香りでつながる、私たちの恋
佐々森渓
事後の倦怠感と充実でふやけた意識に、ジッと火打石を擦る音が滑り込む。
吐息の音と共に、甘饐えた焦げの匂いがふんわりと広がっていく。
その匂いに思わずムッとした。
私はタバコが苦手だった。
匂いがダメとかそういうわけじゃない。
むしろ、匂いそのものとしては好きだった。
でも、あの匂いを嗅ぐと、吸っている姿を見ると、嫌なことを思い出してしまうから、自然と避けるようになっていた。
「ああ、ごめんなさい、キミさんはタバコ苦手だった?」
「まあ、人並みには……」
断りもなくタバコを吸い始めたソラさんが、私の表情に気づいたのかそう訊ねてきた。
もちろん、この人が喫煙者なのは出会った時点で気付いていたし、部屋に灰皿があったから分かってはいたけど。
せめて一言くらい……。
「そう」
「あっ」
そんなことを考えている間に、彼女は吸い始めたばかりのタバコを灰皿に押し付けた。
一箱の値段を考えると、ゾッとする。
嘘でもいいえと答えておくべきだったとすら思った。
「そんな顔しないで。自分の家だからって、勝手に吸い始めたのが悪いんだから。ごめんね」
「いえ……それを言ったら苦手なのも私の勝手なので。アレルギーとかあるわけじゃないですし」
申し訳なさそうな顔で頭を下げるソラさんに、私も頭を下げた。
一言声をかけてくれるなら吸うのは気にならないし、私が苦手なのは、タバコを吸うあの人であって喫煙者全員じゃない。
だからここまで低姿勢になられると、むしろ困ってしまう。
「ふふ、大の大人が二人して裸で頭を下げ合うなんて、バカみたいね」
「そう、ですね」
明るく笑いかけてくれるけれど、どうにもいたたまれない。
あの人とは違うとわかっていても、邪魔してしまったのが引っかかっている。
「でも意外ね、あなたの方が吸いそうな顔してるのに」
「そうですか?」
「ええ。見るからにサバサバしてて、アプリ上でのアプローチだって手慣れてたし」
「見た目だけですよ。ネットもただの慣れです。中身は全然逆。付き合い始めたら思ってたのと違うって。ソラさんもそんなことよく言われません?」
事後の弛緩からか、いつになく私は饒舌になる。
そんな私を見てふふりと微笑む彼女は、確かに見た目だけを見たら喫煙者には見えない。
猫みたいに大きな目をしている、甘く可愛いらしい雰囲気のひと。
きっと世のほとんどの人が好きになるだろう、女らしいひと。
「まあ、そうね。私もよく言われるわ」
「でしょう?」
どうしても人のイメージは外見に引っ張られる。
それを変えようとしたって限度がある。元から可愛らしいパーツが揃っている顔の子が、かっこよくなるのは難しい。
もちろん不可能じゃない。だけど、それを伸ばした方が楽だ。
よほどの信念がないと、抗えない。
「勝手に期待されて、勝手に幻滅されるのは大変よね」
「お互いそうですね」
「あなたなんかは、よくリードを求められるでしょ?」
「……まあ、はい」
私は、女にしては身長が高い。
モデルほどスタイルが良いとは思わないけど、身長だけは高い上にマニッシュなスタイルが似合う顔立ちだから、そういう子が寄ってくる。
ほんとうは、逆なのに。
「ふふ、面白いわね。私たち、上手いこと噛み合ってる気がしない?」
「そうかもです」
可愛らしいけれど、その実強いソラさんと。
格好良く見えるけど、その実弱い私。
上手い具合に凹凸が収まっている。
「だから、その……」
「次も、ありますか?」
「……ええ」
付き合う、とは言わなかった。
彼女も軽々と言えないくらい、いろんな経験をしてきてるんだろう。
だから、まだお試しで。リピートの約束をするだけ。
「あと、タバコ吸っても大丈夫ですよ?」
「……ほんとに?」
「はい。苦手ではあるんですけど、その、タバコがと言うか、吸ってる特定の人がダメなだけなので」
