油絵具の水平線

葱と落花生

第1話 油絵具の水平線

  一点限りの美術館


 平衡感覚と記憶能力に若干の問題があるとかで、週に一度リハビリに行くのだが、病院散策中に遭難する事がたまにある。

 待合室までの順路が分からなくなっても、院内ならば一時間も彷徨えば元に戻れる。

 事情を知っている看護師が、待合室はあっちですよと教えてくれるので問題ない。


 病院散歩をしていると屋上階で、エレベーター脇の扉に美術館と書かれた板っ切れがぶら下っていた。

 美術館としているのだ、フェイクに気付かない御間抜けでない限り本物を展示しているだろうに、この病院で警備員を見かけた事は一度もない。

 民間保有の美術品は、盗むに値する安全確実な御宝、貧しさに日々打ち拉がれる身としては、熱烈歓迎すべき事態に心が踊る。


 このような拠所無い事情があって扉を開けてみると、エレベーター脇の細長いデッドスペースを利用した美術館で、開けたらすぐに向こうの壁がある。

 右横を向けば、ゆったりとした一人がけのソファーは本革で、随分と高価な物に見える。

 体力さえあれば、持って帰るのはこのソファーでもよさそうだ。


 深々腰掛けると正面の黒い壁が上にスライドして、一枚の油絵が現れた。

 手前の枯草がぼかして描かれ、その中に出来た獣道の先は誰も居ない砂浜。

 一艘の木造船が朽ち果て放置されている。

 贔屓目に見ても至極平凡な絵で、どこにここまで丁寧に展示する価値があるのか分からない。

 持って帰れそうにないし、持って帰る気にもなれない。


 後学の為じっくり鑑賞してやろうにも、絵が遠くて詳細まで見られない。

 帰ろうとしたら、横の壁に双眼鏡が掛けてある。

 一枚の絵を見せるのに、ここまでやるか?  


 双眼鏡を取ってソファーに座り直した。

 遠くからでも分かる程に水平線は荒く描かれ、酷く乱暴な画家だと思って見た水平線だったが、波打って見えていたのは、遥かな沖に点在する島々が描かれているからだった。


 油絵の大きな筆の動きで、描く物には限界がある。

 今見ている島々は、キャンバスの大きさからすると一島が米粒くらい。

 このスペースに描ける筈の無い、木の葉一枚ゝから小舟や家の窓に至るまで、極めて精巧に描かれている。

 息が止まったまま動けない。

 神憑っている。

 一点限りでも美術館と言える価値ある絵だが、持って帰れないのが残念でならない。


 翌日、ガラス切りとハンマーと削岩機を担いで美術館に行ったものの、コンセントがなくて削岩機が使えない。

 電気の有難さを思い知らされた。

 ガラス切りは歯がたたない。

 ハンマーを振るったがビクともしない。


 翌日、アセチレンで溶かしてやろうと思い立ち、ボンベが空になるまで粘ったが、二重か三重かのガラス間に冷却液が充填されているようだ。

 用心深すぎる。

 C4で爆破も試みたが、ソファーが粉々になっただけで消防と警察が五分でやってきた。

 こんな事なら、ソファーをかっぱらった方がよかった。


 翌週、ソファーが安っぽいパイプ椅子に変わって、防犯カメラも設置されていた。


 あらためて絵をじっくり鑑賞していると、島の人影がノートを持ち、双眼鏡でこちらを見ている。

 ノートには『ウルセエヨ!』と書かれていて、ここのところの騒がしさを見ていたような文言だ。


 米粒ほどの島に描かれた人間が持ったノートに、どうやったら真面に読める文字が書けるのか、気になってもう一度同じ島に双眼鏡を向けた。      


『やっぱ気になるよね』……文字が変わっている。

 一度双眼鏡から目を外して、もう一度島を見る。

『おどろくよねそれフツウだから。しんぱいしなくていいよ』

 精神状態は正常だが、見ている物が異常だ。


 翌日、高倍率の双眼鏡を買って美術館に行った。

『それ、エキ前のカメラ屋でかったんだろ。まだあるのあの店。って言うか、まだ生きてるのあのジジイ』

 どうやら近所の人間らしいので、ネットで失踪者を調べてみた。

 病院に行くと言って家を出たきりの奴と、非常によく似ている。


 翌日、コンビニに寄ってから美術館に行った。

 買い物袋には漫画本が入っている。


『それって漫画本?』

 両腕で大きく丸を作って見せた。

 再び双眼鏡で島を見る。

『俺にくれよ、しばらく漫画見てねえし』

 また両腕で大きく丸を作ってやった。              『まだ気がつかねえ、ノートに書けば会話できるぞマヌケ。その本さ、サイドテーブルの上に置いといてくれよ。金は払うから』

 金を払う方法は? 本をどうやってここから持ってくの? 疑問はあったが、言われるままテーブルの上に置いて帰った。


 翌日、ノートとマジックペンを持って美術館に行った。

 サイドテーブルにソリドゥス金貨が一枚、むき出しで置かれてある。      

『本の金だ。釣り銭はいらねえよ』

『何か他に欲しい物はないか?』

 勇気を出して筆談してみた。

『ケーキ、菓子でもいいよ』

 チョコレートを置いて帰った。


 翌日、金貨十枚を手に入れた。

 毎日ゝ買い物をしては美術館に行って、高く売れそうな金貨と交換し続けた。


 半年が過ぎた頃、サイドテーブルにあった金貨をもらってエレベターから降りたら、見覚えのない場所に出た。

 今頃になって迷うとは我ながら情けないとウロチョロしたが、看護師にも出くわさない。

 美術館に遊びに来ただけだから何処から出ても良かろうと、非常口から外に出てやった。


 海岸から離れている病院で、普段は海鳴りなど聞こえないのだが、出口が違ったせいか波の音がやけに近い。

 困った事に、波がチャプチヤプと足元を濡らしている。

 振り返ったら、病院のドアが消えていた……病院も消えている。

 予期せぬ異常現象ではあるが、満更覚悟が無かったとも言えない。


 超常現象で一財産作ったからには、何がしかのしっぺ返しがあるだろうとは思っていたが、突然大海原に浮かぶ孤島に放たれ、持っている物は双眼鏡とノートにマジックだけ、絵の中にいた失踪男はどこへ行ったんだ。

