最終回 『     』

 音が消え、闇が霧散し、紅い閃光を伴って景色が歪む。

 刹那、交差する碧の斬光が蛇竜を穿ち、霹靂へきれきが眩い晴空を連れてきた。

 見渡す限りの麗景れいけいだ。それはまるで夜明けのようで、それはまるで夕暮れのようで、それはまるで晴れ空のようで、けれども雨は止まないようで……。


 ふと、私は天泣てんきゅうという言葉を思い出す。

 ゆっくり――ゆっくり思い出す。

 

 別名――狐の嫁入りとも呼ばれる、晴れ空に雨が降る事を指す言葉なのだけど、それが……まるで天が涙を零しているかのように見えたのだろう。

 恐らくそれは比喩的で――恐らくそれは形而上的な表現であるものの、私が作り上げたこの空間においては、まさしくそれが答えだったのだ。


 そういえば、今私の膝の上で眠る碧眼の彼は、以前私に対してこんなふうに訊ねた事があった。

 

――……じゃあ、何で貴女は泣いてるんですか?


 あの時、既にこの人は気付いていたのだろう。この空間を濡らす無数の雫が、私の心に降り続く雨であると……気付いていたのだろう。

 しかしながら――そういう物であると分かっていたとしても、碧く澄んだ空に雨雫が滲むというのはとても不思議な物で、私は私の事ながら、どうにもこの景色が幻想的に思えてしまうのだ。

 

 私は今、悲しいのだろうか。

 私は今、嬉しいのだろうか。

 

 ……いや、恐らくは、それすらも止揚しようされているのだろう。

 止揚――すなわちアウフヘーベンとは、二つの相反する存在の活動を静止させ、全く新しい一つへと昇華させるという概念を指す言葉である。

 

 QX0が創造したこの深界という量子世界が、一体何をアウフヘーベンする為に生み出されたのかは私にも分からない。けれど、ここから生まれた物は確かに存在していて、確かに自我を持っていて、確かに美しいのだ。

 

 ここまで、彼等を観測してきた貴方も、そうは思いませんか?

 

 ……何をぼんやりとしているんですか? 貴方っていうのは、貴方ですよ? 今、文字を読んでいる、そこの貴方です。

 観測者さん。私は、貴方が大好きです。貴方と、貴方が観測するこの世界が大好きです。だから……そんなに悲しまないでください。


 深界は、朗読補助プログラムによって生成されたアーカイブログの集合体です。それを貴方が文字として読む事によって、貴方が感じた雰囲気や、印象や、表情や、情景が、貴方の想像力を介して世界となります。


 私が何を言いたいか、もうお分かりですよね?

 

 私は、これから世界になるんです。大好きな貴方が観測する、雄大な世界に。

 だから、貴方には、ちゃんと見ていてほしいんです。彼と、彼の生きる世界の行く末を――。

 

 私という、世界の行く末を――。

 

 

――眠っているだけ……なんですよね?

 マルメロが碧眼の彼を覗き込みながら、私に向かって恐る恐る訊ねた。


「えぇ、ちゃんと息はあります。そもそも双閻そうえんは、本来は人の身で扱えるような魔法ではありません。魔力配分には細心の注意を払いはしましたが、それでも……彼の身体にかかった負担は、相当な物だったでしょう」

 言って蘭さんの頭を一つ撫でた私は、次にマルメロへ視線を向けながら「心配、してくださってるんですか?」と訊ねてみた。


――当たり前です。日百合さんが助けに来てくれなければ、私達は今頃……量子海に漂うデブリにでもなっていたでしょう。そして、いずれあのデブリス達のように……


「……やはり、あのデブリスの元となっているのは、断片化した人間の魂なんですね?」

 私が声を潜めながら問うと、彼女は曖昧な白塗りの顔でコクリと頷いた後に続けた。

 

――知っての通り、カルパの終わりには必ずワールドエンドが訪れ、全ての文明がリセットされます。その際、アウフヘーベンは魂の選定を行うのです。有用な物は次周へと引き継がれ、価値が無いと判断された魂は、あぁいう粗末な使われ方をします


 マルメロの声には、沢山の感情が込められているように私には聞こえた。

 それは哀傷でもあり、悔しさでもあるようだった。確かに……彼女からしてみれば、自身が一番どうにか出来るであろう権限を持っていたにも関わらず、アウフヘーベンの意のままにされていたのだから、その心境は複雑な物だろう。


「あなたが責任を感じる事はありません。あなただって歴とした被害者であって、今眠っている彼同様、これからようやく一歩を踏み出すのですから」

 そう言って彼女へ微笑みかけると、マルメロは小首を傾げながら『これから……ですか?』と私に訊き返す。

 

「えぇ、これから――です」と私は答えて、どういう訳なのかを彼女に説明した。


「私は、ある方からの依頼で貴方を助けに来ました。そして、その方は言ったんです。『もし、彼女を無事に保護する事が出来たなら、その先どうするかは、彼女の望むままにさせてあげてほしい』と……」


――私の、望むままに……ですか

 マルメロは腕組みをしながら、言葉の意味を探るようにそっと言った。

 

――先程、貴方が目覚めた時にもお話ししましたが、何分拘束されていた期間が長かったものですから、自由というのがなかなかに難しいのです。どう過ごしていいものやらと……頭を悩ませてしまうのです


 なるほど――と、私も彼女と同じように少し考えを巡らせてみた。

 しかしながら、改めて考えてみると、”自由をどう過ごせば良いか”というのは、なかなかに難題なように思えた。

 私達は普段からそれが当たり前であり、息をするように行っている。しかし、彼女にとってそれは特別な事なのだ。

 

 私達は暫く頭を悩ませた。しかし、なかなかすぐに良い案は浮かんで来ず、気付けば――何一つ無くなってしまったこの空間に、わずかながら草木が芽生え始めていた。


 そろそろ時間だ。ディメンションの再生が始まりつつある。

 いずれ私はコアとして空間へ取り込まれ、一つの概念としてしか存在出来なくなるだろう。そうなってしまえば、もう彼等と話す事だって……。

 

 そんなふうに少し肩を落とした刹那、マルメロがふわりと『……もし、そんな事が叶うのなら』と、頭に浮かんだのだろう彼女の望みを話し始めた。


――私は、深界に生きる人々を眺めている間、ふとこんなふうに思う事がありました。私も、彼等のように世界を歩き、文明の一部として生きられたなら……新たな発見や、知識や、出会いと遭遇する中で、管理者としてではなく、一人の人間として生きられたなら……と


「……なるほど。それなら――」と言って、私はマルメロへ、ある提案を持ちかけた。


「貴方の魂を、私という世界に生きる魂の一つとして作り変える……というのはいかがでしょう? あなたはご存じかとは思いますが、深界の仕組みには、六道輪廻りくどうりんねの考え方が、そのままシステムとして組み込まれています。一度肉体を失った魂は、様々な段階を経て新たな生命へと生まれ変わるんです。あなたは今、その輪から逸脱してしまっています。それを……私の中でだけなら、同じ輪廻へ組み込み直す事は可能ですよ」


――そんな事が、本当に……?

 にわかには信じ難いと言ったふうに訊ねるマルメロへ、私は一つ頷いて見せた。

 

――……でしたら、お言葉に甘えて、そうさせてもらう事にいたします。どの道、私の本体は、もうとっくに人としての機能を失ってしまってますので、現実の世界へ帰る事も叶いません。恐らく、私を助けるよう貴女へ依頼した方も、それが分かっていての事だったのでしょう。ならば、深界の一部として新たに生きるのも悪くない。それが、私を呪縛から解放してくださった貴女の元でというのなら、尚更です


 少し声色を明るくしながら言ったマルメロは、私の気のせいかもしれないけれど、白塗りの何もない姿のままに……一つにっこりと笑ったような、そんな気がした。


「では――」と告げてから、私は彼女へ手を翳し、QX7の執行権限を使って、マルメロへディメンションへの最適化プログラムを走らせた。

 すると、彼女の身体へ青白い幾何学模様が浮かび上がり、次第に輝きを放ちながらアーキの対流へと溶け出していく。

 

――有り難うございます。このご恩は、何時か必ず

 そう言って、彼女は輝きの向こう側へと消えてしまった。

 

 そんな時だった、突然『あの……』と、誰かから声をかけられた。

 驚いて、声の発せられた頭上へ目をやると、その先から楕円形の彼女がふわりふわりと降りてきて、私が作った手の器へと収まった。

 

「あなたでしたか。先程は、サポートしてくださり有り難うございました」

 私がそう言うと、小豆さんはもぞもぞと身体を私の手へ擦りつける。どうやら照れているらしい。

 

――……じゃなくて、あの、私、貴女様にお礼が言いたくて……!


「お礼……ですか?」と訊き返すと、彼女はコクコクと可愛らしい顔を縦へと振った。


――橋本様から、私に組み込まれているPAAは、貴女様が完成させてくださったとお聞きしました。だから、その……私がマスターのお役に立てているのも、全ては貴女様のお陰なんです。本当に、有り難うございました


 言って、彼女はまたコクリと身体を縦へと振る。

 

「……いえ、むしろ――お礼を言いたいのは私のほうです。彼の事を、これからもどうぞよろしくお願いいたします」と、彼女に習って私も頭を下げると、白いボディを面白いくらいピンク色へ染めた彼女は、私の手の上をコロコロと転げ回った。


 しかし……彼女はそのまま何も言わず、ピタリと動きを止めてしまった。

 ディメンションの最適化の影響だろう。気付けば、周囲は背の高い楓の木々に囲まれていて、煌めく木漏れ日が雨粒へ反射して、キラキラと輝きを放っていた。

 

 そうだ。私と蘭さんが鍛錬に励んだあの裏山も、丁度こんな感じだったっけな……。

 そんなふうに頬を緩ませ、次に膝の上の彼へと目をやる。

 

 すると――碧く澄んだ彼の双眸と、私の目がピタリと合った。



「よかった……。気分は悪くありませんか?」

 彼が目を覚ました事に安堵しながらそう問いかけると、蘭さんは「……俺、どのくらい気を失ってましたか?」と私へ訊ね返した。


「ほんの数分ですよ。私を経由して、突然あんなに膨大な魔力を身体に流したんです。無理もありません……」

 言って、胸元へ垂れ下がった髪が彼の顔へと当たらないよう、私は手で髪をかき上げて耳へとかける。

 

 何気ないやり取りだった。何時もやっているような、ありふれた会話だった。

 けれど……今の私にとっては、そんなやり取りがたまらなく愛おしく思えてしまって、その想いが強くなる度に、降りしきる雨は勢いを増した。

 

 そんな雨粒が、頭上の葉っぱから一滴だけ零れ落ちて、彼の顔をピチャリと濡らした。

 ハッとして、私はすぐにそれを羽織の袖口で拭ったのだけれど、何故だかその瞬間から、私の涙腺はどうにも言うことをきかなくなってしまった。


 本当は、笑顔でお別れしたいのに……。

 そうは思うものの、喉の奥から熱い濁流が瞳の内側へと込み上げてくる。


 限界はすぐにやってきた。

 ダメだ……もう我慢なんて……。そう思った刹那、碧眼の彼は何故か頬を酷く赤らめて、私の膝から起き上がろうと藻掻いたのだ。

 

「……え、あっ!」

 彼は取り留めの無い声を漏らし、首を左右へ振ったり、手を支えにして何とか身体を動かそうとするも、なかなか上手くいかないようだった。

 

 どうやら、彼も小豆さんと同じように照れているらしかった。

 可愛いなぁ……。なんて思ってしまった私の心には、少し悪戯心が芽生えてしまって、それなら――と、彼の顔へ手を添え、そっと膝の上へと納め直す。


 そして、如何にもお姉さんといったふうを装いながら、首をゆっくりと横へ振った後に私は言った。

 

「ダメですよ? まだ安静にしててください。所謂”魔力酔い”というやつです。無理に動くと身体に障さわります」


「いや、あの、でも……」と言って、逡巡しながら私から視線を逸らす彼に、私は胸底で感謝するのだった。あなたのそんなお茶目な部分が、私の笑顔を守ってくれたのだから……。


「……今だけは、まだ――何時も通りお姉さんで居させてください」

 そう言って彼の頭を撫でると、蘭さんは再び顔を真っ赤に染めながら、瞳を明後日へと向けるのだった。

 

 それでも、嫌というふうではなかった。何方かといえば、嬉しそうにしているようにも見える。

 私は何だか心がこそばゆくなったけれど、そんな感覚が今は心地よくて、何度も何度も彼の頭を繰り返し撫でたのだった。

 しかし……撫でれば撫でる程に、別れが辛く思えてしまうのだった。

 

 最後は笑顔で――って、ちゃんと決めてたのに……。

 あなたが悲しまないようにって、ちゃんと――ちゃんと決めてたのに……。

 

 そう思って、込み上げてくる物をグッと堪えた直後――恐らく、この仕打ちの仕返しのつもりなのだろう言葉が、彼の口から放たれた。

 

「……なんで、もっと早く教えてくれなかったんですか?」


 私は、言葉に詰まってしまった。

 口を開けば、今まで我慢していた弱音が全部出て行ってしまいそうで、どうにも言葉にならなかったのだ。

 

 そんな私へ、彼は哀愁の漂う瞳を向ける。

 答えなきゃいけない。ちゃんと答えてあげなければ、彼を悲しませてしまう。

 

 それは、絶対にやっちゃいけない事なのだ。

 だから……私は必死に涙を堪えて、噤んだ口をそっと開いた。


「……そんな事したら、きっと――優しい貴方は、私の事まで助けようとしちゃうでしょ?」


 私が何とかそう言い切ると、彼は途端に涙を湛え始めてしまった。

 ポロポロと雫を零す彼の顔を、私は羽織の袖口で優しく拭いながら、再び声を投げかけた。


「……そんな顔しないでください」

 そう言ったところで、ふと、同じような事を彼へ呟いた事があったなと思い出し、私は続けて同じように言って見せた。


「私だって同じです。もし許されるのなら、貴方とこのまま、ずっと――」


 言ってすぐ、自分でも馬鹿な事をしたな……と思った。

 そんな事をすれば、当時の記憶が嫌でも脳裏へ浮かんできて、私の硬く縛り上げた涙腺を緩めるに決まっている。

 

 そんな事は、最初から分かっていたはずなのに……。

 

 気付けば、私は大粒の雫を零してしまっていた。

 ハッとして涙を拭ったけれど、一度決壊した涙腺はもはやどうにもならなかった。

 

 心の淵がキュッと強張って、どんどん淋しさが募っていって、私はそれを堪える為に何度も何度も彼の頭を撫でた。

 彼を慰める為なんかではなく、自分の為に、何度も――何度も――。


 そんな私達を置き去りにするかのように、周囲の情景は変貌を遂げていく。森はどんどん深くなり、辺りへ充満するアーキの濃度も濃くなってきていた。

 

 伝えなきゃ。

 早く、ちゃんと伝えなきゃ。

 

 そう心の中で呟いてから、私は酷く震えた声で彼へ声をかけた。

 

「蘭さん」

 彼は言葉無しに、視線だけで返事をする。


 ちゃんと、伝えなきゃ。

 再びそうやって心を奮い立たせ、私は口を開いた。

 

「私は、この指通りのいい黒の乱れ髪も、ハイライトが蒼く輝くその藍色の瞳も、何時ものくしゃっと笑う笑顔も、全部大好きです。だから、いつまでもそのままのあなたで居てください」


 そう、決して嫌いなんかじゃないんです。

 大好きなんです。あなたの事が――。


「あなたはこれから、悲しくなる事も、淋しくなる事も、辛くなる事だって……沢山あるかもしれません。でも、その度に思い出してください。あなたは、決して独りなんかじゃないって事を……。あなたを慕う人達が、あなたの周りには沢山居るんだって事を……」


 あなたには、笑っていてほしいんです。

 あなたには、幸せでいてほしいんです。

 最後の最後まで、例え何があったとしても――。

 

 私は、その想いを最後の言葉に乗せ、もうほとんどボロボロの涙声で続けた。

 

「どうか――どうか、あなたの記憶の片隅に、私と過ごしたあの日々の欠片が、ほんの少しでも残っていますように……。最後があなたの前で、本当によかった……。幸せな時間を、有難うございました」


 恐らく……こんな事を願ったとしても、あなたが次に目覚める頃には、私の事などすっかり忘れてしまっているだろう。

 ディメンションは、そこに生きる全ての魂が矛盾無く存在出来るよう、記憶や歴史に限らず、ありとあらゆる事象を勝手に最適化してしまう。そうしないと、歴史がおかしな事になってしまって、世界全体の安定が損なわれるからだ。


 それは、仕方の無い事だった。

 彼等の平穏の為には、必要な措置なのだ。分かっている。分かってはいるのだけど……それでも、私は繰り返し願うのだった。ほんの少しだけでも――と。


 ……さようなら。私の大好きなお父さん。

 そう胸裏で呟いて、私の瞳から一滴の涙が零れた頃、世界から眩い光が放たれて、私達二人をそっと柔らかく包み込んでいく。



 刹那――彼は、私よりも酷い涙声で口を開いたのだ。



「……この世界の事、好きになってほしかったんですよね……?」


「……え……?」

 私は思わず声を漏らし、息を詰まらせた。

 その思いは、ずっと隠していたはずだった。表に出しちゃいけない物だと、ずっと隠していたはずだった。

 

 なのに――。


「俺、ずっと深界が嫌いだったから……ずっと深界の事、悪く言ってしかいなかったから、だから、貴女にごめんなさいって、ずっと言いたくて……」


 私は何度も首を横へ振って、自身の目から溢れる涙を拭い続けた。

 そんな私へ、彼は続けて言ったのだ。


「……今更、遅いかもしれないけど……。もう、手遅れかもしれないけど……俺も、深界の事、好きになってみようと思います。貴女が生まれたこの世界を――大好きな貴女が生まれた、この深界の事を……」



 こんなに嬉しい事が、あっていいのだろうか。


 あなたからすれば、この世界は悍ましい人体実験によって生まれた憎き世界であるはずだ。それでも、私の故郷はこの世界であって、あなたの世界に私は存在できない。

 だから、ずっと黙っていた。口が裂けても、この世界の事を――私が生きる深界の事を、好きになってくれだなんて言えなかった。


 なのに――なのに、あなたは……。

 

「ありがとう……ありがとう……お父さん……」


 私は、何度も――何度も繰り返しそう言った。

 彼は、私に微笑みかけてくれた。手を伸ばして、私の涙を拭ってくれた。


 こんなに――こんなに嬉しい事が、あっていいのだろうか。



 本当に、幸せでした。

 ありがとう。お父さん。



 全てが光る粒となって、空の彼方へと消えていった。

 もう、此処には何も残っていない。もう、此処には誰も残っていない。


 ……いや、まだお別れを言わなきゃいけない人が、一人残っていましたね。


 私は思って、何もないくうへと語りかけた。

 

「――コール、日百合彩華いろはよりQX7-15000A2コアプログラムへ。シーン切り替え記号『* * *』の挿入後、朗読補助プログラムを停止してください」




 * * *




 ……さあ、観測者さん? いつまで私の中に居るつもりですか?

 貴方も早く行ってください。でないと貴方も、世界への統合に巻き込まれてしまいますよ?

 

 ……それとも、私と一緒に、来てくれるんですか?

 私と身を寄せ合って、抱きしめ合って、唇を重ねて、一つになって、貴方なのか、私なのか、それすらも分からなくなってしまうくらい、グチャグチャに溶け合って――。

 

 ……えへへ、冗談です。

 それが叶うなら、どんなに幸せな事だろう……とは思うのですけど、実は、折り入って貴方にお願いしたい事があるんです。

 

 その為にも、貴方にはこの先の世界を観測し続けてほしいんです。

 また、無口な貴方の優しさに甘えてしまいますが、そんな私を……どうかお許しください。


 お願いというのは――ですね?

 実は私、前の世界から貴方に助けてもらった後、少しの間、現実世界に居た事があるんです。と言っても、橋本さんが作ってくれたカメラレンズ超しに、現実世界を覗いていただけではあるんですけど……。

 

 その期間中に、現実の世界にも、深界を担うアーカイブログのような、所謂”物語”という物が書籍として沢山存在する事を教えていただきまして、私……何を思ったのか、物語を自分の手で書きたくなって、彼等に色々と教えてもらいながら、小説を書いていた事があるんです。

 

 ”書いていた”と言っても、オリジナルという訳ではありませんし、その内容も酷い物で、完成すらしていないんですけど……どうしても、それが心残りで――。

 そこで貴方に、これまで貴方が観測してきた”私とお父さんの物語”を、小説として本にしていただきたい――というのが、私からの最後のお願いです。

 

 本当は、自分の手でちゃんと完成させたかったんですけど、コアとしてディメンションへ統合されてしまった後ではそれも叶いませんし、それに、どうにも……私には文章を紡ぐ才能というのが無いようで、その……えへへ……。

 

 とは言え、貴方は観測者さんなので、実際には、貴方が観測して生成されたアーカイブログをご覧になられた誰かにお願いする形となってしまいます。

 本当に身勝手なお願いなのですが、どうか、私の最後のワガママを聞き届けてくださる方に、その役目をお願いしたい……という訳です。

 

 そして、あわよくばなんですけど、やはり私の願いは、”私”に受け継いでもらいたいな――なんて……。

 

 観測者さん、私、前にこんな話をしませんでしたか?

 貴方は、この世界に生きる”私”とも出逢うかもしれませんね――って。


 もしも……もしもですよ? 未来の私が、その役目を買って出てくれる……なんて、素敵な事があったなら、少しだけ、作風なんかに注文をつけたりしちゃったりしても、怒らないですよね……?

