『冥府』プロトコル [2018/05/18]

序(本作の目的)


神による道徳的な審判という思想を抜きにしては、地獄の本質を語りえないであろう。地獄とは、罪人の世界であり、罪人たちがその罪に応じて等しく罰せられる世界である。


人間にとって、死は、何かとてつもなく恐ろしいものであって、不安のうちの最大のものであり、また、死すべき者としての人間に、不可避的に訪れる運命として絶対的なものである。それゆえ、ここに古来、あらゆる規範、道徳が、神秘的ないし合理的な仕方(例えばホッブズ)で、基礎づけられてきた。消滅への恐怖は、死後も存続する自我の実体を要請するであろう。これが、魂と呼ばれるものであって、魂の「不死」は、あらゆる宗教が要請するものである。超自然的(形而上学的)倫理学は、直接的には死の恐怖に、またそれと同様にまたそれ以上に、死後の「生」の質に、みずからの基礎を求める。これまでもそうしてきたし、これからもそうせざるをえないであろう。このことが、本小説の最大のテーマである。


描こうとしているのは、次のことである。われわれは、死後の世界をいかに表象するのか。そして、いかに表象するべきか。倫理的な原則にしたがった目的論的取り組みにおいては、どのような世界を望むかということと、どのような世界であるべきかということのあいだに、何らの差異も認められないだろう。私はストアの倫理的原則に従った死後の世界を描くつもりである。私はひとつの理想的世界を建設するつもりである。(それは、善人が幸福となり、悪人が不幸となる、因果応報が厳密に通用している世界である。私は悪を滅ぼすことにいささかの躊躇いもない。これはストアの思想である。)


常識道徳を基礎づけること。現代におけるストア哲学の復興が、私の『夢幻』作品群での最終目標である。


記述的な(伝統的な)死後の世界の表象は、多かれ少なかれ、利己的な意図と動機によって汚染されている。このような不純な思想によって規定された世界表象が自己の権利を主張するとき、私はそれと戦わなければならない。歴史的な冥府の表象から着想を得つつも、基本的には自由に描写してよいのである。


ただし、変更を加えるときには、議論が必要である。歴史的な表象の問題点があるとすればそれを指摘できなければならない。



臨死


俗に言う「臨死体験」とは、生が終わろうとするときに現れるとされる現象である。中世の仏教説話では、これに類する記述は見当たらない(「臨死」と「橋」とを区別しない。)そもそも、説話では、現世における終焉の地から冥府の地(閻魔宮の所在地)までの移行の過程が欠落しているようである。ただし、寿命がのばされるなどして帰ってくる場合には、事情が異なる。冥府の地にある暗い小さな穴に入る・覗き込むと目が覚める(生き返る)という記述になっている場合が多い。


おそらくは、「死後の意識」への移行の場合には、眠りと夢見からの類推で移行が考えられているので、そうなっているのであろう。これに対して、蘇生の場合には、冥府での意識状態と現実での意識状態とのあいだの突然の跳躍として記述されることに特徴があるが、移行そのものは瞬時に行われているがゆえに、移行の過程は依然として謎につつまれたままなのである。(ただし、冥府の地が現世と「陸続き」と表象されている古いタイプの説話では、無論このかぎりではない。)


さしあたって、臨死体験と呼ばれる現象で問題となるのは、肉体的な生命の終焉に関する一切のこと(衰退、不安と恐怖、またその緩和)であり、またそこからあそこ(死)へむけての、ひとつの直接的な移行である。この移行は、本質的に異なる、少なくともある重要な意味で断絶した二つの世界のあいだに成立する移行であるから、現世という此岸を「現実」と呼ぶかぎりにおいて、『明晰夢』において記述されたような、夢の世界への移行に引き比べられることが可能である。


むろん、厳密な相似が成立するのは、夢と同様に、臨死体験が肉体的生命に所属する脳活動によって引き起こされるかぎりでのことである。さしあたってはそのようなものとして、この現象が記述されるべきであろう。しかしながら、はっきりさせておかなければならないのは、それがそのようなものであるかぎりにおいて、つまり臨死体験は肉体的生命に依存した現象であるかぎりにおいて、それはそれの終焉において同時に消滅する現象であらざるを得ないということである。


。このことはどんなに強調してもしすぎるということはない。本当の移行の内実は、不明であり、不明なものにとどまらざるを得ないのである。



賽の河原


三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた者の衣(服を着ていない場合は、懸衣翁によって、生皮)を剥ぐとされるが、その目的は、一部には、渡し賃の代わりであるとされ、また一部には、衣の重さによる枝の垂れ具合で生前の罪の重さ(業)を計るためともされる。ここには、矛盾しているように見える要素がある。


まず、渡し船による渡河は、平安時代末期以降に生じた考えであることに注意せよ。それ以前は、善人は橋(金銀七宝で作られた橋)、軽い罪人は浅瀬(山水瀬)、重い罪人は難所(江深淵)を渡るとされた。(一説には、「三途の川」という名称は、渡河の三種の方法によるとされる。)他方で、衣の重さが罪の重さを示すとされるのは、罪が重いものほど渡河の際にずぶ濡れになるからである。