 茫然として遙かな水平線を眺めると、若干歪んだように見える所がある。

 こうなってくると、双眼鏡を覗くしかやれる事がない。


 ひょっとしたらの悪い予感どうり、水平線の上で美術館のパイプ椅子に座った男が笑っている。               

『俺の島に生活用品と食糧は有るよ、しばらくは生きてけるだろ。家の場所はテメエの金と交換だから、ヤサとカギの置き場教えろよ。たまに遊びに来てやるよ』

 納得してはいないが、結果として御前を異次元世界から救い出してやった恩人に対する仕打ちがそれか。





 恵まれたサバイバル


 それより、身代わりの誰かを連れて来てほしい。

『身代わりを連れて来たら教えてやる』

 数時間後、身代わりらしき弥太郎顔が絵をのぞいてる。

 疑われずに入れ代わるなら、元の住人の真似をするしかない。

 ここから出るまでには、恐ろしく時間がかかるだろう。

 アパートに置いたきりの金貨を、大家にくれてやるのも癪に障る。

 謝礼などしたくはなかったが、入れ代わり男に部屋ごと全部くれてやった。


 翌日、誰も来なかった。

 身代わり男と入れ代わり男がグルだったと気付いても、もう遅いよな……いつでも俺は、こうやって騙されてきた。


 無人島のサバイバルと言えるかどうか、超常世界での騙し合いは何代も続いているらしい。

 入れ代わり男が教えてくれた島には、人間以外ならば殆どの物が揃っている。

 特に生活面で不自由はないが、恐ろしく暇だ。


 元島民達は加減を知らない勤勉家だったのか、それとも必要に迫られたからか、ここに作られた農園は家庭菜園のレベルではない。

 病的なまで有機野菜に拘っていたのは明らかだ。

 せっかく人様が丹精込めて肥えかけて作った野菜を、許可なく横取りしたのでは申し訳ない。


 若干の不快感が空腹に勝り、暫く野菜は我慢していたが、火を通せば良いだろうと食い始め、今では生野菜でも平気で食えるようになった。

 海水で洗えば、良い塩加減でなかなかイケる。

 濃厚な有機肥料に加え、常春の気候も手伝って野菜は順調に育っている。

 小説などで無人島に漂着して繰り広げられる、体脂肪率が餓死寸前の悲壮な状況ではない。


 加えて、どこから湧いて出たのか、鶏や牛・豚といった家畜が、半野生化して島をうろついている。

 巨大な狼が居たのには度胆を抜かれたが、以前の住人とも都合よく付き合っていたらしい。

 俺を威嚇したり恐れたりしなかったので、食い物を少しくれてやったら仲良くなれた。

 今や狩りの良きパートナーだ。


 当初、四足を屠殺解体して食糧とするのに抵抗があって、魚ばかり食っていたが、やはり魚と野菜だけだと飽きるものだ。

 鶏から始まり、今では牛も解体できる。


 冷凍庫がないので、肉は燻製保存している。

 冷蔵庫云々以前に、小さな太陽光発電機しかない。

 したがって、夜の灯りを確保するだけの電気を賄うので精一杯だ。


 病院の美術館からこの島を眺めていた頃から、周囲に数えきれないほどの島が点在しているのは分かっていた。

 長い事かけて何人もの人間で描き上げただろう海図には、大小の島どころか岩礁まで、合わせて二百近いポイントが描かれている。


 現実世界との貿易港は小さなサイドテーブルだけで、鎖国時代にあった出島のジオラマより尚小さい。

 これが一台しかなく、向こうとこっちの世界を行ったり来たりしているらしい。

 美術館に行ったきり、こちらに来る気配がない。


 この世界にあって唯一まともに思えるサイドテーブルが、本当はきっちりいかれた奴ならば、助けてもいない亀を呼んでもらい、背中に乗って現実世界に帰ろうと思っていたのに、昨日捕まえた亀はバカでかい鍋の中でスープになっている。

 我ながら美味く出来たと思う。


 ここに来て、一つ大きな疑問が生じている。

 小舟にヨット、太陽光発電器から家や家具等の大物は、いったいどこからやって来たのか。

 海図の表題には【何を置いても絵描きの婆を探せ、さすればこの世は天国】とある。

 その婆が打ち出の小槌を持っていて、頼めば何でも出してくれるとは思えない。

 きっと婆は、危ない薬でも売っているであろう事は何となく分かるのだが、暇過ぎる。

 怖い物見たさと僅かな希望に、婆の島まで行ってみようと決めた。


 近くの島と婆の島までが同一の縮尺で書かれているのなら、順調に風を受けても一週間から十日の距離にある。

 何をどうしたら良いかと思案し乍ら、双眼鏡で美術館のパイプ椅子を眺める。

 入れ代わり野郎がたまには遊びに来てやると言っていたから、ひょっとしたら来るのではないかと思い、今では一日の殆どの時間、パイプ椅子を眺める事で浪費している。


 まさか、人を散々だましておいて、おめゝ現れはたりしはないだろうと半分諦めていたのだが、奴が傷だらけになってやってきた。 

 スケッチブックに太めのマジックペンで、大きく殴り書きした『危ない、やっさんに捕まってボコられたんだけど!』の文字。

 もしかしたら、金貨の箱を抱えてアパートの住人のふりをしているかもと思っていたが、しっかり身代わりになってくれたようだ。


 この島に迷い込む前、怪我して病院に通い始めたきっかけというのが、仕事が嫌いな汚職刑事から札束を盗んで追いかけられ、やつらの車に跳ね飛ばされて二十mばかり下の河に落ちた事故というか、処刑というか、そんなやつ。

 死んだと思ってくれたと安心していたが、住所までつきとめられてしまった。

 一度殺されかけた身なのに、ゾンビのねぐらまで知られては元の世界に帰っても命が危ないだけだ。

 誰かをだまして物々交換を繰り返し、現実世界へ戻る他に帰る方法はないのか聞いてみたが、他の方法は知らないと言うし、無理して命が幾つあっても足りない世界に戻る必要はないような気がしてきた。                


『俺は行った事ないけど、婆の所へ行ってみろよ、何か知ってるかもよ』

『何で行った事ねえんだよ、ボケ』

『何度も船出したんだけど、途中の嵐で行けなかったんだよ、嵐の海って地図に書いてあるだろ。直進すると、どうしてもそこに行っちゃうんだよな』

『他のルート試したか?』

『やってねえよ、遠回りだろ』

 嵐の海と海図にしっかり描かれている所へ、痛い目見ながら何度も突っ込んで行くかな。


『住み辛かったら他の所に住めよ』

『指名手配くらってんだよ!』

 指名手配って何やったんだ、こん畜生。

『頼むから帰って来て、あいつらと話つけてくれよ』

 帰れてもアパートには二度と行かないくらい分かれ、今更出て行ったら命の灯を消されちまう。

 救えない指名手配は放置と決めた。


 婆の島までは十日かかる距離で、順調に風が吹き続けてくれるとは思えない。

 となれば、余裕を見て往復一ヶ月分の水食糧を積み込んでからでなければ婆の島には向かえない。

 せっかく友達になれた狼も気掛かりだ。

 もしも嵐で遭難したら、遭難先の島で狩りをしなければならないだろう。

 最悪、狩りで獲物がなくても、狼を食っちまえば暫くは凌げる。


 なんだかんだと一ヶ月ばかり忙しく準備していると、現実世界に居る筈の指名手配が手土産を持って現れた。

 ここに来てから大自然に育まれた健康食品しか食っていなかったから、土産に持って来てくれた物だけなら歓迎してやる。

 見るだけでも体に悪そうなインスタント食品の束と、安そうな特大瓶ウヰスキー。

 金貨も持ってきたようだけど、ここでそれは使い道がないだろう。


「来るなよ指名手配! お前何やったんだよ。お前とダチになる気ねえから。帰れよ」

 こいつ、どうやってここに来たんだ?

「オマエさあ、帰れねえから困ってんだろ。俺だって帰れないんだよ」      

「帰れない所にどうやって来たんだ」 

               



 詐欺師と殺人犯


「オマエのマブダチしつこくてよ、相棒の家に暫く居たんだけど、そこまで見つかっちまってな、すんげえ調査能力なんだけど、あいつ等何者? 仕方ねえから此処へ逃げて来たんだよ」

 だから、どうして来たじゃなくて、どうやって此処へ来たんだ?  

 入口に戻って、其処から出られないかな。

 とりあえず質問に答えろよ。 


「お前ボコッたあいつ等な、日本最強の暴力団員だ。それより何やって指名手配?」

「あんまり話したくねえけど、この際だからしゃあねえかな。発端はよ、食い逃げだよ。腹へって金なくてよ」

「食い逃げで指名手配になるか?」

「食い逃げじゃねえよ、殺人で指名手配されてんだよ」

 こいつ、人殺してんのか?


