後編
仁屋は知識と話題がじつに豊かで、特に歴史や宗教に詳しかった。
歴史を語るとき、仁屋は少し遠くを眺めるような目をした。どんな時代の話であっても、まるで実際に見て、体験したことを、懐かしく思い出しながら話しているかのようだった。
そうやって仁屋の口から語られた話は、生き生きとした臨場感にあふれていた。
どうやら仁屋のほうも、礼菜との語らいが釣り堀へ来る主目的になっているようだった。釣りのほうはせいぜい一匹か二匹、ボウズの日も多い。
そんな和気あいあいとした交流が、十日ほども続いた。
「わあ、仁屋さん、今日は大漁ですね」
その日、やってきた礼菜は嬉しそうに声をあげた。スカリの中には、五匹の魚が泳いでいる。これまでの最高記録だ。
「毎日一匹や二匹じゃ、かっこ悪いからねえ。ははは」
「えー、そんなことないですよう」
昨日は一匹、
その日の帰りぎわ、仁屋は静かな声で礼菜に言った。
「ねえ、礼菜さん。あなたは生きる世界を変えたらいいかもしれないね」
そう言いおいて、仁屋は帰っていった。
礼菜は言葉の意味を考えた。ちょっと意味深な感じだ。おそらく、転職したほうがいいというアドバイスじゃないだろうか。仕事の愚痴を何回も聞かせちゃったから、仁屋さん、心配してくれたんだ。
まだ一年ちょっとだけど……転職、本気で考えようかな。
そんなことを思いながら、礼菜も帰路についた。
翌日の昼休み。同僚数人と、たわいない雑談に花を咲かせていたときである。たまたま、昨夜の交通事故が話題になった。同僚の一人が言う。
「昨日の事故、一家五人全員死亡だって。運悪いよね」
昨夜、市内で交通死亡事故が起きたのだ。残念ながら夫婦と祖父母、孫の五人が犠牲になった。
すると別の一人が、妙なことを言い出した。
「変なこと言うけどさ。最近、この町で死亡事件が多くない? 一昨日も、バイクで一人亡くなったでしょ」
「それ、あたしも思った。その前の日は火事で二人でしょ。これだけ続くと、なんか気持ち悪いよね」
そうなのだ。このところ夜になると、消防車やパトカーのサイレンがよく鳴る。
なんとなく、心がざわついた。
嫌な胸騒ぎがする。頭の片隅で、なにか引っかかる。
すうっと、
仁屋が釣った魚は、五匹、一匹、二匹。
死者数は、五人、一人、二人。
なんなの、これ。
不吉な予感に、礼菜はおののいた。
午後、礼菜は資料室にこもり、ここ最近の地方紙を調べた。
初めて仁屋に会った日の翌朝、山菜取りで行方不明になっていた老夫婦が、遺体で発見されていた。さらに、次も。その次も。
覚えているかぎり、仁屋の釣果と死者数は完全に一致していた。警察の調べでは、事故には一件も犯罪性はない。
でも、そんな偶然、ありえる?
礼菜は、仁屋への疑惑を振り払おうとした。そんなはずないよ。仁屋さんは物知りで、優しくて、上品で、それに、それに…………それだけだ。
礼菜は仁屋について、ほとんどなにも知らないことに気づいた。住所も、家族も、これまでどんな仕事をしていたのかも、下の名前すらも知らない。
初めて会ったときからすぐに話が弾んで、仲良くなれて、尊敬できる人生の先輩って感じで、こんな人が本当のおじいちゃんだったらいいなって思って、自分のことはなにもかも喋ったけれど、仁屋のことはほとんど知らない。優しいだとか上品だとか、そんなのはただの印象だ。いくらでも演じられる。
礼菜の頭の中で、思考がぐるぐる回っている。考えが少しもまとまらない。
ただひとつ、はっきりわかったことがある。
釣った魚と死者数が全部一致するなんていう偶然は、ありえない。仁屋さんは、なにかがおかしい。普通の人間じゃない。
退社時刻を秒読みで数えると、礼菜は一直線に釣り堀へと向かった。
怖い。なにか不気味な、関わってはいけないものに触れようとしている。そんな確信があった。それでも知りたい。行かずにはいられない。
夕暮れの釣り堀の、いつもの位置に仁屋は立っていた。
海の向こう、水平線すれすれまで傾いた太陽が、釣り堀全体を茜色に染め上げている。
「気づいていながら、来てくれたんだねえ。やっぱり、あなたには素養がありますよ、礼菜さん」
仁屋は微笑んだように見えたが、茜色の風景の中で彼の体だけはなぜか真っ黒で、表情がよく見えなかった。逆光になっているせいだろうか。
仁屋はスカリを引き上げた。網の中には、十匹以上の魚が跳ね回っている。かなり重いはずなのに、仁屋はそれを片手で軽々と持ち上げた。
「ほら、今日は大漁でしたよ。それじゃあ、また明日」
仁屋は悠々と去っていく。礼菜は仁屋の発する圧倒的な威圧感と恐怖に凍りついていた。老人の背中が見えなくなるまで、指一本、言葉の一言すら発することができなかった。
真夜中、礼菜はベッドの中で震えながら、音を聞いた。パトカー、救急車、消防車のサイレンが、けたたましく響く。
枕元のスマホを手にすれば、速報が見られる。だが礼菜には、この夜の闇の中、一人で『それ』を知る勇気はなかった。
翌朝、大学時代の友人からの電話で、礼菜は事故の詳細を知った。高速バスを含む車両十数台を巻き込んだ玉突き事故で、死者十人以上の大惨事だ。
事故現場として礼菜の出身地の名前が報道されたため、友人は念のためと安否確認の電話をくれたのだった。
電話を終えると、礼菜はのろのろと身支度をはじめた。
行くべき場所は、あそこしかない。
釣り堀では、仁屋がいつもの場所で待っていてくれた。逆光でもないのに、その姿は黒い。
タコ坊主が、イケスの中で立ち泳ぎをしている。なにがそんなに
黒くなった仁屋が、礼菜に釣竿を差し出した。
「来ると思っていました。さあ、あなたもどうぞ。魚に遠慮はいりません。道徳もいりません。楽しむためだけに釣り、味覚を満足させるためだけに食べる。それでいいじゃありませんか。つまらない仕事など、辞めてしまいなさい。むしろあなたは、ニュースを提供する側に立つべきなんですよ」
礼菜は最後の抵抗を試みた。釣竿へ伸ばそうとする自分の手を、必死で止めようとする。だが、無理だった。礼菜自身もわかっていたのだ。仁屋の
礼菜はついに、震える両手で釣竿を受け取った。刹那、
仁屋は満足げに頷き、礼菜の耳元でささやいた。
こちら側の世界へ、ようこそ。
了
ようこそ。 旗尾 鉄 @hatao_iron
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