その場合には、奪衣婆と懸衣翁は川の向こう側にいなければならないだろう。六文銭の話との整合性をつけるためには、渡し賃は後払いだと考えなければならない。(しかし、これは奇妙な考えである。)


より深刻な問題は、懸衣翁らがある種の裁判官の役割を担っているということである。彼らには、現実の法廷における下級審、あるいは検察のような役割が帰属するというのか。また、「橋」の表象を採用する際には、橋や浅瀬を通行するように誰が指示するのかという問題が残る。その者は川の手前にいなければならず、向こう側にいる懸衣翁ら以外の誰かでなければならない。


以上の混乱を回避するために、私は次のようにしたい。


(1)六文銭という道徳的にいかがわしいコンセプトは無効にする。


地獄の沙汰も金次第というのは、あまりにも下衆な考えであり、これをそのままにしておくわけにはいかない。次のことは、はっきりさせておきたい。道徳的「試験」は、死とともにすでに終了しているのであって、たとえ実際的に必要とあってもさらなる追加試験がなされるという考えは結局のところ無意義であろう。(例えば、入学・入社試験の面接の問題点を考えてみよ。道徳的行いは善それ自体のためになされるべきである。)


(2)儒教倫理に基づく、子供への苦罰としての石詰みの表象は、これを廃棄する。


これはあまりに時代遅れにして不当な倫理観を基礎とするものであり、これをそのまま採用するわけにはいかない。ただし、子を無くした親の側からする後悔ないし自責の感情は、しばしば根拠のないものであるとしても、これを一旦受け止めたうえで救いを提示することは、私には意味があることのように思われる。


(3)奪衣婆と懸衣翁には、下級審としての役割を帰属させない。


奪衣婆は一部では重要な信仰対象であるがゆえに、悪神であるという特徴づけは、回避したい。彼らは多かれ少なかれ善い神であるという前提のもとに、三途の川の物語を首尾一貫した形で再構成しなければならない。まず、すべての者が閻魔王の裁きを受ける。これはかなり広く通用している表象であるから、変更には強い理由が必要である。現在のところでは、その理由は見当たらない。


六文銭の意義を否定したいのであれば、また奪衣婆らが尊敬すべき神なのであれば、彼らを徴税請負人のごとく考えるべきではない。私は現在下書き中の原稿で彼らにまったく別の役割を帰属させた。思うに、河というのは、身を清める神聖なものであって、現世の泥(付着物)、ケガレをそこで落とすという表象がしっくり来るように思われる。彼らにも、それと似たような、ある種の検疫的役割を帰属させるべきであろう。死者がこれから赴くところは、彼らの主のところであって、神聖な領域に足を踏み入れるのだという意識がおそらく重要である。


よって私は地獄に堕ちる運命の者も、そうでない者も、そこを必ず通るということにした。奪衣婆と懸衣翁には、善も悪もすべてを受け止めるような度量が要請されなければならない。奪衣婆は、あらゆる母の母として、肝の据わった、細かいことに頓着しない、貴賤による差異を感知しないという意味ではまったく融通の利かない、根は優しく暖かい心をもった人格神として、活き活きと描かれるべきである。奪衣婆の以上の特徴づけに応じて、夫たる懸衣翁の性格はおのずと定まってくる。寡黙で、仕事一筋の職人気質であるが、素朴な愛嬌のある、等々。


その他のことは、私は次のように処理する。もし運命ということを厳密に考えるとすれば、神はそれを最初から見越しているという強力な考えが根底にある。このことは、ただちに決定論を意味するわけではないが、裁判の意義を弱めることにつながるだろう。裁判とは、つまるところ、単なるディスプレイであり、解脱へのプロセスの一部として、人間に改心や罪の自覚を促すことを主たる目的としたものなのかどうか。この点については、さらに研究しなければならない。いずれにせよ、裁判以前の段階で、つまりある者が罪人として規定されるより以前に、その者が何らかの仕方で罰せられるかのような記述は、私にはかなり筋が悪い考えに基づくように思われる。


もしそういうことがあったとしても、それは、裁判と責苦とは独立に、その者の性質によって自ら招いたものと考えるべきであろう。例えば、罪の意識に苛まれることや、あるいはもっと典型的には、地獄に落とされるかもしれないという不安や恐怖は、死の瞬間から(あるいはもっとそれ以前に)人間に襲い掛かるであろう。それら精神的な布置が実体的なもの(「現実」)として現象してくるという考えは、それほど筋の悪い考えではない。というより、私が本当に描きたいのはむしろそちらなのであって、これは生きながらにして起こりうることで、また現に起こっていることだからである。



六道の辻


[六道の辻、あるいは、地獄にも天国にも行き場のない者ども]


私は「六道の辻」の章で、地獄を除く五つの道、すなわち、畜生道、餓鬼道、人道、修羅道、天道を素描するであろう。私はこれを、もっぱら自由意思による選択の問題とみなす。すなわち、どの道を行くかは、その人の意志と決断にかかっているのである。各々の決断状況において、考える人は、人間であるとはどういうことかと自問するであろう。考えない人は、自分で選んでおきながら、自分の選択を理解せず、人間でありながら、人間をやめる道を、それと知らず歩むであろう。


1.畜生とは、たんに動物のことを言うのではなく、人間に飼われる動物のことを言う。それは人間以下に貶められた人間であり、人間に飼われる人間は、みずからを家畜のような存在となすであろう。


