黄泉道反・後編(伍)





 2メートル近い巨体が、縮む。

 とはいえ、今までの――身長140センチに届かぬ小学生ボディではなく、中高生として通用する程度の身の丈。それでも10センチ程度これまでより伸びたそれに安っぽい自尊心と虚栄が見え隠れする。


 仙号を許され莫大な力を得た魔人と言えど、存外に。


 神楽聖士は己の内にあった焦りと妬みが収まっていく不思議な感覚に少しばかり戸惑っていた。

 永遠の生への渇望はある。

 支配者としての欲もある。

 それでも嘗ては世界の安寧のため人々の平和のためという題目を信じ、三課という組織の理念にも賛同していたのも事実だ。人が人であること。その尊さを信じたからこそ派閥と呼べるほどの勢力を立ち上げ、力も求めた筈だ。

 何故それを求めたのか。


 と。


 握りしめた逆鉾が凛と震え、神楽は意識の一部が鮮明になるのを自覚した。靄が腫れるように、封じられた記憶が蘇った。


「――影法師。君はを知っているだろうか」


 これから戦う相手にかけるものではないと苦笑しながら、神楽は吐くように言葉を絞り出し問いかけた。

 それは、この世界にない概念と単語だった。

 この世界にも神社はある、仏閣もある。教会や宗教施設もある。誰が定めたのかも分からぬ戒律を守るために生涯を捧げる人が多数いる。この世界にも慣用句という形で神や仏といった言葉は残っている。地域に根差した民間伝承もある。

 だが、神の名を誰も知らない。

 仏の名も知らない。

 何かを飾る台座はあっても、その上には何もない。


 この世界は、彼らに見捨てられたのだ。


 術師として研鑽を積み様々な事件を解決していくと、嫌でもそういう情報が手に入る。彼らがいた頃の資料。彼らがこの世界を見捨てるに至った経緯。人類の自業自得かとも思ったが、別側面も見えてきた。超越者とて欲もある。人間に尽くす義理もない。

 ならば、この世界は人が守る。

 この世界は人間のものだ。

 仙人共を見ろ、奴らも既にこの世界を見捨てているではないか。

 その怒りこそが神楽たち人間至上主義とされる一派の原点であり、本質だった。そのはずだった。


「そっか、あんた知ってたか」


 気の抜けた返答をしたのは村上文彦だった。

 構えを崩すことはなく、しかし僅かばかり殺意を鎮めた声。神楽もまた会話の継続を欲していたため、文彦に続きを促した。


「この世界が神々に見捨てられたと、そういう考え?」

「我々の間では」


 苦い思いを含ませ短く返す神楽。


「見捨てられた世界を人の手で守る。それが我々の当初の理念だった――いつの間にか捻じ曲げられ、歪めてしまったな。此処で滅ぶのはむしろ善きことかもしれぬ」


 切り捨てた己の配下や三課上層部の顔ぶれを思い出し、神楽は自嘲する。

 理想を共にした当初の同志たちは神楽のと共に一人またひとり姿を消し、永遠の生命を求める連中が群がってきた。気付けば世界の守護どころか人間の術師による理想国家の樹立などと、安酒を吐くほど飲んでも思いつかないような愚劣な思考に呑み込まれた己に対して神楽は嫌悪を止められない。


「この世界な」そんな神楽を見てか文彦は淡々と告げた「いっぺん滅んだ。石杜で特異点が暴走した時にな。最低限だけ復旧できたけど、現在神様とか総出で絶賛修復中」

「なんと」

「他所から来てこっちの世界の神様に成り代わろうって暗躍してる連中もいて、綾代の家や仙界が動いてる。石杜の学園周辺はその最前線で、あそこを抜かれたら世界はもう一度組み立て直さなきゃならんほどぶっ壊される」