この人なら大丈夫な気がして、そう提案した。
ソラさんは嬉しそうな顔をして、ジッとタバコに火をつける。
彼女の細くて長い、柔らかそうな指の先で赤赤とした火が揺れる。
そうして吸口に口付けするようにしてタバコを咥えると、ジリジリと焼ける音がして、先端の赤が根元へと移動していく。
そうして生まれた灰色は、灰皿のふちで指を振れば、塊となって落ちていく。
それを見守りながら、彼女はふぅと口に含んだ紫煙を吐き出した。
独特な香りと、嬉しそうな彼女の顔。
この顔を見られるなら、私の苦手な気持ちなんて、どうでもいい気がしていた。
***
体を重ねたからって、必ずしも恋人になるわけじゃない。
私にとって性行為は寂しさを遠ざけるためのものだったから。
時には、相手が好きになってきて、お付き合いに発展することもある。
だけど、だいたいは長続きしない。
いいのはセックスだけで、他は何一つ噛み合わない。そんなことはザラだった。
どうにも体を重ねるという行為には、相手をよく見せる効果があるらしい。
その辺りの機微を、ソラさんもわかっているようだった。
ピロートークの時の感覚から、私と同じように彼女の方も好感を持ったように思ったけれど、翌朝早々に誘ってくるということはなかった。
だから私たちは、よくあるワンナイトの時のように、軽く挨拶をして別れた。
それからアプリ上で楽しかったです、と社交辞令の文句を送る。
だけどそれだけではやっぱりもったいない気がして、
『もしよかったら、また今度』
ささやかな誘い文句をつけたして、アプリを閉じる。
好意は確実にある。
けれど私たちには冷静になる時間が必要だった。
相手の気に入らないところを探す、不毛な時間が必要だった。
昔はそうじゃなかった。
好きになったら一直線で、悪いところも気にならなかった。
友達の助言も何もかもを無視して、盲目的に恋人を信じていた。
だけど今は、その悪いことが、ともかく恐ろしい。
大人になれば、強くなれると思っていたのに。
実際は、恋を重ねるたびに弱くなっていく。
それから逃れるためだけに、恋の炎を頑張って弱くしないといけなかった。
ああ、私たちは恋に夢見る少女から、こんなにも遠くへ来たのだ。
来てしまったのだ。
***
誰かと体を重ねると、寂しさは遠ざかってくれる。
そうして元気になった私は求められる姿を演じて、社会の中に溶け込んでいける。
こんなにも淫蕩な人間でも、いっぱしの人間面ができる。
けれどそれも長くは続かない。
寂しさは、いつだってふとした瞬間に湧き上がる。
たとえば、小さな疲れを自覚した時。
たとえば、誰かの陰口を叩き合うのを聞いてしまった時。
たとえば、みっともなく喚き散らす人を見かけた時。
……たとえば、タバコの匂いを嗅いだ時。
その小さな出来事をきっかけに頭の中に蘇るあの人が私の体を震わせて、心が寂しさに叫び始める。
そうなると、もう王子様ではいられない。
飢えと渇きに苦しみながら路地をさまよう浮浪者のように、連絡先を交換した相手に声をかけて回るようになる。
けれど、あまりの急な誘いは、当たり前のように断られて。
その代わりにと提案される予定日は、あまりにも遠すぎて。
私の心がギリギリと音を立てて軋んでいく。
みんなみんな、私以外は満たされていた。
こんなにもたくさんの人間がいる中で、寂しさに凍えているのはわたしだけ。
周囲を見渡せば、ほら、あんなにも幸せそうなカップルが見える。
隣の部屋からは家族の声がする。上の階からは一人ではない足音がする。同棲を楽しむ友達は、なんてことのない惚気をSNSで共有してくる。
その全てに嫉妬してしまう。
なんで、どうして。私はこんなにも、あなたたちが求める姿を見せてあげてるのに。
私が苦しい時、誰も私を見てくれない。
役立たず役立たず役立たず!
