第3章【1】
罵倒に耳を塞ぎ、搾取を耐えるしかできず、暴力的な正義に圧倒され、蹂躙される。
僕には関係ない。
『どうしてこんなこともできないんだ』
――ごめんなさい。
謝罪はすでに意味を為さない。贖罪の時は遠く、罪滅ぼしの星は砕け散った。
『お姉ちゃんを見習いなさい』
――こんな僕でごめんなさい。
青白く浮かび上がる月に照らされて、横暴な風に薙ぎ払われた心は停止する。
『努力が足りないんじゃないか?』
もう何も見たくない。何も聞きたくない。
『鬱陶しい。近寄らないで』
『あんたなんか産まれなければ――』
――ごめんなさい……――
――……
ハッと目を覚ますと同時に呼吸を取り戻す。今度こそ息が止まってしまうのではないかと錯覚した。
ランプに照らされた部屋の現実味が薄い。まだあの闇の中にいるような感覚だ。
無意識のうちに溢れていた涙が枕を濡らしていた。心臓が激しく跳ねる。短い呼吸を繰り返せば繰り返すほど苦しくなった。
ベッドのそばに置いたはずのスリッパが見つからず、素足のままバルコニーの窓を開ける。
「ルビー……」
「おん? どしたの?」
影から応える声に、胸中に安堵が広がる。いつでもそばにいる安心感が、少しだけ冷静さを取り戻させた。
「僕は、産まれて来ないほうがよかったのかな……」
「そうは思わないよ。少なくとも僕はね。シリルがいなくちゃ僕はいないんだから」
「…………」
「誰がなんと言おうと、シリルは存在してることに価値がある。僕にとってはね」
「……うん……」
影は嘘をつかない。お世辞も言わない。おべっかも使わない。だから信じられる。
「眠れないなら子守唄を歌ってあげようか?」
「ううん……大丈夫。おやすみ」
「おやすみ~」
優しい声に見送られ、再びベッドに潜る。今度こそ、綺麗な夢を見られるといい。せめて、苦しくない夢を。
* * *
ミラはドアに耳を寄せて室内の様子を探りながら静かにノックした。部屋主からの返答はない。音を立てないようにしながらドアを開くと、シリルはベッドで穏やかに寝息を立てていた。
そばに寄っても起きる気配はない。目元には涙の跡があった。
(いま話していたのは誰? それより……どうして私を呼んでくれないの?)
シリルが度々うなされていることは確認している。しかし、ミラが近くにいても、シリルがミラを呼ぶことはなかった。まるで、シリルの心が遠くにあるように感じられる。シリルが心を閉ざしているような、そんな感覚だった。
静かに窓を開け、バルコニーを覗き込む。冷たい風が吹く中、花壇のほうで何かの影がもぞもぞと動いていた。
「そこにいるのは誰?」
ミラの問いかけに応える者はない。影が
シリルは確かに誰かと話していた。相手の声は聞こえなかったが、シリルははっきりと受け答えをしていた。独り言という程度ではない。明確な会話だった。
(紫音……どうして私を頼ってくれないの……)
自分の死後、紫音がどうやって生きていたかを知る術はない。神なら何か知っているだろうが、そう簡単に接触できる存在ではない。紫音は自ら命を絶った。美緒の死後、紫音が苦しんでいたのは確かだ。それはほんの数年のことらしい。その数年が、紫音の心を美緒から引き離してしまったのかもしれない。
(やっぱり、ただの護衛騎士では限界があるわ。攻略対象の誰かになれたらよかったのに……)
アイレーとトラインは明確に隠し事をしている。シリルも何か黙っていることがある。おそらくシリルには、それを“隠している”という認識はない。それをミラに話すという発想自体がないのだ。
(それに……。いいえ。今度こそ、紫音を守り通すわ。何があっても)
決意とともに、腰に携えた剣の柄を握り締める。これはただの手段でしかない。だが、手にした瞬間から覚悟を決めていた。例え神に背くことになったとしても、なんとしてもシリルを守り抜く。命懸けだったとしても、それが残されたたったひとつの誇りだ。
* * *
「ああ、
眼前に広がる光景に
「そのようですね」
鮮明な赤に勝るものなどない。いくら貫こうとも、赤は終わらない。
心の躍る白昼夢。黎明の輝きに耐え切れず、星屑となって堕ちて逝く。
耳障りな囁きに手を鳴らせば、無慈悲な侍女が羽で
「本当、おめでたい頭ですわ。いくら足掻いても無駄ですのに」
警告音にも
正気を失えども、いくら打ち砕かれようとも、朝焼けの愚かさを抱いて消えて逝く。
「自分の出番はないようだ」
深紅の騎士が感嘆を漏らす。腰に携えた剣はただの
濁り切って見えなくなるほどの愛憎が、幻惑に眩んで渦巻いて、赤い月と踊って憔悴する。
「
「ええ。楽しみですわ」
擦り剥いた傷が痛む。同じ顔が笑う日を待っている。それまで、小指は切り落とさないように。最期の瞬間まで、無為な希望を胸に。灼け堕ちるその日まで。
――……
星屑が天井で回っている。一緒になって目も回りそうな光景に目が眩んで、頭がぐらぐらと軋む。三半規管が狂いそうな感覚に、胃の中が
これが満点の星空であったなら、きっと、虹がかかって、雨が降って、キラキラと輝いていたのだろう。雲に包まれて眠れたら、灰色と赤い色の支配下に置かれることもなかっただろう。
灰色の花嫁衣装に不躾な赤い色が飛び散って、紙のように千切れて塵になって、風に乗って……――
「シリル! 朝よ!」
頬に温かいものが触れる感覚とかけられた声に目を開ける。視界いっぱいにあったメリフの顔は、ぼやけた視界でも呆れているのがよくわかる。
「……ああ……早いんですね……」
「何でも屋は夜が遅くて朝が早いのよ。というか、もう八時だから全然、早くないわ」
