第3話
・・まぶたに温かな光を感じた。灯りは確かに消したはずなのに。酔っぱらって帰ってきた親父が、自分の寝室と間違えて照明を付けたのだろうか。うっすらと目を開ける。しかし僕の視野に差し込んできたのは、冷たい蛍光灯の光ではなく、温かさを持った自然の光だった。しかも手足には、風になびく草が当たる感触がある。わずかな草いきれの香りが、鼻孔を刺激してくる。屋外だ。また僕は、屋外に寝ている。身を起こして見た風景も、昨日と全く同じ。延々と続く草原。遠くに見える白い家。唯一違う点はと言えば、薄暗い曇天ではなく、爽快なほどに青い空に白い雲がちりばめられた空の様子。ゆるい風が頬をなでていく感触が、とても心地いい。僕はゆっくりと立ち上がり、思いっきり伸びをしながら大きく息を吸い込んだ。
風が草たちを波のように揺らして、大地を舐めていく。まるで緑の海の中に立っているようだ。しばらくこの穏やかな風景を楽しんだ後、僕はきびすを返し、後ろの道に出てみた。道や地形の様子を確認し、昨晩の記憶と照合していく。右手の森の様子。道のカーブ。そして、自分が着ている衣服。雨こそ降っていないものの、やはりすべての位置関係や状況は、昨日の夢にぴったりと符合する。同じ夢を繰り返し何度か見る事は、以前から経験があった。詳しい精神分析うんぬんはよく分からないが、ネットで調べた限りでは、こうした状態は極度のストレスや疲労から生まれるらしい。今の自分の状況からすれば、この「夢のリピート」にも何も不思議はない。
ほどなく、森の向こうから車輪の軋む音が聞こえてきた。木々の間を抜けるように、台車を曳く男たちが近づいて来る。僕たちをコロシアムへと運んだ、あのクルマだ。二人の牽引役と髭の男のキャストも同じ。昨日と同じように、また何やら談笑している。これもまるっきり、予想できた展開だ。おそらくまたあの奇妙な集会を経て、デュエルに駆り出されていくストーリーが進行していくのだろう。しかしここで僕は、あるひとつの実験を思いついた。この既定のパターンの中で、僕は果たして「いま現在の自分の意思で展開をねじ曲げていく」事が出来るのだろうか。夢の世界でとは言え、決められた展開を自分の力を打ち破って変えていく。それはとても魅力的な事に感じられた。
僕は昨日の行動を倣う事なく、車にいそいそと駆け寄り、その荷台に飛び乗った。髭の男と二人の牽引役は、やや驚いたような表情でこちらを見ている。すでに昨日のシナリオとは、明らかに異なる変化が現れているようだ。これは面白い。調子づいた僕は、髭の男に話しかけてみた。
「昨日のデュエルは、あれからどうなったんですか?途中退場しちゃったもんで分からなくて」
髭の男は呆気にとられた表情で固まったまま、おずおずと答える。
「あ、ああ、最初の陽動作戦はうまくいったようですが、やはり囮で削られた戦力差がー、えー、終盤になって響いてきて、結局負け・・てしまいましたね・・・えぇ・・」
後半はもう、しどろもどろといった感じだ。僕は吹き出しそうになるのをこらえるので精一杯だ。しかし前の牽引役の反応は、僕の悪戯心を満足させる、という程度のものではないようだった。
「お、おい。これは・・」
「あぁ、い、一大事だ。ついに来たぞ」
男たちはやや興奮した様子で、声のテンションも高い。来た?ついに?何が?このリアクションは想像できなかった。これだけの言動で、ストーリーは大きく変わってしまったのだろうか。まぁ、それならそれで面白い。夢の世界では、主役である僕が全ての創造主であり、支配者でもある。ここからストーリーがどう転がっていくか、じっくりと楽しませてもらおう。
「今日は回収はもういい。一刻も早く、王宮に向かうぞ!」
そう言いながら髭の男は、僕の横の席に飛び乗ってきた。そこは握手くんの席のはずなのに。牽引役の二人は軽く髭の男に視線を向け、無言で頷く。そして前方に振り返るのと同時に、ほぼ全力疾走に近いスピードで車を走らせはじめた。僕の体は後ろに引っ張られるようによろめき、髭の男の手に支えられた。
「少々飛ばしますので、お気をつけ下さい」
真っ直ぐに僕の目を見ながら、髭の男は語りかけてくる。その口調には昨日のような、妙に突き放した感覚は全くなかった。車はたちまち勢いに乗り、自転車での全力疾走にも近い速度で道を突き進み始める。こうなると舗装されていない道路のせいもあって、決して乗り心地は良いものとは言えない。僕も倒れ込まないようにバランスを取る事に精一杯で、軽口を叩くほどの余裕はなくしていた。悲鳴にも近い軋みを響かせながら、猛スピードで進む車。その前方に、握手くんの姿が見えた。が、車は全く速度を緩める事なく、その脇を風のようにすり抜ける。すれ違いざま、こちらに声をかけようとした握手くんと一瞬だけ目が合った。
「今日はあの人たちは、・・乗せなくていいんですか?」