「でもよ、本当は殺してないからな。冤罪ってやつだからよ。証明ができねえだけだ」

「何で冤罪なんだ。暇だから聞いてやっても良いけど、話しが終わったら素早く帰れ」

「めんどくせえから話さねえよ、帰れって言われても帰れないし。実はよ~、もう十年以上前になるんだけど、倉庫のウイスキーかっぱらったまでは良いんだけどな、酒屋に売ったのがばれて、突如っての? 解雇っての? されちゃってよ、家賃を払わないでいたらアパート追い出されて、真冬にだぞ。クッソ寒いのに、タナコ追い出すか普通、死んじまうだろ。ひでえ大家だろ」

 十年前って、結局話すのかよ、長くなりそうだな。                


「ウイスキー飲み乍らにしねえ、その話って映画三本作れるくらい長いだろ」

「ああ、後から奴も此処に来るけどな、相棒に話した時は三日かかったよ」

 後から来るって、まだ誰か来るのか。

 その話の方が大事なんじゃないのか。

 冤罪ってのも怪しくなってきたな。

 こいつなら五六人殴り殺しても『絶対に俺じゃない』って言いそうだ。


 指名手配の目の前に、サイドテーブルが機械の部品らしき物を乗せて現れた。

 指名手配が部品を受け取り、サイドテーブルに金貨を乗せると消えた。

 何かを送ってくれた返礼に金貨をテーブルに乗せると、現実世界とこちらの貿易契約が成立するようだ。       


「サイドテーブルの使い方、どうして知ってるんだ」

「俺はさ、オマエと違って相棒に帰り方は教わってたのさ。奴はな、騙されてこっちに来たんじゃなくて、間違って来たんだよ。だから、此処への入口知ってるんだ」

 だから、俺の質問に答えろよ。

 ちょとでいいから、ズレてるのに気付いてくれねえかな。


 指名手配が金貨をテーブルに乗せる、テーブルが機械のパーツを運んで来る。

 これを何度も繰り返している。

 殺人どうのこうのは出航したら長い旅になから、夜話にとっておくとはぐらかされてしまった。


 あちらから最後のパーツが送られて来て、金貨がなくなると指名手配が消えた。

 しばらくして、以前身代わりのふりをして指名手配と一緒に俺を騙した詐欺師野郎がやってきた。

 後から指名手配もドラム缶を転がして、酷く疲れた様子でやってくる。


 めんどくさそうだから挨拶するでもなく放っていたら、あれよゝと言う間に送って来たパーツを組み立てて、船外機を二機完成させた。

 仲良くしてやっても良いような気がしてきた。


 どうやらこの詐欺師、指名手配より若干頭の回転が良いようだ。 

 いきなり人口が三倍に増えて食糧が不足すれば、醜い人間同士の共食いが始まるのではとまで配慮していた。

 一回目で、指名手配に持てるだけの食糧を持たせて送り込んだのだ。

 船外機を運んだのでは燃料が運べないので、分解してサイドテーブルに運ばせ、二回目で指名手配が燃料を運んで来ている。

 指名手配は、もっぱら力任せの仕事を担当しているようだ。


 話を聞いていて一つ気付いたのだが、入口が分かっているならその荷物、人間が持って運ばなくても放り込めるだけ放り込んで、後から人間が入って来ても良かったんじゃないのかな。

 家の材料や家具は、誰かがそうやって運んだんじゃないのかな?



 いよいよ出発の前夜、焚き火を囲んで狼も一緒の夕飯。

 なんと、狼はカップ麺が大好きらしく、食い過ぎて畑でゲーゞした後、自分で上から土をカサコソ被せて隠している。

 ここまで来たからには騙すも騙されるもないだろうと、詐欺師がしっかり病的なこの世界について、知っている総てを教えてくれるようだ。                


「この絵を描いた婆さんは八十年ばかり前に、この絵を描き終えるとアトリエから消えたきり行方不明になってるのさ。この婆さんの絵を展示している美術館が病院の近くにあるんだけど、掃除のバイトに行った時に金庫の中にあった創作記録を見つけたのさ」

「金庫の中って、開けっ放しだったのかよ?」                「金庫だぞ、閉まってたに決まってるだろ。俺ってさ、金庫開けるの得意だから」

 こいつ、泥棒もやるのか?                 


「他には何も入ってなくてさ、仕方ないから記録をもらって家で読んでみたのさ。その中に、この世界の事が書いてあってさ、最初は信じられなかったけど、何となく欲が出て来たっつうか」

 はなっから煩悩の欲するままに創作記録盗んでる奴の口から、今更欲なんて言葉が出て来るとは意外だ。


「婆さんが書いた時代は、まだ病院が木造の診療所だったらしくてさ、病室の奥に入口があったんだけど、今は特別個室の非常口がここへの入口になってるのさ。普段は見えないんだけどね。何かの拍子に出て来るのさ、非常口が」

「何で、こっちの世界に来たの」

「記録にはさ、他にも入口がイッパイあるって書いてあって、透明度が高い海底に、この世界に引き込まれて沈んだ海賊船が見えるってさ。それでー、トレジャーハンティングっていうの? やって見ちゃおうかなって思ったりしちゃってさ」

「結局、ここって何?」

「バミューダトライアングルと同じ空間なんじゃないの? 勝手な想像なんだけどさ」


 この世界に来たばかりの頃は二人とも出入自由だったが、難破船から金貨を外に運び終えると詐欺師は絵の中に閉じ込められ、指名手配は現実世界に閉め出されていた。

 指名手配へ島にテンコ盛りだったエロ本を送り、交換に金貨を絵画の世界に戻してみたら、最後の一枚で二人が入れ換わった。

 この世界は、逃走が常だった裏社会の住人には実に都合の良い場所のようだ。


 金貨の移動が出入りの条件と知ってからは、二人で互いに危ない仕事を終える度、交代して現実世界と絵画世界の二重生活をしていた。

 そこへ俺が現れたから、丁度いい具合だとばかり巧みに俺を騙して絵の中に引き込み、二人は現実世界で金貨を手に入れていた。

 今回は、しつこい汚職刑事から逃げるついでに、嵐に遭遇して一度も行けなかった婆の島に行く為に来たらしく、嵐の海を突っ切るのだと船外機を二機とも小舟に取り付けている。

 こいつらの脳内に、嵐の海を迂回するという発想はないらしい。



 狼を連れて婆の島へと向う船の中。

「あー、コイツの指名手配までの話な、それやめた方がいいさ。早い話しがレ・ミゼラブルさ。違うのは、何に反対してるのかも解らねえで反対運動のデモに参加した時、機動隊がデモ隊に向けて催涙弾打ち込んでさ、隣の奴に当たって、そいつが死んじゃったのさ。コイツは、それが自分の犯行だと濡れ衣着せられて、指名手配されたと思い込んでるのさ」

「そう言えばそんな事件あったな、だったら冤罪も何もねえだろ、指名手配されてねえんじゃねえの。逃げる事ねえだろ」

「本当はさ、頭に血が上って訳分かんなくなっちまって、催涙弾打ち込んだ機動隊員を捕まえて殴り殺しちゃったのさ。それで指名手配されてんだわ」

 だわって、本物の警官殺しかよ。                          


「実際の話、その機動隊員が死んだ原因はさ、逃げようとしてパニックったデモ隊に踏み殺された圧死なんだけどさ、誰かを生贄にしないと警察も気が納まんないんだろうな。デモなんて結局いつだって血祭りだからさ」

「だったら冤罪だろ!」

「だーかーらー、さっきから冤罪だって話してるのさー」


  


