白いカラス

なかちぇ

第1話




 まぶたに小さな水滴が落ちてくる。次に頬に。唇に。ここで僕は眠りから醒めた。ゆっくりと眼を開く。視界のほとんどを覆っているのは、切れ間なく重なり合った薄暗い雲の塊。体を横たえたまま少し首を動かし横を向くと、ひざの丈ほどの草がうっそうと茂っている。その草たちがわずかな風を受けてサワサワとたなびく様を、僕はしばらく眺めていた。いや、正確には「眺めている事しか出来なかった」のだ。

僕は草むらの中で、眼を覚ました。

 意識のスイッチが入ってから、頭の中にあるデータはこの一点。それ以外は空白、としか言い表せない。なぜ草むらの中で眠っていたのか。ここはどこなのか。それどころか、自分が誰なのか。その全てを、まったく認識できない。頭の中はどこまでもフラットで、不安を感じようにもその起点さえつかめない。何かを考えたくても、考えられない。そんな混沌とした頭の中を、僕はうまくまとめる事が出来ないでいた。


 何分経っただろう。そんな自分の状況とは関係なく、雨はしんしんと頬を叩いている。ぐっしょり濡れるというほどではない、とても優しい雨だ。水滴の心地よい刺激は、次第に脳内の混沌を鎮めてくれているようだ。僕は濡れた地面に肘をつきながら体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。

 一気に高くなった視点からは、周囲を一望する事が出来た。一番遠くには、青緑色の山の稜線が見える。そこから足元までは、所々に木の塊を配しながらも、淡い緑色の草原が連なっている。ほの暗い空と、一面緑のコントラスト。その色彩をスクリーンで覆うように、霧のような雨が白いもやになって立ちのぼっている。美しい。美しいが、その風景も僕の中に眠ったままの記憶を呼び覚ます事は無い。ふぅ、とため息が出た。


 ところが。やや視線を右に向けると、初めて自分の心を動かすモノが眼に入った。自分からはごく離れた場所。雨のもやの遥か向こうにではあるが、緑の中に点在する、規則的なグレーの四角。それは確実に「家」だった。石造りであろうか。眼を凝らせば、何とか窓らしきものも確認できる。


自分以外にも、ここには誰かがいる。


 その事実はまず素直に、喜びの感情を沸き上がらせてくれた。あの家に住む人に会えば、何かが分かるかもしれない。まず最初に、何について聞くべきだろうか。いやそれ以前に、このどことも知れない地で、言葉は通じるのだろうか?これからの行動について、一気にイメージが溢れ出す。ここで初めて、僕の頭は活発に回転をはじめたようだ。


 他人を意識した事で、初めて僕は「自分の姿」を確認する気になった。遠くの家を眺めていた視線を、自分の体に落としてみる。木綿のような麻のような、厚手の白い布でできた服。雨がしみ込みやや重い、半袖の上着にズボン。もちろんこの服装に関する記憶はないが、おそらくは人と接するに不都合のある格好ではないだろう。


 再び「家」の方に眼を向ける。が、やや冷静になった頭は、そこに至る事が決して簡単ではない事を感じ取った。「家」は確かに存在しているが、雨のせいもあって霞んで見えるほどの距離。目標地点と自分の間には、わずかに草原の緑が断たれている場所も見られる。あれはおそらく、川だろう。この膝まで草の伸びた手つかずの土地を、果たしてあの家まで自分は歩き通せるものだろうか。まずは「確実にその場に向かえる道」を、考えなければならない。さらに多くの情報を得るために、僕はぐるりと四方を見渡した。


 自分の真後ろを向いた時に、僕はある発見をする。今まで背中を向けていたのは、丘の斜面だと思っていた。が、その斜面はほんの数メートル先で、ぷっつりと消えていたのだ。

 「あ…」と僕は初めて、声を出した。体の向きを180度反転させ、僕は消えている斜面の方へと足を進めてみた。傾斜はさほどきつくはなく、簡単に登り切る事が出来た。そこに広がっていたのは、どう見ても確かな「道」だった。幅はおよそ5メートル。きれいに土が踏み固められており、車輪の轍のような跡もわずかに残っている。今まで丘だと感じていたのは、人為的に作られた盛り土。この「道」を草原に通すための、土台だったのだ。僕はこれまでの取り越し苦労がちょっと可笑しくなって、一人でクスリと笑ってしまった。その笑いを誘ったのは「目が醒めてから初めて人との接点を具体的に感じた」安心感かもしれない。


 「道」はごくゆるい弧を描いている。右手側には森があり、うっそうと茂った木々の中へと「道」の輪郭はフェードアウトしている。左へ伸びる弧はかなり長く続いているようだが、雨霧のせいでその先に何があるのかまでは見えない。この状況であえて森の中に進む意味もなければ、先ほどの「家」に向かう方向としても、左が正解だろう。僕は延々と続いている「道」を、森を背にして歩きはじめた。

 目標もハッキリとはしない、たった一人での移動。それは決して、気持ちのいいものではない。体調にもどこも異常はなく、疲れもない。雨はあい変わらずだが、寒くもなく暑くもない。ただ少々歩こうとも大きく変わる事のない風景は、徐々に僕の気持ちを暗くさせていった。


 この一人の時間に、何か意味はあるのだろうか。単調に続くリズムの中、そんな疑問を感じはじめた頃、雨音とは違う「何かの音」を僕の耳がとらえた。ごく小さな、木の軋むような音。それよりさらに小さく、人の話す声。確かに自分の背後から、それは近づいてきている。僕は大きく息を呑みこみ、後ろを振り返った。

 そこには確かに、僕が恋い焦がれた「人」の影があった。それもひとつではない。男が三人。そのうち二人は、何か大きな荷物を乗せる台車を曳いているようだ。もう一人は台車の脇で、何か地図のようなものを見ている。僕はほとんど反射的に、この「人々」に自分の存在を伝えようとした。大きく手を振り、声をかける。それだけの事ではあるが、彼らの姿がハッキリと視認できたとき、僕は一瞬、声を出すのを躊躇してしまった。