顔を叩く風に言葉を遮られながらも、僕は聞いてみた。
「ええ。今は彼らより、あなたの事の方がずっと大切ですから」
「はぁ・・」
要領を得ない生返事をしながらも、気分は決して悪くはない。誰だって「大切」と言われれば、嫌な思いはしないだろう。まぁ、ちょっと握手くんには気の毒だが。その後も僕たちの車は、昨日とほぼ同じ場所で立ち尽くしていた長髪くん、やはり道路の脇にへたり込んで泣いていた涙ちゃんを、ほとんど無視するように追い抜かしてしまった。僕としては今回のストーリーにも、彼らが絡んでくれた方がいいと思うのだが。どうも事はこちらの思惑通りには進んでくれないようだ。
町に入っても、車の速度は落ちない。ただ、道が平坦になったおかげで揺れはかなり収まった。町の人々は昨日と変わらず、おっとりと暮らしを営んでいる。しかし僕たち一行のただならぬ様子を察してか、こちらに視線をくれても誰も声を掛けようとはしなかった。間をつなぐように、僕は聞いてみる。
「これからどこへ行くんですか?コロシアムではないんですか?」
髭の男はこちらの目を見据え、ひと呼吸置いて答えた。
「王宮です。あなたはここ、ミクリヤの王女と会わねばなりません」
「王女?なぜ?」
「あなたが私たちにとって、非常に重要な存在になるかも知れないからです」
ふむ。どうやらこの夢には、明確なストーリーがあるようだ。それもある意味王道の「巻き込まれ型」で進行しているらしい。僕としては、こうした展開は決して嫌いではない。救国のヒーローは、いつも他所からやってくるものではないか。
「うん。面白いね」
これは「つぶやき」のつもりの言葉だったが、髭の男の耳にもしっかり届いてしまったようだ。
「おお。面白いと!流石に肝が座っておられる。頼もしい限りですぞ!」
髭の男は身を乗り出し、爛々と目を輝かせている。僕はとりあえず、軽く頷いておいた。
コロシアムへの門のやや手前で、車は速度を落とし十字路を右に曲がった。やや進むと左手に、戦場の門よりもやや手の込んだ造りの、やはり茶色の石で組まれたゲートが姿を現した。蔦をあしらった門扉の脇には、衛兵がひとり粗末な箱に座っている。衛兵は怪訝な顔をしてこちらを見ていたが、僕と目が合うなり立ち上がり、戸惑いながら声を上げた。
「モーリ様、これはまさか・・・」
「そのまさかだ。急いで門を開けてくれぬか」
衛兵は腰紐に下げていた大きな鍵を鍵穴に差し込み、勢い良く門扉を開いた。それが開き切るか切らないかのタイミングで、車は門の向こうへと飛び込む。
戦場の駐車場ほどではないが、広く開けた空間。中央には10メートルほどの幅で整った石畳が埋め込まれており、左右には整然と植え込まれた花が咲き誇っている。別に植物に詳しくはないが、様々な色彩と形を持つその花の全ては、僕が見た事もないものだ。石畳の先に見える建物、これがおそらく王宮だろう。明らかに町中の家屋とは異なる、茶色の石造り。外壁には蔦の文様の装飾がうるさくない程度に配され、多くの四角い小窓が美しいドット模様を成している。とても上品な印象だ。ただその規模は「威容を感じる」というほどではなく、三階建てのビル程度であろうか。玄関の扉は彫刻の施された頑丈そうな木で造られており、三段ほどのステップがその周囲に半円状に広がっている。僕たちの車はステップの脇で、疾走を止めた。汗だくになった牽引兵たちは、二人同時にその場にへたり込んだ。
「二人とも、ご苦労だった!今夜は私が酒でも奢ろう。ゆっくり休んでくれ」
髭の男、モーリが声をかけると、二人は親指を立てた握りこぶしを軽く上げることで答えた。大きく動く肩と無言の返答が、二人の体力の限界を感じさせる。なんだか少し、心苦しい。
「さぁ、こちらへ!」
おずおずと車から降りた僕の手をつかみ、モーリは急かすように言う。僕は彼に手を引かれるまま、やや小走りでステップを上り、鍵のかかっていない玄関をくぐった。そこで目に入ったのは、意外にも質素な風景。竹のような素材で編み込まれた間仕切りで仕切られたいくつかの小部屋に、シンプルな机と四人がけほどの椅子。奥には扉や階段もあり別のフロアに続いているようだが、それを含めて見積もっても建物の大きさはたかが知れている。いくつかの椅子には兵士や住民が卓を囲み、のんびりと世間話に興じている。王宮と言うよりは、駅の待合室のような雰囲気だ。モーリと僕はいくつかのデスクの横を通り抜け、2階へと続く階段の前に立った。みんながキョトンとこちらを見ている。
「わが王女!大事でございます!ついにミクリヤにも、カラスが現れましたぞ!」
モーリは階上に向かって、建物全体に響くほどの大きな声を上げた。今まで陰になっていた所からも、多くの人が立ち上がってこちらを見ている。明らかなざわめきも起き始めた。僕は周囲の人々の視線から逃げるように、彼の背中越しに、階段の上に視線を送った。階段の突き当たりにはわずかな踊り場のスペースを経て、扉があるようだ。
