第3章【2】
シリルが父とおはようの挨拶をしてテーブルに着くと、すぐに朝食が始まった。アイザックもローレンスも何も言わないが、さすがに八時は待たせすぎだろうとシリルは内省する。メリフに明日からもっと早く起こしてもらうよう頼んでみるか、とそんなことを考えていた。
「シリル。私とローレンスは街へ行かなければならない」
アイザックが申し訳なさそうに言うので、また食事による咥内への刺激に意識を取られていたシリルは顔を上げる。
「お前の家庭教師になるフランシス・エーヴェルトは、私の教育係だったワーグナー・エーヴェルトの息子だ。どちらも初対面だが、ひとりで大丈夫か?」
「はい。ミラたちがいればひとりではないですから」
シリルのそばには、侍女のアイレー、執事のトライン、護衛騎士のミラとレオナルドがいる。決して「ひとり」とは言えない状況だ。それもそうだな、とアイザックは頷く。
「十時頃にこちらに着くはずだ。それまでは自由に過ごしていい」
「はい」
それまでジョンと遊んでいよう、とシリルがのん気に考えていると、ローレンスが重い溜め息を落とした。
「フランシスはひと癖もふた癖もある男だ。気を付けろ」
「あ、はい……」
「あいつの素行の悪さを真似しないように。きみは素直だから心配だ」
「トラインが一緒なら大丈夫じゃないですか?」
苦笑いを浮かべるシリルの言葉で、ローレンスはトラインに視線をやる。
「頼んだぞ、トライン」
「はい。お任せください」
トラインは涼しい顔をしているが、心配しすぎではないだろうか、とシリルは苦笑する。それから、壁際に控えるミラに心の声で問いかけた。
《 ローレンスってこんな心配性だったっけ? 》
《 なんだか過保護補正が入ってるわね 》
《 シリルは素直だから可愛いんじゃない? 》
《 そう……。でも、優しい兄さんができたのは嬉しいな 》
《 男兄弟に憧れてたものね~ 》
きょうだいというものはないものねだりの塊である、というのがシリルの持論だ。男兄弟がいれば姉妹を欲しがり、女姉妹がいれば兄弟を欲しがる。きょうだいが姉しかいなかったことが不満だったわけではないが、男兄弟が欲しいと思っていたのは確かである。間接的にではあるが念願が叶い、また神に感謝していた。
朝食を終え、街に向かうアイザックとローレンスを見送ると、シリルは四人とともに中庭に出た。ひとりに対してお付きが四人もいるという贅沢さを改めて実感しつつ、ジョンが駆け寄って来るのを待つ。今日も癒しの塊だ。
「お可愛らしいシリル様と愛らしいジョンの掛け合わせが、愛しさを倍増していますね……」
堪えきれなかったらしいアイレーの呟きに、そうね、とミラが同意する。
「シリルは町でも一番の美少年と言われていたわ」
「なんでミラが自慢げなんだ?」と、レオナルド。「まあ、俺も可愛い弟ができたようで嬉しいよ」
「なんであなたが兄になるのよ。シリルに悪影響だわ」
「どういう意味だ」
「あなたたち、騒ぎすぎですよ」
トラインの冷静な注意に、今日は随分と賑やかだ、とシリルは苦笑する。それでも何やら言い合っているミラとレオナルドを眺めていると、ジョンが不意に腰を上げた。促すようにシリルの脚に鼻を押し付けたあと、倉庫の裏に駆け込んで行く。何か気になるものがあるらしい。ジョンに続いて倉庫の裏を覗き込んだシリルは、あっ、と声を上げる。
「ロス。休憩ですか?」
倉庫の陰で、ロスが煙草を吸っていたのだ。ジョンはこの匂いにつられたらしい。
「報告がある。早いほうがいいかと思ってな」
煙草を灰皿に押し付けて言うロスに、シリルは首を傾げて促した。
「テリー・ノーマンはこの街にはいないようだ。少なくとも、街の外にいるだろうな」
「そうですか……」
シリルにとって残念な報告であるが、わざわざ見つかるリスクを冒してまでこうして待っていたところは、ロスも冷たいばかりの人ではないとシリルに思わせた。
「何でも屋は夜が遅くて朝が早いというのは本当ですか?」
朝のことを思い出して問いかけたシリルに、ロスは幾分か柔らかい雰囲気になり腰を屈める。
「そうだな。情報源となる可能性のある人間が動いているあいだは活動する」
「じゃあ、僕がふたりの寝ているところを見る機会はなさそうですね」
「そうだろうな。お前は物音にも気付かないようだしな」
「物音ですか?」
「昨夜、メリフがスツールを蹴っ飛ばして大騒ぎしたんだがな」
「物音どころじゃなかった……」
シリルは寝付きがいいし、眠りも深い。外部からの刺激では簡単には起きないのだ。しかし、大騒ぎでも目覚めないとは自分でも思っていなかった。
「シリル?」
ミラの呼ぶ声がする。ここは中庭からでは視線が遮られる場所だ。
「随分と過保護な保護者がいたものだ」ロスが肩をすくめる。「もう戻ったほうがいい」
「はい。ありがとうございました」
ジョンとともに中庭に戻ると、四人はそれぞれ散ってシリルを探していた。先にシリルに気付いたのはレオナルドだった。
「そんなところにいたのか。勝手に目の届かない場所に行くな」
「心配しすぎじゃないですか?」
「なに言ってるんだ。お前は名門ラト家の御曹司だ。それも小さい子どもとなれば、誘拐するのは容易い」
シリルは背筋がゾッと凍るのとともに、自分ひとりに四人のお付きがいる意味を理解した。
「お前が自分で抵抗できるなら話は別だがな」
もちろんシリルにはそんな力も術もない。魔法のひとつでも使えれば話は変わるが、肝心の魔法は今日から教わるところだ。彼らの目の届かない場所にいたのがロスだったからいいもの、不埒な輩であれば、ともすれば大事件になっていた。それをようやく自覚したシリルに、レオナルドは明るく笑ってシリルの頭を乱暴に撫でる。
「ま、俺が近くにいるなら心配はいらない。何があっても見つけ出すからな」
「はい……頼りにしてます」
「いくらでも頼ってくれよ。遠慮なくな。お前はもう俺の弟みたいなものだ」
駆け寄って来るアイレーとトラインに微笑みかけつつ、シリルはまた首を傾げた。
《 レオナルドってこんなお兄ちゃん全開だったっけ 》
《 シリルが小さいから心配になるんじゃない? 五歳にしては体が小さいみたいね 》
《 うーん……そうか…… 》
《 それに、やっぱり素直な子は可愛く見えるものなのよ 》
悪役令息はもちろん、レオナルドとも対立することになる。生まれながらに悪役令息の人間はいない、とミラは言っていたが、これだけ優しい人々と対立することになるのだから、少なくともこの歳ではすでに捻くれていたのだろう。レインは生い立ちが少々特殊だ。それがレイン・ウォーカーを捻くれさせた。その少しの捻くれが、レイン・ウォーカーを悪役令息たらしめたのである。
「シリル、書籍室に行ってみないか?」と、レオナルド。「ローレンスが使っていた教本が残ってるはずだ」
「はい」
散々な成績を取っていたシリルでも、予習の重要性は知っている。教材が残っているなら目を通すべきだ。それが円滑に授業を進めるために必要になってくるだろう。
書籍室に向かう途中、シリルはふと、護衛たちを振り向いた。
「え……? 何?」
問いかけるシリルに、ミラはきょとんと首を傾げる。
「どうしたの?」
「なんて言ったの……?」
「誰も何も言ってないわ」
「…………」
「あの使用人たちの話し声を聞き間違えたんだろ」
レオナルドが廊下の向こうを指差して言うのでそちらを見ると、確かに下女たちが楽しそうにお喋りをしている。ラト伯爵邸の使用人規定は規定は厳しいが、使用人同士のお喋りは禁止されていない。
「あんな大きな声で話すなんて」と、トライン。「あとで注意しておきます」
「ふうん……」
シリルは少し奇妙な感覚になりつつ、書籍室への歩みを再開する。深く追及する必要はないだろう。
書籍室は相変わらず本の壁で、シリルはそれだけで気分が上がる。惜しむらくは、書籍室に来る機会があまりないということだ。暇さえあれば読み漁りたいのだが、シリルはつい居眠りをしてしまう。結果的に、書籍室に来る時間は限られてしまうのだ。
「この辺りにある物が、ローレンス様がお使いになられていた教材です」
トラインが差した棚には、魔法学や国史、マナーなどの本が収められている。よく使いこまれており、ローレンスがどれだけ勉学に励んだかを表しているようだった。
「
「はい。ローレンス様はワーグナー様からお習いになりました。ワーグナー様の教育は厳しいものでした。初等教育でしたら、フランシス様が適任ではないかと」
父の教育係で
シリルは、特に重点を置きたい魔法学の教本を手にしてソファに腰を下ろした。魔法学がどういった学問であるかはまだわからないが、魔法を学べることが最も楽しみである。
教本を開いた瞬間、シリルは鋭い耳鳴りに襲われ顔をしかめた。顔を上げると、四人の姿が黒い靄に掻き消される。それと同時に教本が燃え、景色が一変する。辺り一面が闇色に覆われ、シリルはひとり取り残された。足元から立ち伸びた影がシリルを取り囲む。シリルは弾かれたように立ち上がり、その場から逃れるため駆け出した。
とてつもない不安感が胸中を占める。これは異常だ。この場に留まれば吞み込まれる。何が起こっているのかはわからないが、とにかく逃げなければならない。心臓が痛いほどに高まり、息が苦しくなる。ここにいてはならない。
(ルビー……!)
