第2章【4】
何か温かいものが、じわじわと体内に流れ込んでくる。溶けていくような感覚に薄く瞼を持ち上げると、薄暗いランプの光の中に浮かび上がる影があった。ふ、と小さく笑う気配とともに、温かいものが離れていく。
「よく眠っていたな」
それは、もう何度も聞いている声。ずっと前からそばにある人影。
「なあ、シリル。僕との約束を覚えているか?」
「……わからない……」
ぼんやりしたまま答えると、温かい指がするりと頬を撫でる。
「僕は……どうすればいいの……?」
「どうもしなくていい。僕に任せてくれればいいんだ。お前は何もしなくていい」
「…………」
何もわからないのに、よりわからなくなる。答えを知ったところで、きっとよくわからないのだろう。
「いいか、シリル。誰にも触れられてはいけない。誰にも触れさせてはならないよ」
「…………」
「お前に触れていいのは僕だけだ。それだけは忘れるんじゃないぞ」
何も答えられない。よくわからないのだから、答えられるはずがない。
「そろそろ起きたほうがいい。彼らが待ってるんじゃないか?」
「彼らって……誰?」
「お前にわからないなら僕にもわからないよ」
優しい声とともに、重さの離れたベッドが小さく揺れる。撫でられた前髪がさらりと流れた。
「けれど、それでいい。何も考える必要はない。ただ、僕の言うことだけを聞いてくれればいい」
「……うん……大丈夫」
小さく頷くのを合図に、人影は離れて行く。すっかり暗くなったカーテンの向こう。きっと星が瞬いているのだろう。そうだとしても、煌めきは遠退いていく。手の届かない場所で、きっと、消えていくのだろう。
――……
「ああ、憎たらしい。これじゃ届かないじゃないか!」
蹴飛ばした赤色のスツールが、窓を突き破って奈落に堕ちていく。あれはもう用無しだ。わざわざ取り戻しに行く必要はない。
「どうか落ち着いてくださいませ」
赤の執事が呆れて溜め息を落とす。ひとつ舌を打ち、どかっとソファに腰を下ろした。どうにも苛立ちが抑えられない。
「物に当たったところで、何も解決にはなりません」
「ああ、落ち着いてなんていられないよ。どうしてこうも邪魔が入るんだ」
物事が上手く運ばないだけで
「落ち着いてくださいませ。時間だけはたっぷりあるのですから」
「そうとは限らない」
冷徹な騎士がにやりと笑った。こんなときによくもそんなふうに微笑めたものだ。
「時間はあるかもしれませんが、時間はないのかもしれません」
「焦っても仕方がありませんわ」
赤いドレスの侍女が、頬に手を当てて愛らしく言う。実に憎たらしい表情だ。
「どうせ何もできやしません」
「ああ……僕はただそばにいたいだけなのに。この手の内に収めたいだけなのに」
「まだ焦る必要はありませんわ。もう運命は決められているのですもの」
「ああ、そうだね。僕らの運命は決まっているんだ」
だと言うのに、まだこんなに遠い。手の届くうちにこの手の内に収めなければ。降り積もる灰色に冒される前に。その涙を掬えるうちに。この手が届くうちに。
――……
深いようで浅い眠りから覚め、ぼんやりとランプの光を見つめる。いつの間に眠ってしまっていたのだろう。いつどこで寝て、どうやって寝室に来たのか。何ひとつとして覚えていない。
ノックの音に、どうぞ、と応えると、ローレンスが部屋に入って来た。ぱちりと室内灯を
「よく眠っていたな。そろそろ夕食だ」
「はい。勉強しなくちゃいけないのに、居眠りしてしまいました」
ベッドから立ち上がるシリルに、ローレンスは小さく肩をすくめる。
「新しい生活にまだ慣れていなくて疲れたんだろう。無理はしなくていい。すぐ慣れろとは言わない。平民と貴族では、あまりに生活の差がありすぎるからな」
「はい」
ローレンスに促されて寝室を出る。肩に添えられた手は優しかった。
「いくらでも僕を頼ってもらって構わない。僕たちは兄弟になったんだからな」
「はい。ありがとうございます、
ローレンスは「クール担当」というだけで、本当は心優しい青年なのだとシリルは考えていた。冷静な面がクールと言われて、
寝室の外に控えていたミラとアイレーと合流し、ダイニングに向かう。その途中、シリルは不意に何かに足を引っ掛けて躓いた。ローレンスが咄嗟に手を伸ばし、シリルの体を支える。シリルがぶつかったのは花台だった。
「なぜそんな大きな物にぶつかるんだ」
「すみません……避けたつもりだったんですけど……」
「花瓶が置いてなくてよかったな」
ラト伯爵邸には、各所に花が飾られている。この花台には、明日の朝にでも花が飾られる物だったのだろう。花瓶が置かれていれば、使用人の仕事を増やすところだった。
「おいおい、大丈夫か?」
軽い口調で言いながら、青年騎士が正面から歩いて来る。この人物に、シリルは見覚えがあった。
(この人は……レオナルド・ベイルマンだ)
それは、攻略対象「俺様」担当の騎士見習いだ。ミラとともにシリルの護衛騎士を担っているが、父親がラト家の騎士団長で、度々用事に呼ばれるためシリルのそばにいないこともある。
「レオナルドさん」
「よせよ。レオでいい」
レオナルドは、引っ込み思案な主人公に少々強引に迫る。その強気な性格に惹かれるプレイヤーは多く、ローレンスに次ぐ人気だった。シリルの記憶が正しければ、ローレンスと同い年だ。