2.餓鬼とは、人間から離れた人間のことを言う。彼らは孤独のうちに暮し、孤独にさいなまれ、温かい人間的交流にあこがれ、渇し、地獄に似た苦しみを味わうであろう。(なお、餓鬼については、荒地の節において、別個に論じることとする。)


3.修羅とは、畜生の主人であり、人間を飼うところの人間のことを言う。それは人道を踏み越えた人間であり、人間の肉を食らう人間は、自らを修羅となすであろう。道徳的に非難されるべき搾取は、上記の意味での畜生と修羅のあいだで起こっているとみなされる。カントが人間性の毀損と呼んだ事態が生じているのであり、私はこのような寓意的な仕方で、人間の道具化という反道徳的事態を批判するであろう。


4.そのような仕方で記述される人間同士の争いを含む人間の営みを、私は「人道」を名づける。


5.人間の営みの問題ある側面が解消されることが意図されたとき、人間は浄化され、人としてあるべき道が示される。そのような、理念的な意味での人道を、私は「天道」と名付ける。


上記のような仕方での、六道の精神論的な解釈が、私が本章で意図するところである。これとは別に、伝統的な意味での、存在論的な六道が仮定されるべきかどうかは、結局のところ、私にはどうでもいいことである。本質的な焦点は現実に向けられているのであり、あの世のことなどは、私にとっては象徴に過ぎぬものである。


仏教の伝統的な表象において、「人道」が不浄のもので、厭離すべきであるとされるのは、上に述べたような現世(人の世)の退廃的局面を指すものである。そこからの離脱は、伝統的には「天道」とは言われず、後者は私には何かよく分からない、おそらくは仏教成立以前の神のために想定された場所以上の意味を持たないように思われる。


なお、本作ではたぶんほとんど立ち入れないが、私の意味での「天道」、人類の「浄福なる夢」が、本当に人間にとって理想的な社会を意味知るのかどうか、それは何かある種のディストピアを帰結するのではないかということを、私は次作において詳しく展開するつもりである。



荒地


[さすらい人/助けを拒絶する者]


『新約聖書』によれば、イエスはヨハネから洗礼を受けた後、40日間に亘って荒地で悪魔から誘惑を受けた。初期ギリシャ教父と砂漠の神学がある。原始キリスト教における荒地の「隠者」は、後に組織化され、これが修道院の原型となったとされる。ユングの『赤の書』における「荒地」の記述にはこのような歴史的背景がある。


上記は、聖書に記述された現実世界のどこか、実在する荒地を参照するものである。


キリスト教では、「ハデス」、「煉獄」、「地獄(ゲヘンナ)」、「辺獄(リンボ)」が区別される。この区別は重要である。


1.「ハデス」は、ギリシャ神話に由来し、『新約聖書』で死者が行くとされる場所。へブライ語の「シェオル」に同じ。一般的には、肉体的な死から、神の最後の審判までの中間状態を指すと理解されている。「黄泉」、「陰府」とも訳される。いわゆる「霊界」であり、善人も悪人もさしあたってそこに入ると一部では考えられている。(洗礼を受けていない人々も同居するのかという問題は未決定である。審判までのあいだ人々がいかなる状態にあるのかは、まったくもって明らかではない。)


2.「煉獄」および「地獄」は、最後の審判の、悪人が行く場所。「地獄」が神から永遠に離れ、永遠の責め苦を受ける状態であるのに対して、「煉獄」は、苦罰によって罪を清められた後、天国に入るとされる。「地獄」の永遠性の否定は、オリゲネス以来、異端とされている。これは強い主張であり、「煉獄」が事実上の天国への入場券であることと併せ考えるべきである。


★「地獄」であれ「煉獄」であれ、輪廻を前提とする仏教における地獄表象とは。このことは強調に値する。(まず、仏教における地獄の刑期は、途方もなく長いが、。そもそも仏教に永遠という概念があるのか疑わしい。また、刑期を終えた後「天国(極楽)」に入るわけでもないので、煉獄の表象とも合致しない。)


(煉獄の苦罰の軽減のための祈りが教会で普通に行われていることは仏教での追善供養に似るが、審判はまだのはずであり、これがどういうことなのかまったくわからない。ハデスがゲヘンナと同じとされるときと同様の混乱がここに見出せる。地獄が二種類あるというよりは、中間状態の解釈のちがいである。)


3.「辺獄」は、かつては「陰府(よみ)」とも訳され、キリストが死後の復活までのあいだとどまった場所とされる。カトリックでは、洗礼を受ける前に死亡した幼児が行く場所とも考えられてきた。神学理論上の間隙を埋める仮説的意味合いが強い。洗礼が天国へ行くための必要条件だとする強い主張を教会が堅持してきたという歴史的背景がある。


幼児の取り扱いについては、アウグスティヌス以来、長きにわたる議論の歴史があり、いまなお完全な決着はついていない。「キリストの地獄降下」ないし「冥府の征服」を信じる東方教会では、シェオルないしハデスと同一視されているが、カトリックにおいては、辺獄は「ハデス」や「煉獄」とは異なる場所と考えるのが一般的である。