 美味い生ビールと生ハム


 出発して十日目、婆の島に着いた。

 俺達が上陸するのが分かっていたように、何で作ったか分からないウスラ不味い温生ビールを出された。


 島に着いて直ぐ、大狼の妙な行動に驚かされた。

 大狼は婆のペットか家族だったのか、ペロゝと妙に懐いている。

 婆が飛びついて来た大狼に押し潰されそうだ。

《この子を連れて来た人にだけ、ここへの自由な出入りを許すつもりで待っていたんだわ、ゴニョ》と、テレパシーで伝えてきた。  


 初代【絵描きの婆】は、とりあえず生きているものの、限界点ぶっちぎりの草臥れ方で使い者にならないと言う。

 目の前の婆は二代目だそうだ。

 代々病院の院長を務め、今は六代目になっているとか。


 初代婆に会わせてもらえたが、確かに度を越した枯れ方だ。

 皮膚は保湿成分・水分・コラーゲンが完全に消失して、殆ど完成に近いミイラ状態ながらも、しぶとく生き延びている。


 大狼が九割がたミイラの初代婆を食おうとして吐き出した。         

「ねえ、大丈夫なの? 一代目、狼に食われてるけど」

《大丈夫でないか、ゴニョ。初代は毒持ってないから、食っても腹は壊さないだろ、ゴニョ》

 それを心配してんじゃねえよ、ババぁ!


 詐欺師が想い描いていた絵画世界は、実際といささか食い違っていた。

 バミューダトライアングルの一部かと思っていたが、そこにもこの世界への入口があるといった具合。


 絵画世界への入口は、病院の特別室に現れる非常口まではいいが、この世界は異次元ではなく、意志を持って自由に移動できる【空間】が基本構造の【生物】だとか。

 此処は奇妙な生物の体内らしい。

 妖怪変化の類ではなく、有史以前から地球に生息している、歴とした動物だと言われたが、何と言われようと性質の悪い化け物だ。


 もっと悪質なのが大狼で、意志ある空間の具現化体だと言われた。

 非常食のつもりだった大狼を、無事に婆の島まで連れて来られたのは幸運だった。

 非常食だったとは言わない方が良いかもしれない。



 後から自由出入の為に割符を送るからと言われ、何で作ったのか判らない微妙に不味いビールをもらって元の島に帰った。



 そろそろ伝書鳩か魔法使いの梟がやって来て、ポトリと割符を落していく頃ではなかろうかと空を眺めていると、遙か沖から一隻の帆掛け船がモタゝユラゝやってきた。


 島に上陸したのは、若い女だった。

 三人して、ゆっくりこちらに向かってくる女のモンローウォークを堪能する。

 美味いが直ぐに腹を壊す生ビールと、何で作ったか分からない生ハムを手土産に持って来た。


 割符を届けに来たと言うこの女、ハムの作り方は俺のを見て覚えたと笑う。

《生きたままの動物を脳から食べれば、同じ生物に変身できるのよ》と、いかん言葉が頭の中に響いてくる。

 ひょっとして、こいつは一緒に暮らしていた大狼か?

