冷たいものを〈ショートショート〉
川端 春蔵
冷たいものを
「課長、よくもまあ、この寒いのに、そんな冷たいものが飲めますねえ」
私が冷えたペットボトルに入っている清涼飲料を口に運んでいると、声を掛けてきたのは、私の左斜め前の席に座っている係長だった。
私より10歳年上で大先輩なのに、自分が課長になれないことを根に持っているのだろう。先輩を立てるつもりで、仕事のミス以外では強く注意しないのをいいことに、何かと私に突っかかってくる。この季節に冷たいものを口にすることにツッコミを入れてくるのは、もう何度目だろう。私は苦笑いをして適当に応じた。
「いえいえ、寒いときほど水分補給は大事ですよ」
右斜めの前に座している女性係長が応援してくれた。彼女は30代前半で、この経理課においてもっとも有能な存在だ。
「でも、わざわざ冷たいものを選ぶことはないじゃないか。昼飯も温めていないコンビニ弁当だったし」
「それはレジが混むからっておっしゃっていたでしょう?。第一、何を召し上がろうと課長のご自由じゃないですか」
ふたりの相性はいいとはいえない。係長が彼女の能力を妬んでいるところも拍車をかけている。
「まあまあ、ふたりとも」
私はふたりを軽くいなした。これ以上険悪な雰囲気になってしまったら、他の課員まで嫌な空気が漂うなかで仕事をしなくてはいけない。課を預かる者としてそれだけは避けなくてはならない。
「いいですよ。課長はお若いってことで。どうせ私は老いぼれ係長ですから、課長のようにはどうもね。腹を下されても、風邪を引かれても、私は知りませんけどね」
係長がニヤニヤしながら席を立って部屋を出て行った。彼の言葉を受け流すのにはすでに慣れている。
きっと、タバコ休憩だろう。一度席を立つと20分は帰ってこない。
そろそろ、彼の処遇を人事が判断する頃合いだろうと私は思う。
現在は他部署の部長を務める、元上司に頼まれて、彼が経理課にきて1年が経とうとしているが、改善の様子は見られない。彼の居ない場所で、経理課員にはフォローを入れているが、職場の士気に関わっているのはあきらかだ。
すでに元上司には、係長を戦力外と人事に伝えていることは話してある。これは、彼を受け入れる際に私が出した、ただひとつの条件でもあった。
私は女性係長の名前を呼んだ。
振り向いた彼女に礼を言った。他の課員にも聞こえるように。さっきから仏頂面をしていた彼女の表情がほぐれた。
たしかに私は冷たいものや冷えたものを好む。
暑い夏場は当然のこととして、寒い季節でも同じだ。気のせいかも知れないが頭が冴える気がするのだ。
机の上に置いていたスマホが震えた。手に取ってみると妻からのメールだった。
--ちょっと調子が悪いみたい。薬を飲んで寝るから、夕食は外か家なら適当に作って食べて。ごめんね。
そういえば、今朝、家を出るとき、妻の顔にいつもより赤みが差していた気がする。そのときにはもう体調を崩していたのかも知れない。もう少し注意深く見ておくべきだった。
ふたりの子は社会人と大学生になり、家を出ている。これからは夫婦ふたりで支え合っていかなければならないのに。
妻は専業主婦だが、主に休みの日に家事を手伝うと意外に重労働であることがわかる。妻にも休養は必要だ。
--わかった。大事にして。夜はインスタントラーメンでも作って食べるから、何も心配しないでいいよ。
終業時間になった。
真っ先に退社するのは係長だ。忙しい時期ではないので、他の課員も挨拶をして部屋を出て行く。私は書類のチェックを済ませると、彼らより一時間少し遅れて退社をした。
会社の外に出ると、他のビルから出てきた人々と同様に駅まで向かった。
コートを着ているのに身体に鋭い冷気が忍び込んでくる。吐く息も白い。電車に乗り、最寄駅に着くと近くのドラッグストアで妻用に栄養ドリンクを買った。
自宅に着くと、着替えて寝室へ向かった。
「ただいま。大丈夫?」
「おかえり。ごめんなさいね」
妻の顔は朝よりも、あきらかに赤みを帯びていた。
「ゆっくり休んでよ。よかったら、これ」
「あっ、ありがとう」
妻は渡した栄養ドリンクを両手で包んだ。
私はインスタントラーメンを作ることにした。妻にも「食べる?」と訊ねたが、今は栄養ドリンクだけでいいという答えだった。ラーメンならいつでも作れる。妻が食べたいときに私が作ればいい。
鍋に湯を沸かして麺を入れ、頃合いを見計らって丼に移して、その上に、冷蔵庫にあった葱とメンマとチャーシューを乗せた。
テーブルへ運び、湯気がもうもうと立ち上るどんぶりを前に、私はラーメンが冷めるのをじーっと待った。
私が冷たいものを好むのには、もうひとつ理由がある。それは、熱いものが食べられない猫舌だからだ。このことは妻しか知らない。(了)
冷たいものを〈ショートショート〉 川端 春蔵 @haruzou_999
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