『メシア』プロトコル [2019/02/04]

本作では、超越的法則が、現実的なものとして、描かれるであろう。それは、カントが『実践理性批判』において、理想として要請したものである。本来、それは、存在しなければならないものであり、存在してしかるべきであるが、現実には存在しないものとして、超越的なものである。言い換えれば、それは、彼岸に追いやられている。仮想的存在者の、しかし理性的存在者の、法則なのである。


超越的法則は、存在するに越したことのない、存在してしかるべきであるならば、現に存在するものとして、描かれるべきである。超越的法則によって規定された世界を描こう。しかし、果たしてそれは本当に、人間にとって最善の世界でありうるのか。究極的な理想の実現は、しばしば最悪の帰結を伴う。われわれは、飽くことなく理念を懐き、また現にそれによって規定されてあるかのように、自己の生き方を規定するが、しかしながら、われわれの想像力は、理念を具体的なものとして描くことを、どういうわけか、しばしば怠る。理想は、その圏域を、自己と自己に親しい者を越えて拡張しようとしないときに、ユートピアという抽象を生み出す。理想が抽象的なものであるのは、自己との同一性に留まったまま、静止して、対立物を自己の外に残したままにしておくからである。このようなやり方は、自己欺瞞以外の何ものでもない。われわれは、理想の圏域を、事象全体にまで拡張し、事象の隅々に至るまで、浸透させてみなければならない。そのときに、ユートピアという表象に、いかなる変質が生じるのかを、われわれは観察しなければならない。(したがって、われわれがこれから行おうとするのは、ある種の思考実験であるが、われわれはこの種の試みに伴うのが常であるところの、いくつかの「不正な抽象」に注意しなければならない。)


●「最善の世界」の概念的問題


具体化に先立って、いくつか先行的な注を述べることが許されるであろう。それは、一部には、「最善」という概念に関する概念的問題に起因するものである。


1.最善の世界に、不完全な人間が投げ込まれるという矛盾がある。不適切な人間改良(トランス・ヒューマニズム)の試みを、前提しなければならないように思われる。ところが、善なる存在につくり変えられた人間の群れには、超越的法則は余計なものとなるであろう。超越的法則は、第一義的には、作善を目的とした理念であるが、悪と善の対立が存在しないところでは、道徳はそもそも問題にならないように思われる。これについては、『浄土三部経』を研究せよ。


2.超越的法則によれば、最善の世界は、同時に、最上の幸福なる世界である。しかし、欲望を前提しなければ、人間の生において「幸福」が具体的に何を指し示すかは、まったくもって明らかではない。善なる存在につくり変えられた人間の群れは、何を意志するのか。「幸福」がいかなる内実をもつにせよ、その世界には、不幸な人間は一人もいないのだから、彼らは何のために、何を求めて、何を意志するのか、まったく分からないことになってしまうであろう。


これらの問題をいかに解決すべきなのかは、現在のところまったく明らかではない。

われわれはここで、既存の宗教表象におけるいくつかの解答に助けを求めることができる。


●多かれ少なかれ人間的な、神的存在としての、救済者の群れ


仏教的表象において、最善の世界に対応するのは、仏国土である。完成された存在(如来)、完成の途上にある人間(菩薩)は、いずれも善なる存在として、神的存在である。とりわけ、後者の群れは、「善なる存在につくり変えられた人間の群れ」というわれわれの表象に合致している。彼らは、普通の人間にとっては、救済者として現れ、善行はまるで、彼らの専売特許であるかのような様相を呈している。


われわれの興味に惹きつけて言われるべきことは、仏教的表象において、最善の世界は、現世とのつながりにおいてのみ、その理念的意味を思惟することができる。それについて、われわれは「不正な抽象」を議論することができる。最善の世界の「幸福」と娑婆世界の欲望との癒着は、心理学的には、適応的選好形成の問題として処理できるが、われわれはこの表象を積極的には用いないであろう。


●変質の過程にある世界の神的存在:「メシア」


われわれが興味をもつのは、完全に神的存在にまで高められた存在ではなく、変質の過程にあるものとして、半ば神的存在にまで高まった「人間」である。仏教であれ、キリスト教であれ、伝統教学は「救済者」として現れた人間を神格化しすぎる傾向にある。われわれが注目すべきは、神的存在としてのキリストや仏陀ではなく、「人間」であるところの、ナザレのイエスと釈迦族の王子ゴータマである。


