沼の中で
犀川 よう
沼の中で
離婚した母に連れられて越してきたアパートの裏側には沼があった。目を凝らして見ないと、鯉なのか鮒なのかわからない黒く肥えた魚がいる沼だ。限りなくドロドロと澱んでいて、サイズ的には池に近い。
母は昼夜問わず仕事をしていたから、小学生のわたしの世話をしてくれたのは、隣りに住む大学生のKだった。まだ、「だいがくせい」というものを漠然としか理解できないわたしにKはとても親切に接してくれた。Kは大学にあまり行っていないようで、わたしが学校から帰ってくると必ず、「おかえり」と隣の部屋から声をかけてくれた。古いアパートは隣の部屋の音までまるわかりで、わたしがランドセルを置く音を立てると、Kは部屋のドアをそっとノックしてから入ってくる。母とどういうやりとりをしてそうなったのかわからないが、当時のわたしにとってKは年の離れた兄のような存在だった。わたしはなんの疑いもなくKを迎え入れた。それも喜んで。
Kは週に一度、近所の洋菓子店でケーキを買ってきた。それをあの沼の前で二人で食べるのがわたしたちの楽しみになっていた。夏前になってヘドロのような臭いがするあの沼の前に横たわる丸太に座りケーキを食べる。わたしはケーキの箱をお皿がわりに。Kはそのまま手でつかんで食べた。鳥の声が聞こえる中、黙って食べる。その沈黙を大事にすることが義務であるかのように、わたしは静かに食べた。
先に食べたKはケーキの箱を持って食べているわたしを立たせると、沼の淵まで招き入れた。そして決まってわたしに沼に入ることを誘った。最初は、そこに入ることに何の魅力も感じないわたしは「いやだ」と首を振って拒否をしたが、Kは根気よく誘い続けた。わたしはその度に、ケーキを口に入れたまま、Kを見て首をフルフルと横に振るのだった。
毎週同じことをくりかえしをしていると、沼に入らなければいけないような気がしていた。毎週おいしいケーキを食べさせてもらっていながら、Kのお願いを拒み続けることに後ろめたさを感じるようになった。
この日もわたしはKの買ったショートケーキを沼の前で食べた。食べながら、いつKが沼に入ることを誘ってくるかドキドキしていた。誘ってくれることにもくれないことにも期待している自分がいることに戸惑いながらも、沼を見ながらKの言葉を待っていた。
「どうかな、あの沼に入ってみない?」
Kはいつものようにさりげなくわたしを誘ってきた。わたしは心の中でKに求められていることを喜んでいた。転校先の学校ではクラスになじめず、母からの愛情も満足に受けられないわたしにとって、Kの言葉は神の啓示に近かったのかもしれない。わたしはあらかじめ靴下を脱いで家を出ていた。Kにとってはそれがサインだと思ったのかもしれない。Kはわたしをお姫様をエスコートすような丁寧で優しい仕草でわたしを沼に誘う。わたしは裸足になり一歩一歩沼へと進んだ。Kに食べかけのケーキを預けると、わたしは意を決して汚い沼に足を入れた。ぬめっとした不快な感触の後にひんやりとした心地良さがやってきた。あいかわらず臭いはひどいけれど、夏前の暑さを凌ぐには悪くない温度であった。
「よくできたね」
Kはとても嬉しそうにわたしを褒めてくれた。そのご褒美といわんばかりに、食べかけのケーキをわたしの口に入れてくれた。わたしは何か素晴らしい業績を残したような誇らしい気持ちになり、Kの指ごとケーキを食べた。Kはニッコリとしながら、わたしの舌をこちょこちょとして、指を引き抜いた。
一度経験すると恐怖を感じることがなくなり、あの沼へとだんだん深く入ってケーキを食べるようになった。この日はチョコレートケーキであった。わたしはすでに裸足と短パンで沼に向かうようになった。夏休みがはじまり、わたしとKはほぼ毎日あの沼に行くようになった。
「毎日ケーキであきないかい?」
「ううん。毎日食べられるなんて夢みたい」