「……そっか……僕が遅いのか……」
「寝覚めすっきりしないわねえ。早く支度しなさい。みんな待ってるわよ」
その声は
アイレーの手を借りて身支度をしているあいだ、シリルは何度も
「今日はシドニー・グレンジャーは来なかったみたいね」
メリフが少し残念そうに言うので、シリルは首を傾げた。
「そうなんだ……。僕は寝てたからよくわからないけど……」
「あたしたちが見てることに気付いたのかもしれないわ。鋭い人間みたいね」
鏡台の前でアイレーがブラシを通すシリルの髪に触れ、羨ましい毛質だわ、とメリフがつくづくと呟く。シリルの頭髪は線が細くさらさらで、世の婦女子たちが羨む毛質であることは自覚していた。
「……あの、メリフ……。もうひとつ、お願いしたいことがあるんだけど……」
「何かしら」
「テリー・ノーマンを探してもらえないかな。どこにいるか、見当もつかないんだ」
「どんな人?」
「……わからない……」
砂嵐が走るように、頭の中に
「覚えてるのは名前だけなんだ……」
「それだけで探せと言うの?」メリフは呆れた様子で言う。「まあいいわ。いままでだって何度もあったもの」
それはきっとシリルだけではどうにもできない。メリフとロスは、何でも屋として長いと思わせるだけの自信を湛えている。シリルの曖昧な記憶は当てにならず、ふたりが仕入れて来た情報は信用できるだろう。きっと、メリフに頼むのは正しいことだ。
「それじゃ、さっそく行って来るわ」
メリフは颯爽とバルコニーから出て行く。精神力だけでなく、身体能力もシリルとは天と地ほどの差があることは明白だった。シリルは前世から運動ができない。いわゆる運動音痴と言われる部類の人間だった。魔法の存在する世界では運動神経は必要ないのではないかと期待している。
「もう八時なんだ。父様と
「はい。おふたりでお話をされていますよ」
「じゃあ早く行かないといけないね」
この世界で目覚めてから寝てばかりいるような気がする、とシリルは心の中で独り言つ。あれほど不眠に苦しめられていたと言うのに、やはり子どもの体はよく寝るようにできているのだ。
寝室の外ではミラとレオナルドが待っている。おはようの挨拶をすると、これ以上は父と義兄を待たせられないと急いでダイニングへ向かった。
「シリル、昨夜はよく眠れた?」
穏やかなミラの問いかけに、うーん、とシリルは首を捻る。
「どうかな。寝てたからよくわからない」
「そう」
「寝てたからよくわからないなら、よく眠れたんだろ」
レオナルドがおかしそうに言った。確かにそうなのかもしれない、とシリルは頷く。早く寝たのに遅く起きたということは、それだけよく眠っていたということだろう。
《 今日からフランシスの授業ね 》ミラが心の声で語り掛ける。《 いい? 悪いところは見習わないのよ 》
《 わかってるよ。何が悪いことかは自分で判断できるから 》
《 ええ。フランシスはレインの教育法のせいで、ラト家の信用がなかったのよね 》
教育の末に悪役令息になったのだから、良い教師とは言えないのかもしれない。だからアウトロー教師なのか、とシリルはひとりで納得していた。
《 フランシスは向上心があるから、シリルが真剣に学ぼうとすれば応えてくれるはずよ 》
《 魔法も習えるのかな 》
《 もちろん。ラト家は魔法一族だもの 》
《 それは楽しみだな 》
勉強という勉強ができずに散々な成績を取っていたため、中身が不出来となったいま、シリルの頭がどれほど吸収できるかはわからない。少なくとも、ラト伯爵家の子どもとして恥ずかしくないくらいの成績を取らなければならないだろう。
廊下の角を曲がろうとしたところで、シリルは何かにぶつかって躓いた。バランスを失ったシリルにミラとレオナルドが手を伸ばす中、シリルの体を支えたのは廊下の角から出て来たローレンスだった。
「なぜ花台にぶつかるんだ」
ローレンスは呆れた様子だ。花台にぶつかったのは二度目だが、今回も花瓶が入る前だったようで命拾いした。
「そのそそっかしさはどうにかならないのか。花台は撤去しないといけないらしいな」
「すみません……」
ローレンスは溜め息をつきつつシリルの肩を引いて歩き出す。父を待たせているのだろう。
「端を歩くからぶつかるんだ。これだけ広い廊下なのだから、真ん中を歩け」
「使用人たちは仕事をしてるので、邪魔しないようにと思いまして……」
「貴族の屋敷では逆だ。使用人が主人の邪魔になってはならない。修道院では違っただろうが、あくまで自分の身分が上だと忘れないように」
「はい」
屋敷のそこかしこに、掃除をしている使用人を常に見かける。これだけ広い屋敷を綺麗に保つには、掃除は必要不可欠だ。シリルは平民精神で「掃除の邪魔にならないように」と思っていたが、使用人が貴族に「掃除の邪魔なのでどいてください」などと言ってしまえば首が飛ぶ。そう考えると、認識を改めなければならないことを思い知った。
「きみはラト伯爵家の正当な跡取り。いずれこの屋敷の頂点に立つのだから」
「…………」
「……何十年も先のことだ」
ローレンスがどこか慌てたように言うので、自分はよほど渋い顔をしていたらしい、とシリルは考える。将来的に爵位を継がなければならないことにいまはまだ実感がなく、それでも重責であることだけははっきりとわかる。平民精神が抜けていないのだから、渋い顔にもなるというものである。
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