われわれは「神の国」という表象を用いるであろう。われわれが考えているのは、地上に現れたものとしてそれであり、彼らとのインターアクションによる人間の変質の過程において、それは地上に現れるべきであろう。世界の変質とは、倫理学的には、人間の変質に等しいのである。実現されたものとしての超越的法則が倫理的世界を補完するとき、人間たちの周囲に起こるであろうこと、また起こってしかるべきことを、われわれは注意して見るべきである。


この法則は、(強い意味で)第二の自然法則と言うべき、メシアの意志からも独立した客観的法則として思惟されるべきである。それにもかかわらず、いかなる手順を経て、それがメシアによってこの世にもたらされるのかは、合理的には解決できない問題である。その秘密は、謎のままにしておいてよい。しかし、第一義的に重要なのは、人間の道徳的な変質であって、法則の実現は、それに呼応すると考えるべきであろう。法則が現にすでにそのようなものとして実は存在しており、人間はそれに値しないがゆえに、顕現せず、隠されたままであると考えることは、世界の真実と矛盾しないように、われわれには思われる。


●ソドム


ソドムは、ゴモラとともに言及されるが、ゴモラについての具体的な記述は、見つけることができない。おそらくは、ソドムのような都市が、他にもあったということであろう。


本作の規範的指定としては、ソドムの罪は、

1)道徳的退廃に帰着するものであって、

2)偶像や他の神を崇拝した罪により、ソドムが滅ぼされたとは考えない。


1.いわゆるソドミーは、著しい性の退廃を象徴するものとして捉える。性的放縦や逸脱のみに焦点をしぼる理由もおそらくないのであって、われわれはこれを人間の全的な堕落、退廃の象徴とみなすであろう。現に「ソドム」という表象は、文学的比喩表現ではそのように捉えられてきているのである。


2.人間の全的な堕落、退廃を、異教崇拝に還元する見方は、護教的意図にもとづく恣意的な見解であり、疑わしい。『創世記』のテキストからは、偶像や他の神を崇拝することを罪として数え上げることが可能であるかどうかすら、疑問である。仮に可能であったとしても、異教崇拝が罪として第一義的なものだと考える必要はない。それは、ヤハウェ神の信仰が、道徳が可能であるための必要条件でないのとちょうど同じである。


われわれは、自分たちのみが真理を独占しているという信仰者の思い上がった見解を断固として斥けるであろう。われわれは、それぞれ立場が異なる者どうしが、善という目標に向けて団結して努力するとき、同じ「善」という理想を信仰していると考える。善なる神を信じ、愛する理由が、それ以外に考えられようか。道徳的理想が、元来、信仰にとって本質的なことなのである。


[プロトコル]『断片』では、異界にある牢獄都市を「ソドム」と仮称している。別の名称を与えることもむろんできるが、文学的比喩表現としての「ソドム」は、余計な説明を省くことができ、甚だ有用である。


●バビロン


バビロンは、メソポタミア地方の古代都市の名前であるが、われわれが対象とするのは、ユダヤ・キリスト教の伝承における「バビロン」、とりわけ『創世記』における「バベル」、『ヨハネ黙示録』に言及される「大淫婦バビロン」である。バビロンは、キリスト教文化圏では、ソドムと並んで、退廃した都市の象徴と捉えられている。


1.バビロンは、富と悪徳で栄える資本主義の象徴として捉えられることが多い。これがアブラハム宗教の原理主義的見解を意味するのか、共産主義的理想に影響づけられた見方なのかは、調べてみなければならない。いずれにせよ、われわれの理解では、バビロンは、ソドムとは別の意味で、退廃的である。


バビロンは物質的繁栄を享受した「富める」都市である。したがって、貧しさが悪徳の原因となっているのではない。物質的な豊かさの背後にある、心の貧しさが問題となっていると言えよう。われわれの心の「内なる外」、わわれの内なる神としての良心の声に耳を傾けなければならない。バビロンに焦点を当てることは、その契機となるように思われる。


以上から、われわれにとっては、バビロンは貴重な表象として機能しうることがわかる。


第一に、バビロンでは、罪を貧困の問題に還元することができない。われわれにとって最も扱いに苦慮する人々、性善説の支持者や左翼的な理想主義者も、ここでは口をつぐまざるをえないであろう。物質的に貧しくても、人は傲慢でありうる。傲慢さとは、心の貧しさゆえの、人間の自然的素質としての利己性の発露に他ならない。


第二に、バビロンの基礎にあるのは、無神論か、さもなければ、堕落した神学である。悪徳をほしいままにするのは、それが自分たちの生の全体にとって悪い影響を及ぼさないという考えを人々が密かに抱いていることを示唆する。バビロンはわれわれの問題である。われわれはいちど、バビロンを離れて、異界へと立ち向かわなければならない。


2.バビロンは、1と並行して、あるいは1から独立に、科学主義批判の文脈で扱われることがある(例えば、『ラピュタ』)。ただし、この見解はいささか時代錯誤である。 バチカンの道徳神学の擁護としておあつらえ向きであるが、後者に荷担すれば、生命倫理学の知的水準からみれば馬鹿げた見解を擁護しなければならなくなろう。われわれの理解では、「(知的)退廃」という視点から切れる問題でもない。


バベルの人たちの罪とは何であるか?(見ようによっては、)彼らは罪を犯してなどいない。バベルの塔は、神によって破壊されたのではなく、神の奇計によって建設が中断された。 「大淫婦バビロン」は、神の裁きによって、滅ぼされる。淫らな欲に溺れた人たちである。両者のあいだに、有意味な関連を指摘できるかどうかすら、実のところ、明らかではない。




●ワルプルギスの夜の夢


「超越的プロット」を合理的に説明可能なものに還元しようという誘惑が(仮定された)読者にはある。(未知の科学技術を仮定することが合理的かどうかは、ともかくとして、)超越的法則の代わりに、科学的装置を考える「技術的プロット」を、わたしは主人公の夢に現れた観念として処理したいという考えに傾いている。


これらの平行的なプロットは、わたしの中では、どちらかに優先権があるわけではない。「法則」がいかにして実現されるのか(「異界」において現に実現されているのか)は、わたしにはたいして重要な問題ではない。どちらかに決めることも、決めないこともできる。文学的叙述において「夢」は、真理と誤謬のどちらにも荷担するであろう。「いかに」は、未決定のままにしておいてよい。


●ワルプルギスの夜


魔女の酒宴、サバト(魔女、あるいは悪魔崇拝の集会)という表象がある。確定的ではないが、「美の饗宴」と題される古い草稿をここに組み込もうという案がある。ただし、現在のところでは、草稿とわれわれのテーマのあいだに強い関連性はない。この問題は別途、議論する必要があろう。


[典拠]歴史的なヴァルプルギスの夜は、キリスト教到来以前の異教の春の風習にちなんでいる。ノース人の風習では、ヴァルプルギスの夜は『死者を囲い込むもの』とされていた。その夜は死者と生者との境が弱くなる時間だといわれる。かがり火は、生者の間を歩き回るといわれる死者と無秩序な魂を追い払うためにたかれる(百科事典より)。


滅ぼされたソドムの人々の亡霊を描くということであれば、この表象に結び付けやすい。われわれのテーマは元来、未来志向的である(おそらくは未来志向的でありすぎる)ので、これを過去の視点から相対化することには、意味があるように思われる。「幻影」を描くことになるが、それは神の視点から見たものであるので、実在的なニュアンスを帯びることになろう。それは説話内事実として妥当するように思われる。


これに対して、「ワルプルギスの夜の夢」は、主人公の視点から見られた夢であるから、同じ「幻影」でも、実在性の見地から見れば、一段劣った地位が帰属するように思われる。(一次的な)ワルプルギスの夜によって「幻影」の地位が高まるので、平行的プロットの優劣の問題は、とりわけ超越的現象をいかに解釈するかという問題に関して、「幻影」の枠内で(一次的な幻影と二次的な幻影を対比させるという仕方で)処理することが可能となるであろう。これは、「(説話内の)生の現実」と「夢」とを対比させて優劣を決定するよりも、たぶん優れたやり方である。


[注]どうしてここまで慎重にならなければならないか?「夢」の枠内で超越的現象を処理することは、しばしば物語を陳腐化し、作品をダメにしてしまう原因となる。旧約聖書でも、エロヒスト資料が、神託という現象を「夢」という枠内で合理的に処理していることは、他の資料群に比して劣った印象をわれわれに決定づけるであろう。

(広義の)直喩という手法を用いる場合には、提示の仕方に慎重であらなければならない。殊この問題に関しては、われわれは慎重でありすぎるということはないのである。


[メモ]

神によって滅ぼされるソドムと、カミングスが隠されてしまう無名の牢獄都市とは、これまで(暗黙に)別々の町として構想されてきたが、そうすることが適当かどうか考えてみなければならない。