異教徒の取り扱いについても、似たような問題を孕む。ダンテは『地獄篇』において、「辺獄」をアケローン川の先、ミーノスの審判所の前にある地獄の第一層として描いており、徳の高い異教徒が美しい(しかし憂いを帯びた)城に住むとした。


要するに、「辺獄」は、洗礼を受けていないが悪人ではないもの(幼児や徳の高い異教徒)が死後に行く場所と理解することができる。


★私は「ハデス」と「辺獄」の表象を「荒地」に統合したいと思っている。そしてこれを仏教的要素(「餓鬼道」)と結合したうえで、物語に組み込むであろう。


仏教では「辺獄」に類する考えは見当たらない。しかし私はこれを考えたいと思っている。私は当初から「道から外れた者」、「亡命者」という表象を荒地に求めてきた。荒地は、宗教の枠に収まらない者、収まるのを良しとしない者、孤独な魂の持ち主の終焉の地である。


本小説において、餓鬼の存在規定には、以上の精神論的な意味が与えられる。


[変更]

当初案では、道徳的な亡命者の末路として考えられた。コミットメントからの逃避により帰結する絶対的孤独が、人間の楽園を意味するとは到底考えられなかったのである。(現在の下書きでは、新案は廃棄され、むしろ当初案に近づきつつある様相を呈している。)新案では、砂漠の城に住むハーデスおよびプルートーを、徳の高い異教徒とみなして、西洋の辺獄の表象に結び付けようとしていた。


しかし、現在では砂漠の城の節は放棄されようとしており、それに伴って、西洋の表象とのあまりに強い結びつきは、断念されようとしている。仏教とその世界に対する、客観的で、外的な批判的視野は、(当初案ではこれが主人公の視野であったが、)異教の神であるプルートーがこれを代示するものであって、そのようにして、仏教思想の内在的批判がいまや可能となりつつある。


以上の大きな変更に伴い、プロトコルのバージョンを更新することにしたい。



砂漠の城


[登場人物]

異形の者(ハーデス):堕落した天使。砂漠の蠅たちの王。閻魔大王と同一。最初の人間。(→のちに削除)

従者(プルートー):閻魔大王の側近の一人。(→のちに「異教の神」と規定)


[ハーデスの台詞]

「この荒野には、何もないと、言ったな。それはお前の心がからっぽだからだ。喉が乾かないのは、飲み物を欲していないからだ。腹がすかないのは、食べ物を欲していないからだ。 もしおまえが一滴の水にあこがれ、探し求めるならば、 お前の喉はたちまちのうちに焼けつき、地獄の苦しみを味わうであろう。 そして、おまえの前には、澄んだ水をたたえた湖が、蜃気楼のように、遠くにかすんで見えてくる。しかし、それは幻であって、近づいたと思ったら離れ、離れたと思ったら近づく。永遠にお前の渇望を刺激しつづける幻が、お前を永遠の地獄に連れ去るであろう。有るものへの渇望が荒野を地獄へと変える。」


[変更のための議論]

当初案では、ここで砂漠の城に住むハーデスに身をやつした閻魔王に謁見することになっていたが、この展開は、削除したほうがよいという意見に私は傾いている。


第一に、プルートーを異教の神と規定したいま、閻魔王とハーデスを同一視するのは、かなり無理があることである。(そもそもプルートーとハーデスは記述表象では同一であるから、両者を区別することは本来無理があることであった。)


第二に、砂漠の城で交わされるはずであった会話の大部分は、すでに第一章に組み込んでしまっており、なおかつ、プルートー自らが自分の意志で仏教の地獄に来て、主人公に同行することを意志する展開が生じたことによって、主人公がこの時点で閻魔王に謁見することには、ほとんど意味が無くなってしまっている。(当初案では、プルートーは閻魔王の眷属として初登場する予定だった。プルートーを主人公に同行するよう閻魔王に指示させることが、この節での当初の目的のひとつだったのである。新案では、プルートーは異教の神で、閻魔王の眷属に身をやつし、主人公を追って仏教の黄泉の世界に潜り込んだ者である。全体として、当初の私が東西の世界観の統合を志向していたのに対して、現在の私は、記述表象の大幅な変更は、先行理解を有する読者の混乱を招きかねないがゆえに、特段の理由が無しにこれを行うべきではないという意見に傾いている。ゲーテの『ファウスト』はキリスト教の神とギリシャの神々、それからオリエントの神々をまぜこぜにはしなかった。)


第三に、ここに挿話的な物語を挿入するよりも、主人公を砂漠から直ちに帰還させた方が、「六道」章全体の展開がわかりやすくてよい。



地獄


仏教では、地獄はこの世界と同じ次元に存在する。「地下世界」という表象は、行き来が不可能であることに基づき、世界の断絶は、空間的な隔たり以上のものではない。事情は、天、浄土についても同様のようである。


また、それゆえ、地獄は死者の国ではなく、輪廻による新たな「生」の世界である。だから、地獄での人の寿命ということが語られるし、そこには生と共に死もまた存在する 。(したがって、しばしば言われるように、輪廻と極楽往生は矛盾するわけではない。)


だが、そうであるがゆえにかえって、説話におけるこの世とあの世における生の(意識の)連続性に説明がつかなくなるように思われる。地獄における新たな生は、明らかに、閻魔の審判より以前に始まっているのではない。この問題は、解決不可能であろう。


