山の恋文
香山 悠
本編
秋晴れのある日、わたしは、宛名も差し出し人も不明の手紙を見つけた。登山中にたまたま拾った懐中時計の蓋を開けると、中に四つ折りの状態で入っていた。
古い手紙だった。短いが、見事な草書体で書かれている。おそらく明治期だろう。
なぜわかるかといえば、たまたまわたしが近代日本文学の研究者だったからだ。そうでなければ、この手紙の発見者はあまり興味を持たないか、お宝か何かの場所を示していると勘違いしたのではないか。
手紙は、恋文だった。要約すれば非常にシンプルで、「あなたに会いたい」だろうか。人名がまったく見あたらないのも、恋文ならば「貴女」や「私」と書くので、ありえなくはない。
手紙の入った懐中時計を見つけたのも、単なる偶然だった。
登山の途中、水分補給しようとして、うっかり水筒を落としてしまった。水筒はころころと転がっていき、登山道から外れた暗がりに落ちて、見えなくなった。少し迷ったが、水筒を取るくらいなら、安全に気をつければ問題ないだろうと、向かった先。岩に引っかかって止まっていた水筒のすぐ近くに、ほとんど地面に埋まっていたが、きらりと光る物体を見つけたのだ。
ここまで偶然が続くと、何かの縁を感じずにはいられない。わたしは、手紙と懐中時計の主を探すことにして、山から引き上げた。
過去に、山で遭難や事件が発生していなかったか、あるいは懐中時計や手紙を探す人は、いなかったのだろうか。役場や図書館を回って記録を調べてみたが、手がかりは得られなかった。
気持ちがはやってしまい、何か見落としたのかもしれない。わたしは、再び山に入った。
懐中時計を発見した辺りまでたどり着くと、なんと、先客がいた。下を見ながら、ぐるぐると歩き回っている。
男のようだ。資料で見た、明治期の男性にそっくりの洋装。たしかインパネスやトンビと呼ばれる袖なしのコートを着て、山高帽をかぶっている。少なくとも、登山のための服装ではない。
「こんにちは」
わたしは、思い切って男性の後ろ姿に声をかけた。男性が振り向く。
「こんにちは」
自然な挨拶だった。警戒している様子もなく、優しげに微笑んでいる。かなり若そうだ。目が大きく、鼻筋も通っており、整った顔立ちをしている。
「突然で失礼ですが、あなたは……懐中時計をお探しでは?」
男性は、軽く頷いた。わたしが懐中時計を差し出すと、左手で受け取り、愛おしそうに表面を撫でた。
「勝手ながら、中身を見てしまいました。中のお手紙も、あなたのでしょうか?」
「……手紙、ですか?」
男性は、いささか驚いていた。どうやら、手紙のことは知らないらしい。懐中時計を開けて、中の手紙を見てもらった。
しばらく沈黙が続いた。それから、ようやく事態を呑み込めたのか、憂いを帯びた声でぽつぽつと語り始めた。
いわく、懐中時計の持ち主は女性で、恋仲だったそうだ。しかし、二人の恋愛は周囲の反対にあって、うまくいかなかった。男性宛ての手紙も、渡せずじまいだったのだろう。男性は早くに死んでからも、市中を彷徨い続けた。時代を経るにつれ、少しずつ自我が薄れていく恐怖。けれども、女性のもとにたどり着くこともできず、成仏もできない。
そんな中、わたしが懐中時計を持って市内に降りて来たことで、女性の気配をつかめたそうだ。そのまま、わたしが山に戻るのに付いていき、自身もようやくここまでたどり着いたとのこと。
かすかな気配を頼りに、男性は足元を見ながら女性の痕跡を探していた。どうやら、地面に手で触れることはできないようだ。
わたしは、男性に協力した。ほどなく、女性の骨と思しきものが、土の中から見つかった。
骨を見た男性は天を仰いで、瞑目しているようだった。
かける言葉を探したわたしは、手紙を書かないかと男性に提案した。わたしなら、当時の言葉遣いや筆致で、彼女に向けた言葉をつづれると。
男性は、再び微笑んだ。小さく頷く。
研究者としての癖で、常に筆記用具と白紙は持ち歩いていた。男性の言葉を、書き留めていく。
すべて書き終えたわたしが顔を上げると、男性はわたしの前から姿を消していた。懐中時計の中にあった手紙も、男性が持っていったのだろうか……。
わたしは、女性の骨を発見したと警察に通報した。懐中時計も渡したが、手紙が入っていたことは伝えていない。
ひと月ほどして、女性の身元が割れた。女性は名家の娘だったそうで、地元に遺骨のない墓が残っていた。
遺骨が納められ、きれいになった墓の前で、わたしは手紙を読んだ。手紙は、墓石の隙間に見えないように挿し込んだ。
墓地に植えられた紅葉が、見頃を迎えていた。風が吹いて、ひらひらと紅葉が舞う。紅葉の隙間から、こちらに向かって微笑む女性の姿が、一瞬見えたような気がした。
山の恋文 香山 悠 @kayama_yu
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