夏の亡霊

泉田聖

夏の亡霊

 夏の夜が嫌いだった。



「──ごめんなさい。また……待たせてしまって」


 午後九時。夏の夜闇に、鎮魂の花の咲く刻。

 待ち合わせに僅かに遅れて、彼女はぱたぱた下駄を鳴らしながら駆け寄ってきた。


 夜風に揺れる艶やかな紗の黒髪と、光の透き通る宝石の桜色の瞳。祖母に着付けてもらったという金魚の絵柄の浴衣が良く似合う、儚く可憐な少女がそこには居る。


「……花火、もう始まってるぞ」


 言うと、彼女が小さくこくりと頷く。何か言いたげな表情をしていた。けれど、有無を言われる暇もなく空いていたベンチの隣に催促する。


 空いたベンチの隣。彼女は浅く腰掛ける。甘い花の香水の香りが、鼻腔をくすぐった。花火の火薬と香りは混じって、より強く彼女の存在が強調されているような気がした。


「一年ぶり……ですね。また大きくなりました?」


 切り出したのは彼女の方から。紅の引かれた唇から紡がれた言葉は、何処か重たく弱々しい。声色の裏側に、言葉に出来ないもどかしい何かが喉につっかえているのが伺えた。


「そりゃな。一年も経てば嫌でもデカくなる」


 上の空なまま花火を見つめながら返す。

 そっか、と彼女は納得して、静かに目線を空へ向ける。咲き誇る花の赤、青、黄、緑──無限の色彩に満ちた世界を前に、彼女は息を飲んでいた。


「花火。向こうからじゃ見えないのか」


 訊ねてみる。

 すると彼女はこちらを一瞥して、


「向こうからでも、この街の花火は見えますよ。……でも、約束でしょう。この花火は二人で見ようって」


「お前は毎年遅刻して来るけどな」


 肩を竦めて、遅刻魔を小馬鹿にしてやる。

 あはは…、と苦笑混じりに彼女は謝罪する。決まり事のように毎年電車を一本乗り遅れて駆け足で来る彼女の悪癖は、何年経っても直りそうに無い。


「──もう、終わっちゃいますね」


 彼女が告げた瞬間。


 ぱっ、と桜色の花火が夜闇に花開く。

 次いで花弁の先々で、更に花が芽吹いてゆく。

 春の芽吹きを連想させる花火は、やがて夏の恵みを空に映し出し、秋の実りと冬の静けさを描いて散ってゆく。


 そうして、静寂が訪れる。

 暫時。沈黙が続く。

 花火を見終えた人々が帰路に着く中。彼女の方へ視線を寄越すと、その目尻に涙が浮かんでいるのが視界に飛び込んでくる。


「また泣いてるのか」


「ごめんなさい。また遅刻して」


「謝らなくていい。お前は悪くない」


 そうだ。彼女は悪くない。


 もう何年も続いている遅刻癖は、彼女が悪いわけではないし、彼女の力で直せるようなものでは無いし、ましてや他人にどうこう出来る問題ではない。


 今でこそ隣で花火を見ている彼女だが一度目の夏の夜は、こうして隣に座る事すら叶わなかった。


 あの夜は、何時間待っても彼女が花火を見にやって来ることはなかった。


──


 あの夜。八月十四日。

 彼女が花火大会に遅刻したのは、当時高校生の悪ガキだった自分自身の責任だ。


 友人との悪ふざけだった。

 付き合いの長い関係だから、冗談と受け取ってもらえると思っていた。


「──美保。好きだ。付き合ってくれ」


 照り付ける陽射しが肌を焼き、真夏の群青と積乱雲の要塞が聳える真夏日。高校生活最後の夏休みが始まった七月の終わり。


 十年以上の付き合いになる彼女に告白した。


 冗談のはずだった──いま思えばあの告白は本心からだ。確かに内に秘めていた想いが在った。


「えっ」


 告白をして、彼女の口から零れたのは驚愕の声。

 その声が当時の自分には、十年以上もの間、友達以上恋人未満な兄妹のように育ってきた彼女との関係の崩壊する音に聞こえた。


 まずい。本気で受け取られてしまっている。

 誤解を解かなければ──と、当時未熟で幼稚だった自分は彼女との関係を崩さない為、そう無責任で自己中心的な思考に逃げていた。


「本当……? ︎︎……嬉しい。私も、啓介の事がす──」


 それ以上はいけない。言わせてはいけない。

 彼女とは、まだもうしばらく友人のままでいたいから──本心では死ぬまで隣を歩くつもりだった。死んでも、彼女には隣を歩いていて欲しかった。


「ばーか。冗談に決まってんだろ! ︎︎なに本気にしてんだよ!」


 馬鹿はお前だ。今ならそう言い切れる。


「…ぇ」


 言いさし、彼女の目は点になる。


「俺はもっとお淑やかな女の子が好きなの。お前みたいな剣道ばかは眼中に無いぜ。第一お前貧乳だろ、俺巨乳派だし。髪もボブよりロング、……いやセミロングくらいが好きだし。そう考えるとあれだな──」