「わが王女!」
モーリが再び叫んだとき、ゆっくりと扉が開いた。そこからひょっこりと、眼鏡をかけた長髪の女性が顔を覗かせている。何となく不機嫌そうに見えるのは、気のせいだろうか。
「モーリ。大きな声を出さないで下さい。みんな驚いているではないですか。手柄を焦る気持ちも分かりますが、この間のような早とちりが続くと班長からも格下げですよ!」
頭をかきながら、さも面倒そうな口ぶりを隠さない女性。その声は澄んではいるが、その分やや冷徹さも感じさせる声だった。また、理由は分からないままではあるが、これまで周囲の人の「驚く」リアクションを続けて見てきた僕にとって、彼女の反応はやや拍子抜けでもあった。
「まぁいいです。上がって来て下さい」
モーリは軽く会釈をすると、僕の手を引いたままドタドタと階段を上がりはじめた。僕もそのまま、ついていく。みんな土足であるせいか、階段はややホコリっぽい。階段を上がり、早足で扉を抜ける。2階のフロアはまた、下とはずいぶん雰囲気の違うものだった。細かく間仕切りされた1階とは異なり、学校の教室ほどはあろうかという大きな部屋。蔦がデザインされた濃紺の壁面に、天井からは簡素ながらもシャンデリアのような照明器具。部屋の中央には3メートルほどの円卓が置かれており、周囲には規則的に豪華な背もたれの椅子も配置されている。壁の一面は本棚になっており、古ぼけた厚手の書物が仰々しく並べられていた。確かにこの方が、僕の考える「王宮」イメージには近い。キョロキョロと周囲を観察していると、円卓の脇で腕組みをしてこちらを見ている、さきの女性と目が合った。
改めて見ると、ずいぶんと長い髪だ。腰まで届く栗色の毛先は、光に透けて金色に見えている。派手な装身具などは見あたらないが、市井の人々の衣服とは明らかに異なる、白く柔らかそうな布で出来た膝丈のドレスを身につけている。その上に羽織っている濃紺の衣類は、マントというべきかコートというべきか。金糸で縫い取られた蔦のデザインが鮮やかだ。
僕の頭からつま先までを、彼女は品定めをするように何度も視線を往復させている。ややつり目気味で凛々しい顔立ちは相当に美しいのだが、眼鏡の奥の瞳は、まだ冷たく感じられた。
「ふむ。見た目は他と全く変わりませんね。モーリ、彼のどこがカラスなのです?」
女性はモーリの方に体を向け、問い正すように詰め寄る。
「昨日の事を、覚えておりました」
モーリの言葉を聞いて、女性は真横からでも分かるほどはっきりと目を見開いた。その表情のまま、彼女の詰問のターゲットは僕へと移ってきた。
「昨日の天気はどうでしたか?」
「あ・・雨です。でも大雨ではなく、傘は要らない程度の・・」
「昨日は何がありました?」
「なんだか妙な戦闘ですね。囮部隊に入って、開始早々に味方に撃たれたと思います」
言葉遣いもかなりの大上段ではあるが、僕は彼女の妙な威圧感に、やや気圧されていた。これが王の威厳とかいうものなのだろうか。女性は僕の方を見つめたまま、手を顎に当てて考え込んでいる。そしてすぅと息を吸い込み、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「これは本物かも知れませんね」
まるで息を止めているかのように固まっていたモーリの顔が、ぱっと笑顔に変わった。
「よくやってくれましたモーリ。すぐに王女を呼んできますから、あなたはそこの席で彼と待っておいて下さい。聞きたい事もありますので」
そう言い残すと彼女は、パタパタと奥の扉へと向かった。彼女が王女、というわけではなかったようだ。気品と気高さでは、充分に王女でも通用すると感じたが。扉を閉められるのを見届けてから、僕とモーリは円卓に隣り合って座った。モーリはどうにも、ニヤけて崩れる頬を隠しきれないといった様子。両手で髭を引っ張ってみたりしている仕草が、妙に可愛く感じられる。
しばらく髭を眺めているという無駄な時間を過ごしているうち、奥の扉の向こうから今度は「ドタドタ」と表現するのがふさわしいような足音が、かなりの速度で近づいてきた。バン!と扉を勢い良く開き、転がり込むように部屋に駆け込んできたのは、白い布の塊。ではなく、白いドレスを纏った一人の少女だった。
「どこじゃ!カラスはどこじゃ!お、モーリ!カラスは?!」
まだずいぶんと子供っぽさを残す少女は、息を切らせながら、早送りのようなスピードで問いかけてきた。その言動の目まぐるしさとすばしっこさは、リスのような小動物をイメージさせる。白い肌に合わせたような淡い飴色の髪は、軽くウェーブを描いて肩に掛かっている。ドレスはシンプルではあるが、先ほどの女性が着ていたものより、さらにもう1段手の込んだ造り。絹のような素材とレース生地が巧みに組み合わされ、少女の首元から足元までを「気品」で覆っているようだ。もっとも着ている当人は、ずいぶんと「気品」とは離れた位置にいるが。何より目を引いたのは、少女が額に付けているアクセサリー。金細工の鎖のあちこちに青い宝石がはめ込まれており、それを人々が「王冠」と認識しても、何の不思議もない存在感を持っていた。