 荒唐無稽な話だろと嘯く文彦だが、神楽はそれを信じられると思った。

 信じたいと思った。

 超越者達の立ち居振る舞いへの疑問。術師だからこそ実感する世界の歪み。短い言葉だが文彦の語るそれに神楽は長年の疑問が氷解し、同時に己がその真実から遠ざけられていた事情を察した。


「わたしの配下や協力者に、成り代わりを企むものがいたのだな」

「それどころか世界ぶっこわした主犯もいたぞ」


 絶句。

 わずかにあった戦意すら挫けそうになる。神楽は眩暈の中で該当しそうなモノを考え、己の中で不自然なほど好印象を抱いた団体を思い出した。幾つもの事業を手掛け、勢力拡大に力を貸してくれた。政財界とのパイプ構築が驚くほど速やかに成ったのも、封魔の打刻により異形の持つ生命エネルギーを人体に注ぎ活力をもたらすという技術を持ち込んだのも、かつて綾代の一族により潰えたはずの人形姫計画を形を変えて復活させたのも。


「ユニオン、プロジェクト」


 憎しみさえ込めてその名を呟けば。

 どくん、と。

 神楽の内にナニカが生まれ蠢いた。





◇◇◇





 雷、竜巻、そして炎。

 いずれも天地を結ぶ柱となり、三狭山より伸びて暗雲を貫く。事情を知らぬ犬上住民の多くでさえ、今日この時が犬上の最期ではないかと思うほどだ。自然を越えた力は唐突に現れ、やはり前触れもなく消えた。怪異が身近な闇に潜む犬上の人々とて、前日から続く異常事態の意味を察知しつつある。


「深雪さん、ぼくらの息子は思っていたよりも規格外だったようだね」

「そうね光司朗さん」


 村上光司朗は窓越しに空模様を眺め、目を細めた。要となる巨岩に金剛杵を突き立て機能停止していた二つの霊脈が、二つに分かたれた神剣とその主の帰還によって元に戻ろうと動き始めている。霊脈が交差する土地は他にもあるとはいえ、三叉山のそれは周辺都府県の安全弁も兼ねているのだ。

 しくじれば特異点は暴走し北の石杜のような魔界となる。

 最悪を避けられたとしても複数の火山が同時に噴火してもおかしくはない。

 山に宿る異形達も暴れ出すだろう。

 他の術師たちも気付き始めているのだろう、霊脈の暴走を抑え込むべく障壁を張るために三叉山周辺に配置された術師たちからも困惑に満ちた報告が集まりつつある。


「かつて三叉山に神剣を奉じた時、ぼくらは捧げて鎮めるのが精一杯だった。並大抵の魔人や神仙の類でも似たようなものだ。因素の武具なんてのは本来ヒトの手には余るものなんだよ?」

「そうね。だから村上の本家でも蔵の奥で隠すように封じていたと聞いているわ」


 影に拘束された形で帰還したベルと沙穂そして二体の眷属。

 それとほぼ時を同じくして三叉山であれほど荒れていた魔力の放出が一気に収束し、同時に停止していた霊脈の流れが戻った。封じられる前よりも淀みなく、歪みなく。瘴気を生まず、害意ある者には決して届かず、しかし根付いて穏やかに暮らす者達の飢えを癒す力の奔流。大海に臨み波打ち際に素足で立っているような錯覚を抱いたのは光司朗だけではない。


「神剣の力が戻れば、神楽聖士の呪縛も解けるだろうね。でも彼は騙されていたと気付いたら、それはそれで大変なことになる」


 歪む前、純粋に人の世を守るべく活動していた頃の神楽を光司朗は覚えていた。

 いけすかない魔人であっても法を守り人類に味方する彼を、かつての神楽は反目もしていたが共闘する事もあった。光司朗が村上家の娘と結ばれる際に彼の人柄を保証し間接的に援護したのも神楽だった。