みんな死ね。死んじゃえ!
そんな怨嗟を連ねても、心から寂しさは消えることなく。
むしろ、悪意を呟くほどに膨れ上がっていく。
苦しい。苦しい。苦しい。
怖い。怖い。怖い。
だれか、だれか。誰でもいいの。
――私の隣にいて……。
祈るように目を閉じて、喘ぐように画面をスクロールする。
そうして手を伸ばし続けた私を救ってくれたのは、ソラさんだった。
『ちょうど仕事が終わったところなの。このあと予定もないし……ディナーでもいかが?』
***
ディナーと言っても大したものじゃない。
当たり前だ。私が彼女にメールを送った時間は夜十時過ぎ。
真っ当なレストランは軒並み新規客をお断りしている時間だ。
ソラさんが仕事上がりということを考えると、バーに向かうわけにもいかない。
そんなわけで、私たちが落ち合ったのは、こんな深夜でも開いているファミレスだった。
夜を拒むように煌々と灯りに照らされたファミレスの店内には、居酒屋とは違う、どこか落ち着いた雰囲気が漂っている。
その中で私たちが陣取ったのは当然、喫煙エリア。
幾条もの煙が天井へと垂れる中、ソラさんはテキパキと注文をした。
「あなたは?」
「え、ええと、あとで……」
「そう? あ、そうか。食べちゃったのかな。デザートだけならあとでのほうがいいよね」
私の言葉から勝手な納得をしたソラさんは、料理を待つ間に疲れを癒したいのか、タバコを取り出した。
目で許可を求めてきたので微笑みを返すと、少し嬉しそうになって火をつけていた。
そんな彼女を見ながら、頼まなかったのは別にお腹いっぱいだからじゃないんだよなと思う。いいや、お腹はそれほど空いていないのは確かだけど。
実のところ、ソラさんの食べる量に気圧されてしまったのだ。
ソラさんは、細い。きっと誰もが羨むくらいに細い。
まるでアイドルのようなプロポーションなのに、二人がけのテーブルいっぱいに頼んだ食事をモリモリと片付けていく。
その食べっぷりはまるで大食いのユーチューバーみたいで、見ているだけで気持ちいい。
……でもリアルで見るとちょっと引く。
「よ、よく食べますね」
「よく言われる」
「……よく痩せてますね」
「それもよく言われる。でも、これだけ食べても太れないの。むしろ気を抜くと、痩せちゃう」
それはとても羨ましいことのように思えたけど、心底困ったような声音からは憧れるようなものではないのがわかった。
たぶんきっと、職場の健康診断とかで何度か怒られたことがあるんだろう。
「……自慢っぽくて嫌かしら」
ぽつり、困ったような顔をしていたソラさんがつぶやく。
たぶんきっと、何度もそう茶化されてきたのだろう。
痩せるためにあの手この手のことをやってきた人からすれば、嫌味にも感じるかもしれない。
だけど本人からすればそんなことは関係ない。悩みとはそういうものだから。
「いいえ。悩みは人それぞれですから。大変ですね」
「……そ」
私のリアクションが予想外だったのか、一瞬きょとんとした顔をしたソラさんは、誤魔化すようにそっけなくそういった。
それから一口二口、そそくさと食事を口に運ぶ彼女とは不思議と目が合わない。
「ありがと。そう言ってくれたの、あなたが初めてよ」
猫のように大きな目を逸らしたままそんなことを言われると、お腹いっぱいになってしまいそうだった。
胸焼けしそうになるくらい、可愛かった。
小一時間前、そんなふうに愛らしいと思った瞳は今、私を閉じ込めている。
その獰猛な情欲を宿した黒穴の中で、私が嬉しそうに笑っていた。
「かわいい」
声が降り注ぐ。
「綺麗ね」
雨のように言葉が染み渡る。
かくして私の体から、寂しさが抜けていく。満たされていく。
ああ、この人だ。私が探していた