 矢継ぎ早に、早口に続けて吐き捨てる。彼女の誠意を悪意で塗り潰す。想いをこと如く踏み躙って、真実から耳を塞いだ。



「──俺、お前の事を女として見てないわ。悪ぃ」



 最低な言葉。


「……」


 沈黙が落ちる。

 部室棟と校舎を繋ぐ渡り廊下に、ひどく重たく冷たい零度の険悪さが満ちる。


「……それ、本気で言ってるの」


 美穂の口から言葉が漏れる。否。絞り出された、と言った方が正しいのだろう。彼女の声は震えていた。


「当たり前だろ。……お前みたいな女、誰も興味ないって」


「……」


 そっか、と美保。彼女の乾いた笑みを浮かべる心の奥に、ぽっかり穴が空いていた事に気がつけなかった。


「じゃあ、私行くね。部活始まっちゃうから」


 言って、突然美保は踵を返した。

 部室棟へ向かって上履きをの靴音を鳴らしながら、足早に彼女が去ってゆく。その背中は、心なしかいつもよりも小さく見えた。


 それ以来、美保とは連絡が付かなくなった。


 代わりに日替わりで美保と親しかった友人から数えればきりがない回数の着信と、メールでの罵詈雑言が送り付けられてきた。

 それは日々エスカレートしていって、夏休みも八月に入る頃にはクラス中の人間からそうしたメールを受け取ってしまっていた。


 高校三年の夏にして、人生初となる完全なる孤立をしてしまう。


 学生生活最後の夏は、何の思い出もないままに時間だけが過ぎ去って行った。



『死ね』『最低』『クズ』


「っるせえよ」


 八月十四日。午後八時四十五分。

 目を覚まし、昼夜逆転しきった生活を始める。もはや日課のようにメールを送り付けてくる暇人共の低レベルな暴言に舌打ちして、一日が始まる。

 やがて携帯の画面をスクロールして行くうちに、一通のメールに目が止まった。


『今日の花火大会、一緒に行きませんか』


 何処か一歩距離を置いた文章のメール。


「……誰だ」


 送ってきていたのは、美保だった。

 何故。という疑問符だけが脳を支配していく。


『なんで』


 問い返す。


『独りは寂しいと思うから』


 なんだそれ。


『偽善だろ。俺はお前に最低な事をした』


 孤立して当然の人間だ。


『あの時のは悪ふざけのつもりだったって聞いてます。だから、もう一回ちゃんと話したいです』


 ばかなのかこいつ。まさか冗談を真に受けてるのか。


『馬鹿だろお前』


 頼むから話しかけないでくれ。


『お互い様です。でも、告白してくれた時の目が、本気に見えたから。ちゃんと、貴方の言葉で聞きたいです』



「……何言ってんだよ。こいつ」


 ピロンッ。通知音が鳴る。鳴らしたのは、クラスのトークグループだ。脱退するのを失念していた。メールの内容を見ることも無く、右上のメニューを開いて脱退の文字を探そうとする。

 ふと、目に留まるやりとりがあった。


『花火始まるよ! ︎︎場所取りできてない人、近く空いてるから来て! ︎︎美保待ってるよ!』


 他愛もない招集の言葉。発しているのはクラスの中心に居る女子生徒だ。それに寄生している女子生徒数名が了解のメールを返していた。一人が、名指しで美保に誘いを掛けていた。


『ごめんなさい。今年は遠慮します。また今度、誘って下さい』


 美保は誘いを断っている。

 次いで、今度は美保との個人のトークルームで未読通知ひとつ、またひとつと増える。


『今日の花火大会、行くのか行かないのか教えてください。穴場を知っているので現地集合でお願いします』


 何故か無性に固い文章が印象に残る。


『場所は駅近くの河川敷です。お返事待っています』


 メールは一方的に終わる。読み終え、ベッドに背を預けたまま、もう夏休みが何日過ぎていて何日残っているのかも分からない感覚の中で、あの日から過ぎた時間を測ろうとした。

