思います。あの日まで私はずっとぐるぐると出口のない迷路に閉じ込められているような気分でした。誰かから何かをしてもらえるだけの存在でいる時間もそろそろ終わりに近づいている中で、私はまだまだ幼くて、自分が何にもなれる気がしなくて、ただただ将来が恐ろしかった。そしてそんな中でもしっかりと自分のやるべきことをから目を背けないあなたを尊敬し、また理解できない部分もあり、とにかく私はあなたが気になっていました。気がかりだったという方がいいのかな。その後無理に誘ってしまったりして迷惑だったかもしれないけれど、私にとってはあなたと一緒にいる時間がとても大切なものになっていました。小西がいてくれるなら、自分の恐ろしい将来もそんなに悪くないんじゃないかと思えるようになりました。

3月になって、受験も終わったら電車乗って街の方にあるもっとでかいゲーセン行こうね!今度はUFOキャッチャーもやろう笑

大好きだよ。

                                   紗枝」

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水曜日の放課後、彼女と。 @daisuke19980811

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