恐怖に歪む頭で呼びかけが。辺りには人形を成した影が迫って来ている。捕まってはならない。短い呼吸を繰り返しながら、とにかく逃げた。
『シリル! こっち!』
聞こえた声に導かれるまま、ひたすら走った。どこに出口があるのかはわからないが、呼ぶ声を目指せばいい。汗がひたいに滲む。胸が痛くなるほど息が上がり、足が止まりそうになる。それでも、とにかく走った。
「こっちだ!」
また別の声に呼びかけられて顔を上げると、闇の中から手が伸びているのが見える。
「来い! 掴まれ!」
縋りつくように手を掴んだ。強い力で腕を引かれる。
「目と口を閉じろ!」
言われた通りにしていると、瞼の裏が白んだ。重苦しいものが体から消えるのを感じ、目を開く。視界に飛び込んで来たのは、短い髪の青年だった。青年は軽々とシリルの体を抱え上げる。
「やれやれ、火遊びとは感心しないな」
「あなたは……」
「フランシス・エーヴェルトだ。俺のことは、フラン先生と呼ぶように」
彼は、今日からシリルの家庭教師になる、攻略対象「アウトロー教師」担当のフランシス・エーヴェルトだ。こんな出会いになると思っていなかったが、その顔付きは人畜無害な好青年に見える。
「お付きのやつらはどうした」
フランシスの問いに気を持ち直し、シリルは心の中でミラに呼びかける。軽やかな鈴の音とともに、ミラがそばに着地した。
「シリル! よかった、無事なの?」
「うん、大丈夫」
ほっと胸を撫で下ろしたミラは、三羽の報せ鳥を出す。他の三人も、どこかでシリルを探しているのだろう。
「何かしらの魔法攻撃を受けたらしいな」と、フランシス。「早めに見つかってよかった」
フランシスが真っ直ぐにシリルの瞳を見つめる。心の中を見透かされるような瞳に、シリルはどきりとしていた。
「ふうん……なるほどね」
フランシスがひとりで納得したように呟いているうちに、アイレーとトライン、レオナルドがシリルのもとに戻って来る。息を切らせつつ、シリルの無事に安堵した様子だ。
「四人もいて誰も守れないんじゃ意味がないじゃないか」
咎めるフランシスに、四人は何も言い返せずに黙り込む。シリルは自分の身に何が起こったか理解できず、ただ困惑することしかできなかった。
「まあ、俺も自分で見つけられたわけじゃない。運が良かったな」
シリルは自分に何が起こったかさっぱりわからないが、フランシスには何か心当たりがあるらしい。フランシスがいなければあの闇から抜け出すことができなかった可能性があるのは、シリルにも理解できる。しかし、それ以外のことはわからなかった。
「ワーグナー様はどうなさったのですか?」
トラインの問いかけに、フランシスは軽く肩をすくめる。
「帰ったよ。急にヴァーストン公爵家に呼ばれてな」
「さようでございますか……」
「まあいい。授業を始めよう。勉強部屋はどこだ?」
フランシスに抱えられたまま、シリルはなんとも言えない感覚になっていた。
あの空間がなんだったのか、シリルには皆目、見当もつかない。なぜフランシスが自分を助け出すことができたのか。フランシスには何か心当たりがある様子だが、それを話すつもりはないようだ。
破滅を招く悪役令息は崩れゆく世界を再生する~姉の遺作のBLゲームに転生したらなぜか攻略対象に溺愛されています~ 加賀谷イコ @icokagaya
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