第2話

まぶたに柔らかな光を感じる。スズメの鳴き声が聞こえる。その状態はとても心地よく、しばらくの間、僕は体を動かさず、何も考えずにいた。最初に頭に浮かんだのは、さっきの矢のこと。確かに背中に当たったと感じたのに、痛くも痒くもなかった。あれは一体、どういう仕組みになっているんだろう。

…矢?!矢だって?

僕は勢いよく身を起こし、周囲を見渡した。薄緑色のカーテンからは、今まで身を横たえていたベッドに向けて、朝の日差しが白く差し込んできている。いつものように散らかしっぱなしのデスクの上では、スマホが充電の完了を示すイルミネーションを輝かせている。本棚に収まり切らないマンガや雑誌が所々に山を築き、一番上にはきのう買って帰ったスポーツドリンクが袋に入ったまま放り出されている。どこをどう切り取ってみてもこの部屋には、矢を受けて気絶する戦士が存在する要素はない。サディスティックな黒い少女も居はしない。

「…桐山…雄一郎」

僕は自分の名前を、一人つぶやいてみた。それは「自分の記憶がある」ことの確認でもあり、「さっきまで居た世界」と「いま目の前に在る現実」の間でフラフラしている自我を立ち直らせるための号令でもあった。

夢か。夢だ。

しかし恐ろしく真実味のある夢だった。自分の記憶がないとか戦闘に巻き込まれるとかいった基本設定はともかく、雨が木々に当たる音、また泥が足につきまとう感触、そんな普段は気にもしないディティールの再現度は凄まじいものだった。今まで見てきた夢の多くは、例えば時間軸がデタラメだったり、内容の辻褄が全く合わなかったりと「意識の雑音」としか言えないようなものがほとんどだ。しかし今日の夢は明らかに、それらとは作り込み具合と完成度が違っていた。どうも僕は本格的に、現実逃避をしたがっているのかも知れない。

遮光カーテンのおかげで、まだ室内は薄暗かった。エアコンが鈍い音を上げ続けている。時計は午前6時前。目覚ましをセットしていた時間まで、まだ30分以上もある。しかし経験上、こうした状況で二度寝してしまうと、次に目が覚めるのは確実にお昼前だ。世間では夏休みのまっただ中だが、僕には補習授業という名の拷問が待ち構えている。のそのそとベッドから立ち上がり、寝間着代わりのTシャツの上から制服を羽織りながら、ダラダラと身支度を整えた。心底、面倒くさい。しかし僕はここで補習をサボってしまえるような「悪い子」キャラでもない。学校が来いと言うなら行かなくてはならないし、何より他に時間を掛けてまでやりたいことがあるわけでもない。ずっしりとテキストが詰まった鞄とケータイを携え、僕は自分の部屋を後にした。

階段を下りかけていると、キッチンからテレビの音が聞こえてくる。親父だ。30分早く起きた分、出勤前のタイミングにピタリと合ってしまったようだ。ごくわずかに気が重くなる。普段なら自分が起きる頃にはもう親父は出掛けた後だし、帰ってくるのはたいてい僕が自室にこもってしまった後の深夜。別に意識して避けているつもりはないが、毎日お互いの顔を見ることもなく過ごすことが「当たり前」になってしまっている。僕にとっても、親父にとっても。

「おぅ。早いな。今日も学校か?」

かなり焦げ気味のトーストをガリガリかじりながら、灰色のスーツ姿の親父が言う。視線はテレビのお天気お姉さんの方に向いたままだが。

「ああ。補習」

僕の答えもまた、決して愛想が良い、と言えるものではない。

「補習ってのはあれだろ?出来の悪い奴が受けるんだろ?お前、1年でそんな様子でどうする。せっかくそれなりの高校に入っても無駄だろうが」

親父は少しこちらに視線を向けた。また例の説教のスイッチが入ったようだ。

「前にも言ったがな、学校で勉強することそのものにはたいした意味はない。英語や歴史はただの暗記ゲームだし、数学や物理はパズルに過ぎん。けど、そういう意味のないものにどれだけ必死になれるかで、今の社会はその人のスペックを決めてしまうんだ」

トーストを食べ終えた親父は牛乳を飲んで一息ついた。いつものように、皿を片付ける気もないらしい。

「一度他からスペックを決められてしまうと、仕事の選択肢も収入も、おおむねその枠に収められてしまう。だからお前は今、意味がないことが分かっていても、面白くなくても、テストでいい点を取らなきゃいかん。少しは賢く立ち回れ」