 三人の男は、それぞれ皆がっしりとした体格をしていた。着衣は僕のものとそう変わらない白い簡素なものだが、彼らはその着衣の上に、明らかに鎧と言えるものを身につけていたのだ。胸、肩、腰にはそれぞれ、体のカーブに合わせたプレートが結わえ付けられている。台車を曳く二人はさらに、頭部から首までを覆う簡素な兜を被っている。その姿には威圧感さえあり、瞬時に僕は「この人たちに気軽に声をかけていいはずがない」と感じてしまったのだ。

 喉まで出かかっていた声を飲み込み、表情はこわばったまま。大きく振り上げようとした両腕も、行き場を失って半端な位置で固まっている。そんな無防備な僕の姿を、今度は「彼ら」の方が捉えたようだ。確かに「誰かに会いたい」と考え続けてはいた僕ではあるが、この状況は決して歓迎できるものではない。出来ればもう少し、穏やかそうな人とファーストコンタクトを取りたかったのだ。まぁ、選べた立場ではないが。

 三人はこちらを見た。聞き取れはしないが、いくらか言葉を交わしたあと、明らかにそれまでのペースよりスピードを上げて、僕の方へと真っ直ぐ近づいてくる。僕はと言えば、固まった状態からは脱したものの、軽いパニックに陥ったまま、次の行動を選択できないままでいた。彼らが近づいてくるにつれ、加速度的に緊張は大きくなる。ここはやはり「逃げ出す」の一手ではないのか。でももう無理。このタイミングからでは、ダッシュでもきっと逃げ切れない。何ともレスポンスの遅い頭がそう結論を出しかけた時に、思わぬ言葉を彼らは発した。

「やや遅くなりましたかな?さぁ、こちらへどうぞ」

 はっきりと通る声でそう声をかけてきたのは、地図を見ていた男。僕は再び軽く混乱し、肩をすくめたままの格好で彼の顔をじっと見据える事しか出来なくなった。黒髪を短く刈り上げ、口ひげを蓄えた精悍な印象。しかしその表情は穏やかで、まるで敵意を感じさせるものではない。台車の二人はと言えば、こちらはほぼ完全に「微笑み」と言っていい表情を僕に見せている。確かに厳ついスタイルではあるが、彼らは僕に全く危害を加えるような気配すら持っていない。安堵はまた、ふぅ、というため息になって僕の口から現れた。

「すみません。脅かしてしまいましたかな。ささ、ここにお座り下さい」

 髭の男はさらに愛想良く、僕を手招きした。こちらとしてもこのアプローチを断る理由は思いつかない。何より、彼らに聞きたい事は山のようにあるのだ。僕は三人の誘うまま彼らに近づき、その指示通り台車の上に腰掛けた。頑丈な木で作られたこの台車には、二列に座席が取り付けてある。よく見れば手すりや床板にも細かな装飾が施されている。どうやら荷物ではなく、最初から人を運ぶ事を目的に作られた、人力車のようだ。僕が座席に落ち着いたのを見ると、彼らは再びもとの隊列に戻り、道を進みはじめた。屈強な二人の若者に曳かれる人力車。座席には僕ひとり。傍らには従者のようについてくる、髭の男。やや気恥ずかしいような状況になった。


 車の乗り心地は、決して悪いものではなかった。二人の若者はぴたりと息を合わせて歩みを進め、乗客である僕を気遣ってくれているようでもある。しかしこの厚遇は、かえって僕の中にさらなる疑問をもたらしてくれるものでもあった。髭の男の言葉遣いといい、なぜ彼らは自分にこうも友好的に接してくれるのか。また彼らは事前に、まるで僕と出会う事を予期していたような態度を示しているではないか。少なくとも彼らは、僕が何者であるかを知っている。僕が求める「情報」を聞き出すには、これ以上の相手はいないではないか。

「あの…」

僕が横を向き髭の男に声を発するのとほぼ同時に、彼はその言葉を遮るように答えた。

「お聞きになりたい事がたくさんあることは重々承知しております。皆が揃ってからご説明致しますので、しばしお待ち下さい」

こちらの意図を見透かしたような返答。しかもその口調は穏やかではあるものの、反論を許さないような迫力も感じさせた。

「あぁ、はい…」

僕は情けない気の抜けた相槌を打ち、彼らからの説明を待たざるを得なくなった。


 車はなおも進む。雨は次第に弱くなり、視界もやや開けてきたようだ。目の醒めた場所から見えた「家」も、今はかなり近くに見える。相変わらず髭の男はときどき地図を確認しつつ、黙って車の横を歩いている。前の二人も僕を乗せて以来、雑談を控えているようだ。沈黙と重い空気に耐えかねた僕は、さも自然な口調を意識しつつ髭の男に声をかけた。

「あの家には、誰か住んでいるんですか?」

質問というより雑談に近いニュアンス。この程度なら彼らの機嫌を損ねる事もないはずだ。が、彼はこの言葉を受け流すようにニコリと会釈をし、こう答えた。

「少々お待ちを」

その言葉と呼応するように、車はぴたりと動きを止める。僕は髭の男から前の二人へと視線を移した。二人の背中越しに、ひとりの男が立っているのが見える。僕とほとんど同じ衣服を着ているが、やや背の高い20代前半の若者。切れ長の眉毛と鋭い目つきから、気の強さを感じさせる。また明らかにこちらを警戒しているようだ。髭の男は車の脇から若者の方へと歩み寄り、僕の時以上に優しい口調で若者に語りかけた。

「やや遅くなりましたかな?さぁ、こちらへどうぞ」

若者は怪訝な表情を見せつつも、髭の男に促されるままに車に乗り込み、僕の隣に腰を下ろした。と同時に、まくしたてるように喋りはじめた。

「あのさ、ちょっと聞きたい事が…」

「お聞きになりたい事がたくさんあることは重々承知しております。皆が揃ってからご説明致しますので、しばしお待ち下さい」

髭の男は僕のときと全く同じ口調と全く同じ台詞で、若者の言葉を封じてしまった。若者はさらに何か言いたげなそぶりを見せていたが、意に介さない三人の態度を見て、諦めたように唇を噛んだ。