胸を満たす幸福が唇から零れ落ちる。
「すきです」
場を盛り上げるためではない、真実の言葉。
それを受け止めたソラさんは、はぐらかすような曖昧な笑みを浮かべて、私を抱きしめてくれる。
パフュームを塗り潰すほどに染み付いたタバコの香りが、鼻腔を埋め尽くす。
大嫌いなあの人が少しずつソラさんに塗り潰されていく。
だけど、
「ありがとう」
私の好意に彼女は口付けで答えてくれたことだけが不満だった。
それは私からの一方通行を誤魔化すように感じられたから。
***
「吸ってもいい?」
幸福感に満たされた中、ソラさんが訊ねる。
私がうんと頷くと、彼女は嬉しそうに笑った。
ジッと音がして、やがて紫煙の香りが満ち満ちる。私達の匂いを塗りつぶすように、部屋の中を染めていく。
この人が好きだと自覚すると、ソラさんのことを知りたくなる。
この人はどうしてタバコを吸っているのだろう。見た目だけなら、そんなものに触れてこなかったように見えるのに。
「タバコって、美味しいんですか」
「ううん、別に」
「えっ、そうなんですか」
「うん。お酒とかお菓子みたいにうんめ~!ってなったことはないなあ」
まずはと訊ねてみた質問には予想外の答えが返ってきた。
美味しいからつい求めてしまうならわかる。甘いお菓子を、ダメと分かっていてもつい求めてしまうんだから。
だけど、美味しくもないならどうして。
「えと、失礼かもですけど……なら、どうして吸うんですか?」
決して、安くもないのに。
いや、安いならいいってわけじゃないけど。
「んー……そうねえ。改めて聞かれると困るかなあ」
ソラさんはタバコを咥えると、少し考えるふうな顔をした。
「……最初は、ちょっとやんちゃしてみたくてとか、そんな理由だった気がする。あとはまあ、当時好きな人が吸ってて、私も~って真似したくて」
よくある話だ。好きな人に少しでも近づくために、真似をして始めてしまう。
「でも、美味しくはなかったんでしょう?」
「うん。そう。そこでやめたら良かったんだよね。だけど吸い始めたらあの人と一緒に吸えて、その時間が気持ちよくて……」
時折タバコを口に運びながら遠くを見つめるソラさんは、今、少しだけ幼い頃に戻っている。
緩んだ目元からは幸福の香りがして。
私がタバコの匂いで嫌なことを思い出すように、彼女にとってそれは幸福を思い出す鍵なんだろう。
「それにさ、吸ってると少し気分がいいんだよね。まあ、ニコチンがそういう作用があるかららしいけど」
「へえー……」
「ほら、イライラすらと爪噛んだりする人いるじゃない? 私にとってはタバコがそうで……気づけばやめられないってわけ。まあ、一箱ぽいぽい吸うほどじゃないから、いいかなあって思ってるけど」
「なるほど……」
彼女にとっては安定剤のようなものなのだろう。
「とはいえ最近高いしさ、やめなきゃなぁとは思うんだけどねえ……」
「無理に辞めなくてといいんじゃないですか。マナーさえ守ってればいいと思いますし、それに値段だって、ご褒美のスイーツみたいな感じでいいんじゃないでしょうか」
「そうかな? ……そうかも。うん、ありがとね」
ソラさんは私の言葉にふんわりと笑みを浮かべ、額にキスをしてくれる。
タバコが苦手なはずの私が、禁煙しようとするソラさんを止めている。
それはどこかチグハグだけれども、彼女の幸せのためなら止めるべきだと思った。
「じゃあ私も聞いていい? キミさんはなんで苦手なの? やっぱり臭いから? それとも歩きタバコとかマナー悪い人のせい?」
質問に、少し沈黙する。
脳裏にあの人の姿が甦る。
どこまで素直に答えるべきなんだろう。そんな人が身内にいたなんて知られたら、重くなってしまう。