「カラスはどこじゃモーリ!もったいぶるではないぞ?」
少女はモーリに駆け寄り、後ろからその肩をゆさゆさと揺らしながら問いかける。モーリは頭を前後に揺らしながら、僕の方に手のひらを向けた。
「この人?そうなのか?」
まじまじとこちらを見つめる少女。モーリはまだ揺さぶられ続けている。僕は一瞬だけ少女の目を見て、すぐに視線を反らした。というのも、僕が想像していた以上に「少女が美しかった」からだ。大きな目と通った鼻筋。きめ細かな肌に、迷いなく引かれた水墨画の線のような眉。ただ美しいというより「僕が好きな顔立ち」なのかも知れない。その顔と目線を交わし合う事から、僕は反射的に逃げたのだ。理由はよく分からない。
「ほほーう。ははー・・」
少女がさらに顔を近づけて来ようとしている所を、ちょうど入室してきたマントの女性がさえぎった。
「はしたないですよ王女!それに王宮内では走り回らないように言ったはずです。早くこちらにお掛け下さい!」
少女は渋々言葉に従い、マントの女性の横の席に向かい、ちょこんと腰掛けた。助かった。
マントの女性は少女がおとなしく息を整えるのを見届けると、軽く咳払いをしてから切り出した。
「そうですね。まず自己紹介をしておきましょう。私はミクリヤ王国王室執事を務める、セラと申します。そして私がお仕えし、またこの国の女王でもあらせられるのが、こちらのアトリ様」
それぞれの名前が出るタイミングで、二人はそれぞれ軽いお辞儀をした。セラは深々。アトリはペコリ。こんな所にも性格が出て面白い。
「そちらはわが王国軍の特務輸送班長、モーリ。あなたが最初に出会った人物、だと思います」
モーリもこちらに向き直り会釈をする。僕も会釈で答えた。
「そしてあなたは?名はあるのですか?」
名があるのかと問われた事は初めてだ。僕は彼らにとって「名前があるのかさえ分からない存在」であるのだろうか。やや戸惑いつつも、ここは素直に答えておく。
「桐山雄一郎です」
「キリヤ・・マユー・・・長いですね。キリヤでも失礼には当たりませんか?」
「えぇ、まあ」
「では、今後あなたをキリヤ様とお呼びします。よろしいですね」
「えぇ、まあ」
どうもセラさんはかなりの仕切りたがりのようだ。見た目もやや性格がきつそうだし、美人だけどモテないタイプかも知れない。
「さて、まずこちらからお聞きします。あなた方は何者で、なぜこの世界に来たのですか?」
「・・・」
質問としては、あまりに大雑把だった。あなた方というのは、昨日の戦士たちを含めての事だろうか。自分が何者と簡単に定義できる人がいるのだろうか。この世界というのは、僕の夢の世界という事だろうか。それは少し自己中心的に過ぎる質問ではないかセラさん。やや言葉に詰まった後、僕は質問に質問を返した。
「あなた方というのは、昨日の戦士たちを含めての事ですか?」
セラさんはやや中空に視線を向け、考えるそぶりを見せる。
「モーリ。キリヤ様は昨日からの記憶しかお持ちでないのですか?」
モーリさんは急に話を振られた事に驚いた様子で、ピッと背筋を伸ばして答えた。
「た、確かめたわけではありませんが、そうだと思われます。一昨日以前は、キリヤ様も他のワタリと全く変わりありませんでしたので!」
ワタリ?何の事だ。この僕の疑問を読み取ったかのように、セラさんはコホン、と咳払いをしてから語り始めた。
「よろしい。やや説明が必要なようですね。キリヤ様。あなた方は半年ほど前にこの地域に突然現れはじめた、謎の人種なのです。決まった時間に決まった場所に、煙のように現れる。そしてわずか半日ほどこの世界に滞在し、再びどこかに消えてしまう。その様子を渡り鳥になぞらえて、私たちはあなた方を“ワタリ”と呼んでいるのです」
荒唐無稽な話だ、と思った。しかし昨日の自分の記憶と照らし合わせると、納得せざるを得ない点もある。僕は確かに、突然に草原で目が醒めたしな。
「ワタリは私たちにとって、理解しがたい特徴を備えています。その最たるものが“記憶を持たないこと”。現れるワタリは基本的にいつも同じ面々なのですが、彼らはみんなこの地に現れた時点で、全ての記憶を失っているのです。名前はおろか、自分が何者であるかも、誰一人理解していないのです」
それも心当たりがある。おかげで昨日は自由度がなくて面白くなかった。
「ワタリが何者であるのか。これは私たちにとって、最優先で知りたいことなのですよ」