 車は再び、動き始める。三人の態度は相変わらずだが、客は二人に増えた。若者はしばらく様子を伺っていたが、そのうちに僕だけが発していた「うわついた雰囲気」にも感づいたようだった。

「あのさ、あんたも…お客さん、なわけ?」

何となく憮然とした表情で、若者は僕に話しかけてきた。その言葉尻からは、彼が明らかに僕を軽く見ている事を感じ取れる。見た目が明らかに彼より年下であるからだろうか。

「えぇ、まぁ…」

「ふぅん。なんか俺、ワケ分かんねぇんだけど。ちょっと聞いていい?」

一拍おいて、出来るだけ明瞭に答える。

「いや、僕もきっと同じです。あなたと」

若者はこちらの頭からつま先を舐めるように眺めたあと、フンと鼻を鳴らし、そっぽを向くように車の外へと顔を向けた。おそらく彼と僕の境遇や立場は「同じ」はずだ。互いに対等な立場で話し合う事も出来ただろう。それなのに、何なのだろうこの敗北感は。このあと仮に彼と打ち解ける機会はあっても、心の底では分かり合えないだろうな。そんな思いが、さらに車の空気を重くした。


 その後もこの沈黙の行軍は続き、さらに二人の乗客を拾った。三人目の客は、僕より年下に見える長髪の少年。髭の男の対応はこれまでと全く変わる所はなく、丁寧で優しくはあるが、無機質なもの。少年は全く口を開く事はなかった。僕と二人目の客もまた、この少年に声をかける事はなかった。四人目は僕と同年代の女の子。彼女に至っては、車に乗り込む前からずっと泣き通しで、意思の疎通どころではない。このあたりにくると僕も慣れたもので「同じ出来事を前にしても、人によってずいぶん反応が違うものなんだな」なんて事を考える余裕も出てきていた。

 泣いている娘でちょうど車の座席は埋まり、新たな乗客も現れなくなった。道の幅は僕が乗り込んだ時から比べるとずいぶん広くなり、最初に見た「家」のようなモノもあちこちに散見できるようになっている。ほとんど全てが石造りで、建物としての規模や構造も似たり寄ったり。ただ家によっては入り口の木戸に様々な模様が彫り込んでいたり、窓際に花を生けたポットを置いていたりと、いくらかの自己主張も感じられる。時には人の話し声も聞こえてくるようになり、僕たちが着ているのと同じような服を干している家もあれば、窓から湯気が上がっている家もある。この「生活感」は、四人の客にとってはとても大きな安心材料になった。相変わらず無言ながらも、車の空気は軽くなったように感じられた。女の子の涙も、いつの間にか止まっている。


 「家」の密度が高くなり「町」を感じさせる頃になると、そこに住む普通の人々もたびたび見かけるようになってきた。年齢は様々だが皆似たような衣服を着ており、それぞれ荷物を運んだり子供をあやしたりと、穏やかな暮らしを営んでいるように見受けられる。彼らはこの車、というより髭の男と牽引役の二人を見かけると、笑顔で会釈をしたり挨拶をしてきたりと、おおむね友好的な態度で接してくるようだ。髭の男たちサイドの対応も、僕らの時とは異なり、それなりに愛想を含んだものになっている。自分もこのコミュニティの一員なのだろうか。いや、これから加入する事になるのだろうか。いずれにしても、選択肢はひとつ。これから起こるであろう事を、受け入れていく他にない。穏やかな風景の中にも、様々な事を想像しながら、次々に出てくる不安を打ち消す事に躍起になっている。おそらくこの車の四人の乗客は、みなそんな心境にあるはずだろう。


 似たような町の景色にもそろそろ発見が無くなった頃。車はゆっくりと速度を落としはじめた。横をぼうっと眺めたりうつむいていた乗客も皆、その進路に眼を向ける。眼前には、大きな「ゲート」が口を開いていた。一般の家で使われている白い石ではなく、赤茶けた艶のある石が積み木のように重ねられた支柱。車はゆっくりとそのゲートを通過した。ゲートの内側はそれまでの町並みとは全く異なり、広く整地された空間となっていた。正面やや向こうには、やはり赤い石造りの大きな建物がひとつ。一般住宅とは異なり全く飾り気がないが、建物としての規模はこれまで見てきたものの優に数十倍はある。そしてゲートの左側に広がった広場には、いま僕たちが乗ってきたものと全く同じ仕様の車が、数列に渡ってずらりと整頓されて並んでいる。その風景はこれまで見てきた風景とはかなり異質かつ壮観で、僕の横に座っている若者が、「うわぁ」と小さな声を上げたのが聞こえた。僕たちの車も、その車列の中へと移動し、ぴたりと列に収まる地点で動きを止めた。

「お疲れ様でした。気をつけて車からお降り下さい」

髭の男が相変わらずの慇懃無礼な態度でそう言うと、牽引役の二人も乗客の降車のための道を空けた。僕を含めた四人の乗客は、おずおずと地面に足をつける。女の子は水を吸った地面に足をとられ、少しよろめいた。

「では皆さん、あちらの建物にお入り下さい。そこで皆さんに、大切なお話をさせて頂きます」

髭の男はそれだけ話すと、もうこちらに背中を向けて建物の方に歩きはじめている。牽引役は僕たちの後ろに付き、移動を促しているようだ。あわてて僕たちも、足を進め始めた。

「あのさ、そこで俺の質問にも答えてくれるわけ?」

若者は不機嫌そうに、髭の男の後ろ頭に問いかけた。

「どうでしょうね。まぁ、それはお話を聞いてからでもいいでしょう?」

おそらく想定通りの返答だろう。結局彼らと出会ってからというもの、こちらは何一つ情報を得られていない。すでに不安やイライラに神経は慣れてしまい、反論する気力も起きない。