だから、私は――。
「ソラさんとは似たようで違うというか。まあ、元カノにいたんです」
「あー、思い出しちゃう感じ?」
「たまにですけどね。今みたいに私に余裕がなくて、体に悪いからやめなよっていうばっかりで。最後はそれで喧嘩して別れたんですよ」
嘘をついた。別れたのは確かだけど、それは単にあの人が死んだというだけでしかない。
その跡に、嫌な思い出ばかりを残して。
「まあ、今じゃそれもいい思い出というか。もっとこうしたいなってなれたので。……ってソラさん!?」
ソラさんは突然吸っていたタバコを灰皿ですり潰した。
それだけじゃなく、ベッドサイドに置かれていた箱もゴミ箱に放り投げた。
「も、もったいないですよ」
「いいよ別に。元々やめたいって思ってたし。一緒にいる子を不快にしてまでやるものじゃない」
「いや、そんな苦手じゃないですし彼女のことも」
「ウソ。苦手な理由話してる時、すごい顔してた。すごい声してた。吹っ切れてるならそんな顔なんかしないよ」
うまく嘘をつけたと思っていたのに、ソラさんにはもっと深いところまでお見通しだったらしい。
実際、私は今でもあの人のことを吹っ切れてないんだから。
「吸う度にそんな思いをさせるなんて、我慢できない」
「でも……」
「そのうち慣れるわよ。……うん、たぶん」
ああきっと、この人は思い立ったら勢いそのままな人なのだ。
その口実に私を使うほど好きになってくれているのかはわからないけど。
けれども、ここまでされて「はいそうですか応援します」と返せるほど、私は私に自信がない。
私はキラキラした王子様なんかじゃないから。
「……ならええと、次会う時はうちにしませんか?」
「そこなら吸う心配ないから、みたいな?」
「いや……あーごめんなさい。話飛んでますね。ええっと、その、元カノにもしてたんですけど、禁煙の時にはコーヒーを飲んでもらってて」
「ああ、ご馳走してくれる、っていう?」
「はい」
あの人も、コーヒーを飲んでいる時は落ち着いていた。
タバコに火はつかず、声も荒げることはなく。よその人に自慢できる理想の人だった。
だから、もしかしたらそれは他の人にも効果があるんじゃないかって。
私自身今でも時折、癒しを求めてコーヒーを挽いているから。
「わかった。もしその日まで禁煙できたら褒めてくれるかしら?」
「はい。たくさん」
「ふふ、じゃあ頑張らないとね」
どこか楽しそうに笑うソラさんと指を絡めて口づけをする。
その唇からはまだ少しタバコの味がした。
***
あの人は最低な人だった。
酒と暴力に溺れた人。
気に入らないことがあるとすぐ怒る、子供のような人。
怒ると決まってタバコを吸うし、それでイライラが収まらないと手をあげる。
そのおかげでよく物が壊れていたし、色々なところに怪我をした。
幸い、跡は残らなかったけれど、それも紙一重みたいなものだったろう。
けれどそんな人と離れられなかったのは、優しいときには優しかったからだ。
悪魔のような恐ろしさと、天使のような優しさが同居している人だった。
その優しさは誰をも惹きつけた。あの人の葬式には長蛇の列ができたくらいなのだから、病的な二面性だった。
せめて家庭では悪魔のような顔だけをしていてくれたなら、恨むだけで済むのだろう。
だけど、私の手元に残ったコーヒーミルのように、コーヒーを淹れる技術のように、あの人の優しさが与えてくれたものは確かにあって。
そのせいで、恨むに恨みきれないでいる。
忌々しい、人。
「久しぶり、かな」
キッチンの洗い場の下にしまわれたコーヒーミルを取り出しながら呟く。
あの人に就職祝いにと贈られたこれは、そこそこの値段のするミルらしいけれど、使うのはよほどいいことがあった時だけ。