「ラト家での暮らしはどうだ?」
「とてもよくしてもらってます」
「困ったことがあったらなんでも頼ってくれよ。ローレンスの
「お前のようなチャラついた兄はシリルには要らない」
ローレンスが少しとげのある声で言うと、レオナルドは呆れたように笑いながら肩をすくめた。
「固いこと言うなよ。シリルが過ごしやすくするためだろ」
ローレンスが冷ややかな顔になるのに対し、レオナルドはそれにも慣れている様子で笑っている。シリルは首を傾げつつミラに語り掛けた。
《 このふたりって仲悪かったっけ 》
《 そんなことはなかったと思うけど……。見ての通り、子どもの頃からの付き合いだし。
《 そういうものかな 》
ローレンスとレオナルドは、正反対の性格をしている。ゲームでは特に不仲という印象はなく、王立魔道学院でも同級生になる。生徒会でも顔を合わせているし、ミラの言う通り、良好な仲を築けそうな間柄だ。
「あっ、いた!」
明るい声が聞こえて振り向くと、ショートヘアの少女が駆け寄って来る。レオナルド・ベイルマンの妹のエレオノーラ・ベイルマンだ。エレオノーラはレオナルドに対し、きつく眉を吊り上げる。
「どこほっつき歩いてたのよ! 少しはミラを見習ったらどうなの?」
廊下で正面から向かって来たということは、レオナルドはシリルの寝室の近くにはいなかったのだ。寝室の前で待っていたミラとアイレーに比べれば、不真面目とも言えるかもしれない。
「お前まで固いこと言うなよ。俺だっていろいろあるんだ」
「もう……。シリル、直接に会うのは初めてね」
エレオノーラがシリルに微笑みかける。シリルはエレオノーラのことを知っているが、こうしてラト伯爵邸で顔を合わせるのは初めてだ。
「あたしはエレオノーラ・ベイルマン。エレと呼んで」
「うん。よろしく、エレ」
「困ったことがあったらなんでも相談してね」
「うん、ありがとう」
少々軽い性格をしている兄レオナルドに対し、妹のエレオノーラのほうがしっかりしているように見える。シリルの記憶が正しければ、エレオノーラはシリルと同い年で、王立魔道学院でも同級生になる。
《 エレには積極的に頼るといいわ 》ミラが心に語り掛ける。《 お助けキャラだから、力になってくれるわよ 》
《 わかった 》
エレオノーラは
明るく笑って去るエレオノーラと別れてダイニングへ行くと、アイザックはすでにテーブルに着いてワインを嗜んでいた。
「お待たせしてすみません」
急いで座ろうとしたシリルは、椅子の脚に自分の足をぶつけて顔をしかめる。痛みが骨に響くほどの勢いだ。
「そそっかしいやつだ」ローレンスが呆れて言う。「猫背でいるからぶつかるんだ。背筋を伸ばせ」
「はい……」
「ダンスレッスンを受けるようになれば姿勢も良くなるさ」
アイザックが朗らかに微笑むので、シリルは曖昧に頷きつつ椅子に腰を下ろした。
「僕はいつから社交界に出るようになるんですか?」
「王立魔道学院に入学してからで構わない。五歳で考えることではないさ」
「そうですか……」
「そんなに心配ばかりする必要はない。焦らなくていいんだ。お前のペースでやるといい」
アイザックの落ち着いた声は、シリルを安心させてくれる。先日まで平民として暮らしていたシリルは、フローリア・ラト伯爵夫人の子であるという確証はない。フローリア・ラト伯爵夫人はすでに亡くなっており、シリルがその子どもであると確かめる術がないのだ。それでも、自分の子どもとして、アイザックはシリルを愛そうとしてくれている。父親として、それを当然であると考えているのだ。
「社交界に出すためにお前を引き取ったわけではないからな」
「はい……。少なくとも、ラト伯爵家にとって恥ずかしい人間にはならないようにします」
「お前はまだ五歳なのだから、自分の好きなようにやっていいんだぞ」
――そんなことをしてなんになる。
不意にそんな声が聞こえたような気がした。ゾッと背筋が凍り、咄嗟に俯く。あの頃の感情がまだ心の底で
――時間の無駄だ。
――がっかりさせないでくれ。
捨てることができたはずのものが、自分の中にまだ重くのさばっているのを感じる。捨てて来たはずのものが、まだ肩に圧し掛かっている。まるで、取り憑かれたように。
「シリル?」
ローレンスが呼ぶ声でハッと顔を上げる。シリルを見つめる二対の双眸が、案ずるような、はたまた励ますような色を湛えていた。
「明日から新しい家庭教師が来る」と、アイザック。「いまは、ゆっくり学んでいけばいい」
「はい……。ありがとうございます」
自分のペースで、自分の好きなように。そんなことが許される自由は、手の届かない幻想だった。搾取に圧倒されても耐えるしかなかった。そんな苦さを捨てることのできる日は来るのだろうか。あの暴力的な正義から解放される日が来ることはあるのだろうか。残された痛みと消えない苦しみが足を引っ張って、黒い沼が手招きしているような夢を、振り切ることが可能なのだろうか。それはきっとシリルが証明してくれる。シリルの日々にかかっている。それはおそらく、不可能ではないのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます