人魚探偵は存在しない

いいの すけこ

死んだはずだよおトミさん

 海から遠い街の空は狭く見えた。

 ビルとビルの合間から覗く空は四角くて、あの村には高い建物なんてなかったなと思う。あちこちの高いビルにぶつかって通り抜ける風には、うっすら汚水の匂いが混じっていた。

 身潮みしお村は、いつでも濃い潮の香りがした。

 それを気持ちが良かったとか、思い出深いなんて、そんな風には感じない。

 身潮村では菱沼ひしぬまは招かれざる客だったし、元々街育ちだ。塩気のまとわりつくような風より、ビル風のほうがよっぽど肌に馴染む。

 海風は生臭くて、血の匂いに似ているし。

 あの村は、血溜まりの中に沈んでしまった。

 今更何度思い返したって。余所者である菱沼では、惨劇を食い止めることなど到底叶わなかったのだ。

(ただのブン屋の若造が、警察か探偵なんか気取りやがってって話だ)

 新聞記者という身分も、今や過去のもの。身潮村の事件について、どこまでも客観的に、平静に、要点だけを纏めた記事を仕上げるだけ仕上げ、あとは全て投げ出してしまった。記事を書いたので責任は果たしただろう。我ながら、あの凄惨な事件の記憶に苦しみながらも、よく勤めを果たしたと思う。

 一応は真っ当な新聞を発行している地方新聞社内元勤務先ですら、人魚村怪奇事件などと囁く者があって、更にタチの悪い世間は無責任に盛り上がりった。趣味の悪い好奇心に怒りを覚えながら、よくもあれだけ無味乾燥な記事を書けたものだ。だからこそ、その冷静で公平な目は貴重だよと引き止められもしたけれど。

 冷静であるものか。

 腹の中が収まらないからこそ、冷静に事実を綴ることだけに終始したのだ。

 そこから更に踏み込んだ真実は、墓場まで持っていくと誓いながら。


 背の高い鉄筋ビルの間を縫うように歩くことしばし、唐突にそこだけ背を低くして木造家屋が現れた。周囲から浮いているような、馴染んでいるような家屋には暖簾がかかっていて、まだ昼営業の時間だっただろうかなどと考える。

(約束のうち一つ叶えたところで、行き着く先がこれじゃあ)

 彼女と――ヒトミと交わした約束の三つのうち、菱沼は一つしか叶えられていない。

 それも結果的にそうなっただけで、彼女のためにしてやれたことなど何一つない気がした。

 離れまである大きな日本家屋から流れ着いたのが、食堂に付属する住宅の一間では。

「あら、いらっしゃいだよ菱沼サン」

 ぼんやり思案にふけっていたら、磨りガラスの引き戸が勢いよく開いた。

「うお、アニさん」

「遅いよ。昼営業もうしまうところよ」

 中から出てきた店主、アニが顔を出す。

 つまりここが、あの『ザクロ食堂』である。

 やはり昼休憩の時間で間違いなかったと思いながら、菱沼は尋ねた。

「うん、メシはいいんだ。……いる?」

 菱沼は立てた親指の先で店――実際は店に続く母屋――を指す。

「トミちゃんなら部屋にいるよ。まったく飯屋にご飯食べに来ないで逢い引きたあ、とんだ色ボケ野郎だよアナタ」

「違うから。また夜、食いに来るよ。俺、ここの羊肉と干葡萄の饅頭マントウが一番好きだし」

「調子いいこと言うよね、この人は」

「いや本当に。遭難した時、真っ先に思い出したのがここの饅頭だから」

「……菱沼サン、あんた本当ヤバいことに首突っ込んできたんだねえ」

 人魚塚の洞穴で殴り倒されて、入り組んだ横穴の奥深くに置き去りにされること二日と半日の遭難。あの時は流石に餓死の二文字が頭をよぎった。

 その時だって菱沼は、窮地を見ていたヒトミに助けられている。

「私は買い出し行くから、勝手に裏回るといいんだよ」

「あんがとね」

 裏に回ると、鎖で繋がれたプロパンのすぐ隣にドアがある。元々が勝手口で呼び鈴もないから、直接ドアをノックした。

 扉越しに声がして、待つことしばし。戸口まで来させるより、いっそ自分から入室した方が良かっただろうかと思っていると。


「いらっしゃい、沼ちゃん」

 目に飛び込んだのは、弾けるようなスカイブルー。

 海の青より明るい空色の杖で体を支えながら、ヒトミが狭い三和土に降りてきた。

「杖が新しい」

「前のは折れちゃったの。ほら、『黒鰭くろひれ様』に抵抗した時、ヒビ入っちゃってたでしょ」

「ああ……。その節は、どうも」

「私、思ったより強い力で、あの『人』のこと杖で殴りつけてたみたいね?」

 黒鰭様は怪異ではなく、人間である。

 真相がわかれば、当たり前の事実にたどり着く。それでなお、人の悪意というものに今でも背筋が凍る思いがするのだった。

「……私がもっと早くに、黒鰭様の正体を見通せていれば良かったんでしょうけど」

「そんなの探偵でも預言者でもないんだから、無理だ」

 そもそもあまり自由に出歩けなかったヒトミが、広い世界を見たくて、外の世界を知りたくて生まれたのが遠見の力なのだから。

 村人の都合のいいように物事を見通せるわけもないし、悲惨な光景をわざわざ網膜に再現するなんて酷な話だった。

「いけない、玄関にお客様を立たせっぱなしにしちゃった。散らかってて悪いけど、上がって上がって」

「あ、うん」

 ヒトミは左に杖を、右手は壁の手すりを掴んで室内に戻る。

「アルミのって、木製より色が綺麗なのが多くていいね」

 菱沼も掴みやすい位置にある手すりに、思わず手を掛けた。アニが取り付けてくれたのだろう。良くしてくれているようでありがたい。

「これ、おみやげ」

「ありがとうー。あ、美味しそうなケーキ」

 身潮村には小さいながら洋菓子店もあったし、ヒトミも時々買ってきてもらってこっそり食べていたようだけれど。それでも限られた生活では得られなかったものがあるのではないかと、菱沼はそんなことを思う。

「頂いたものお出しして悪いかもだけど、今、食べてもいい?」

「そのために買ってきた」

「やった。お茶淹れるね」

「あ、俺やろうか」

 うきうきと台所に向かう背中を引き留めようとしたら、ヒトミは小さく首を振った。

「毎日のようにこの台所に立って、自分でご飯作ってるんだよ、私」

「……そうか」

 アニさんに振舞ってもらうこともあるけどと言いながら、ヒトミは薬缶に水を入れた。


 小さな座卓の前に腰を下ろして、菱沼はしゅんしゅんと湯気をたてる薬缶の音に耳を傾ける。ヒトミの所定場所であろう、向かいの座布団と電気毛布を何とはなしに見つめていた。

「沼ちゃん、今何してるの?」

「無職」

「それ大丈夫なの?」

「まあそのうち、なんとかはする」

 さすがに何もかも、あの事件のせいにする気もないし。

 近況報告からして楽しい話題にはならなくて、会話はすぐに途切れてしまう。

「……剛志ごうしには、会えた?」

 お茶の用意をする音だけが響いていた中、ヒトミがぽつりと言った。

 菱沼は村で常にヒトミの傍らにいた男の姿を、脳裏に思い浮かべる。

「面会行った、一回だけ」

「どんな様子だったの」

「ほとんど変わりなかったよ。あんまり喋んないのはもともとだし。……主犯じゃないし、人殺してないから、短いんじゃないかね」

「そう」

 ヒトミは問うた時と同じくらい静かな声で、短く返した。

「私の杖代わりに生きた挙句に人生潰したんじゃ、あんまりね」

 長い短いの問題じゃない、そう言ってヒトミは肩を落とした。

「やっぱりまだこの足じゃ、剛志のいる場所は遠いな。事件の管轄があっちだものね。私がそれだけ、村から遠い場所に来たという事だけど」

 落ちた肩はあまりに細く、彼女の失ったものの多さを痛感する。

 捨ててやったものもあったけれど。失くしたものだって大きかった。

「ヒトミさん」

 思わず名前を呼ぶと、ヒトミは大きな瞳で瞬いて、それから淡く微笑んだ。

「……私のことヒトミって呼ぶ人、今じゃもう沼ちゃんだけよ」

 人魚に『ヒト』ミ、じゃ贅沢だから。トミ、でじゅうぶん。 

 村でトミさま、おトミさまと呼ばれていた彼女はもういない。

 存在しない人魚の伝え話。それはもはや将来さきのない村が地図から消えるとともに、いつか潰えることだろう。

 流石にそれまでには、残りの二つの約束は叶えてやりたい。

 約束を交わした日の事を思い出しながら、菱沼は人魚からヒトへと生まれ直した彼女を見つめた。







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