1.われわれは「ソドム」と「バビロン」を概念上識別するが、バビロンに対応するのは、通常の現実世界であって、無名の牢獄都市ではない。ソドムと無名の牢獄都市のあいだに、概念上の差異は存在していないように思われる。(罪の)程度の差を度外視すれば、明らかに同種のものであり、滅ぼされるか否かという違いしか考えられていない。


2.もし1の線でいくとしたら、われわれはカミングスを悪人として規定しなければならない。善を作らない人は、必ずしも悪人ではないので、……。あるいは、われわれは、善を作らない人を悪人と同居させるべきなのだろうか。『断片』では、そうなっているように思われる。だがそうなると、善でも悪でもない人たちが、悪人とともに滅ぼされることになろう。


だが、よく考えてみれば、善人の住む世界と、悪人の住む世界とは別に、第三の世界を考えることは、われわれのテーマには合致しない。われわれの主張は、ソドムは「転倒されたバビロン」だということである。つまりバビロンの負の側面が抽象され、その意味でラディカライズされたものがソドムなのであるから、竹で割ったような二分法の弊害が生じてきたとしても、われわれはこれを当然視すべきであろう。



[バビロン・プロトコル]


‣「塔の建設」は、大きな物語になぞらえることができる。

‣「言語の問題」は、主義・主張の原則的な差異における「通訳不可能性」の問題になぞらえることができよう。

そう考えれば、バベルとバビロンを識別することに、意味が出てくる。

現代は、多くの人々が共通の目的のもとに一致団結して、何かを成し遂げることがますます難しくなってきているからである。


‣(偽りと想定される)メシアを退治しようとする司教の葛藤として、以上のことをモノローグとして描くことが案として考えられる。



●デウス・エクス・マキナ


deus ex māchinā:「機械仕掛けから出てくる神」、あるいは「機械仕掛けの神」。

ex māchināの直訳は、「機械によって」。

由来は、ギリシア語の ἀπό μηχανῆς θεός (アポ・メーカネース・テオス)。


[典拠]古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。悲劇にしばしば登場し、特に盛期以降の悲劇で多く用いられる。アテナイでは紀元前5世紀半ばから用いられた。特にエウリピデスが好んだ手法としても知られる。由来は、「機械仕掛けで登場する神」ないし、舞台装置としての解決に導く神そのものが機械仕掛けであることとも解される。(百科事典より)


わたしは後で知ったことであるが、『マトリックス』では、マシン達の統合知性体の名称が「デウス・エクス・マキナ」であるらしい。


1.『明晰夢』と同時期の古い草稿では、仮定された未来世界において超越的法則を技術的に実現するための装置は、「幸福発生装置」と呼ばれていた。これを「機械仕掛けの神」の表象と結び付け、「デウス・エクス・マキナ」と仮称するようになったのは、比較的最近のことである。


2.『明晰夢』では、「コンステレーション」という主題と結び付いた、観察する神が考えられていた。それは、人間の運命を見つめるものであるが、何も手出ししない存在と考えられている。「ぼくはあのとき見たのだ。病院の屋上から、はっきりとこの目で見たのだ。夜空が大きく切り裂かれ、巨大な目玉がぼくをじっと見つめているのを。もちろん、それは現実のものではないだろう。しかし、ぼくはそれが真実のことであると悟った。高いところから、ぼくたちの様子をじっと観察している。害を与える存在ではない。さりとて、人類に幸福をもたらしもしない。何も手出しせずに、それは、空からじっとぼくらの様子を飽きもせずに見続けているのだ」(『明晰夢』45節)。


『断片』では、1と2は、主題的には統合されつつあるが、存在論的には同一視されているわけではない。1を「技術的プロット」と呼び、さらに人間の活動に介入するようになった2を「超越的プロット」と呼んで、両者は平行関係にある。2は特に「イルミナティ」と呼称されている。


[機能]


デウス・エクス・マキナには、(徳福一致という道徳的理想によって規定された)超越的な自然法則たる「因果応報」を実現する機能が帰属する。「善人には幸福を、悪人には不幸を」が原則的なスローガンである。「派生的最高善」は道徳を補完する原理と考えられている。


上述のとおり、「超越的」ないし「技術的」実現が考えられている。実現の仕方には、1と2で違いがあると想定されよう。各々において、実現の仕方にも当然技術的な問題が発生するが、わたしはあまり細部にこだわるつもりはない。なお、現時点では、存在論的には2に優先権があり、1は「ワルプルギスの夜の夢」として処理されようとしている。


機械が思考をハッキングすることで、行為の意図を測定する。「装置」には、現象を操る(場合によっては、作り変える)機能が実装されており、この装置を操る権限が与えられる「システム」には、人間の心を監視することで、理想的世界を実現することが期待される。機械による侵略ではなく、人間が合意の上で作り上げた秩序である。