 友情はない。

 故あれば躊躇なく殺し合える間柄でもある。

 それでも知らぬ内に神楽が何者かにより人格を歪められ、当初掲げていたものと別物になった人類至上主義を唱えて破落戸共を率いる姿に失望と憐れみを抱いたのは間違いなかった。だからこそ光司朗は騙し討ちとはいえ神楽によって封じられる道を選んだ。遠からず破滅すると知りながら放置した罪悪感もあった。


 人として生き、人として死ぬ。

 人間はそれでいい、それで十分すぎる。


 かつて神楽が漏らした言葉を光司朗は忘れられなかった。それはかつて人間だった光司朗にとって二度と手に入らないものだからだ。





◇◇◇





 人体には魔力を増幅する疑似的な器官が複数存在する。

 気門。

 流派によって呼び名が変わることもあるが、生命力や感情の力などを糧に魔力へと変換あるいは増加させることができる。異形やバケモノが人を狙う理由の一つでもある。

 人体にある気門は最大で五つ。

 魔人の子である文彦の場合は九つの気門が備わっているが、解放できる気門の数が術師の魔術出力や魔力総量に深く関わっていると多くの術師は考えている。解放できる気門の数と種類は血筋と才能に縛られているという迷信も根強い。


 その気門が。

 神楽の身中で暴走を始めた。元よりある五つの気門ではなく、彼の与り知らぬ七つの気門が。神楽聖士を構成するあらゆる要素を糧に、人としての限界を超えた魔力が神楽の制御下にある五つの気門にも浸食する。


「……村上、文彦」


 咄嗟に。

 それ以外ないと迷いも見せず、神楽は手にした逆鉾を文彦に放り投げた。何者か――恐らくはユニオンプロジェクトを名乗るいずれかが仕掛けたものが、自身の肉体を暴走させているのだろう。人に非ざる七つの気門の暴走は、彼らのいる三叉山遺跡の霊脈にどのような影響を及ぼすのか想像に難くない。


「恥知らずは承知の上だが……後始末を、頼めるだろうか」

「おお、きっちりカタつけるわ」

「感謝する」


 生まれて初めてこいつが頭下げるのを見たわと文彦が小さく驚く中で、神楽は躊躇なくかつて文彦に放った虚無の穴を自らに撃ち込んだ。肉体諸共魔力が吸い込まれていくが、それよりも七つの気門より噴き出す魔力とその影響を受けて癌細胞の如く神楽の身体を侵して一気に膨れ上がる肉の棘が周辺を呑み込もうとし。


 凛。


 文彦の前に二つの神器が浮かんだ。

 霊槍、比良坂道標逆鉾。

 精剣、黄泉道反剣。 

 いずれも因素の塊より削り出し、表面には解読不能の魔術紋様が刻まれている。交差する二つの神器が生み出した力場は、神楽聖士だった棘だらけの肉棘の集合体を空へと弾き飛ばす。


 凛。


 数秒の静寂、そして。

 三狭山の山頂が吹き飛んだ。




 術式という形にこだわらなくとも、魔力は人間の意思や願望に反応することがある。魔術師でなくとも強い意志が自らの心身に影響を及ぼし、それが周囲に連鎖する。だが個人がもてる力には限度もあるし、天然自然の霊脈が人間の願望や衝動を叶えることはない。

 基本的に。

 滅多には。

 つまり、例外も存在する。小規模の特異点が暴走する、あるいは霊脈そのものが活性化して潜在的な魔力の密度が高まる地域であれば。時代の節目、戦争の狂気、星の巡り、果ては人類が未だ知りえぬ何かによって世界に魔力が満ちるのであれば。

 そのような時、そのような場。

 術式による制御を知らぬ原初の衝動は常に暴走の危険性をはらんでいる。

 たとえ術師として覚醒せずとも人間の心身は魔力の増幅装置であり、特異点を宿した時にはこれが致命的に働く。かつて桐山沙穂がそうだったように。七つの気門が暴走し人造の特異点と化した神楽は細胞が一片でも残る限り無尽蔵に増幅された魔力により肉の海を際限なく生み出していく。星を呑み込み宙の果てに届くまで止まることはない。

