第2章【3】
秘め事のような話し声にゆっくりと目を開くと、視界にふたりの人影があった。よく杖から頬が落ちなかったものだと感心しながら顔を上げる。窓の外はすっかり夕暮れだ。シリルの覚醒に気付いて話すのをやめたふたりが、軽く姿勢を正すのがわかった。
「おはよう。随分とよく寝ていたわね」
その張りのある可愛らしい声には聞き覚えがある。ニコルと話していた声だ。
「あたしたちが誰だかわかる?」
「……何でも屋のロスとメリフ……」
見上げるほどに長身の男性ロスと、ポニーテールの少女メリフ。何でも屋
「本当に感覚共有してるのね。じゃあ、あたしたちがなんの依頼を受けたかわかる?」
「……わからない……」
ぼんやりした頭は上手く回らず、シリルは自信を失くして俯く。呆れられるのではないかと構えたが、ふうん、と呟くメリフは平然としていた。
「肝心なところが聞き取れなかったのね。まあいいわ。改めて確認しておきましょ。依頼主はあなたなんだし」
メリフは感覚共有の曖昧さを知っているのかもしれない。そう考えつつ、シリルは申し訳なさとともに小さく頷く。
「ニコルから聞いた依頼は、シドニー・グレンジャーの身辺調査よ。彼が何者なのか調べるのがあたしたちの任務になったわ」
「そう……」
「あなたはどう考えてるの?」
「……わからない……」
寝起きの頭はいつも回転が鈍い。ニコルがシリルの頭の中をそのまま話せたらよかったのだが、そもそもこの頭に考える力など期待できない。ニコルがそう問われていたとしても、おそらく答えることはできなかっただろう。
「では、シドニー・グレンジャーはどんな人間だ」
低温の落ち着いた声が言う。少々厳しさを感じさせるロスの気配に、シリルはきつく手を結んだ。まともに答えることができたなら、この緊張も必要なかっただろう。だが、そんなことは考えたところで意味がない。
「わかりません……。朝、起きると必ず居る、ということくらいしか……」
「必ず居る?」と、メリフ。「どこに?」
「えっと……寝室……」
「いつも居るのにどんな人かわからないの?」
「うーん……どうかな……」
今朝は何を話しただろうか。そもそも、あの人影は本当にシドニー・グレンジャーだったのだろうか。顔がよく見えないのに、どうやって判断したのだろう。考えれば考えるほど、シリルにはよくわからなくなっていく。
「シドニーは、昔からそばにいる……それくらいしかわからない……」
依頼主なのに不甲斐ない。そう思ってみたところで、シリルにはこれ以上はどうすることもできない。自分が役立たずであることはとうに承知している。だから、俯くことしかできない。
「まあいいわ。それはあたしたちがこれから調査するから」
「うん……ごめんなさい」
「いいのよ。ゼロから調査を始めるのは慣れてるわ」
メリフとロスから感じるのは、確かな自信だ。頭のぼんやりしたシリルから聞き出した曖昧な言葉より、自分たちで集めて来た情報のほうが格段に当てになるだろう。彼らはそうやって生きて来たのだ。シリルには、暖炉の利いた部屋でいつの間にか居眠りしていた自分とは別格に感じられた。ぼやけた頭で導き出した答えの中で、それはおそらく、最も正しいのだろう。
* * *
ミラがサロンに入って行くと、シリルはひとり掛けソファに深くもたれて居眠りしていた。軽く頬に触れてみても反応はない。深く眠っている様子だ。
(いま、誰かと話してなかった……?)