★今日のわれわれは、地獄が地下世界にあると考えるわけにはいかないし、地獄の「生」を輪廻の範疇に入れるわけにもいかない。堕獄による罪の浄化は、輪廻のプロセスとして理解すべきなのである。



[地獄の構造と業因について]


先行する議論から、以下の原則的な取り決めがなされた。地獄の構造、および業因については、源信の『往生要集』の記述に従うことにして、。それらが抱える問題は、(先行するプロトコルでの)長大だが無益な議論の結果、解決の見込みがないと判断されたからである。



[死後の幸福を勘案したうえでの善行]


(善行については、『夢幻』作品群の共通のプロトコルを参照する。これが通底する主題である。下記は、因果応報が存在する世界での、つまり神の報いが存在する世界での、善行に関する注記。)


死後の幸福を勘案したうえでの善行は、本質的に言えば、道徳的ではなく、利己的である。なぜなら、道徳的行いとは、善そのものを目的としてなされるべきだからである 。


ただし、それが通常の偽善と異なるのは、幸福にあずかることができるのは死後の世界においてであるという点である。想定される幸福が次元の異なる世界(来世)に追いやられるときには、この次元(現世)では道徳的行為のみが存在する。


よって、来世利益に基づく善行は、合理的な視点からは過度に問題視されるべきではない。(なお、現世利益というテーマは、本作では追求しない。)



[無責任な信仰者/審美家についての注]

「もののあはれ」という美学は、仏教によって脚色された、すぐれて貴族趣味的な捉え方である。真・善・美の区別を知る者の目には、これはきわめて混乱した考えに映る。仏教的な真理に美を見出すことは、理論的判断と美的判断を混同しているからである。


いずれにせよ、道徳を美学に基づけることに私は懐疑的であって、悪いことをしないのはカッコ悪いからだというのは※、自己陶酔的なダンディズムにすぎない。道徳を自己愛に基づけるやり方は、あまりにも脆い。もっと確固とした地盤の上に道徳を建設しなければならないし、実際そのようであるというのが私の意見である。


(※「いじめをするのは、かっこ悪い」とか「ダサい」という仕方で、規制の根拠を美的判断に求めることは、実践的には意味がある。しかし、それは道徳的判断ではない。「かっこ悪い」とか「ダサい」とか、他人に後ろ指さされないためにいじめをしないというのは、動機としては完全に利己的である。結局は、自己愛に基づくものであるがゆえに、論証としてはまちがっている。悪は、人間性を棄損するものとして、悪そのものの性質によって、否定・排除されなければならない。)


そして、道徳にせよ、人生にせよ、破滅に美を見出すという考えは、現実とまじめに向き合う立場からすれば、到底受け入れられるものではない。平安貴族は、散りゆく桜を眺めて感傷的になった後で、籠に乗って帰って贅沢な飯を食らうのである。我が身かわいさに自分の身に降りかかってきた不幸を嘆き、他人の同情を買おうとすることなど、自己愛に根差した愚かな行い以外の何ものでもない。


こうしたことを日本人の優れた美的感覚だと吹聴することは、実際かなり頭のおかしいことであって、致命的な論理性の欠如と巧みに隠蔽し他から見えないようにした日本人の利己心によるそれ自身の発露以外の何ものでもない。


(九想図、くそうず)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。これは、修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知る修行ためのものであるということは、強調に値する。仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった(以上、百科事典より)。『往生要集』の「厭離穢土」の第五「人道」では、人間の体がいかに臭くて汚らわしいものであるかという視点から脚色された人体の解剖学的記述に多くの紙面が割かれている。


九相図とは元来こういうものであり、これを「もののあはれ」という日本人の美的センスに引き合わせて解釈しようとするのは、たんにばかげているだけでなく、たぶん途方もない時代錯誤を犯している。博物館に展示された絵画は、確かにそれ自体ひとつの芸術作品であるが、芸術は美の表現であって、鑑賞者に快をもたらすという短絡的理解が混乱の背景にある。しかし、これが醜の表現であり、見るものに不快をもたらすことを意図して描かれたということは、疑いの余地がない。


も、元来、そのような意図のもとに製作されたものである。これを顛倒させてしまうのは、文字通り倒錯的であり、もっとはっきり言えば、変態的である。こういう些細な勘ちがいが、日本人の変態性を助長するものとして、日本人の品格を切り下げる元となっていることが、問題視されなければならない。


根底にあるのは、ここでもはやり数奇者ぶった専門家気取りの高飛車で愚かな優越感であり、何かわかった気になっているだけでその実ぜんぜんわかっておらず、途方もない勘ちがいをしでかして得々とする厚顔無恥さは、口を慎むということを全く知らない。束の間の感傷に浸り駄弁を弄して、芸術から引き出してきたと称する価値を自分自身の価値だと錯覚するようなつまらない人たちである。彼らは変態ですらない。たんに変態を気取っているだけであり、しかも彼らは、誰かが彼らを変態だと非難したときに反論するために、ほとんどそのためだけに、変態を気取るのである。こうした偽装は、近年のサブカルチャーではほぼ普遍的に見られる。他人とは違うということを示すための、ほとんどそのためだけの倒錯を装った自意識が地下に蔓延っている。このことは別途批判されなければならない。