 術師を統制する戒律が暗黙の内に存在するのも、綾代の家と呼ばれる集団が存在するのも、すべては人間の術師が転じて生じる名状し難き化生の脅威が潜在しているためだ。

 神楽聖士が最期に放った術式は恐るべき勢いで自身の肉体を削り続けているが、七つの気門より生み出す勢いはそれを凌駕している。やがて神楽の意識消失に伴い残る五つの気門も暴走を始め、膨れ上がる肉の塊は津波のように広がって三叉山の中腹から山頂まで一気に呑み込んだ。


 凛。


 文彦の手に金剛杵が還る。霊脈は既に制御下にあり、迫る肉棘の球体にも反応しない。

 それどころか付近一帯を覆う魔力の膜が落下しようとする肉棘の浸食を拒み、反発した球体が膨張と肉棘の伸長を繰り返しながら宙に舞う様は、傍目には火山噴煙のようにも見える。


 凛。


 直剣と逆鉾が震える。

 文彦の周囲、両肩より噴き出す力が凝集して新たな腕となり、新たに生じた腕がそれぞれ印を結ぶ。片手の印、両手の印。複数の術師が儀式で仕上げるべきものを、たった一人で組み立てる。

 足下の影が腕の数だけ分かれ、影の文彦が口を開いて詠唱する。結印とは別の術式だ。

 因素で作られた二つの神器は交叉する霊脈を操作して地面に複雑な文様を描いている。平面の模様が立ち上がり、螺旋を描き、球体となる。仙界の重鎮らが号を許し、石杜にて厄介な存在に目を付けられるに至った術式を即興で組み立てる。

 一人の術師では到底構築できないはずの複数の術式を同時に起動し、制御し、相殺することなく稼働させる。太陰を司る影使いだからこそ可能な、しかし本来単独での行使を想定していない荒業。


 凛。


 並の術師であれば三日三晩、集団をもって臨む術式を文彦はわずかな時間で完成させた。


「天の三法、地の五法」


 凛。


 空気が震える。文彦の足下より影が伸び三狭山を包むように影が伸びる。麓には五角形が、頂には三角形が。結界として生み出されたそれは三叉山を囲うように障壁を張っていた術師達を外へと転移させ、三叉山そのものの空間を僅かに切り離す。結界の外壁に沿うように立体的に伸びる影、質量を持った闇としか形容できない漆黒の線が宙に新たな術式の紋様を描く。


 凛。


 直後、神楽が最期に放った術が解け、膨張する肉棘の勢いは一気に加速した。

 ほんの一呼吸分で結界内の全てが肉に呑まれた。結界ごと世界から切り離されたソレは世界の境界を突破できず、しかし増殖を止めることも出来ない。肉が肉を押し潰し、押し潰されたものが堆積し圧縮し、それでも増えていく。十二の気門を経て無限といえるほどに増幅された魔力と、それが生み出していく肉の棘。


 凛。


「天地以ちて結ぶは四法の御柱、是れ人の業なり」


 文彦の目の前で、結界は少しずつ形を変えていく。

 そのままであれば日本列島どころか大陸を呑み込むほどまで拡大した肉棘の塊は、未だ増殖速度が衰えることなく自身を潰しながら増えていく。結界はその間も複雑さを増し、歪な円柱形から少しずつ形状や体積を変化させる。時間経過と共に増殖は更に加速する。

 大陸が大洋となり、星一つ分の容積に至る。

 それでも肉棘の増殖は止まらない。

 円筒形の結界は世界より切り離されており、外への干渉は不可能。もし肉棘の一本でも結界の外に食み出たのであれば、あらゆる物質やエネルギーを貪るように吸収同化しながら更なる膨張加速をしただろう。