 建物に到着するわずかな時間の間にも、何台かの新しい車がゲートを抜けてきているのが見えた。それぞれにやはりクルーが3人と乗客が4人。どうやら僕たちと同じ境遇の人が、ここに大勢集められてきているのだろう。

 程なく僕たちの一行は建物の入り口に到着し、髭の男が頑丈そうな木製の扉を、音もなく開けた。まず目に入ったのは、太く大きな四本の柱。きれいに磨き上げられた赤い石の床から真っ直ぐに天井へと伸び、木製の天井を支えている。天井近くの四方の壁には明かり取りの窓が設けられているが、内部はやや薄暗い。その暗さに目が慣れてきた頃、僕は周囲の、異様な雰囲気に気がついた。

 建物の内部ほとんど全てを占める、大きな大きな部屋。そこには無数の人がきちんと整列して並んでいたのだ。多くはやはり僕たちと同じ格好だが、列の先頭と末尾には髭の男と同じ鎧の男が、まるで働きアリを引率する兵隊ありのように位置している。僕たちもまた髭の男の誘導するままに、列に加わった。ちょうど新たな列の先頭のようで、僕たちの後ろにも別のグループが並びはじめている。その様子を眺めるついでに、僕は周囲の様子にも目を配った。全体の人数は、ざっと200人。男女比は半々程度だが、ほぼ全員が僕とさほど離れていない年代。子供やお年寄りは全くいない。みんなそれぞれ周囲をキョロキョロと見回したり落ち着かないそぶりを見せてはいるが、誰も積極的に話をしようとはしていない。そのせいかこの建物の内部は、この状況に似合わないほど静かなのだ。遠くの誰かの咳払いや、自分の衣服がこすれる音さえ聞きとれる。この静寂は僕にとって、圧迫感として感じられた。しかしその一方で「ここで何かが分かるんだ!」という期待感をあおるようでもあった。何とも奇妙な感覚だ。やがてそうした空気を破るように、僕の列の後方で男が声を上げた。

「収容終わりましたーっ。よろしくお願いしまーす!」

静かな分、男の声は部屋の壁に反響し、ことさら大きく感じられた。と同時に、部屋の天井四隅から青白い光が発せられ、室内前方のある場所を照らし出した。僕を含めた全ての人の視線が、光の交差する点に集中する。今まで気付かなかったが、その場所には演台のような四角い箱が設置されていた。そしてその上に、明らかに他とは異なる存在感を持つ、ひとりの人物が立っていた。

 背筋がピンと伸び、実際以上に大きく感じられる、50歳ほどの男。浅黒い顔は彫りが深く、白髪まじりの長髪を後ろで結んでいる。何より彼が大きく他の人々と違ったのは、美しく金細工で縁取られた豪華な青い鎧を着込んでいた事だ。あれに比べれば、髭の男や牽引役が身につけていた鎧は「ただの削った板」にさえ見える。また腰には大きな剣を下げており、黒光りする鞘は、遠目にも十分な威嚇効果を放っている。しかしこの剛著な身なり以上に、男性の落ち着き払ったたたずまいは、言いようのない迫力を感じさせた。

 彼は両腕を組み、壇上から室内をゆっくりと見渡した。ひとり残らずが彼の言葉を待ち、これまで以上の静寂が場を支配している。やがて彼は組んだ腕をほどき両の腰に当て、本当によく通る、低い声で話しはじめた。


「よくぞこの地に集まられた。天より遣わされた戦士たちよ!

 諸君らは自らの記憶を代償に、大いなる力を手にした者である!

 このミクリヤの国民を救うため、これより我らは戦闘に入る!

 その力を存分に奮い、見事王とあまたの臣民の期待に応えられよ!」


 男ははじめこそ落ち着いた口調であったが、一言ごとにそのテンションは次第に高くなっていった。特に最後の文言では、自らの剣を抜き天に掲げつつ叫ぶ、というパフォーマンスまでも披露した。そのある意味演技じみた「お話」に僕は完全に圧倒され、しばらくは彼の言葉の意味を正確に読み取れないでいた。

 天…戦士…記憶…代償…力…戦闘…。特に記憶に残った単語を何とか頭で繋ぎ止め、彼の言葉の理解しようとする。その内容はあまりに突飛なもので、到底「ハイそうですか」と受け入れられるものではない。しかもこれより戦闘と来た。「じゃあ戦いますか」と、誰が同意できるだろう。おそらくこの場にいる200人の「戦士」も、同じ思いだろう。僕はそう考え、まず隣の若者の方を振り向いた。おそらくは「はぁ?何言ってるの?」という表情をしているであろう彼と、思いを共有するために。

しかし隣の彼は、僕が想定した表情とは全く異なる顔をしていた。歯を食いしばり、壇上の男を真っ直ぐに見据えている。両手は胸の前あたりで力強く拳を形づくり、かすかに震えているようにも見える。まさか、納得しているのか?あれだけの言葉で、彼は自分の境遇の全てに説明がついたのか?そう僕が感じるや否や、場内のあちこちから叫び声が上がりはじめた。それは怒声などではなく、完全に壇上の男のメッセージに呼応し、自らと周囲を鼓舞する声だった。叫びはやがて個人からグループ、グループから全体へと広がり、やがては場内全てを包むに至った。驚いた事に、一言も発しなかった長髪くん、また泣き通しだった女の子までが、右手を突き上げて叫びを上げている。

 こうなるともう、僕の中にはもう「あれ?もしかして僕間違ってたかも」という考えが生まれてしまう。仮に間違っていなかったとしても、この歓声の流れを塞き止める力は僕にはないし、塞き止める理由も感じられない。単に突きつけられた事実に逆らってみたかっただけ、なのかもしれない。そうか。僕は天より遣わされた戦士だったのか。そう言われてみればきっとそうだよな。自分を言い聞かせながら僕は壇上の方に向き直り、歓声を上げる大勢の中の一人、に加わった。ずっとモヤモヤしていたせいか、大きな声を張り上げる事はとても気持ち良く感じられた。壇上の男は場内の様子をしばらく眺めたあと、満足そうにうなずいている。そして両手で歓声を鎮めるようジェスチャーをとり、こう続けた。


「諸君らの高ぶり、しかと受け取った!