神による「恩寵」や「天罰」という表象と関連を有するが、主意主義的な介入は出来るかぎり排除しようと試みている。『断片』では、メシアによる働きかけが想定されるが、天罰自体は、行為者が「おのずから」招いたものだという点が殊更に強調される。超越的法則のこうした実現によって、地上に「神の国」が出現すると考えられている。


人間の行動は、その心の内側を「観察する神」によって見抜かれている。「現象」ではなく、実在的な状況の改変が考えられている。場合によっては(人間に罪の自覚を促すために)目に見える仕方で、人間に天罰が下される。典型的には、ソドムを滅ぼした天の火がそれである。その超越的機構を詳しく展開することには、関心を払わない。



[先行する議論]


(※以下は、断片「われらがユートピア、イデア」に付属していたもの)


‣「思考のハッキング」というアイデアの検討:思考のハッキングは、思考の操作(統制)を含むか否かについて。


原理的に(超越的ないし技術的に)悪を行なえなくするのか、悪を行なうのを躊躇させるのか。人間改良を行うのか、それとも人間はいまのままで、心に悪心を抱きながら、それと戦って生きていくのか。ユートピアか、それともディストピアか。


‣善人と悪人を選別して、別の場所に住まわせるという仕方がある。



[追加]「思考のハッキング」というアイデアは、


統合失調症の妄想に還元する余地を残すことで、フィクションを合理的に処理する。『明晰夢』との関連性が議論されるべきである。

幸福発生装置「デウス・エクス・マキナ」による干渉:善行における意図を斟酌するには、確定的には、人の心を覗いてみるしかないであろう。

1とバランスをとりながら、超越的プロットの展開の潤滑剤とする。


1は、それ自体としては、魅力のないやり方である。現段階では、超越的プロットと技術的‐SF的プロットが並立した状態にあるが、「フォーチュニティ」を中心とする断片では、前者に優先権がある。後者に定位した、『冥府』以前の古い構想〔「技術的プロット」〕は、非常に神秘的であるから、妄想ないし夢(幻想)として処理してもよい。いずれにせよ、完全なる合理化という理想は、放棄されなければならない。


ここ〔初期断片〕では、一見したところ超越的な事象がカミングスとのインターアクションによって客観性を付与されている〔つまり妄想は主人公単独のものではなく、間主観的に客観性が担保されている〕ということが重要である。なお、集団幻想という観念は、「理想」ないし「信仰」と類比的である。



[アウグスティヌス・プロトコル]


アウグスティヌス主義の立場から見れば、私のデウス・エクス・マキナは、宗教を道徳に従属させるように見えるであろう。「救い」と「報い」を、私は区別している。報いは、広い意味では救済の一部であるが、――なぜならそれは、現実には存在しないものだからである――、「救い」は悪を排除しないだろう。悪人もこれを享受することができる。というより、信仰を第一義的なものとする救済説では、(親鸞もおそらく同様であろうが、)人間は(神の恩寵による)救済ののちに、善なる意志を持ちうると考えられるからである。この考えは、私には到底受け入れがたい1。救済が先行すれば、人は何を求めて努力するのか、まったくわからなくなるからである2。


私の考えでは、究極的には、報いを保証するものは、神という超越的存在でなくてもよい。というより、道徳を補完するものは、超越的存在でないほうがよい。道徳を(科学的倫理学のように狭小化することなく)宗教という基盤から自由にすることができれば、それに越したことはないからである。それが次のテーマであるが、この試みが成功するかどうかは、純粋に観念上から見ても、疑わしい。しかし、試みる価値はあると、私は考えている。


1 アウグスティヌス主義の正統なる後継者であるルターの、信仰義認という考えは、受け入れられない。人が正しき道を歩むのは善行によってではなく、信仰によってであるという主張は、単純にわけがわからない。正義という概念を、徒に混乱させるだけであろう。(ここからは、信仰によって正しい人は、正しい行いをするという同語反復が帰結する。)超越的法則に基づく正義論は、行為義認(ペラギウス主義)である。カトリックの立場は、どっちつかずであろう。その行為論は、明らかにストア-ペラギウス主義的であるが、もしそうであるとすれば、恩寵の必要性はいかにして担保されるのか、私にはわからない。理論的には、余計なものであろう。(行為と並んで信仰が「義認」の必要条件だとすれば、徳の高い異教徒や無神論者は、存在しえなくなる。この不都合な帰結をカトリック神学がどう回避するのか知らない。カルヴァン主義は、一般恩寵と特別恩寵という、わけのわからない区別を導入している。)私が見るところ、これは、アウグスティヌスの思想に存していた、解消できない緊張を反映している。善行と信仰の必然的な結びつきを確証するためには、私がしているように、私の内なる善なる意志を神と同一視するしかないが、これによって神が有名無実化すると考えなければならないことはない。現に、信仰を離れては、善を悪より優先しなければならない究極的な根拠など存在しないからである。善を信じること、善を理想として掲げ持つことは、私の意見では、ひとつの信仰なのである。