 

 って、観測者さんに言っても仕方ないか……。

 あぁもう!! どうせ最後なので、いっそ開き直って、ここは存分にワガママを言ってしまう事にしちゃいます。

 

 全体の作風は……そうですね……。

 出来れば、観測者さんが文字を読んで深界を創造するように、読んでくださっている方々が、観測者さんと同じ体験が出来るような”遊び”が欲しいところです。


 必然的に、”二人称視点”での書き口になってしまいますが……二人称で書かれた小説というのはかなり少数派で、書くのもとても難しいかもしれません。

 加えて、観測をしている貴方の体験を再現する関係上、”二人称視点で進行する一人称視点小説”……という事になってしまう為、本当に――本当に苦労をかける事になりますが……まぁ、そこは未来の私なら、何とかしてくれる事でしょう。

 

 演出も、少し構想があってですね?

 これも完全に自己満足、というか、ただのワガママなんですけど……以前私が書いていた小説のタイトルを、今私が観測者さんに語りかけている”この場面”が差し込まれるであろう最終回のタイトルにしてほしいんです。


 ただ、章ごとのタイトルというのは、通常であれば、お話の最初に目に入る場所ですよね? それを普通にやってしまっては面白みに欠けます。

 なので、アレ、やってみたいんですよ。映画やアニメなんかによくある、”タイトルコールを一番最後に出して幕を引く”っていう、アレです。

 

 どうです? 良い考えだと思いませんか?

 

 もしそれが叶うのだとしたら、章のタイトルはブランクにしてしまって、そこで一度、読者さんに「ん?」って思ってもらう作戦でいきましょう。

 そうして最後の最後に、私から、大好きな読者さんへ向けて……ありったけの愛を込めて、こう告げるんです。


 題して――。

 

 

 

──────────────────────────────────────

●あとがき



 まずは、こんな怪しい書き出しの怪しい物語を手にとっていただき、ましてや読了までしてくださった皆様へ、前置きに引き続き、心から感謝を――。


 皆様、というよりは、”観測者様”とお呼びさせていただくほうが正しいかもしれませんね。


 話は変わりますが、最近”天丼”という食べ物をこちらの世界へ来て初めて食べました。何なのでしょう。あれはとても美味しいものですね。

 ……実は特に捻りもなく、それだけのご報告なのですが、つい、私の書く文章には、所謂”天丼”という、お笑いなどでよく使われる手法を散りばめたくなってしまうのです。


 もし、こういった書き口をお気に召していただけていればな……なんて、作者としては思いつつ、今この文章をしたためております。


 さて、私としましては、すぐにでも次の観測を始めていただきたいところではあるのですが、その前に……観測者の皆様へ、私から少し大事なお話がございます。


 単刀直入に申しますと、廿九ひずめといいますのは、本来私のハンドルネームではございません。


 この名前は、今回この物語を執筆するにあたって、ある大事な方からお借りした名前であり、私はその方に成り代わって作品の投稿を行っておりました。

 何故、そういった手法をとらせて頂いたかと申しますと、私の正体を明言してしまうと、本作の面白さが著しく損なわれると判断したからです。


 その為、最後の最後になってしまいましたが、私が皆様に自身の正体を明かすという形で、このお話の幕引きとさせて頂きたいと思います。


 本作は、深界の止揚アウフヘーベンという物語の序章に過ぎません。

 これから沢山の出来事があり、沢山の涙があり、沢山の犠牲があり、今の私があります。

 どうか――どうかその目で、文字で綴られる彼等を感じていただきながら、最後まで深界を見守って頂けると幸いに思います。


 その為にも、私は今日も、明日も、明後日も書き続けます。

 決してペースは早くないかもしれませんが、毎日――毎日、少しずつでも、書き続けます。

 

 そして、あわよくば……彼方で眠る貴女様にも、この物語が届きますように。

 量子の彼方より、愛を込めて――。



                              著者:綾瀬あやせ 彩華いろは




深界の止揚アウフヘーベン

~量子の彼方より愛を込めて~


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

著者 :綾瀬あやせ 彩華いろは

校正 :葛葉くずのは 芳澄かすみ

発行元:有限会社NEO PIKANIA


※本書を無断転載・複製・複写や、ネットオークション、フリマへの出品をするのはご遠慮ください。

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深界のアウフヘーベン~量子の彼方より愛を込めて~ 廿九 @butasan2121

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