セラさんはふぅと一息つき、こちらを見つめている。完全に答えを待っている目だ。困った。ここで出任せを話して、ストーリーを盛り上げるという選択肢もあるだろう。「我らは魔王の手先にて・・」なんて答えをしたときの、彼らのリアクションは見物に違いない。この世界が完全に僕の夢、夢想の産物であれば、それでも良かった。
しかし僕はどこかで「この世界は僕の夢なのです」という結論に、違和感を感じていることも事実だった。この世界はあまりに、朧げではなさすぎる。普段の夢では、自分の目の届かない場所や興味の向かないもののディティールは曖昧になる。しかしここでは、全てのモノが、ヒトが、状況が、僕の興味とは無関係に確立されすぎている。視覚や聴覚などの五感はもちろん、時間が過ぎていく感覚までもが、矛盾や不合理なく整いすぎている。僕にとってはやはり「夢」としか言えないのだが、それだけではない何かが、この世界にはあるのかも知れない。その興味は、僕を正直にさせた。
「僕は、この世界を自分の夢だと認識しています。僕は本来、こことは全く違った世界で、ごく普通に暮らしているんです。それが昨日から、眠ると同時にこの世界に出てくるようになったんですね。それに昨日の戦闘でも、やられた!と感じた瞬間に、もともとの僕の世界で目が醒めました。僕にとってここは、寝ている間の夢の世界なんです。今はそうとしか…言えません」
僕は出来るだけゆっくり、誠実に、自分にとっての本当のことを伝えた。セラさんは僕の話を聞いている間、微動だにしなかった。想定外の答えを、一生懸命に吟味し、理解しようとしているんだろう。しかしアトリは、そんなセラの様子を気にもしていない様子で、ずいっと円卓に身を乗り出してきた。
「じゃあじゃあ、キリヤの世界の話をいろいろ聞かせてくれぬかの!町の様子とかみんなの暮らしぶりとか!」
流石に子供は順応性が早いと言うか、アトリは僕の言葉をほぼ額面通りに受け取ったようだ。素直にそれは嬉しい。しかしこの質問に的確に答えることは、やや混乱状態にある今の僕には不可能だった。何をどこからどう説明したものか。説明したところで、分かってもらえるのか。僕は言葉に詰まり、目線でセラさんに助けを求めた。
「まぁまぁアトリ様。それは追々でもよろしいでしょう。キリヤ様も困っておられますから」
セラさんの言葉に、渋々アトリは椅子に座り直し、口を尖らせている。
「私たちとこの世界全てが、あなたにとっては夢なのですか。…にわかには信じがたい話ですね。しかしそれを嘘と断じる手だては、私たちにはありません。それにあなたにも、ここで嘘をついても何のメリットもありそうではない。この件には、その回答で納得しておくしかなさそうですね。…あなたからはご質問は?」
セラさんはやや落胆した様子から話を切り替えるように、明らかにハッキリとした声で僕の質問を促した。そう、こちらにも聞きたいことは山ほどある。無数の疑問が口から溢れそうになる中、最初に言葉となって飛び出してきたのはとても無難であり、真っ当な質問だった。
「あの…ここは一体、どこなんですか?」
セラさんは少し微笑んで、落ち着いた口調で話し始めた。
「私にも答えられるシンプルな質問で、安心しました」
あ。笑顔はなかなか可愛いなセラさん。
「何度か耳にしたかとは思いますが、ここはミクリヤ王国。正確に地勢は分かりませんが、東大陸の中央あたりに位置する王制国家です。人口は5000人ほど。対外的に知られる主な産業は、鉱業とキャラクター商品の販売ですね」
「キャラクター商品?」
思わず声に出た。
「はい。アトリ様を描いた絵画やタペストリー、生活雑貨など。近隣の諸国にこれらを販売して、私たちは外貨を得ています。我が国の主な収入源は鉱石の販売なのですが、アトリ様グッズの輸出額比率も、現在は10%ほどあります。この王宮の1階も、半分はグッズのショールームになっているほどですよ」
「どうじゃ。アトリは偉いであろ?」
ツンと上を向き、胸を張るアトリ。周辺諸国の人々の気も、分からなくもない。
いや違う。僕がこれまでとらえていた「クニ」の概念とは、ずいぶん違った様子だ。5000人と言えば、ちょっと大きな町程度か。しかも彼らはこの世界の全体図さえ、正確には把握していない。文明の成熟度で言えば、おそらく僕がもといた世界には、遠く及ばないものなのだろう。
「そうだ!キリヤにもアトリグッズを見せてあげよう!」
そう言うが早いか、アトリはぴょこんと席から飛び降り、階下に続く扉へと走っていった。
「あ・・」
セラさんが彼女を制しようとしたとき、アトリの眼前で勢いよく扉が開いた。危うく扉にぶつかりそうになり、急停止したアトリを優しく支えたのは、見覚えのある大きな男だった。
「おぉ、これは失礼!わが王女」
よく通る低い声。青い鎧に、後ろに束ねた長髪。昨日の戦闘で大将を務めていた、あの男だ。
「キバ将軍!どうされたのですか?今日の戦闘はまだ…」