 ではこれより、諸君らの力とこの後の戦闘について説明がある!

 落ち着いて聞き、糧として欲しい!以上!」

そう言い残し、彼は壇上を降りた。代わってそこに登ったのは、簡素な鎧を身につけた、白髪の老人だった。今までの男と比べると、ずいぶんと穏やかな表情と雰囲気を持っている。彼はおほん、とひとつ咳をした後、ゆっくりとしたペースで説明を始めた。


「えー、よく聞いて下さいね。この後皆さんには、その出口の外にあるコロシアムで、敵軍との交戦、デュエルを行って頂きます。」

老人は僕たちの入ってきた方向とは逆の壁を指差した。その中央あたりには入り口より大きな扉があり、その脇に立つ男がみんなの視線に応えるように手を挙げた。

「デュエルに必要な武器は、その出口でお渡しします。その後は基本的には、戦場を監督する我が国の兵の指示に従って下さい。よろしくお願いしますね」

熱い演説の後の、気の抜けるような丁寧口調。不思議なギャップだ。

「次に、皆さんに備わっている、非常に特別な力についてです。ここ大切ですから、よく聞いてくださいね」

この言葉に、周囲は明らかにざわついた。

「えー、実は皆さんは全員『一撃で敵を消し去ってしまう力』を持っています。いかなる攻撃でも、非力であっても関係ありません。とにかく先に攻撃を当てさえすれば、相手はその場で消えてしまうのです」

またここで僕は、そんなまさか!という気持ちが先に出てしまった。しかしみんなは違う。場内は軽いどよめきに包まれ、所々では拍手も沸いている。隣の男は自分の手のひらを見つめ、ニヤニヤとしている。

「デュエルは当方か敵方いずれかの全滅か、時間切れ時の残存者数による優劣判定によって決します。多くの相手を倒す事も重要ですが、まず皆さんは生き残る事を重視し、戦闘に臨んで下さい」

ここで場内の熱気に満ちた空気が、ガラリと変わった。全滅。生き残り。そうした血なまぐさい単語を聞いた事によって、みんな初めて「戦闘によって自分が傷つき、時には命を失うこと」をイメージしたようだ。僕ははじめから、この部分に引っかかっていたというのに。周囲の皆は一様に言葉を失い、やや不安げな声を上げている者もある。

「ただし、ご安心下さい。皆さんは天から遣わされた戦士。いかなる攻撃を敵から受けようとも、傷つく事も痛みを感じる事も全くありません。こればかりは口では説明が難しいのですが、決して嘘ではありません」

それ見た事かである。案の定、どう考えてもうさんくさい。今度ばかりは周囲の皆も複雑な表情を浮かべている。しかし、ここで芽生えはじめた不信を封じるかのように、出口の扉は突然開かれた。薄暗い場内に、すぅと光が差し込む。出口の外にはあの演説の男が立っており、皆に見せつけるような逆光のシルエットを浮かび上がらせている。


「いくぞ、諸君!」


 この声に、まず場内の鎧を着た兵士が拍手で応える。僕たち「戦士」も、徐々にその拍手に手を合わせる。出口に近いものから兵士に導かれ、部屋の外へと新たな列が作られた。列が進む間、拍手は鳴り続ける。出陣式、のようなものだろうか。正直なところ僕はこの「お話」に、相変わらず完全な納得はできていない。しかしこれを否定する根拠を、まったく持っていない事も事実だ。気持ちは揺れ動き続けている。そんな自分も拍手をし、仲間を送り出す儀式に参加しているというのは、なんとも居心地の悪い気分だ。

 徐々に列は消化され、入場が遅かった僕たちのグループも出口に近づいてきた。ここで突然、例の目つきの悪い隣の若者が、僕に握手を求めてきた。

「頑張ろうぜ。お互いに。生き残ろうぜ。」

おずおずと差し出した僕の右手を、彼は力強くにぎり返してくる。長髪にも女の子にも、彼は同じように握手を求め、言葉を交わした。なんだ。この人、いい奴かもしれない。心の底では分かり合えないと思ってしまった事は撤回しよう。こちらからも何か声をかけようと思ったが、その言葉を選んでいるうちに出口に到達してしまった。


 出口の扉をくぐった先には、二人の兵士が待ち構えていた。まず左側の兵士が僕に、やや粗末な額当てを渡してくる。鉢巻きのような青い長布の中央に、木の板が縫い付けられている。続いて左側の兵士が差し出してきたのは、一振りの剣だ。片手で受け取ってみたものの、ズシリと意外なほどに重い。流石に本物の武器だけの事はある。僕はやや畏れを抱きながら、目の高さに剣を掲げてみた。しかしその見た目は、僕のイメージしていたものとは大きく異なっていたのだ。美しく装飾された鍔も、刃を収める鞘もない。ましてや銀色に輝く刀身さえない。自分の腕ほどの長さの、黒っぽい木刀。それも決して精巧な造りではなく、握り手に汚れた布を巻き付けただけの「丈夫な木の棒」に近い。天から遣わされた戦士にしては、この装備はあまりに貧弱すぎるのではないだろうか。これには周囲の戦士も、きっと同意してくれると思う。

頭に額当てを巻き付けながら、あたりを見渡してみる。身支度を終えた味方の戦士たちは、すでにいくつかの小隊に分けられ、監督役である兵士から指示を受けている組もある。よく見れば木刀ではなく、やはりやや粗末なものではあるが、弓を携えている小隊もあるようだ。自分もどちらかと言えば、この木刀より弓で戦いたかった。まぁ、今からそんな希望を持ってみたところで、どうこうなるものでもないだろう。

戦士たちの集団の向こうには、相当な広さを持つ「コロシアム」が広がっていた。全体は見渡せないが、おそらく円形のフィールド。高い木製の柵で外界とは隔てられているようだ。場内は平坦な地面だけではなく、あちこちに草木の茂みや塹壕のような溝などが点在している。ちょうど場の中心あたりには池まで配置され、水面に周囲に植えられた木々を映している。いま自分たちが位置しているのは、この戦場からやや小高い台地のようになった場所。言わばここが「本陣」なのだろう。