親父は僕に言い聞かせるように語りながら、足早に玄関に向かった。

「じゃあな。今日も遅いけど、よろしくー」

バタンと扉が閉まる。テレビのお天気お姉さんがタイミング良く「いってらっしゃい!」と笑顔を見せた。

親父は大手化学メーカーの開発部に勤めている。それもかなりの立場にあるようだ。いつもの説教にも、その理系然とした考え方が反映されていると思う。ただ僕はその説教に対して、特に嫌悪感を感じることはない。むしろ大人の割り切った意見としては、賛成できる部分の方が大きい。ただ点数の上下だけを見てヒステリックにわめくような親の言葉よりは、よほど真実味があると思う。しかしそうした親父の「醒めた部分」に嫌気を感じて母さんが出て行ったのも、また事実ではある。

高校受験の前から何度も繰り返されてきたこの説教は、僕の中で「学校の勉強は意味がなく、面白くないもの」という概念をすっかり定着させてしまった。地域ではそれなりの難関と言われた高校への受験は何とかクリアできたが、その後の授業に集中して取り組むことが、僕には出来なくなっていたのだ。まぁ、言い訳ととられても仕方はないが。親父が出しっ放しの皿を片付けながら、僕は生のままの食パンをかじる。紙のような味だ。テレビではタレントの浮気がどうだとか、実にどうでもいいことを大の大人が論じ合っている。いくら時間があるとは言え、これに付き合うほど僕は寛大でもない。さっさと登校してしまった方がまだマシだ。僕はやや強めにリモコンの電源ボタンを押し、キッチンの照明を落とした。


県立央堂高校は、10年ほど前に開設された新しい学校。特進コースとスポーツ選抜コースが併設されており、県下トップクラスの文武両道を目指すという、まぁ「ハイレベルな」学校だ。実際卒業生の多くは一流大学に進学し、プロスポーツ選手も何人かは輩出している。そうした輝かしい実績も、特進コースの最下層あたりをウロウロする僕には全く関係のない話ではあるが。しかも補習授業に集まってくる連中には、どうにも「僕レベル」の人間が多い。うだるような暑さのせいもあり、教師側にも覇気は感じられない。トロトロとした一定のリズムの低い声は、まるで眠気を誘う呪文のよう。隣の教室から聞こえてくる、3年のエリート向けの受験対策授業で張り上げられている教師の声とは、えらい落差だ。それでも僕は、このだらけた授業をしっかりと聴いている。ノートにもびっしりと文字が書き込まれ続けている。…表面上だけは。実際の頭の稼働率は、3割ほどに過ぎない。残りの7割は「考え」とも呼べないような妄想をウネウネと繰り返したり、「ボンヤリとはかく在るべきか!」と言わんばかりに惰性運転を繰り返していた。

「ユーイチ、ユーイチ・・」

隣の席で寝ていたと思っていた谷本孝司、タカちゃんが声をかけてきた。

「今日のノートコピーさせてくれ。あと昼からミネルバな!」

それだけ告げると彼は再び机に顔を伏せ、そのまま何事も無かったように動かなくなった。タカちゃんは幼稚園の頃からの同級生。奇跡的にも小学校・中学校通して、常に同じクラスに居る。何でもソツなくこなし人にも厳しく当たることのない彼と僕とはソリも合い、お互いが認める親友でもある。ただ、受験のときにも効率よく立ち回り何とか合格を手にしたタカちゃんにも、この学校の授業レベルはやや厳しいらしく、僕と同じく成績は底辺を突き進んでいた。ただ彼の偉いところは、そうした自分の立ち位置をうまく「おっちょこちょいで憎めない奴」というキャラクターに置き換え、学内でも僕より遥かに多い友人とコネクションを作り上げている点だ。そうした、ちょっと僕には真似が出来ない「器用さ」は、おそらく彼の一生の武器になるのだろう。

そんなタカちゃんと、学校帰りに近所の大型ブックセンター「ミネルバ」に立ち寄り、雑誌を立ち読みしたりウダウダ雑談に興じたりという流れ。それがこの補習期間中の、僕たちの一般的なスケジュールになっていた。ミネルバは店員も顔なじみ。それなりに買い物もしているので、長居しても文句は言われない。コピー機もあれば最新ゲームの試遊コーナーもある。ここで過ごす時間は僕にとって、ある意味一番充実した時間でもあると言えるだろう。


正午を過ぎたばかりの日差しは容赦がなく、肌に痛みさえ感じさせた。教室のなまぬるい空気も堪え難いが、この厳しい暑さよりはまだいくらか許せる。僕とタカちゃんは自転車を連ね、逃げるようにミネルバに飛び込んだ。冷房でキンキンに冷えた空気と、本のインクの匂い。