 凛。


 どれほど肉棘が増殖しようとも結界は揺るがない。

 上空にあった結界は少しずつ収縮し、複雑な形状になっていく。三叉山の半分ほどもあったそれは見る間に縮み、遺跡の要である巨石に降りる頃には結界は傍目には文彦の背丈より二回りほど小さなものになっていた。宇宙ひとつ呑み込むほどの肉塊。呑み込んでなお増殖が止まらぬそれは結界の内部で新しい変化を始めた。


 凛。


 最初は可視化できないほどの小さな粒。緑青色の彩を帯びたそれは急速に結界内に広がる。肉棘は結晶を押し潰し取り込もうとするが、結晶化の速度は止まらない。やがて肉棘は末端から中心部に至るまで結晶に呑み込まれ、十二の気門は閉ざされた。緑小色の結晶、すなわち因素は気門を逆に吸収してその機能を自身の結晶構造に刻み込む。文彦の組み立てた術式の結界内部に鋳造された因素は結界表面に描かれた魔術紋様に沿って表面と内部を作り上げる。


 凛。


 結界が解け、かつて神楽聖士だったモノが地面に転がり落ちた。

 因素で作られたそれは武器ではなく、一本のゴルフクラブであった。魔術紋様により表面の色彩と触感を偽装し、見た目だけなら総チタン合金削り出しのドライバーに見えないこともない。

 武器ではない。

 ゴルフクラブである。

 何者かに思考を誘導され体内に厄介な仕掛けを施され、その最期に同情の余地はあった。しかし、生前の神楽より受けた仕打ちは仕打ちである。父を封印され自らは北の大地に送られ、妨害工作どころか定期的に暗殺者も送り込まれた。挙句に軍事クーデターじみた挙兵と犬上市の武力制圧未遂。

 格好いい最期を許せるほど文彦は人間が出来てはいない。

 しかし嫌がらせのために人間界最高峰とも言える複雑な術式を組み立て実行するなど――と、遠方より様子をうかがっていたユニオンプロジェクトの工作員は足下より伸びた無数の影の腕に全身を掴まれて悲鳴を上げる暇もなく姿を消した。





◇◇◇





 騒動は収束に向かった。


 神楽聖士は行方不明となり、彼に同調した三課上層の一部と政財界の大物達が首謀者という形で処分されることになった。銃火器どころか装甲車輛の類まで動員しての騒動とはいえオカルト絡みの事件である。国内外に協力者が多数、どさくさに紛れて軍事侵攻を企てた国もあった。ユニオンプロジェクトの工作員も各所でやらかして、軒並み失敗している。

 部分的な成功事案……後にダンジョンと呼ばれるようになる閉鎖領域の出現は、ユニオンプロジェクトの手に余るようなモンスターたちを生み出してしまったらしく、その後の取り扱いを巡って一課から三課迄が全力で利権の押し付け合いを行っている。


 三叉山の情報は辛うじて隠し通せている。迷宮化した梅田近辺のように犬上市にも何かが起こったと目敏い者達は動き始めているが、事件の真相に辿り着いたとしても彼らの望む展開にはなりそうにない。


「皮肉なものだね、もと査察官殿」


 かつて神楽聖士だったチタンヘッドドライバーもとい、最も新しき因素の棍棒を前に、屋島英美査察官は感情を押し殺した声で僅かな哀悼を捧げた。

 求める道、思想的に相容れない間柄でも実力は高く評価していた。

 背景がどうであれ少なくない数の術師と戦闘員を動員できたのは、彼が持つ人脈と実績が確かなものだったからだ。個としての戦力もまた三課屈指のもので、今回の事件がなければ遠からず三課という組織を完全に掌握できただろうと英美は考えている。


(融和派がどれほどの奇麗事を並べようとも、異形を憎む術師は多い。人類に相容れない魔物もいる。犬上の街を基準に世界にその価値観を押し付けるなど、新しいトップも無茶振りがひどい)