セラさんは驚いた様子で男に問いかける。その言葉尻に被るように、男は大きな身振りを加えながら答えた。
「いえいえいえ。そこのモーリの部下から聞いたところ、我が国にもついにカラスが現れたとか。となれば、退屈なデュエルどころではないでしょう。これから共に勝利をつかむ仲間に、さっそくこうして挨拶に参った次第です」
男は低い声には似合わないほど饒舌だった。目線はくるくると話し相手に向き、自分の言葉がしっかり伝わっているかを確かめるようだ。やがて僕と目が合うと、彼はつかつかとこちらに歩み寄り、僕の左手を両手で優しく包み込んだ。
「君がカラスか。私はこのミクリヤ王国の軍隊長、キバ。充分なサポートは約束しよう。ぜひその力を、私たちのために活かしてくれ!」
奥二重の瞳は真っ直ぐに僕を見据え、キラキラと輝いている。昨日の演説は僕の目には、やや演技がかったものに映った。しかしどうやら「そうではない」らしい。このキバさんは、ナチュラルに「行動が演技に見える」人なのだ。正直僕としては、あまり得意なタイプではない。キバさんと二人の空間から逃げ出すように、僕はたびたび出てきていた「ある言葉」への疑問を、セラさんに投げかけた。
「そ、そうだセラさん。みんなが僕の事を指して言う“カラス”とは、何の事なんです?」
セラさんが言葉を発するより先に、キバさんが答えた。
「ほう。君はまだ、自分の力について聞いていないのか。よろしい。私が説明しよう」
誰もあなたには聞いていないのに。
「生涯旅を続けるのは渡り鳥。それに対しカラスは、自らの巣に留まり続ける鳥だ。君たちカラスはワタリとは違い、この地で連続した時を過ごす。つまり、何度消えようとも、自らの記憶を保ち続ける存在なのだ」
声はハッキリしているのだが、その内容にはピンと来ない。
「記憶があるという事が、そんなに重大な事なんですか?」
「もちろんだ。記憶がないというのは、己を持たないのと同じこと。己を持たない人間とは、会話は成り立たない。しかし我々はこうして語り合い、お互いを知り合い、力を合わせられるではないか。それだけで君は、他のワタリたちとは全く『ここに居ること』の重みが違うのだ」
確かに、昨日の僕はモーリさんとの会話を成り立たせられなかった。何を聞いても軽くあしらわれていた感もあるが、対話してもその内容を覚えていてくれない相手とのコミュニケーションとなれば、それも無理からぬことだと思う。キバさんはニコリと微笑み、さらに続ける。
「そしてもう一つ。…これは実際に見て頂いた方が話が早いか。セラ殿。このカラス…いや、えーと…」
「キリヤ殿です」
「失礼。キリヤ殿をお借りしますぞ」
「はぁ…まぁ良いでしょう。三階ですね?」
セラさんは明らかにこちらにも聞こえるようなため息をつきながら、しぶしぶ承諾した。キバさんは奥の扉に向かって歩き出し、僕に後についてくるよう促した。扉の先はやはり階段となっている。大きな背中を見ながら階段を上る僕の背後には、セラさんにアトリ、それにモーリさんまでゾロゾロとついてきている。階段を上がった先には、奥まで続く一本の廊下。右手にはいくつかの扉があり、窓のある左手にも一枚の扉があった。キバさんは左手の扉を開き、大きく丁寧な身振りで先に行くように指示を出す。
そこは石造りのベランダだった。奥行きは建物とほぼ同じ幅、15メートルほどはあるだろうか。胸ほどの高さのある木製の柵の向こうには、ミクリヤの町が広がっているのが見えた。もともとあまり高い建物のない、この国の町の風景。似たような屋根が連なる先には、草原や山々まで一望できる。僕は思わず柵に身を乗り出し、頬に当たる風の匂いを確かめた。
「キリヤ殿、こちらへ」
キバさんの声に我に帰り、ベランダの奥へと歩みを進める。その途中で町の風景はすっぱりと切り取られたように無くなり、眼下には茶色い建物と広い円形のフィールドが見えてきた。
「あ…」
自分でも意図しない声が出た。そのフィールドは間違いなく、昨日自分が戦った…というかバタバタ走り回ったあげく、自軍の矢に貫かれた「コロシアム」だった。建物の前にはやはり昨日と同じように、多くの「戦士」たちが陣を組んでおり、ざわめきの声も聞こえてくる。こんな見物席があったとは、下からでは全く気がつかなかった。三階ほどの高さからでも、戦場は遠くまで見通すことができ、うっすらとではあるが、こちらの陣の対角線上には敵陣らしきものがあるのも見えた。
「おお!ここから戦場を眺めるのは初めてですな!」
モーリは僕以上に目を輝かせているようだ。
「うむ。実は私もだ。いやぁ、この高みからだと実に良く戦況が掴めるな」
「キバは毎日下におるからの。妾などは毎日ここからみんなを見ておる。もう飽きたくらいじゃ」
「私はアトリ様がデュエルをご覧になる事を、あまりお薦めはしていないのですが」