「はーい、最後のグループはこちらに集まって下さーい!」

どうやら僕を含む、場内で一番出口側の列に並んでいた戦士たちが呼び集められた。車で同席したメンバーと一緒に、その声を上げた兵士の元に集まる。若い兵士は僕たち戦士の数を指差しながら数え、手にしていたメモに何やら書き込んでいた。

「さて、私たちは第10小隊となります。このデュエルでの全体戦略の説明は省きますが、私たちの任務は敵の陽動という、とても大切なものです」

陽動って、確か「囮」とかいう意味ではなかったろうか。とんでもないことをさらりと言う。

「まぁ、難しいものではありません。三回目の笛が鳴ったら、いまの隊列を崩さずに戦場の中央に走っていって下さい。陣形は、あまりくっつき過ぎず離れ過ぎない程度で。合図があるまでは、陣の中央に位置していましょう。以上です」

 本当に、難しいものではない。むしろシンプルすぎて心配になる。いざ敵と対峙した時の戦闘レクチャーなどは、一切ないんだろうか。逆にそうした状況になれば、僕たちは自然に「戦士としてのスキル」に目覚めてすんなりと戦えたりするんだろうか。兵に率いられて小隊が陣の中へと移動する間も、僕は相変わらず疑問と戦っていた。戦士としての自覚もなければ、おそらくは技量もない自分が、こうしてコロシアムに立つ事に意味はあるのだろうか。そもそもこのデュエルが「何のためのものなのか」くらいは、僕たちは知って然るべきではないだろうか。全てにおいて、説明不足なのだ。この大きな流れの中で、「戦士」は誰も逆らえないし、逆らおうともしない。しかし流れのあちこちに見えるほころびに、僕は何度も足を取られそうになりつつ、ようやく立っているように感じるのだ。

予定の陣形が整い、準備は終わったようだ。

「では諸君、武運を祈る!」

後方から、例の演説を行った男が大きな声を上げた。やはり彼が、この軍の総大将という事になるのだろう。大将の周囲には、兵が何人か寄り添っている。どうやらあれが司令部といったところか。その中の一人が、傍らの太鼓を一度、強く打ち鳴らした。意外なほど大きな音に、思わず身をすくめた戦士も多い。その音に呼応するように、コロシアムの対角線上、池に掛かる森の向こうからも太鼓が響いてくるのが聞こえた。

「良し!はじめぇっ!」

大将は僕らのものとは違う立派な大剣をすらりと抜き、太鼓の返事が聞こえた方向に向けて振りかざした。いよいよ開戦、というわけか。


 司令部から、ややざわついた雰囲気を戒めるように、高い笛の音が鳴る。と同時に、最前列に位置していた小隊が、統率役の兵に引っ張られるようにコロシアムの中央に向けて走りはじめた。陣の左右の小隊もまた、やはり兵に率いられながら前線に出る。こちらは真っ直ぐに中心に向かうのではなく、丸く設置されたコロシアムの外壁に沿ったルートに展開していくようだ。場内の森はちょうど目隠しになる位置に配置されており、敵方がどう動いているかを伺い知る事は出来ない。そのためか、いざ開戦となっても恐怖心は意外に沸いては来なかった。あえていえば時間の進行、つまり作戦の進行を示す笛の音が、一番怖かった。

 第一隊が中央の森まで半分の位置に到達した頃、2回目の笛が鳴った。今度は自分の前に並んでいた小隊ひとつが、同じく中央に向けて走り出す。今度は左右に展開する組はないようだ。ただこれで、自分の小隊が本陣の最前列に位置する事になった。今までは自分は「大勢の戦士のうちの一人」であるように意識され、戦闘もどこか他人事のように感じていた。しかし現在の状況はもう、そんな甘えを許してくれないようだ。心細さを誤摩化すように周囲を見渡す。握手を求めてきた若者は、グルグルと肩を回している。やる気にあふれているのか、もしくはそう自分に言い聞かせているのか。女の子は真っ赤な顔をしながらも、真っ直ぐコロシアムを見据えている。意外と彼女のようなタイプが、いざとなれば強いのかもしれない。長髪くんの方に顔を向けようとしたのと同じタイミングで、彼は戦場の中央を指差しながらつぶやいた。

「あ…あれ…」


 周囲の戦士たちも、一斉に長髪くんの指先の向く方に視線を送る。そこには、森に向けて第一隊が突進している姿があるはずだった。しかし目に映ったのは、引率兵を含む戦士たちが、散り散りに逃げ惑っている姿。まだ敵の姿は見えない。何があったのだ?

「…矢だ。撃ってきてやがる」

握手くんが目を細めて、つぶやいた。少し眉をひそめながら森の方に目を凝らすと、確かに木々の向こう側から第一隊に向けて、断続的に矢が放たれている。ただ向こうからも、まだこちらの姿は視認できないはず。当て推量で攻撃を行っているのだろうか、狙いは決して正確ではなく、全く的外れな方向に飛んでいるものも多い。ただ、その総数は圧倒的で、先ほどまで降っていた雨より、よほど容赦がない。その中のいくらかが、第一隊に当たったのだろうか。第二隊もこの光景を前に、突進の速度を落とさざるを得なくなっているようだ。不意に、胃液が逆流してくるような感覚を覚えた。正直、逃げ出してしまいたい。この場から離れてしまいたい。そんな僕の気持ちを見透かすかのように、引率兵が言った。

「大丈夫。じきに矢は尽きる。そこからがこの隊の出番だ」

言葉が終わるのとほぼ同時に、3回目の笛が鳴った。僕たちの第10小隊は、前の2隊ほどの勢いはないものの、コロシアムへ続く坂道を駆け下りた。最後の引率兵の言葉は的を得ていたようで、僕たちが前線に出るまでの間に、敵からの射撃は明らかにペースを落としていた。その事が僕の「戦場に足を踏み入れる」事への抵抗感を、うまく隠してくれたようだ。まずはとにかく、中央の森に取り付くこと。あの中でなら、いくらか身を隠せる場もあるはずだ。後は時間切れまで何とか逃げ切れれば、このデュエルを乗り越えられる。決して前向きとは言えないが、僕はそのモチベーションに身を任せる事にした。