 何となく嫌な予感がするのだが、どっちを食ったらそうなれる。


 水分が枯渇した初代婆は、人間らしい寿命を大幅に超えた魔物に見えた。

 自然界の摂理に反するだろう初代婆を、あのまま野放しに生かしておいたのでは神に対する冒涜以外の何者でもない。

 生ける諸悪の根源である初代婆を、醤油も付けず刺身で食ったと言うならば、すこーしは許せるような気がしないでもない。

 が、狼から見れば飛び切りの御馳走だったであろう二代目を、ムシャゝ美味そうに食ったのならば、極力御近付きになりたくない奴だ。


 生ビールと生ハムはもらったが、肝心の割符が出てこない。

 どうしたものか不安になっていたら、夜のキャンプファイヤーで大狼女が「君達に割符だよーん」

 カサゝになった人間の指を三本差し出した。

 大狼が変身の為に食った物の一部を食えば、それが割符代わりとなって自由にあっちとこっちを行き来できるとなると、やはり………。


 この話、美味いのに直ぐ腹を壊す生ビールを飲み過ぎて、畑に行ったきり帰って来ない指名手配は聞き逃している。


 狼が食ったのは、ミイラ化が進んでゾンビ寸前だった初代婆のようだ。

 それは当然だから許すとして、俺達にまで婆の超グロい枯れ指を食えと言われても。

 天ぷらにしてもフライにしても、粉々にしてパンに混ぜても食う気になれない。


 一人で三本食ったらどうなるか、指名手配に内緒で聞いてみた。

「三本食った奴と一緒なら、同時に三人まで出入が可能だと思うわよ~ん」


 三本骨入り肉団子にして食ったらどうなるのか、指名手配に内緒で聞いてみた。

「きっと結果は同じだと思うのね~」


 コラーゲンが枯渇し骨粗しょう症になったカスカスの骨に、意地でこびり付いているのが肉だろう。

 古くなって黒く変色し、皮膚かカビなのか区別がつかない物体では食う所がない。

 他の肉と混ぜたらどうなるか、指名手配に内緒で聞いてみた。

「やっぱ、結果は同じじゃないの~」

 期待していた答えが返ってきた。


 もらった生ハムと指三本を、すり鉢でグチャ混ぜした特性スープを指名手配に味見してもらった。

「美味えなー、おめえら料理上達したな」


 実に美味そうに食うものだから、全部食ってくれても良いぞと勧めてみた。

「わりいな~、遠慮しねえよ」


 遠慮などしてほしくない。

 残してもらってもそのスープ、廃棄するにも餌食となった婆に申し訳ない。

 この先何かと困る一品だ。


「いいさ、体でかいんだから、イッパイ食わねえともたないさ」

 詐欺師が、指肉団子鍋を指名手配の目の前に置く。

 有難い事に指名手配は、指肉団子鍋をガツゞ一気にたいらげてくれた。

 愛情込めて作ってあげた甲斐がある。

 料理人冥利に尽きるとは、こんな事を指して言うのだろう。


 この時から俺達は、何時でも一緒のマブダチになったのは言うまでもない。


 

 平穏な日々が過ぎたある日ある時、指名手配が新型コロナで高熱を出して島から動けなくなってしまった。

 こんな時は詐欺師と二人で、指名手配を担いで現実世界に運び出すと決めていたが、何を嗅ぎつけたか汚職刑事が美術館の絵をじっくり観察している。

 指名手配を連れていたのでは、いざと言う時に身動きが取れない。

 かといって、二人だけではここから出られない。

 早く薬を盗んで来ないと、指名手配が死んじまうってものだ。

 非常事態なのに、困った。


 以前から思っていたのだが、指名手配の体の一部、チンコは衛生上の問題から無理があるとしても、髪の毛か下の毛でも持っていれば出入り出来るのではなかろうか。

 これには詐欺師も同意見だった。

 しかし、上下を言っても言わなくても、博徒の縁起担ぎにもならない男の毛、いきなりオマエの毛をくれというのも不自然だ。


「このブラシに付いた毛で何とかならないか~」

 詐欺師が、上とも下とも言えそうな毛付きブラシを持って来た。

 この毛を素手に持つには並々ならぬ勇気が必要で暫く悩んだが、思い切ってラップで包みその上から包帯を巻き石膏で固めてからポケットに入れて、何時もの様にロープを伝い移動したら現実世界に帰れた。                 


「やってみるもんだね、俺の毛でも移動できるんだ」

 詐欺師が無条件に喜んでいる。                「お前の毛?」                        「だってー、あいつスキンヘッドだものさー、ブラシ持ってないのさー」


 慌ててポケットの中に手を突っ込む。

 さっき入れた筈の石膏の塊が無い。

 非常口の扉を開けて見れば、絵画世界の波打ち際で石膏の塊が海水浴をしている。


 あの生ハム………二代目だったのか?

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