それぞれが勝手な言葉を交わしているうちに、両陣から相次いで笛の音が響いた。と同時に、ミクリヤの陣からわらわらと戦士たちがコロシアムに降り立っていく。昨日と比べるとやや統率が甘く、それぞれの小隊の動きはやや散漫にさえ見えた。総大将が職場を放棄して高見の見物を決め込んでいるのだから、まぁ無理もない。
「始まったか。キリヤ殿、良く見ておいて下さい」
キバさんは真っ直ぐに戦場を見つめながら、フィールド中央の森のあたりを指し示した。
「ほら、来ましたぞ!」
その言葉と同時に、激しく揺れる森の樹々。その中央を突き破るように飛び出してきたのは、忘れもしない、昨日の黒ずくめの少女だった。思わず、息が詰まる感覚を覚える。少女は木の葉を渦のようにまき散らしながら森を飛び出し、いったんミクリヤ陣の中央に立ち止まった。腕を組み、胸を張り。少女は実に堂々とした態度で、辺りをゆつくりと見回したている。部隊の配置を把握しているのか、あるいは罠の有無を確かめているのだろうか。やがて彼女は戦士のまとまった小隊に目標を絞り、一直線にダッシュをした。いや、ダッシュという言葉は当てはまらない。踏み出すのと同時に彼女の足元からは土煙が上がり、目で追うのが難しいほどの速度で移動するのだ。初速から最高速。まるで地表を滑るかのように「飛ぶ」彼女。とてもではないが、人間業とは思えない。ミクリヤ側も、本陣近くの弓部隊が彼女に向けて多くの矢を放っているのだが、一度動き出した彼女はとても矢で捉えられるような速度ではない。何度かフェイントのターンを加えながら、彼女はターゲットと定めていた部隊の間近に立ち、手にしていた光弾を投げつける。的となった戦士たちは、慌てる暇も与えられない。斜めに大きく立ちのぼる土柱と、一瞬遅れてズドンと響く衝撃音。視界が晴れる頃には、すでに部隊の姿は引率兵を残して掻き消えていた。彼女は爆ぜた光の球を再び小脇に抱え直し、次の獲物を物色している。時折周囲に向けて叫び声を上げているようだが、その内容までもはここからは聞き取れない。
「今日は一段と激しいな。昨日罠にかかったのがよほど悔しかったと見える」
キバさんはまるで他人事のようにつぶやいた後、こちらに向き直った。
「彼女はクロエ。敵方であるカノツノ王国のカラスです。キリヤ殿も昨日デュエルに加わっていたのであれば、その姿を間近でご覧になっているかもしれませんな」
間近でご覧になるどころか、ずいぶんな態度で挑発までされたが。
「あの速度で動き回られると、剣はもちろん矢も何の役にも立ちません。またあの光弾も厄介で、彼女は戦士を直接狙うのではなく、足元の地面を狙ってくる。その衝撃と爆風だけで、ワタリを消すには充分なダメージを与えられるんですな。高速移動と広範囲攻撃。我々の手に負える相手ではありませんよ」
キバさんが解説をしている間にも、クロエは戦場のあちこちを蜂のように飛び回り、ミクリヤの戦士をあらかた消し去ってしまった。森からはゾロゾロと赤い額当てを付けた戦士が現れ、クロエの洗礼を生き残ったワタリたちを追い回している。圧倒的な数的戦力差に、ミクリヤはもう成す術もない。やがてコロシアムから青い額当ての戦士は姿を消し、ミクリヤの本陣から長い笛の音が聞こえた。降参の合図、と解釈して良いだろう。敵方、カノツノの戦士たちが、雄叫びの声を上げている。
「ウーム。やはりいつも通り、完敗ですな。話にもなりません」
再び他人事のように、キバさんがつぶやく。
「…カラスは、体格などは他のワタリたちと大差はありません。しかし戦場においては、私たちのものとは全く異なる『特種武具』を使い、圧倒的な力を発揮します。クロエの場合はあの光弾。異常な移動速度も、おそらくは彼女の靴が持つ力でしょう」
キバさんの分析は、半ば諦めにも似た感情を含んでいた。
「もういいですね。下に戻りましょう」
セラさんに促され、僕たちは無言のまま階段を下り、円卓に戻った。卓上にはいつの間にか、小綺麗なカップに入れられたお茶が、人数分用意されていた。キバさんはそのお茶を一息で飲み干し、僕に向かって話し始めた。
「キリヤ殿がカラスであるなら、クロエにも負けない特種武具を扱えるはず。心当たりはおありか?」
いや、おありではない。僕はまだ「昨日からのことを覚えている」というだけであって、全てのことにまだ手探り状態。彼らの言う「カラス」としての自覚さえないというのに。
「いや、残念ですが何も…」
「そうですか…まぁ、急ぎはしません。何か思い当たれば、いつでも言って下されば」
キバさんは明らかに落胆した顔をしている。それを慰める意味で、というわけでもないが、僕はひとつの考えを口にした。
「道具とかではなくて、もともと彼女が常人離れした力を備えている、という可能性は?」
これにはなぜかアトリが答えた。
「いや、クロエは普通の子じゃ。腕相撲でもセラといい勝負じゃ。格好は派手だし口は悪いがの」
…腕相撲?