普段は中途半端な味をした、コスパの良いインスタントコーヒーを飲んでいる。
完全に自分好みとは言えないけれど、体にカフェインを取り込むには十二分に美味しい。企業努力ってすごいと常々思う。
「……好み聞いておくんだったなあ」
今更ながらに後悔する。
コーヒーの味わいは豆やロースト、挽き方で驚くほどに変わってしまう。
こだわりのある人なら自家焙煎にも手を出すそうだ。
流石に私はそこまでできないから、近くの専門店で買ったものを使っている。
「ソラさん、どういう味が好きなんだろう」
豆を投入してゆっくりとハンドルを回し始める。
コリコリと豆が砕ける感触を手に感じながら、ハンドルを回し続ける。
普段なら無になる時間だけど、今日はソラさんのことで頭がいっぱいだ。
タバコに合うなんて謳い文句の豆もあったし、そういうものを買った方がいいんだろうか。
それを使うにしても、粗挽きが好きか細挽きが好きか。悩むことは多い。
でも、ソラさんの家で朝を迎えた時、キッチンで見かけたのはインスタントだったし、あんまりこだわりはなさそう。
となると変にこだわりすぎても圧をかけてしまう気がする。笑顔でうんうんと豆知識とか聞いてくれそうだけど、そうやって甘え続けたいわけじゃないし。
ううーん、と色々なことを考えていると、ハンドルから引っ掛かりが消えた。いつの間にか挽き終わっていたみたいだ。
そうして出来上がった粉を使ってコーヒーを淹れれば、かぐわしい香りが部屋の中に満ち満ちる。
その真っ黒にも濃い
「うん、美味しい」
口腔から鼻腔へ駆け抜ける爽やかな香り。ミルクで丸くなった苦味と酸味。その奥にある甘味が私を癒してくれる。
豆を変えれば、この辺りの比率はがらりと変わる。
今は私好みのものだけど、と挽いていたときに悩んでいたことを思い出す。
ともかく、私はソラさんに笑顔になってほしいのだ。
私が辛くて苦しい時、たまたまだとしても手を取ってくれた人だから。
あの手の人は、表になかなか悩みを出せないと知っているから。
せめて、一緒にいる時は満たされてほしい。
それが、私の幸せにもなる。
だってこうしてソラさんのことを考えているだけで、こんなにも胸が温かくなるのだから。
「……好きだな。うん」
もう自分の気持ちには言い訳しない。
私は彼女のことが好き。
だから……。
「がんばろ」
味はこのままでいこう。せめて、当日変なミスをしないように淹れ方を思い出そう。
そうして何度も何度も練習をして、当日。
事後の裸身に軽く一枚シャツだけ羽織った私たちは、テーブル越しに向かい合う。
一から作業が見たいというソラさんのために、目の前でコーヒーを淹れることになったのだ。
「別に特殊なことは何もないですよ」
「そうかもしれないけど。でも、自分のために何かしてくれてるのを見守るのって幸せよ?」
「わかりますけど……恥ずかしいですよ」
ソラさんの猫のように大きな目が、きらきらと輝きながら私の手を追うのだ。
まるで新しいおもちゃを見つけた猫と同じように、すすすと視線がついてくる。
それが単なる興味だとわかっていても、誰だって好きな人に一挙一動を注視されたら緊張する。
下手なところなんて見られたくないんだから。
「ふふ。可愛いね。でもほら、お店とかコンビニだと機械でうぃーんっていうのが多いから、そうやって手で挽くのって見てて楽しいの」
「なんならやってみます?」
「いいの? 味変わったりしない?」
「ゆっくりやってくれれば、そう変わらないと思いますけど」
ソラさんにはそう言ったけど、実際には変わる。
とはいえ、手で挽いている以上、ある程度の差が出るのは当たり前。
むしろそれが楽しみでもある。