2 全的堕落という前提がある。人間の本性は善か悪かという竹を割ったような問いは、二分法的思考が陥る他のすべての問題と同様に、ここでも、むろんまちがっている。私の考えは、ペラギウス主義、正教会の「共働」の教理と親和性がある。それは理由のないことではない。これらの教義は、ギリシャ哲学、特にストア派の影響を被っているからである。



[さらなる議論]


「超越的法則が現にすでにそのようなものとして実は存在している」という考えは、終末論的世界観と平行して「神の国」の実現が近づくという表象と折り合いが良い。これまでその法則が発動しなかったのは、一方で人類がそこまで堕落しておらず、他方で神の報いとしての幸福にあずかるに値するほど善良でもなかったと考えることができるからである。


このアイデアは、超越的法則の超越性を保持したまま、われわれの合理的な世界観と両立可能であるという点で、魅力的である。が、いささか説明を要するものであり、扱い辛さという点から、この考えを積極的に採用することには、ためらいを感じている。論理的に可能ではあるが、現実問題として説得力がある考えでもない。



[利己主義者と利他主義者(悲劇)]


「幸福とは、この世界における理性的存在者が、彼の実在の全体において何ごとも望みのままに意のままになるという状態である」(実践理性批判250)


「何ごとも望みのままに意のままになる」とは、たんに自然的欲求の実現だけを念頭に置いているのではない。(そのことはむろん重要であるが、)一部の社会生物学者がするように、理性的存在たる人間を一個の特殊な動物(あらゆる動物は何らかの点で特殊である)とみなすべきではない。理性的存在者の理性性は、人間を他の動物から際立たせる、おそらくは唯一の卓説性である。その発揮こそが、究極的な目的であり、神の似姿たる人間の完成されたあり方(エンテレケイア)である。


「何ごとも望みのままに意のままになる」とは、善なる意志に従って、人間が行動できるということを含んでいる。理性性の世界への浸透、まさにこのことによって、地上に「神の国」が出現する。欲望は、廃棄されるのではなく、浄福なる生における要素の一つとして、止揚される。(人間が利己的にふるまうという想定は、利己的にふるまうことが合理的であるような、基準によって方向づけられたシステムの内部でのみ、妥当する。センを含む経済学者は、この次元で動いている。)


「この世界における最高善の実現と促進に努力すること」(実践理性批判230)


「この世界における」:われわれの世界とは隔絶した、超越的法則によって支配される世界ではない。現世においてこの「法」をもたらし、卓越した善のもとに、善と幸福の因果を確立することが、この世界における正義である。これが本来、正義について言われるべきことのすべてである。(たんに悪を滅ぼすこと、このことが仮に可能であったとしても、)悪人が幸福を希求すること自体が、すでに不正なことであると認識されなければならない。


意志にとっては善が第一義的なものであるということ。このことが、たんなる理想として、この世界では信じられていないこと、またどうして信じられていないのかが、重要である。


[草稿Aより]


利己的にふるまうほうが、ますます幸福になれるというパラドックス。


彼が困窮した者たちの悲惨さに同情したのは確かなことである。そして、彼は、衝動的にではなく、熟慮を経たのちに、彼の財産を貧しいものたちと分け合うことに決めた。ただちに彼はそれを実行に移した。そのあとどうなったか?困窮した者たちは一時的な慰めを得ることはできた。しかし、結果としては、彼が困窮者の仲間入りをしたというだけにすぎなかった。不幸にも、彼に救いの手を差し伸べる者は現れなかった。それから、彼が死ぬまでの生活は悲惨と言うしかなかった。


教団の中には、貧しさの中にありながらも、彼は「幸福」のうちに死んでいったはずだと考える者もあるが、私はそうは思わない。もし彼が本当に幸福だったとしたら、この話はどうして悲劇として語り継がれているのか。この話を聞くときにどうして人々は涙を流すのか。彼らは次のことを認めたくないだけなのである。正しいことをすることは、愚かなことである。最も賢明な人種は、偽善者である」