室内を見回してみても、シリルひとりしかいない。確かにシリルの話し声が聞こえた。また独り言だろうか、と考えてみても、どうにも話し声だったように思う。しかし、確かにシリルは以前から独り言が多かった。紫音の魂が覚醒したことによってなくなるかと思っていたが、シリルが五歳の子どもであると考えれば、独り言を呟くのは決しておかしなことではない。
「レオナルド。シリルを寝室に運んであげてくれる?」
「ああ」
後ろにいた金髪の青年騎士――レオナルドに言いながら、ミラはさらに室内を見回す。その視線はテーブルに留まった。
(ティーカップが三人分ある……。アイレーかトラインかしら)
トラインは日暮れ前から執務室で仕事をしており、アイレーは先ほど、シリルの寝室に衣類を片付けに行く姿を見かけた。そもそも、シリルがひとりきりになる状況が不自然である。であれば、ミラが離れているあいだに何者かがシリルに接触していた可能性が高くなるだろう。
レオナルドが抱え上げても、シリルは目を覚まさない。よほど深く眠っているらしい。ミラはシリルの話し声に気付いてすぐサロンに入って来た。そのつもりでいたが、たった一瞬でこれほど深い眠りに就くとは考えづらい。シリルは嘘をつけず、狸寝入りはすぐに発覚する。自然に眠っているところを見ると、ミラが話し声に気付いた瞬間と何者かがいなくなったタイミングには差異があったらしい。
シリルの寝室に行くレオナルドについて行くと、ちょうどアイレーがシリルの寝室から出て来るところだった。アイレーはレオナルドに抱えられたシリルに気付くと、あら、と頬を緩ませる。
「本格的に眠ってしまわれたのですね」
「サロンは暖かいからな」と、レオナルド。「子どもはよく寝るようにできてる」
「アイレー、ちょっといい?」
ミラの呼びかけに、アイレーはきょとんと目を丸くした。
「なんでしょう?」
「さっき、シリルのところに誰かいた?」
「サロンで、ですか?」
「ええ」
「私は存じ上げません。うたた寝されていたので、夕食までそっとして差し上げようと思って、そのままです」
「ティーカップが三人分、用意されていたわ」
「うーん……私は洗濯物を片付けておりましたし……。トラインではありませんか?」
「そう……。わかった、訊いてみるわ」
アイレーは柔らかく微笑み、淑やかに辞儀をして去って行く。嘘はついていないように見えるが、アイレーは貴族に仕えるようになってから長い。ミラがシリルとともに修道院で暮らしていた頃からラト伯爵家で侍女見習いとして働いていた。貴族同様、表情から内心を覗かれないようにする術は身に付けているだろう。
(アイレーがダメだとしたら、トラインなんてもっと見抜けないけど……。ま、ダメ元で行ってみましょ)
トラインの執務室はシリルの寝室の近くにある。屋敷全体を管理する執事ジェスターの弟子のような存在で、その後継となるため、シリル付きの執事を担って修行をしているのだ。
(私とレオナルドが離れたタイミングでアイレーとトラインも外すなんて、護衛という点ではあり得ない……。けど、シリルに誰かが接触したことを隠すためだとしたら?)
そばにいなければ「いなかったので知らない」で通せる。しかし、シリルを預けられる信用のある人間でなければ、アイレーとトラインが接触を許すはずがない。その条件を突破し、尚且つ、シリルと接触したことを隠さなければならない人物。ミラには、何ひとつとして心当たりがなかった。
トラインの執務室のドアをノックすると、どうぞ、と落ち着いた声が応える。トラインは書類の整理をしていた。
「ミラ。どうしましたか?」
「さっき、シリルのところに誰かいなかった?」
「サロンですか?」
「ええ」
「私は存じ上げません。うたた寝してらっしゃるのはお見掛けしましたが……」
「ティーカップが三人分、用意してあったわ」
「私はずっとここにおりましたもので……。ジェスターなら何か知っているのではないでしょうか」
「そう……」
トラインはアイレー以上の難関だ。この涼しい顔は、喜怒哀楽に「無」を加えてほしいほどだと思わせる。ミラより年上ではあるが、ラト伯爵家における肩書は「執事見習い」である。だというのにこの壁だ。末恐ろしい存在である。
「そもそも、どうしてシリルはひとりでいたの?」
ミラの問いに、トラインは怪訝な表情になりつつ眼鏡を上げた。
「誰もおりませんでしたか?」
「ええ。ひとりだったわ」
「そのはずはありません。旦那様から、シリル様をおひとりにしないよう仰せつかっております。ミラがサロンへ行ったとき、ちょうど誰もいなかったということでしょう」
「……わかった。ジェスターに訊いてみるわ」
「はい」
トラインの執務室をあとにし、これで手詰まりだ、とミラは溜め息を落とす。アイレーとトラインを突破できなかったのでは、ジェスターは魔王以上の存在だ。難攻不落と言っていい。それはこの数日でよくわかっている。
(貴族は隠し事の世界と言うけど……シリルのことまで隠されると思ってなかった。私はまだ信用がないってことね)
また溜め息が落ちる。せめてシリル付きの侍女になるのだった、という後悔は、すでに遅すぎるというものである。
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