 森までは、決して一気に走り抜けられる距離ではない。しかし逃げ切りたいという一心が、全力疾走のスピードを緩める事を許さなかった。脇の森に逃げ込んでしまうという選択肢もあるのだが、デュエルの展開を唯一予測できる引率兵から離れる事は決して得策ではなく感じられたし、何より仮にも同じ小隊の仲間から孤立してしまう事も怖かった。周囲のみんなの思いも、おそらく似たり寄ったりだろう。誰が最初に森に取り付くか。とりあえずの身の安全を確保出来るか。小隊の中でも競争が始まりかけたとき、またも引率兵の言葉が全員の動きを支配する事になった。


「来たぞ!止まれ!」


小隊は急ブレーキ。全力疾走に付いて来れなくなっていた女の子も、僕たちに合流した。他の人を見ている余裕もなかった自分に、ちょっとばつが悪い。すでに矢の攻撃は止まっており、先行した第2隊は森の間近にまで迫っている。僕たちも、本陣から森に向けて、ほぼ半分の距離まで到達している。しかしこちらの先行隊が遠距離攻撃に戸惑っているうちに、敵が先に森に入ってしまったのかもしれない。そうなればこちらの、特に「逃げ延びる」事を主眼とした僕の個人的戦略も、軌道修正を余儀なくされる。事態は理想とはかけ離れた展開を見せつつあるようだ。ほぼ最前線にありながら、僕たちはまだ敵の姿を知らない。小隊の全員が「何が起きてもいいように」身構え、神経を尖らせていた。森を見据え、剣を握る手に力を込めた。


 戦場の中央に位置する森は、攻守に重要な拠点となる事は間違いない。敵はまずこの中に陣を張り、地の利を生かしながら侵入者を叩き、支配権を固める事を考えるだろう。またすでに十分な人数が森に到達しているとすれば、一気にこちら側に攻め込んでくる事も考えられる。最初の矢の掃射は、そのための時間稼ぎだったのかもしれない。僕は僕なりに、今後の展開についてイメージはしていた。しかしこの予想は、現実にはかすりもしていなかったようだ。


 ふいに森の中に、動く人のシルエットが見えた。焦るそぶりもなく、真っ直ぐにこちらに向かってきている。パキパキと小枝を踏みならしながら木々の間を抜け、シルエットはいともあっさり、僕たちの前に姿を現した。たった、一人だけで。

「未知の敵」をイメージする時には、誰もが自分と同等か、それ以上の力を持った存在を思い浮かべる。それは生きていく上で必要な警戒心を呼び覚ますための、本能だと言えるだろう。しかし目の前に現れた「未知の敵」は、そのイメージとはずいぶん異なっていた。おそらくは、この小隊の誰よりも小柄な、ショートカットの少女。手足はすらりと細く、身体の線は頼りなくさえ感じられる。この華奢さだけを見れば、こちらの戦士の誰かが優位を悟り、彼女に突っかかっていっても不思議ではない。しかしそうさせなかったのは、彼女の特異なスタイルだった。腕と足に銀色のラインがあしらわれた、体に密着した真っ黒な服。小さな身体には不似合いなほどに大きくがっしりとした、真っ黒な靴。僕たちの白くゆったりとした簡素な衣類とは、対極にあるようなデザインだ。顔の下半分は真っ赤な長いマフラーで覆われており、余った布はマントのように彼女の背中を覆っている。そして何より奇妙に感じられたのは、彼女が小脇に抱えていた物体。それは剣でも弓でもなく、彼女の頭ほどの大きさの「光る球体」だった。この突飛なスタイルのインパクトに晒された僕たちは、誰もが「次の彼女の行動」を読めず、ただ警戒の態勢を崩せずにいるだけだった。

黒い少女はしばらく、こちらの布陣を確認するようにキョロキョロと辺りを見回していたが、じきに彼女の一番近くで身構える第2隊に、氷のような視線を浴びせた。そして大きく息を吸い込み、一拍おいて大きな叫び声を上げた。

「ミクリヤの人形どもめ。消え失せろ!」

叫び声と同時に彼女は第2隊の方向に軽く助走し、マフラーを翻しながら大きく飛び上がった。空中で彼女の体は、綺麗な弧を描くように反り返る。その弧に蓄積されたエネルギー全てを弾かせるかのように、彼女は右手の球体を第2隊に投げ放った。彼女の手から離れた瞬間から、僕はそれを球体とは認識できなかった。ただ青白い光の軌跡が、真っ直ぐに戦士の群れに突き刺さる。そうとしか、見えなかったのだ。次の瞬間、第2隊のいたあたりの大地から、大木を思わせるような泥のしぶきの柱と、霧のように細かな水煙が立った。そしてごくごく一瞬遅れて、内臓を揺さぶるような地響きと、肌を切り裂くような衝撃波が襲ってくる。目を開けている事さえ、困難だった。自分の周囲にも、飛散した泥が音を立てて降り注いできている。そのしぶきが感じられなくなった頃、僕はようやく目を開ける事が出来た。

 着弾点の周りはまだもやが掛かっている。しかしそこに、大きな穴が口を開けている事は分かった。穴からやや離れたところに倒れているのは、第2隊の引率兵。泥にまみれた彼は転がりながら何とか立ち上がり、本陣に向けて溺れるように逃げ去ろうとしている。ただ、穴の周囲のどこにも、僕たちと同じ「戦士」の姿が見当たらないのだ。木刀と額当ては、あたりにばらまかれたかのように散らかっている。ただ戦士たちだけが、何の痕跡も残さずに消えているのだ。