カントが格闘したのは、結局のところ次のようなパラドックス/循環であった。


1. われわれが(自分にとって)良いことのために善いことをするのは、偽善である(純粋な道徳的行為ではない)。しかし、

2. 善いことをしても、報われなければ/自分にとって良いことがひとつもないことは、悲惨なことである。だから、

3. 報いは、われわれが順序をまちがえさえしなければ、必要なものである(と考えざるを得ない)。しかし、

4. もし現に報いがあるとすれば、われわれはそうした見返りを目当てに行為するようになるだろう。1に戻る。


いいことをすると、いいことがある。

いいことがあるために(お返しを目当てにして)、いいことをするのではダメである。


幸福配分装置 心の監視?

これを道徳的な成果主義と同一視してはならない。大事なのは心の純粋さである。例えば、ある人がたまたま数日間、他の人に善行をする機会にめぐまれなかったとしても、その間、その人にまったく幸福が配分されないということはない。


(楽園の)統制的原理:正しい者たちがつねに報われる。そういう社会でなければならない。

命題:互恵的原理は最終的に人々を堕落させる。この原理は根本的に利己的だからである。

お返しを目当てにした利益交換は、言ってみれば、預金の出し入れのようなもの。

お返しは多すぎても、少なすぎてもまずい。あまりに大きな善行も、他者に負担をかける。


神を信じる者が必ず来世を信じるというわけではない。

唯物論者もまた、道徳上の仮説として、神を要請することができるし、ぼくの考えでは、要請しなければならない。そうでなければ、唯物論者の道徳は、根本的に利己的になるか、正体不明の原則的な価値という不安定な基盤の上に築かれなければならないかのどちらかである。

神を信じることは、ひとつの理想的な世界を信じることに等しいのである。この場合、計画の遂行は、もはや人々の決断に左右されるのではなく(人々は絶対に決断できない!)、自然法に基づく論理的に必然的な、決定事項である。


信じる者は救われると(底意なしに)あえて言わなければならないのは、実際問題として、上述の意味で、信じなければ救いがないためなのかもしれない。


[追加]


あるものを施したら、そのぶんだけ帰ってくるとしたら、全員がやるにきまっている。

自己犠牲は、定義上、代償が無いということに存しており、またそのことによって、賞賛されるべきものなのである。

報いが無いということは、構造的に決定されている。


善と悪は、それ自体としては、ただの記号にすぎない。

善を称揚し、悪を貶めるところの正義によって、はじめて善は力を得るのである。



[注解]


まず、二つのパラドックスについて、議論されている。ひとつは、利己的にふるまうほうが、ますます幸福になれるというパラドックスであり(1)、もうひとつは、善行の報いを仮定すると、人間は善を行うことができないというパラドックスである(2)。


1.ほどほどの(程度をわきまえた)利己主義を許容することは、長期的にみれば、よい、道徳システムの耐久力を高める、という議論がある。しかし、第一のパラドックスが述べているのは、道徳システムが要求する規律の違反によって、いわば不正に手に入れられた幸福である。そのために、功利主義の理論家は、違反を処罰するための監視者を要請する。


とりわけ若い世代の人たちは、彼らの考える「自由」とか、「人生は一度きりだ」という真実に訴えて、批判を顧みずに、自己利益を最大限にしようと努力することをためらわない傾向がある。他者の規律に従わない、自律的な生き方ではあるし、彼らは善行にまったく興味を持たないわけではない。が、そのときどきのちょっとした気分に左右されがちの善意に訴えるだけでは、道徳はやっていけないというのが、われわれの考えである。彼らの道徳心理を詳しく分析してみると、気が向かない場合には、悩んでいる他者を容易に切り捨て、義理よりも、自分のちょっとした楽しみを優先しようとする、冷酷な利己心が見出される。アメリカナイズされた価値観の浸透が、このような帰結を生じさせる原因であると見てよい。われわれはこれまで、終始一貫して、変装した利己主義をベースに置く功利主義に反対してきた。幾人かの理論家は、いま述べた問題を回避するために、善行を不確かな個人的良心に任せておくのではなく、制度として確立しようと努力している。しかしながら、これは、左翼的な前衛エリート的発想であり、動機に踏み込んで解決しなければ、問題の根は残り続けるであろうというのが、われわれの意見である。