 二十日あまり経過しているようだった。

 課題は手付かずのまま放置されていて、未だに海にも行けていない。今までは美保と、近くの海に昼下がりには散歩に行っていたのに。


「……でも、な」


 今さら会った所で何を話せばいいのか分からない。行くのは辞めに──。


 断ろうと、メールを入力しかけた時。

 再び、美保からメールが届く。



『最後に。私は告白、嬉しかったです。口頭で言えないのが歯痒いですけど、私は啓介君の事が好きです──』



『これからの花火は二人で見たいです』



「……」


 メールを打つ手は、知らず拒否の二文字を削除している。

 指は無意識に、彼女の携帯電話への発信ボタンを押していた。体はベッドから跳ね起きていて、久しく外出の服に袖を通す。


 発信音が途切れると、実に二十と三日ぶりに聞く彼女の声。


『啓介くん……? ︎︎どうして電話……?』


「ごめん。美保、全部謝る。その上で俺からも頼む、これから見る花火は全部お前と見たい。死ぬまで、ずっと」


『──』


 電話の向こう、美保が目を丸くしたような気がする。そのうちクスっ、と笑い声が聞こえる。それってプロポーズみたいですね、といつになくかしこまった口調でこちらをからかう。


「……うるさい。会ったら言わなきゃいけないことが山ほどあるんだ。遅刻とかするなよ」


『分かってます。私からも言うこと、いっぱいあるので』


 何だかむず痒さを感じる。


「お前その口調どうにかしろよ。なんで敬語なんだよ」


『それは……』


 僅かに言い淀んで、美保が照れ臭そうに応える。聞いているうちにこちらの顔が赤くなってしまうような、そんな話を聞かされる。


『啓介くんがお淑やかな子が好きだって言うから。……髪も伸ばしたし、服装も色々変えてみて。胸は……どうにもならないけど』


「……マジで」


『マジです』


 こんな女を傷つけた自分に、無性に腹が立ってきて一発己の顔面を殴りたくなる。込み上げてくる怒りと、羞恥心を押し殺して電話越しに彼女に言う。


「会うの楽しみにしてる。待ってるから、絶対来いよ」


『分かりました。急ぎますね』


 電話を終え、携帯をポケットにねじ込み家を飛び出す。

 美保から指定されていたのは、自宅の最寄り駅から二駅西に電車を乗った河川敷。

 電車の中。刻限までに待ち合わせ場所に向かわなくてはという焦りから、自然と携帯を眺める回数は増えてしまう。


 美保から、電車が遅延して少し遅れるとメールがあってそれに了承の返答を送る。

 可愛らしい猫のイラストで謝罪され、その数分後に駅を降りたと連絡を受ける。


 それが彼女との最後のやりとりだった。



 午後九時。

 一発目の花火が打ち上がる頃。

 駅前の交差点で事故が起こる。


 交差点の信号を無視した自動車が、歩道へ乗り上げて横断歩道の切り替わりを待っていた通行人十名を巻き込み、内三名が即死。


 その中に、見知った少女の名前があった事を知ったのは花火が終わって数時間後の事。


 最後のやりとりがされたであろう駅前という場所と、殺伐とした駅前の雰囲気に悪寒を感じ取って様子を見に行き、全てを悟った。


──


「啓介くん、今年で幾つになるんですか」


 美保が──彼女の亡霊が、訊ねてくる。

 彼女は十八歳のまま。

 死んでからは、こうして夏の夜になるとあちら側から花火を見に来る。

 一年に一度、それももう今年で十二回目になる。真っ当に生きているのなら、三十歳に彼女はなれたはずだった。


「三〇だよ。もうおじさんだな」


「時間が経つのは早いですね。あれからどうですか。人と上手く付き合えてますか?夏は、好きになれそうですか?」


 言って、少女は重ねられない手を重ねてくれようとする。感触も、体温も無い。彼女の手は、空を掠める。


「……さあな。全部これからだよ。まだお前とこうして会っている以上、俺はあの時の小僧のままだ」


「……じゃあ、会うの辞めますか。そうしたら私は、このベンチを訪れる恋のキューピットにでもなったらいいんですかね」


 死人が未来を語るな、と内心では思うが口にはしない。言葉が他人に与える影響の強さは、身をもって味わっているつもりだから。



「いや、辞めないさ。お前とは会う。これからもずっと、俺が死ぬまで」



「でもあんまり早くこっちに来たら、私怒りますよ」


「ああ。わかってる」


 時計の針が時を刻む。

 ひと時の逢瀬。それが終わる。

 真夏の亡霊は夜の闇に溶けてゆく。優しく振られる手に、微かに手を挙げて応を返すと亡霊は心底嬉しそうに笑っている。


 会うのは、また一年後。



 「……っ」


 唇を噛み、夜の満点の星空を仰ぐ。

 頬を一粒、涙が伝う。


 これだから。


 これだから、夏の夜は嫌いだ。

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夏の亡霊 泉田聖 @till0329

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