[菩薩の代受苦]

菩薩は、成仏できているのに、衆生を救うためにあえて現世にとどまっている存在だということが重要である。このことは、裏を返せば、ということであり、善行を行わなくても成仏できるのなら、普通の人ならばあえてそのような余計なことはしないだろうということなのである。


この切り離しの意図が、善行の意図の純粋性を保つためだったのかどうかは、議論の余地がある。私の理解では、大乗で仏性ないし如来我という考えが生じたことにより、善行それ自体の要求が高くなったのであるが、仏教はこれを戒律の切り上げによってではなく、ある種の理念体として、「菩薩」という、善行(菩薩行)の専門家を要請することによって解決したのである。これにより、一般の信徒は、善行をする側ではなく、もっぱらその恩恵を被る側に立つことになり、結局のところ、に至るであろうというのが私の理解である。


本節では、純粋な利他行の偉大さが、描かれなければならない。それは、我々には何か理解できないものであって、まさにそうであるがゆえに、我々はそれを行いえないし、また行うつもりもぜんぜんないのだということが、気づかされなければならない。


常識道徳が信仰を離れて基礎づけられうるかどうかということが重要である。家族や仲間内の倫理は、厳密な意味では道徳と呼ぶべき代物ではない。善行の純粋性という理想が仏教の一般信徒の視野に入ってくるのは、元来は修行僧を意味していたところの「菩薩」が、利他行の専門集団として、信仰の対象となったかぎりでのことである。


が提示された。それは宗教と道徳の緊密な連携の始まりであると同時に、終わりへの第一歩であった。しかし、時間をかけて徐々に崩壊し、衰退し、腐敗していくのも、それが生きた思想だからである。道徳的な完全無欠さが、菩薩をして地上の救世主あらしめ、したがって人々の信仰の対象となるのであるが、そうすることで、菩薩は誰でもない者、決して近づくことのできない理念的存在者として規定されてしまうのである。


仏教が描くのは、善行の報いが存在する世界であるが、純粋な善行は後に、菩薩の専門的な修行と化してしまった。菩薩が仏に匹敵する信仰対象とされたことによって、信者は道徳的コミットメントから自らを遮断したのである。



裁判


『往生要集』によれば、すべての衆生は、よほどの悪人とよほどの善人をのぞき、死後「中陰」と呼ばれる存在となり、四十九日かけて順次十王の裁きを受けるとされる。十王とは、秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、泰山王、平等王、都市王、五道転輪王であり、それぞれ、初七日、十四日、……、四十九日、百ヶ日忌、一周忌、三回忌に対応する。しかし、これらの形式は、本作では


次のことが議論されるべきである。


(1)追善供養(中陰法要)を無効とするか否か。

(2)「中陰」という存在の仕方は認めるか否か。


(1)追善供養のバカバカしさは、どんなに強調してもしすぎるということはない。あれは罪を軽くするようにと、十王に嘆願していると解釈しうる。(遺族による供養における態度も浄玻璃鏡の証拠物件となりうる。)道徳的に見て、極めていかがわしい行いであり、明らかな脱法、賄賂である。裁判の客観性・中立性・公正性を損なう卑劣な行為であるのみならず、慈悲に訴えかけて閻魔王の尊厳を傷つける邪な考えであると理解せよ。


[妥協案]規範的には、以上のようであるが、現に通用しているものとしての記述表象とのバランスを考えて、私は以下のように処理する。裁判の公正性の主張は、いわば汚れ役として、俱生神にこれを担当させ、閻魔王による最終的な判断にあっては、罪人による罪の悔悟に焦点を当てることで、問題と正面から取り組むことを避ける。


(2)「中陰」とは、一般には、人が死んでから次の生を受けるまでの49日間のこと。死者があの世へ旅立つ期間とも解釈される。上座部仏教にはない、日本独自の概念であるとも言える(ただし、浄土真宗には事実上、中陰はない)。私には、生きているとも死んでいるとも言える状態というのは、よくわからない。強いて言えば、霊魂だけの状態と解すべきであるが、閻魔王の面前に立つのは、明らかに生身の人間である。これは混乱した考えであって、認めるわけにはいかない。


しかし、地獄の説でもふれたように、死後の「生」の抱える問題は、根本的に解決不可能である。物語上の要請としても、死後の人間を生きている状態との類推において描くより他なく、説明は断念されるべきである。


[参考]「地獄の沙汰は金次第」という言葉の意味について。

最近読んだある記事では、この言葉は「地獄に行っても閻魔様にお金を積めば放免してもらえる」という意味ではなく、「大きな富を持つ人間は守銭奴となってお金に固執するのではなく、世の中のためにお金を使って徳を積みなさい」という意味だと論じている。これは非常に考えさせられる見方である。というのも、いかにも仏教の僧侶が言いそうな、美辞麗句で本質をごまかした発言だと私には思われるからである。要は、物は言いようであって、上の発言は、富める者に「喜捨をしなければおまえは地獄に堕ちるぞ」と暗に脅しをかけているともとれる。むろんこれが本来的な動機付けなのである。