2.善行とは、良心の命じるところによって、他者のためになされる行いだとすれば、超越的な仕方であれ、なんであれ、善行の報いを仮定することは、善行の基盤を掘り崩すように思われる。なぜなら、報いとは、結局は自己利益のことであって、自分が幸福になるためにしたことは、他者のためになされたこととは言えないからである。


このパラドックスは、第一のものよりも、根が深いように思われ、それだけに深刻である。カントが善行と呼ぶのは、動機の上で、他者のためになされる行いだけであるが、善行の報いを保証する超越的議論である「派生的最高善」の議論に彼が多くのページを割いているのは、善人が不幸の海に沈むことはあってはならないと、彼が考えていたことの左証であろう。義務論にとって、この本来的に余計な仮定は、結局は制度的に解決するしかない問題を純粋実践理性の枠内で処理しようとする誤りから生じた、理論上の崩壊因子(アノマリー)である。ともあれ、実際的には、第一のパラドックスが効力を発揮して、利他主義者が利己主義者よりも、より多くの物質的な富を享受することは、避けられないように思われる。超越的議論は、このパラドックスの威力を削ぐことができる。だが同時に、つまり悪と共に、善をも滅ぼしてしまうところに、超越的議論が抱える深刻な悩みが存する。


善を行っても、何も得るところがない。善行とは、無償の行為である。自分の肉を切り裂いて、他者にその肉を糧として与える、神聖な行いこそが、本来、善行という名に値する唯一の行為であるという仮定を、われわれは手放さない。


このことは、既存の宗教体系において、どのくらい真剣に考えられているか? まったくもって真剣には考えられていない。


仏教において、「精進」とは、善に向けて努力することを意味する。善を行うことは、努力を要することである。本来は、禁欲的な教義と相性が良い。事実、義務論は、西洋において、ストア派の禁欲的な実践的教義と手を携えて、発展し、洗練されてきた。しかしながら、要求の高い教えは、どのみち大衆には受け入れられない。既存の仏教諸派が「善」の名のもとに、いかに利己主義を密輸入してきたか、ここでは繰り返さない。「情けは人のためならず」という格言が、利己主義の高らかな宣言であるとだけ、指摘しておけばよい。


われわれは、カント倫理学の神髄を、いかに生きるべきか、という義務の次元ではなく、いかに生きることを望むか、という希望の観点から、再構成することを試みるであろう。ストア主義という、死につつある異教の倫理を再生し、社会改良的視点から、われわれは物語という形式で、広く、世の人に問うであろう。「いかに生きることをよしとするか」。



[補遺]


道徳理論上の「天上」の意義について、議論されなければならない。


1.現世から強い意味で切り離された「天国」ないし「浄土」:この表象は、そこでの生の至福性を強調するだけで終わる。(考えの浅い、したがってほとんどの人たちの思考は、この次元で動いている。)


2.現世から重要な意味で隔絶しているが、超越的法則に基づく因果によって、(また一部には、異なる生を架橋する基体、典型的には「魂」という実体論的な想定によって、)現世とは別の、更なる「生」として規定された「天国」ないし「浄土」:因果応報、所業とその報いという超越的因果を基本原理とする。天国(ないし浄土)における安楽と地獄の過酷な責苦が対比される。(滅罪という観念も、この思考の圏内にある。)


3.現世とは隔絶していない、つまり世俗化された(地上に引き下ろされた)「天国」ないし「浄土」。浄められた世界は、しばしば終末論的な、堕落した世界表象を前提とする。社会改良主義と前衛主義的な政治哲学の温床となる。


1は、有力ではあるが、まるで意味のない捉え方であり、場合によっては、非常に有害ですらある。現世における因縁(罪業)との断絶によって、悪人もまたそこに入り得るという可能性が生じる。この断絶と、(不正に入手された)入場券は、まともな思考では正当化されえない。(よって、風刺以外の仕方では、記述の対象とならない。)


2と3は、必ずしもalternativeな捉え方ではない。世俗化された地上の「神の国」とは別に、(隔絶した)天上の神の国を考えることができる。


3は、キリスト教的には、弱い意味で世俗化された仕方としては、千年至福説における神の王国、より強い意味では、ヘーゲルのキリスト教的ゲルマン国家(さらには、キリスト教的な価値の実現という意味では、共産主義的ユートピア)が、これに該当する。


仏教的には、弥勒思想が千年至福説に比肩しうるものであるが、(経典における)諸々の仏国土は現世と必ずしも隔絶した世界ではない。それらは「天」の下に位置する、娑婆と地続きの世界である(広い意味では、地上世界の一部である)。

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