ようこそ。

旗尾 鉄

前編

「あ~あ……」


 ある春の日の昼下がりのことである。

 社会人二年目の森垣礼菜もりがきれいなは、大きなため息をついた。誰も見ていないのをいいことに、頬を軽く膨らませ、いかにもつまらなさそうに通りを歩く。


 礼菜は、この故郷の町のタウン情報誌の記者である。


 本来はジャーナリスト志望だった。しかし、現実は厳しい。大手はもちろん、地方の新聞社や中小の出版社も含めて二十社近くすべて不採用で、唯一の内定をもらえたのが、今の職場なのである。


 仕事は、はっきり言ってつまらない。

 タウン情報誌だから、記事は地元のグルメ情報だとか、穴場観光スポットだとか、そういった内容が中心だ。政治家の疑獄事件をスクープしたり、事件現場の最前線で取材をしたり。自分のそんな姿を思い描いていた礼菜には、興味が持てない仕事ばかりだった。


 いまやっているのは、町ネタ探しである。

 町の面白い話題を紹介するという定番の連載ものだが、そのネタを一人十本探してこいというのが、上司の指示だ。くだらない。

 それなりのものは二本用意できた。あとは数合わせでいいや。町を適当にぶらついて、なにか書いておこう。そう思っていた。


 灰色の雲が、空一面を覆っている。

 季節のわりに暖かい日だが、湿っぽい暖かさとでもいうのだろうか。なんとなく、空気がよどんでいるような気がする日だ。


 海岸沿いの市道を歩いているときだった。

 礼菜はふと、足を止めた。たまに通る道だが、いつもとちょっと違う。


「あ、ここ……」


 違和感の正体は、すぐにわかった。通りに面した釣り堀の入り口がきれいに片付けられ、営業しているのだ。

 ここは何年も前に廃業して、そのまま放置されていたはずである。前に見たときは、入り口付近にゴミが散乱していた。


 再開したんだ。町おこしのネタになるかもね。

 礼菜は、軽い気持ちで入り口扉を押し開けた。






 古びた釣り堀の敷地内は、潮とかすかな魚の臭いが漂っていた。

 この釣り堀は市道側が正面入り口で、裏手側は海に面している。元は養魚場だったが、事業がうまくいかずに釣り堀に改修、それもだめでついには廃業に追い込まれた、そんな話を聞いたことがある。

 敷地を囲むフェンスには、釣りイベントや釣り具のポスターが何枚も貼られていた。みな色あせ、破れかけたものもある。書かれているイベントの開催日は、十年も前の日付だ。


 十メートル四方ほどのコンクリート製のイケスが四つ、田の字型に並んでいる。その田の字の中央付近に、男性が一人、竿を垂れている。客はその一人だけだ。


 礼菜が客のほうへ歩み寄ろうとしたときだ。左側のプレハブ小屋から物音がして、中年の男性がぬうっと出てきた。釣り堀のあるじらしい。


 タコ坊主。

 のっそりした足取りで近づいてくる男に、礼菜は心の中でそんな失礼なニックネームをつけた。ずんぐりと小太りで、髪は一本もないスキンヘッド。潮焼けした顔に、下唇が少し突き出ている。


「はじめまして」


 礼菜は笑顔を作り、名刺を渡して取材を申し込む。


「取材? んー、あー、いいよ。入場料、七百円ね」


 タコ坊主は、話し方ものっそりだった。入場料を払い、質問する。


「こちらはいつから?」

「んー、最近だね」

「開業のきっかけなどあれば、教えていただけますか?」

「ここ、ずっと使ってなかったから。そのまま使ってる」


 いわゆる『居抜き』ということなのだろう。それにしても、よほど口下手なのか、タコ坊主の話は要領を得ず、おもしろみがない。客に話を聞きたいという口実で、礼菜はイケス中央へと早々に移動した。


 唯一の客は、和装の老人だった。

 七十歳前後といったところだ。高級そうな薄茶色の着流しに、同色のソフト帽といういでたちである。そんなレトロ調のコーディネートをいきに着こなす姿は、細面ほそおもての端正な顔立ちと相まって、昭和時代の銀幕から抜け出してきたようだった。


 礼菜が名刺を渡すと、老人は目を細めて笑顔を返してくれた。


「ご丁寧にどうも。仁屋にやといいます。応仁の乱の仁に、屋根の屋」


 物腰、話し方、なんとも紳士だ。タコ坊主と話した直後だけに、品の良さがよけいに引き立つ。最初は取材のインタビューというていをとっていた礼菜だったが、すぐにただのおしゃべりになった。


 仁屋老人は話題が豊富で、話していて飽きないのだ。おまけに聞き上手でもあり、礼菜はいつの間にか、仕事への不満だのなんだの、洗いざらい話してしまった。


 楽しい時間は過ぎるのが早い。やがて仁屋老人は、おもむろに立ち上がった。釣果ちょうかは二匹。礼菜には名前のわからない魚だ。


「ほとんど毎日来ているからね。いつでも話し相手になりますよ。じゃ」


 おじいちゃんって、いいなあ。

 去っていく仁屋を見送りながら、礼菜は思った。礼菜の祖父は彼女が生まれる前に二人とも亡くなっているので、写真でしか知らない。思い出がないぶん、礼菜には、「優しい祖父」という存在に憧れがあったのだ。仁屋は、彼女の理想のおじいちゃん像にぴったりだったのである。






 釣り堀通いが、礼菜の日課になった。

 仁屋と話すのが、礼菜の最大の楽しみになったのだ。


 釣り堀は、つねに閑散としていた。客はいつも仁屋ひとりだ。

 礼菜が訪れると、仁屋は釣り堀の中央付近で折りたたみ椅子に腰掛け、のんびりした様子で釣りを楽しんでいる。

 礼菜は隣にしゃがみこんだり、手近のビールケースに腰かけたり、ときには前のめりになってイケスの水の中を覗き込んだりしながら、仁屋との会話を楽しむ。


 はたから見れば、本当の祖父と孫のように見えたかもしれない。

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