「大丈夫。誰も傷ついてはいない!恐れるな!」

引率兵が叫ぶ。その言葉で僕はつい先ほど聞いた「戦士の特殊能力」の事を思い出す。一撃で敵を消し去る事が出来る。傷つかず、命も落とさない。第2隊の戦士たちは、黒い少女の攻撃によって「消し去られた」のだろうか。確かに目の前で起きた光景は、それを実証するものかもしれない。しかし「死」と「消えること」の違いは何なんだ。消え去った後、僕たちはどうなるんだ?このあたりは、さらに説明を求めたいところだ。しかし黒い少女は、議論どころか思索のための時間も、僕たちに与えてはくれなかった。

「次っ!」

少女の声が響き渡るが、その姿は穴の周囲には見えない。小隊のメンバーはじりじりと身を寄せ合い、それぞれが少女の姿を探している。握手くんが叫んだ。

「あそこだ!」

おそらく僕たちが彼女から視線を外していたのは、わずか数秒。その間に彼女は、この第3隊のほぼ真横にまで移動してきていた。

「散れっ!固まっていてはさっきの二の舞だ!散って応戦しろっ!」

引率兵が慌ててまくしたてる。今度は小隊のみんなの反応も早く、半ば逃げ出すように四方に散り始める。しかしその瞬間、黒い少女もまたこちらに向けてステップを踏み、再び手元から閃光を放った。

目を閉じる暇もなかった。散開しはじめていた僕たちのちょうど中心あたりから、再び泥の爆発が起きる。同時に、先ほどよりも数段振り幅の大きな地響きが、僕の膝を揺らした。しかしその着弾の瞬間を、僕は見ることができなかった。握手くんと長髪くん、その他何人かの仲間が、偶然僕の盾になる位置で、閃光と衝撃のほとんどを受け切ってしまったからだ。

その瞬間に見ていたのは、握手くんの背中。辺り一面の景色がコントラストを失い、白く染まっていく中で、握手くんの輪郭は徐々に周囲と曖昧になり、次第に色を失っていった。周囲の風景が色を取り戻す頃には、彼の身につけていた額当てと木刀は、すでに地面に落ちていた。このわずかな間のビジュアルを、僕は現実の何倍もゆっくりとした速度で、感じていたと思う。僕はその場にすとんと腰を落としてしまった。衝撃によるダメージのせいではない。全身で感じた無力感が、身体にもそのまま影響した。そう例えるのが妥当だろう。水煙の中、視界には数人の戦士が僕と同じようにへたり込んでいる姿が見えた。引率兵だけは何やら叫びながら、なおも必死に立ち上がろうとしている。その向こうから、黒い少女がゆっくりとこちらに近づいてきている。水煙さえもが彼女を畏れ、自ら道を空けている。僕にはそう見えた。

彼女は中腰の姿勢のまま動けない引率兵には一瞥もくれず、周囲を確認するように着弾点に歩み寄り、その中心でなおも地面との摩擦音を上げて回転し続けていた球体を拾い上げた。そして明らかに僕の方へ歩み寄り、目を細めながらあざけるように言い放った。

「残ったのは3人か。運が良いなぁ君たちは」

もはや木刀を握り直す力も、言葉を返す気力も沸いては来ない。

「いや、逆に運が悪かったのかな?」

彼女はいたずらっぽく甘えた声でそう言うと、球体を持った右手を後ろに運んだ。僕ひとりをターゲットとした一撃に向けての、バックスイング。彼女の言うように、僕の運は悪かったのかもしれない。

全てを諦めてうつむきかけた瞬間。ヒュウ、という風を切る音に、この絶望的な展開の進行は遮られた。続いて僕の右手の間際の地面に、湿った音を立てて何かが付き立った。矢だ。再び顔を上げた僕が見たのは、空を覆う無数の点。その全てが軽いうなりを上げて、僕たちのいる場へと吸い寄せられてくる。先行して左右の森に展開した、弓を持った戦士たち。彼らが一斉に、黒い少女への攻撃を開始したのだ。左右から不意打ちの挟撃を受けた彼女に、逃げ場はない。敵の陽動という僕たちの役割は、この事だったのか。味方もろとも、というこの作戦に、憤りを感じなかったわけではない。しかしそれに対する怒りよりも、自分たちが黒い少女に文字通り一矢報いる事が出来た喜びの方が、やや大きかった。

「くそっ!騙し討ちかあっ!」

黒い少女は僕の前でヒステリックに叫びながらも、命中コースに飛んでくる矢を的確にかわしている。その姿はまるで、ダンスを踊っているかのように華麗だった。しかし次第に数を増す飛来物は、徐々に彼女を追いつめていた。

「あっ…」

矢のうちの一本が少女のマフラーを絡め、地面に打ち付けた。マフラーはぴんと伸び、彼女の動きを縛るかに見えた。しかし次の瞬間、彼女の襟元の留め金はパチンと弾け飛び、マフラーは力なく地面に横たわってしまった。しばらく宙を舞った留め金のパーツは、ちょうど僕の手元に転がってきた。銀色のピンのような金具と、その中央にはめ込まれていた小さな青い石。青と言うより紺色に近いだろうか。完璧に磨き上げられた正六面体のその石は、奥深い透明感を持ち、虹のように光を反射している。その不思議な存在感に、僕は思わず手を伸ばして石を拾い上げた。

「ま、待てっ!返せっ!」

素顔をさらけ出した少女は、飛んでくる矢をものともせずこちらに詰め寄ってきた。慌てふためき紅潮したその顔は、これまでの台詞や立ち振る舞いからは想像のできない、あどけなさを宿していた。ふうん。意外と可愛い面もあるじゃないか。自分の置かれた状況も忘れて笑みを浮かべた僕の背中に、ドスンと矢が当たる感触が来た。痛くはない。ただ、自分の周りの風景が、たちまち曖昧に見え始めた。握手くんが消える時に感じたのと同じような視覚効果だ。今度は僕が「消え去る」のか。まだ疑問はたくさん残っている。納得がいかない事も山のようにある。しかしそれらに思いを馳せる前に、僕の意識もまた輪郭を失い、消えていった。






















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