「クロエとはときどき、市場で会うのですよ。そこで記憶の話も聞くことが出来ました。確かに口は悪いのですが、聞いたことには答えてくれる、素直ないい子だと思いますね」
とセラさんまで。国のトップが敵軍のエースと交流を持つとか、一体どういうことだろう。考えてみればこの「デュエル」も、そもそも不自然な点が多すぎる。戦場がきれいに周囲から分断されていたり、ルールがきちんと決められていたり。むしろ何らかのスポーツの試合のようでさえある。僕の知っている戦争は、もっと無秩序で冷酷で、惨忍なものだ。
「そもそも、なぜミクリヤはカノツノと戦っているんですか?」
僕の中に沸き上がった様々な疑問は、ごくシンプルな質問として口をついた。セラさんはお茶を一口飲み、カップの縁についた口紅を拭いながら、答えた。
「えぇ…まぁあえて言えば、資源争いです。我が国と同じく、カノツノの主要産業も鉱業。ただその生命線となっているアカライトの鉱山は、ちょうど国境線上に位置しているのです。以前は両国で同じ掘削資金を負担し、同じ数の人員を出し、産出したアカライトも半分ずつ分け合っていました。しかし近年になって、この負担の割合について見直したいとカノツノから申し出がありまして…」
「妾たちは今までのままで良かったのだがの」
「結局話し合いでは折り合いがつかず、毎日のデュエルの戦果によって、割合を調整しようという結果になったのです」
どことなく話しづらそうに説明するセラさんに代わって、キバさんが語り始めた。
「まず双方が3割を自国分として確保。残りの4割は戦果で配分。戦闘を終えて生き残りの数が同じなら半々だが、相手を全滅させれば総取りだ。ひと月ほど前にクロエが出てきて以来、ミクリヤは負け続き。鉱山収入は以前の半分近くにまで落ち込んでいる。もともと我々とて、決して裕福な国というワケではない。正直この状況が続けば、民の暮らしへの影響も出て来よう」
今までずっと演技じみていたキバさんの口調も、ここでは流石に真剣味を帯びていた。事態は決して、楽観視できる状況ではないようだ。しかしこの状況からすれば、僕たちの感覚からすれば「本当の全面戦争」に発展しても決しておかしくない。
「それと、実は…」
セラさんが意を決したように言う。
「私たちはそもそも、戦いというものを知りません。いざ戦争となれば、多くの民に計り知れない負担を強いてしまうでしょう。お互いの国力を疲弊させずにいくさを行うには、ワタリは最高の条件を備えた存在だったのです」
「そう。キリヤ殿も知っておろう。記憶を持たない。攻撃を受けても傷つくことなく消え、翌日また何事もなかったように現れる。昨日言った『神から遣わされた戦士』という言葉は、あながち嘘ではない。気に障れば謝るが、我らにとってワタリは、貴重な駒でもあるのだよ」
自分たちの問題を、得体の知れないワタリたちに背負わせてしまっている。おそらくこの点に、セラさんは引け目を感じているんだろう。そしてキバさんもまた、少なからず同じ想いを抱いているように見えた。どことなく部屋の空気が重く感じられる。その雰囲気を察してか、あるいは全く無視してか、アトリがぴょこんと席から立ち上がった。
「アトリがもっと頑張って、たくさんのグッズを売ればいいのじゃ!そうすればお金もたくさん入ってきて、ワタリたちを戦士としてじゃなくて、お客様としてしっかりおもてなしすることも出来る!妾がきっと、みんなを幸せにしてあげるのじゃ!」
この言葉に、僕は胸が締め付けられるような気持ちになった。おそらく場のみんなも、そう感じたのだろう。キバさんとセラさん、モーリさんまでもが、とても優しい笑顔を浮かべた。
「そうですわね、アトリ様。セラもキバも、いくらでもお手伝いしますわ」
セラさんの口調は、まるで母親のようでもあった。
「うむ。それに…キリヤ。お主もミクリヤのカラスとして、アトリを支えてくれねばならぬ。まずは…えーと…いろいろお話しして欲しいのじゃ!お主を今日から、妾のおともだちに任命する!」
突然の拝命だ。見ればアトリの白い顔は、耳まで真っ赤になっている。
「は…はい!つつつ…」
本当は「謹んでお受け致します」と言いたかったのだが、驚きと照れで僕の舌はうまく回らなかった。何だ「つつつ」って。首から上がカッと熱くなったのが、自分でも分かる。きっと僕の耳も、真っ赤になっていることだろう。
どっと、みんなが笑った。アトリも僕も。この世界で僕が笑ったのは、初めてかも知れない。いや、考えてみれば「本来の僕の世界」を含めても、こんなに楽しい気持ちになったのは、本当に久しぶりだ。僕はこの世界が、きっと好きになれる。そう、確信した。
みんなの笑いが収まりかけた時、僕は奇妙な感覚を覚えた。周囲の景色が、徐々にピントを外していくような。
「あ。ちょっと話し込みすぎました。そろそろ時間ですね。ワタリもカラスもこの世界に居られるのは、日に数時間ほど。キリヤ殿からすれば、もともとの世界に『帰る』ことになるのでしょうけど」
「明日もお待ちしておりますぞ。特種武具の件がはっきりせぬうちは、戦場に出ても意味はありませんから、市内観光にでも出かけましょうぞ」
「まことかキバ!明日はキリヤとお出かけか!キリヤ、出来る限り早く来るのだぞ!」
段々と意識が薄れていく僕に向けて、皆が矢継ぎ早に話しかけてくる。アトリの言葉の最後の方は、もうはっきりとは聞き取ることが出来なかった。みんなへの挨拶がきちんと出来なかったことを少し悔やみながら、この日の僕のミクリヤへの滞在は、幕を閉じた。
白いカラス なかちぇ @kem16
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