わたしは短パンギリギリまで沼に漬かりながら笑顔で答える。Kはざぶざぶと沼に入ってきて、チョコレートケーキをわたしに食べさせた。時折こぼれたケーキくずを狙いに真っ黒な魚が口をパクパクさせながら水面まであがってくる。わたしはそれが面白くてわざとこぼす。Kはニコニコとしながら、自分の予定通りの光景に満足していた。わたしにチョコレートケーキを食べさせながら、最後に指を舐めさせた。
母が夜勤の日、寝ているわたしの部屋にKが入ってきた。わたしは少しだけ驚くが騒ぎ立てることもなく、眠い目を擦って、「どうしたの?」と問いかけた。Kは悲しそうな顔を向けて、「まだショートケーキが残っているから。どうしても君に沼に入ってもらいたくて」と言ってきた。わたしにとってはかなり遅い時間だったと思う。わたしは「今なの?」と尋ねると、Kは余裕のなさそうな切羽詰まった顔をして頷いた。わたしは日頃の恩と夜の沼に入ることへの抵抗感を天秤にかけながらも、最終的には頷いた。
「どこまで入ればいいの?」
「全部。君があの沼から消えてしまうまで」
「もぐるのね」
「うん。済んだら、ちゃんとシャワーで洗ってあげるから」
「洗うのは自分でできるよ」
さすがに恥ずかしくなったが、夏の夜のあやしさに誘われるように、わたしは支度をした。Kには部屋で待ってもらうことにして、学校の水着に着替えてからKの部屋に向かった。Kはとても満足そうな顔でわたしの手引いて沼へと連れていった。
夜の沼は思った以上に怖かった。名も知らぬ虫の声や犬の遠吠え、ネコの足音、生ぬるい風と不快な蚊の音。アパートの横にある電灯頼りの薄暗さ、そして沼の澱んだ臭い。わたしは自分でも腰が引いているのがわかった。
と、同時に、この暗い沼でショートケーキを食べたらどんな味がするのだろう、という興味も湧き出していた。あの魚も夜は寝ているのだろうか、昼間より水が冷たいのだろうか、そんな疑問と誘惑の中に引き摺り込まれてながら、わたしは沼でケーキを食べる自分を想像した。
「暗くてよく見えないだろうから、今日は僕も入るよ」
そう言うと、Kは躊躇することもなく、服のまま沼の中心まで入っていった。わたしはKが溺れてしまうのではないかと心配になったが、沼の深さはKの胸あたりまでだった。
Kはショートケーキを持った手を上げて、わたしに入ってくるように誘ってきた。わたしは夜に光るショートケーキに導かれるように、沼に足を入れ、慎重に進んだ。沼の底は思っていたよりもぬめりがなく、まっすぐ進むのに不自由を感じることはなかった。一歩進む度に、ショートケーキに近づいていく。Kは大人の仮面を脱ぎ捨ててしまっていることに気がついていないのようで、ギラギラとした表情をしていた。わたしはそれでもショートケーキを目指して進んだ。Kまであと数歩というところで沼の深さは既に肩を越えていた。
「怖がることはないよ。ここまでくれば、持ち上げてあげるから。だから泳がないでそのまま前へと進むんだ」
Kの言葉の語尾に荒さを含んでいてが、わたしはそのまま進む。目のあたりまでくると恐怖を感じたが、Kを信じて前へと歩いた。あと三歩、二歩、というところで、わたしは沼に呑み込まれた。Kの立っている手前にだけ深みがあって、わたしはそこにとらわれてしまった。
沼の中で慌ててもがくわたしに、Kは激しい声で「がんばれ」をくりかえした。どこか遠いところから声をかけられているように感じながらも、わたしはなんとか手を伸ばした。その指先がKのシャツの袖に触れたところで、Kはわたしを掴み、わたしの顔を沼から引き出した。
「よくできたね」
Kはとても嬉しそうにわたしを褒めてくれた。そのご褒美といわんばかりに、ショートケーキをわたしの口に入れてくれた。わたしは何か素晴らしい業績を残したような誇らしい気持ちになり、Kの指ごとケーキを食べた。Kはニッコリとしながら、わたしの舌をこちょこちょとして、指を引き抜いた。そして、露骨なほど身震いをしてから、わたしに、「ありがとう」と笑ってくれた。憑き物が落ちたような顔をしたKは、泥まみれの私の頭を優しく撫でてくれた。
沼の中で 犀川 よう @eowpihrfoiw
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