終章 気ままで幸せな魔法

 砂と泥水にまみれた日々が続いた。野良猫じゃから、生まれてからどれだけ時が流れたかわからん。

 わしは成人して、死別した母にも負けんほどに大きくなった。ほかの野良猫たちから売られた喧嘩を買っているうちに、雄猫をも打ち負かせるほど屈強にもなった。

 住宅街が広いこの町は、民家の間や路地裏などを住処にしやすいため、野良猫がたくさんいる。わしが生まれたときから、すでに野良猫社会ができあがっていたほどじゃ。この辺りで一番強い雄猫がボスとして統率していたが、わしはそんなボス猫からも、雄よりも強い雌猫として一目置かれるようになっていた。

 ボス猫や周りの猫たち、そして兄弟姉妹や亡き母からも、次代のボスにならないかと勧められたりもしたが、わしはそれを断り続けた。鍛えた力は家族のために振るっていたし、そもそも好きで喧嘩をやっていたわけではない。わしは家族を守ることでいっぱいいっぱいじゃったから、ボスになるほどの余裕などなかった。

 それに何より、わしには生まれたときから変わらず抱き続けている使命があった。なこたちに会うこと。今まで一度も会ったことのない者の名前じゃったが、絶対に果たさねばならんと強く自分に言い聞かせ続けながら生きてきた。なぜだかわからんが、なこたちもまたわしのことを捜してくれている気がした。

 ある日、わしはついに、ずっと話さずにいた使命のことを兄弟姉妹たちに打ち明ける。みなは不思議がり、そんな得体の知れない人たちのことなんて忘れなよと説得してきたが、わしは断固としてそれを拒否した。

 そして次に、なこたちを捜す旅に出たいと願いでた。兄弟姉妹はわしがいなくなってしまうのを嫌がったが、わしが意志を曲げることはない。最終的には年長者である長男が折れ、わしが旅に出ることを許してくれた。たまには顔を出すようにと言いつけられたので、わしはもちろんとばかりに力強くうなずいた。

 長い間苦楽をともにしてきた家族たちと別れ、わしは住処である路地裏を出る。道路の脇にできていた水たまりを鏡にして覗きこむと、黒毛の体がすっかり泥だらけになっていることに気づいた。こんな姿で会うのは失礼じゃと思い、わしは車が走って来ないうちに水たまりで体を清めた。

 旅を再開する。道行く人たちの顔を覗きこんだり、住宅街の塀から家の中を覗いたりしたが、見かけるのは心の記憶にない者の顔ばかりじゃった。

 じゃが、わしは一向に住宅街での人捜しを止めなかった。この町になこたちがいるという確信があったからじゃ。

 あちこちを歩いては休み、歩いては休みを繰り返した。時には住宅街の公園で張りこんだり、駅の近くまで歩いたり、学校の校庭に忍びこんだりしてみたが、なかなか進展は得られんままじゃ。

 幾度となく日を跨いで歩き回り、足がくたびれて痛みだしたので、わしはある日の夕暮れに、休憩がてら町外れの川に向かった。ここは川面に映る夕日や月光が美しいと、野良猫の間で有名な所じゃ。ちょうど夕日が地平線に沈もうとしていたので、ちょうといいと思い、わしは川沿いの草むらの上で丸くなった。

 紅色にきらめく川の景色を眺めながら、わしは温かな春風に撫でられてうたた寝をする。次に目が覚めたときには、鮮やかなオレンジ色の満月が夜空に浮かび、川面に影を落としていた。足の痛みもどうにか治まっていたので、わしは伸びをして立ち上がり、草むらを掻き分けて再び歩きだした。

 夜中になっていたので、夕方まではあった人けもすっかりなくなっておる。聞こえてくるのは、虫の鳴き声と川のせせらぎくらいじゃ。そろそろ人捜しを中断しようかと考えたが、うたた寝をしたせいで眠くなくなっていたので、ぶらぶらと歩き続けることにした。

 しばらく進み、川に架かった大きな橋の下に着く。わしはそこで、意外なものを目にした。見間違いじゃと思ったが、それは紛れもなく人影じゃった。

 吸い寄せられるように足が向く。橋の影に隠れてすぐわからんかったが、人影はよく見ると四つあった。みな、動きやすそうなジャージの格好をしておる。その中心にいる、茶色いロングヘアーであどけなさが残る顔立ちの女性だけは、抱っこ紐を使って眠りについている赤ん坊を抱えていた。

 彼女の周りを、黒髪の優しそうな男性、茶色いウルフカットの姉らしき女性、そして白い長髪を一つ結びにする大人びた女性の三人が、一緒になって歩いておる。その光景を目にした瞬間、わしの心はなぜだか幸せな気持ちで満たされていった。

 目の前にいる彼女たちの顔は、心の記憶にある顔と一致こそせんが、所々に面影がある。直感だけでしかなかったものに、確信が合わさっていくのを感じた。向こうも――いや、なこたちもきっと、わしのことをずっと捜してくれていたに違いない。そして今、わしらは長年の念願を果たせたのじゃ。

 はやる気持ちを抑えきれず、わしはなこたちの前に飛びだした。向こうからすれば、わしの姿こそ知りえないものじゃろう。前世のわしはきっと別の生き物じゃったに違いない。それでも、わしが見つけたときと同じ直感を感じてくれたようで、なこたちはわしの顔を見て息を呑んだ。

「仁希……?」

 なこがそう呟きながら歩み寄る。わしは記憶でなく直感に従い、こくりとうなずいた。すると、なこはせっかくのかわいい顔を涙でぐしゃぐしゃにし、胸に赤ん坊を抱えたままわしを持ち上げて抱き寄せた。

 わしのすぐ目の前で、眠っていた赤ん坊が目を覚ます。赤ん坊はわしらの事情などつゆ知らず、黒猫のわしを間近に見て、えへえへと無邪気に笑いだした。笑顔に満ちあふれた幸せをおすそわけしてもらい、わしも釣られて笑みがこぼれてしまった。

「私と稔の子だよ。私たち、仁希のおかげでこんなにも幸せになれたんだよ」

 なこが相も変わらずうれし泣きをしながら、おでことおでこをくっつける。前世のわしは、もしかしたらなこの母親じゃったのかもしれんと感じた。試しになこと呼んでみようとしたが、うまく呂律が回らず、どうしても「にやあご」と発音してしまう。それでも十分に伝わってくれたようで、なこはわしが名前を呼ぶたびにうんうんとうなずいてくれた。

 ふわふわとした気分じゃった。なこたちの赤ん坊が、魔法でわしの心に風船でもつけてくれたのかもしれん。

 穏やかな風が通りすぎた。今なら魔法の風船は、わしらをどこまでも運んでいってくれるような気がした。

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魔女アグラオニケの気ままな魔法 阿瀬ままれ @asemamire_m

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