仏教では釈迦の時代から続く伝統として「布施」が利他行の重要な一部をなしてきた。それはもっぱら教団の維持という観点から要請されるところであり、またそのようにして正当化されうる。しかし、ここにはやはりいかがわしいところがあって、地獄に堕ちるという脅迫めいた文言の元に布施を強要するのは、まともな宗教のすることではない。現代の葬式仏教ではそれのみが本職となりつつある感があり、むろんこれをもって僧侶全般を断罪するというわけにはいかぬが、上のような発言をいまだに抜けぬけと言い、それを有難がって聞くような馬鹿者どもがいることには、やはり注意を払わねばならない。


裁判における「法」について。

冥府の裁判で対象となる法とは、むろん現実で言う刑法のことであるが、経典におけるそれはあまりに世の現実と乖離しているために、まともに取り上げるつもりであるならしかるべき修正が必要である。しかしながら、私はこれをあまり深刻にとらえたいとは思わない。けだし、ありそうな法律を苦労してでっちあげたとしても、説得力のあるものとはなりえないだろうからである。


むしろここでは物語としての虚構性を前面に押し出し、悪人懲罰的な視点から皮肉を交えながら、冥府の法の実情を軽やかに描写すべきである。そのためにはある程度現実ばなれした法外な罰が宣告されるほうがよい。どのみち主眼は道徳なのであるから、実定的なものとしての法律(Gesetz)よりも、その基礎づけとしての道徳的議論、理念としての法(Recht)が本作の主題となる。


1.本作で私は閻魔王による判決を内的な良心の裁きと広範囲にわたって同一視するであろう。現実への反照がここでもやはり重要なのであって、本作の主眼とするところは常識道徳の基礎づけであるから、私は判決に至る議論の過程において種々の道徳的概念を演繹し、その意義に関する理解を深めることを叙述の目標とすることにしたい。


2.したがって法の実定的な側面は結局のところまったく重要ではないが、この側面を急進化して前面に押し出すと、個人の遵奉性の意識が損なわれてしまう恐れがあることには注意しなければならない。「悪法も法なり」というソクラテスも従った格言に本作もあくまで追従しなければならないのである。


[登場人物・道具]

閻魔大王:地獄の王、冥界の主。死者を裁く神。日本仏教では地蔵菩薩の化身とされる。→注1

俱生神(く〔ぐ〕しょうじん):閻魔王の意向をうけて、人が生まれると同時にその人の両肩に住みついて、生涯の善悪の行為を記録する(石田282)。→注2

浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ、じょうはりきょう):閻魔王の裁きを受ける際に生前の行為が映し出される鏡とされる。内的な声である思考も再現できる。これで嘘が判明すると舌を抜かれる。一説では、罰するためではなく、反省を促すための道具とされる。→注3

書記官:「司録」と「司命」という書記官が閻魔王の左右に控え、業務を補佐するとされる。平安時代の小野篁がこの役職にあったという伝説がある。


[1] 閻魔大王について

『リグ・ヴェーダ』では「ヤマ」。最初の人間、人間の最初の死者ともされ、死者の国の王となり、虚空のはるか奥に住む。時代が下るにつれ、楽園としての霊界の守護者から、死者を罰する神へと変化していった。後に仏教に取入れられ、地獄の主「閻魔天」となる。(暗黒世界の閻魔と光明世界の夜摩天に分裂したという見方もできる。)後に、中国で道教の影響下で十王信仰と結びつき、地獄の裁判官の一人とみなされるに至る。現在の一般的な閻魔の表象は、唐の時代の中国のもの。日本文教では、地蔵菩薩と同一視され、閻魔はその化身とされる。平安時代の末法思想の影響下で、源信らによって民衆に広く広まる(以上、百科事典を参照)。


基本的には厳格にして公正なる裁判官として描写したい。それゆえ彼の思考や言動を制限したり条件づけたりすることには、私は批判的である。記述的表象における私には不純に見える要素は排除されるであろう。下記の排除ないし修正は、減罪・滅罪のための切実ではあるが卑しい努力が現世における善行の勧請の妨げとなるかぎりにおいてのみ有効なものとみなされるべきである。


1.中陰法要による恩赦

2.地蔵菩薩の化身ということから連想される本来不必要な憐み


厳正なる裁判官であることは、むろんただちに人格における非情さを意味しない。しかしながら感情に訴える議論等によって容易に判決の内容が変わってしまうのでは、われわれは彼の裁判官としての資質を疑うであろう。一方で彼は常識的・伝統的な視野を容易に手放さない頑なさを備えていなければならない。けだし、議論によって極端な結論に容易になびいてしまうのでは、裁判の安定性や威厳が損なわれてしまうからである。しかし他方では、あまりに保守的でたんに権威を振りかざすだけの存在として描写するのでは、彼の人格に魅力がなさすぎる。両者の間で適度にバランスをとりつつも冥府の王として相応しい威厳ある成熟した人格の持ち主として描かれるべきである。


彼の神としての格についてはプルートーと同格とするが、閻魔の方が威厳のある姿として描かれる。その理由は、ここが彼の本拠地であるということ、またそれゆえ部下たちの手前、威厳を取り繕わなければならないということにしているが、これを描写することは不可欠なことではない。世に普及している権威主義的な表象にはおそらく封建時代の名残と言うべき重厚さが付着しているが、これは現実の裁判においても多かれ少なかれ見られることである。