「生き返るねぇ」

タカちゃんがつぶやき、僕も笑顔で応えた。

数台の自販機に囲まれた、休憩コーナー。ベンチと簡単なテーブルが備え付けてあるこの場は、央堂高生が放課後に時間を潰す、定番スポットでもある。ただ夏休みの補修期間中という事もあり、今日の利用者は僕たち二人だけのようだった。誰に遠慮する事もなく僕はベンチを占有し、手足を広げただらけきったポーズで、天井を眺めていた。

「うわ。お前、全身から腑抜けオーラが出てるなぁ」

コピーを取り終えて戻ってきたタカちゃんは、そう笑いながら向かいのベンチにどっかと腰を下ろした。そうそう。僕のこのポーズは「僕、いま腑抜けてますよ」と彼に伝え、共感を得るるためのアピール。この微妙なニュアンスをしっかり理解してくれるあたり、さすがは長い付き合いだ。僕が飲みかけてテーブルに置いていたコーラを一口飲んで、タカちゃんも天井に視線をやる。しばらくの沈黙のあと、彼はポツリとつぶやいた。

「俺、無理して央高に来て正解だったのかなぁ」

聞き取れるかどうかという小さな声だが、明らかに僕に返事を求めている。

「まだ半年ほどだし、結論出すには早いだろ」

僕の回答は、まぁ一般的なもの。これを彼が求めているとは到底思えないが。僕にはこれ以上の返事を返せる引き出しはなかった。

「最近思うんだよ。俺、何になりたいんだろうって。スポーツ選抜の、例えば野球部にいる連中とかは、将来はプロを目指してますっ!てのがあるじゃん。そりゃ実現する可能性は低いだろうけど、きちんとした目標があれば、毎日バットを振り続ける気にもなると思うんだよな」

ふと僕の方に視線を落として、タカちゃんは続ける。

「俺らは何になればいいの?偏差値上げていい大学行って、それからどうなるの?結局はまぁサラリーマンだか公務員だかじゃん。でも俺は、そんなものになりたいんじゃないんだよ。確実に。そうなると、授業やテストに意欲は湧かないわな」

「でも、それを我慢できるかどうかで、世の中でのポジションが決まるんじゃないの?」

僕の答えは、親父の言葉の焼き直しだ。僕は少なくともこのロジックに納得する事で、何とか現状を否定せずにいられている。

「うん。それはまぁ分かる。でも大切なのは社会でのポジションとかじゃなくて、自分に何が出来るのかってこと。今はそれが全然見えないし、逆に自分が何をしたいのかも分かんない。これから央高にいて、それがはっきりしてくるかどうかが不安なの。」

タカちゃんの言う「不安」は、確かに僕にも思い当たる部分があった。親父の「選択肢の広がり」という言葉を、今まではただ漠然と聞いていた。将来何になるのか。何ができるのか。今までそこには、イメージが追いついていなかった。タカちゃんの不安は、自分にもそのままピッタリと当てはまる事なのだ。

「・・・」

答えに詰まる僕。

「ま、そんな事考え始めて、本当に学校辞めるとか言い出すとエライコトになりそうだからな。今はユーイチに愚痴たれる事で、何とか我慢しとくよ」

自己解決したかのようなタカちゃんの言葉。しかしこれは明らかに、僕を思考の袋小路から救うためのものでもあった。

「まぁ結局、みんな同じ事で悩んでるんだろうね」

問題のシメとしては、あまりに脆弱な僕の言葉。しかし僕たちは現状、このあたりで気分を納めておくしかない。それはタカちゃんも分かっていること。結局その日は夜まで、ミネルバに居座り続けた。どうでもいい雑誌のどうでもいい記事を見せ合い、どうでもいい会話を続ける。そんな行為で保たれる均衡を、今は大切にしたかったのかもしれない。


ミネルバから帰路についたのは、すでに日も暮れ切った頃だった。

「じゃーなー」

片手を上げて遠ざかるタカちゃんを、僕も挙手で見送った。親父が深夜まで帰宅しない僕には、事実上門限めいたものはない。そもそも放任主義なのか自立心を養えという事なのか、生活費や小遣いさえ不足のない額がいつも自分の銀行口座に振り込まれている。僕は今の生活を、ほとんど何の束縛も制約もなく過ごしているのだ。それでありながら、僕は自分を取り巻く環境に対して「自由」を感じる事はない。その気になれば「いい子」の道を外れる事も容易いだろう。しかしそれでさえ、日々の閉塞感から一時的に逃げているだけに過ぎない事も、分かっていた。食べ飽きたコンビニ弁当を腹に収めても、代わり映えのしないタレントの代わり映えしない馬鹿騒ぎをテレビで見ても、いつもより少し熱めのシャワーを浴びても、僕の心にかかる「雲」は、決して晴れる事はない。ベッドに入って数分で、今日も「いくら塗り重ねようと色彩を生まない、無色透明の毎日」はいつも通りに幕を閉じた。

















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