 異形が人類を襲わずにいられるのは特異点都市など限られた条件下。

 安定して彼らに魔力を供給する手段は今も研究中だが、成果と呼べるものが報告されたという話は聞かない。それどころか封魔の打刻を用いて傷病人の生命維持や老人の延命どころか若返り効果も知られるようになり、神楽一派とは別の形で異形討伐を推進するグループが生まれつつある。

 頭の痛い問題だ。


(初代影法師の復活。二代目により神楽が討たれたことで在野の術師組織も大きく揺さぶられるだろう。自分達の正当化のためには分かりやすい英雄と悪役が随分と重宝したようだ)


 異形を掃討しようとする勢力が消えることはない。

 私情で動く者、正義の二文字に酔う者、復讐のために異形と戦う道を選ぶ者。神楽という旗印を失ったことで少なくない数の術師や戦闘員が三課と距離を取り始めた。組織の建て直しは間違いなく難しいものになる。


「三叉山の霊脈封印に問題はない?」

「観測所および測定機器は正常に」


 三叉山麓に設営された臨時の指令所。

 居合わせた職員が直ぐに応える。

 犬上市に定住する異形達は既に元通りの生活を再開した。霊脈の完全制御により異形達の暮らしは以前よりも快適だという報告も上がっている。特殊車両による路面や建造物の損壊や弾痕すら綺麗さっぱり消え去っているのは建築業の頑張りで成し遂げられるものではない。

 なにしろ神楽が行方不明となって二日と経っておらず、表向きは捜索隊が今も三叉山周辺に派遣されている。その実態は村上文彦が組み立てた術式残滓の調査解析に手を挙げたマッド研究者達で、定時報告がなければ地元警察に引き渡したいと英美は本気で考えている。


「それで」


 すっかり陽も傾いて、夜間の観測要員を残して半数の職員が撤収準備を始めている。

 夕凪の刻も過ぎて涼しい風が動き始めた市街地を遠くに眺め、意図して視界から外していたものに向けて英美は言葉を絞り出した。


「なーんで、あんたはここでいじけているのかね」


 今まで意識しないようにしていたが、英美の横には村上文彦が膝を抱えて真っ白に燃え尽きていた。

 ちなみに八頭身。

 父である光司朗の言葉を信じるならば、母である深雪を守るために文彦は自身の生命力の大半を彼女に託し身体を偽装していた。光司朗が家長として復活した今、有り余るエネルギーは本来の持ち主に返還され、あるべき姿へと隙あらば身体を変化させようとしている。術師として戦闘時の感覚が狂うため急成長を望まない文彦なのだが、三叉山の霊脈より供給される力が多すぎて身体制御を難しくさせているようだ。

 精悍という言葉は良く似合う。

 似合うのだが。

 が。


「キモイって……こんなのおれじゃないって、ムキムキなのは解釈違いだって」


 あれほど文彦を師匠と慕っていたベル・七枝も、文彦に対して好意を寄せていた桐山沙穂も、彼の周囲にはいなかった。

 悪意がないだけ始末が悪い。

 逃げ出した二人も今までとは別の意味でメスの貌で文彦を遠くから眺めているのだが、本気で落ち込む今の文彦にねっとりとした視線に気づく余裕はない。


「ああ、そう」


 英美も当たり障りのない返事をするのが精一杯だ。


「……千秋にも逃げられた」

「……そっか」


 ハヤテとジンライが腹筋を抱え悶絶していると、山の反対側を探査中の職員から報告があった。

 さもありなん。

 英美はしばし沈黙し、それから文彦の側頭部を蹴り飛ばした。




◇◇◇




 三叉山を巡る事件が一通り片付いた頃、犬上市内の中学高校は少し遅めの新学期に突入した。


「また村上は休んでるんだな?」

「ソウダネー」


 事情を知らない同級生たちの心配する声を聞きながら、桐山沙穂は努めて平静に、クラス委員としての役目を全うしようと改めて決意した。

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影法師 村上文彦 @ha_

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