「おまえは罪を軽くしてくれというが、わしは公正なる裁判官であり、徒に/不法に罪を軽くすることもなければ、重くするということもない。すべておまえが作ってきた罪なのじゃ。観念してその身に引き受けよ。言っておくが、誰かに代ってもらおうなどと思うのは、無駄なことじゃ。たとえおまえの両親、妻や子供であっても、おまえ自らが作った罪を、代わりに被るということはできぬ。業とはおまえ自身がしてきた行いであるから、その果であるところの責苦は、おまえ自身が(その身で)引き受けなければならぬ」


このセリフは以下の文のアレンジしたものである。


「閻羅常にかの罪人に告ぐ 少(わず)かの罪も能く加ふることあるなし 汝自(みずか)ら罪を作りていま自ら来る 業報自(おのずか)ら招いて代る者なし 父母・妻子も能く救ふものなし ただ当(まさ)に出離の因を勤修(ごんじゅ)すべし この故に応(まさ)に枷鎖(けさ)の業を捨て 善く遠離を知りて安楽を求むべし」(『大宝積経』〔源信73〕)


なお「出離」とは解脱のことであるから、最後の文は生きているものへの戒めと見られる。これを死者に説くことは、意味のないことであろう。出離の因とは、現世での行いのことだからである。地獄での責苦が転生の因として作用するということは、考え難いことであろう。その後どうなるのかは、前もって、別に考えられなければならない。


[2] 俱生神について

倶生神(くしょうじん)は、人の善悪を記録し死後に閻魔大王に報告するという2人の神のこと。倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する。人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという(百科事典より)。


当初、私は冥府の裁判における弁護人の不在を問題視しようと考えていたが、最近では、この2人の神が弁護人と検察の役割を引き受けることができるのではないかと考えるようなった。善の神として「同名」、悪の神として「同生」という馴染みのない名称を用いるよりも、いっそのこと現実の裁判から名称を借用するか、それに代わる近づきやすい名称を考案すべきかもしれない。


裁判の規範性については、現在でもまだ決着がついているわけではないが、他の場合と同様にここでも記述的表象の原始性ないし虚構性に関する細かな点にこだわっても得るところがほとんどないという意見に私は傾いている。次註も見よ。


[3] 浄玻璃鏡について

俱生神は原則的に虚偽の証言をしないと考える。よって、浄玻璃鏡は、被告の嘘を見抜くための道具であるというより、嘘であることの証拠を被告に提示するためのディスプレイと考えたほうがよい。俱生神と被告の証言が食い違っている場合とは、要するに、被告が嘘を言っている場合のことだからである。


[変更]倶生神の性格付けの変更後も、上記のことに関しては基本的にこれを踏襲したいと考えている。だから善であれ悪であれ正直な神という前提が基礎にあるが、明確な対決という構図ができたことに拠って、浄玻璃鏡はいずれの方向にも与しない中立性という位置づけが生じるであろう。


また、現在の下書きでは、物語の進行上の要請として、浄玻璃鏡は俱生神なしには機能しないという条件が追加された。さらに、善なる神は善行のみを、悪神は悪行のみを記録し、これをディスプレイするという方針で論を展開したい。これとは別に、死者の大まかな経歴については、不明な仕方で書記官の手中にある書類に記載されているとしたい。以上はいささか乱雑な整理ではあるが、これ以上些末なことにこだわっても致し方ないというのが現時点での率直な意見である。


[さらなる変更]裁判時、浄玻璃鏡は、悪行のみをディスプレイすることとする。聖衆来迎寺六道絵「閻魔王庁」図を見よ。



参考文献


・本作における仏教世界の冥府の記述は、『日本人と地獄』石田瑞麿(著), 春秋社, 1998. 『往生要集』源信(著), 石田瑞麿(訳), 岩波文庫, 1992.を参照した。


・仏教思想の典拠としては、『浄土三部経』中村元・他(訳), 岩波文庫, 改版1990. 『法華経』坂本幸男・他(訳), 岩波文庫, 改版1976. 『般若心経・金剛般若経』中村元・他(訳), 岩波文庫, 改版2001. を参照。


仏教の応報思想は、『無量寿経』(『浄土三部経』のひとつ)の「五悪段」を、菩薩の性格付けは、『法華経』の記述を参考にした。他面で、『般若経』の形而上学には、深く立ち入らなかった。


・文体の面では、『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元(訳), 岩波文庫, 1980.から大きな影響を受けた。この経はいわゆる原始仏典であり、非常に繰り返しが多いのが特徴である。


・ユダヤ・キリスト教の典拠としては、『旧約聖書 創世記』関根正雄(訳), 岩波文庫, 改版1999.を参照した。作品内で言及された「ヨセフ物語」は、同書の後半部にあたり、しばしば古代文学における傑作と言われる。


・哲学・道徳思想としては、『実践理性批判』カント(著), 波多野精一・他(訳), 岩波文庫, 1979.を参照。本作の道徳についての捉え方は、ほぼ全面的に同書に負っている。


総じて、ストアの後継者としてのカント倫理学は、道徳的コミットメントを重視した仏教理解と折り合いが良い。


以上、主要なもののみを挙げた。

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