その辺りの話は今はしない。せっかく興味を持ってくれたんだから、邪魔をしたくなかった。
「じゃあ、今度は私が挽いてみてもいい?」
「いいですよ。……なんか、興味を持ってくれて嬉しいな」
今まで付き合った子たちはそうじゃなかった。
そういうのもあって、長続きしなかったのかもしれない。
「だって、この日のためにタバコほんっとに我慢したのよ? 気にもなるんだから」
「ありがとうございます」
それだけ楽しみにしてくれてたということなんだろう。
そうして話をしていると、二人分の豆が挽き終わる。
たっぷり沸かしたお湯を使って、ティーポットにコーヒーを抽出していく。
「そのくるくる回してかけるの、憧れるわ。職人技って感じ」
「映画とかでよく見ますよね」
「うん。やってる人も格好良さそうだしね」
もしかして褒められてるんだろうか。ちょっと恥ずかしい。
「色々、こだわると違うらしいんですけど、私のは、ほんとに趣味程度なのでこう、雑味とかも混ざるので」
「急に早口になってどうしたの? 赤くなって、可愛い」
「もう。わかってるくせに」
クスクス、二人して笑い合う間に、ドリッパーからコーヒーが落ちた。
ティーポットに入った量を見て、ドリッパーを退ける。まだ少し湯が残っていたけれど、雑味が混じらないようにだ。こういうのが最後まで絞りたいお茶とは違うところ。
そうして二つのカップにコーヒーを注げば完成だ。
「ソラさんはミルク入れます?」
「入れたほうがキミさんのは美味しい?」
「んー……」
合わせてくれる、んだろうか。
「そうですね。いつもミルクを入れる気で作ってるので」
「じゃあ、私もで」
「はい」
一度離席して、持ってきた牛乳を注ぐ。
くるくると回転して混ざる白と黒の液体は、まるで私たちのよう。
全く違う性質のものが混ざり合って、極上の味を作り出すのだ。
「どうぞ」
「ありがと」
さあ、今度は私が注視する番だ。
カップを大事そうに取ったソラさんの一挙一動を見守る。
口では何とでも言えるけど、味への感想はどうしたって顔に出る。
どうか不快そうな顔になりませんように……。
祈りながら見つめていれば、小さく唇をつけた顔は一瞬疑念に染まったけれど、すぐに心地良さそうなものに変わっていく。
「うん、美味しい! こんなに違うものなのね」
ほっとした。
ソラさんを笑顔にできるものを教えてくれたあの人に、少しだけ感謝したくなった。
もしかすると、これからそういうことは増えるのかもしれない。
忌々しい人だけれど、私の持つ知識はあの人から受け取ったものが多いから。
そんなことを考えながら、少し豆知識を添えた。
「挽き方を変えると濃くなったりとか、他にも色々あるんですよ」
「へえ~面白い。そういう話、もっと聞かせてくれる?」
「……もちろん。これからたくさんしたいです」
私もコーヒーを手にして一口飲む。うん、文句なしだ。
しばらく、コーヒーを啜る音だけが響いて。
ふと、私から沈黙を破る。
「ねえ、ソラさん」
「待って。その前に、本名教えあわない?」
何かを察したのか、ソラさんがそう言った。
そういえば、結局アプリ上の名前のままだ。何も不便がなかったから、気づかなかった。
「ええっと、
「
促す言葉に、一つ呼吸をしてリズムを取り戻す。
それから。
「美空さん、私と――」
そうして告げた言葉には、笑顔の答えがあって。
二人ともに笑顔が咲いた。
私たちの間にタバコの香りはもうしない。
ただようのはコーヒーのかぐわしい香りと、幸福を含んだ笑い声だけ。
香りでつながる、私たちの恋 佐々森渓 @K_ssmor
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