タヌキが眼鏡を返しに来た話

来冬 邦子

今夜はタヌキ祭りです


 昔々と言っても、わりと最近。昭和の中頃の話です。


 あるところに目の悪いおじさんがおりました。大学の先生なのですが、本をよく読むためか、何しろ酷い近視で乱視で老眼だったので、分厚いレンズの(当時の言い方をすると「牛乳瓶の底のような」)眼鏡をかけていました。そんな眼鏡をかけるのは恥ずかしかったのですが、見えないのだから仕方ありません。


 或る日のこと。おじさんは仕事帰りの電車の中で、眼鏡を貸してくれ、と言う狸に出会いました。なんでも、ひいひいじいさま狸が最近すっかり目が衰えて、お月様が七つにも八つにも見える、などと嘆くので、今夜のお祭りだけでも綺麗なお月様を見せてやりたいと思ったそうです。何とも孝行者の狸です。そして「雀が起きるより早く、お返しに伺います」と言うので、おじさんは眼鏡を貸してやることにしました。


 狸は借りた眼鏡を大判のハンカチにくるんで首から下げて貰うと、こちらを振り返り振り返りしながら夜の闇に溶け込んでしまいました。


 さて狸を見送ったおじさんとおくさんは、美味しく晩ご飯を食べるとお風呂に入って床につきました。


「眼鏡はいつ返してもらえるの?」


 寝しなに、おくさんが訊きました。


「雀が起きる前には届けてくれるらしいよ」


 小さなスタンドの明かりで本を読んでいた、おじさんが応えました。予備の老眼鏡をかけています。


「そんなに早く? 夜明け前じゃないですか」


「狸は確か夜行性だから苦にならんのだろうよ」


「朝御飯をご馳走しようと思うのですけど」


「よしておきなさい。あの狸は遠慮するだろうから」


「そうね。でも可愛かったわね」


 おくさんは寝返りを打つと目を閉じました。


「おやすみなさい」 「うん。おやすみ」


 しばらく本を読むと、おじさんもスタンドを消して寝てしまいました。






 さて、松林の奥の草地で開催されるタヌキ祭りに間に合った狸は、ひいひいおじいさんに眼鏡を渡しました。


「おや、どうしたんだね、この眼鏡は」


「人間の紳士に頼んでお借りしました」


「よく貸してくれたものだな」


「嫌な顔もせずに、すぐ貸してくださいました」


「なんと御親切なことだ。ありがたいことだ」


 ひいひいおじいさんは眼鏡をそっと目の前に持ってゆきました。


「おお、よく見えるぞ。これは素晴らしい」


「お月様はどうですか?」


「うむ。美しい。円くてひとつだ」


 狸たちは喜んでみんなで尻尾を振りました。タヌキ祭りは満月の夜にお月様に感謝するお祭りです。満月がよく見えなくなっていた老狸は眼鏡とお月様を両方拝みました。


「坊や、ありがとうな。よく借りてきてくれた。お前は孝行狸だ」


 ひいひい孫狸は嬉しくて恥ずかしくて目に涙を浮かべました。


 おじさんの眼鏡は狸たちの前足から前足にそっと渡り、みんな一度は掛けてみました。すると大抵のものは頭がクラクラしましたが、年寄り狸たちは喜んで月を眺めました。そして「ありがたい。ありがたい」とお経のように唱えるのでした。


 一晩中狸たちは、月を眺めてはドングリやキノコを食べたり、また月を眺めては小川で獲った魚やカエルやゲンゴロウを食べて、機嫌良くのんびりと過ごしておりました。


「ひいひいおじいさん、僕はそろそろ眼鏡を返しに行ってきます」


「おや、もう行くのかい」


「大事な眼鏡だと仰ってましたから、雀の起きる前にお返しすると約束したのです」


「そうだったか。では、このネズミとカエルと、だんご虫とゲンゴロウをお土産に持って行きなさい」


「食べ残しでは失礼ではありませんか? まだ生きてますし」


「そうか。ううむ。こんなに良いものをお借りしたのだから、何か御礼を差し上げたいものだが。ううむ。ううむ」


「それでしたら、御礼は後からお届けするのはどうでしょう」


「それは良い考えじゃ。では、お前はとにかく眼鏡をお返ししてきなさい」


「はい。かしこまりました」


 狸は眼鏡とケースとハンカチをまとめて咥えると、西に沈みゆくお月様の明かりを浴びて走り出しました。狸は真面目な動物です。約束を違えたことなど先祖の先祖をさかのぼっても一匹もおりません。





 翌朝、おじさんが新聞受けを見に行くと、庭の銀杏の根元に、眼鏡とケースとハンカチが大きな蓮の葉の上に載せてありました。初秋の風がおじさんの羽織ったカーディガンの裾を揺らしました。


「ほう。律儀なものだなあ」


 おじさんが拾い上げた眼鏡をさっそく掛けると、蓮の葉の上には、もうひとつ、キラキラと朝日を弾くものがありました。そっと手に取ってみると青紫色をした巻き貝でした。大きさはおじさんの小指の先ほどです。半分透明で紫水晶のようでした。


「これは……」


 おじさんは奥さんを呼びました。


「どうなさったの」


 奥さんは部屋着の上から割烹着を着ています。


「これを見てごらん。狸がヒメルリガイを持ってきてくれたんだよ。お前、知っているかい。珍しい貝なんだよ」


「まあ、綺麗だこと」


 二人は宝石のようなヒメルリガイを眺めました。

 実はこの貝は一昨日の嵐の翌朝に狸たちが浜辺で拾ったのです。人間は綺麗なものが好きだから喜ばれるだろうと、大急ぎで届けたのでした。


「狸たちの宝物ではないのかなあ」


 おじさんは頭を掻きました。


「わたしが貰ってしまっていいんだろうか」


「あなた。狸に返したら?」


「返すと言っても。ああ、そうだ。次の満月の晩に迎えに来てくれると言っていたんだ」


「それならその時に」


「そうだな。そうだ。それがいい」


 とはいえ、次の満月は一月先のことなのですが。


                了

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