画鋲

鳥尾巻

向こう側

 夜ごと眠りに就いて短い死を迎え、朝の光に生を取り戻す。ひとときの眠りは、岸辺に打ち上げられた波が、広大無辺こうだいむへんの彼方へと帰り、再び戻るようなものだ。

 子供の頃、一緒に住んでいた祖父がそう言っていた。その時は噛み砕かない祖父の言葉は難しくてよく分からなかったが、今ならなんとなく理解出来る気がする。死と眠りはある意味同じようなものであり、朝に目覚めるのなら、それはまだこの世に帰ってやることがあるということらしい。

 仕事を引退した祖父は、時々「あの世に逝ってくる」と冗談めかして言い、午睡の時間を取っていたが、ある日本当に向こう側から帰ってこなくなってしまった。

 あの春の夕方、表の庭で猫が鳴いていた。夕飯の時間に僕が起こしに行くと、書斎の一人掛けソファに背中を預け、眠っているように見えた祖父の顔には、苦悶の表情が浮かんでいた。


 その日以来、幼い僕は夜に怯え、眠ることが出来なくなった。真夜中にそっと家を抜け出しては、庭の周りや道路に画鋲をばら撒いた。なぜ画鋲なのかは分からない。子供の浅はかな思いつきだ。

 夜にむ悪い魔物が僕を攫いにやってきたとしても、敷地に足を踏み入れたら、きっとその足は尖った針に痛めつけられるだろう。小さなくせに、画鋲の針を踏んだ時の痛みはかなりのものだ。そして悪い魔物は足を引きずりながら夜の向こうに帰って行けばいい。

 街灯に照らされた田舎道や雑木林の木々の間に、小さな金属の煌めきが異界への道しるべのように続く。それを見届けてようやく満足した僕は、そのまま家に戻り、安心してベッドに潜り込んだ。訪れた眠気に任せ、お気に入りの毛布に包まって夢の世界へ旅立った。これでもう夜の魔物に攫われることはない。


 近所で自転車のタイヤに画鋲が刺さってよくパンクする事件が相次いだ。それが僕の仕業だとバレてこっぴどく叱られた。夜中に家を抜け出しているのを見られていたらしい。それでも僕は性懲りもなくその遊びをこっそり繰り返していた。

 子供の僕にとってそれは遊びではなかった。あの世とこの世の境目に罠を張り、真剣に結界を張っているつもりだった。結界という言葉すらも知らなかったけれど、何かで通り道を塞ぐという行為が、僕を護ってくれるだろうと本能で感じていたのだ。

 道に画鋲をばら撒くと叱られることを学んだ僕は、窓枠に画鋲を並べ、ありもしない侵入者への罠をせっせとこしらえ続けた。

 そもそもこの世のモノではない存在に手や足があるのか。痛みは感じるのか。もう夜に怯えることはないし、今となっては疑問だが、当時はとてもいい考えだと思った。


 今夜はなぜか眠くない。運動不足かもしれない。職務上のストレスから体を壊し、数ヶ月前に退職したばかりだ。療養先から戻り、これから地元で就職先を探し、怠けた生活をどうにかして立て直さなくてはいけない。

 僕は退屈と鬱憤を持て余し、さしたる目的もなくぶらぶらと歩く。すっかり昼夜逆転生活になっている。だが夜遊びしようにも、都会から離れた田舎町では遊ぶ場所もない。同世代の友人はほとんどが家庭持ちで、そうそう暇な僕に付き合ってはくれない。

 気まぐれに寂れた神社に併設された公園の中を横切った。淡い花の香りがする。誘われるままに奥へと進み、朽ちた祠の前を通り過ぎる。さらにその奥、五分咲きの桜の下に、連なる朱の鳥居が建っていた。

 その根元に小さな画鋲を見つけた。量販店でよく売られている飾り気も何もないシンプルな画鋲だ。昨日までの長雨に濡れ、錆びて赤茶けた金属の針を、僕は何気なく拾ってポケットに入れた。普段ならそんなものは気にも留めず放っておくはずなのに。


 かすみの雲にけぶる月は淡い光を地上に投げかけ、遠くで猫が鳴いている。いや、鳴いているのではない。盛っているのだ。まるでバケモノ同士の争いのような唸り声の応酬に、ふと昔のことを思い出す。ああ、あの声だ。あの声が聞こえると恐ろしくて、窓枠に並べた画鋲を何度も確認したものだ。

 そうだ、さっきの画鋲。仕掛けた罠を回収したから、バケモノたちも少しの安穏を得られたのだろう。なぜか奇妙な全能感に支配される。夜に巣食う亡者すら、この画鋲の罠に怯え、僕の前に跪く。そんな馬鹿げた空想に浸りながら、ぬるい夜の空気の中をそぞろ歩く。少しだけ気分がいい。

 本能のままに唸りを上げる獣の声、繁殖する虫の羽音、萌え出づる生命の息吹で大気は濁り、腐った水のような臭気が漂う。まったく春は騒がしくて厭わしい。


 つと、強い風が吹いて桜の梢を揺らし、咲き初めの花弁が宙を舞った。首筋を何かがふわりと撫でる。その時、誰かが耳元で「おかえり」と囁いた気がした。獣の唸りのようでいて、頭にはっきりと直に響くその声を、どこかで聞いた覚えがある。慌てて振り返ってみたが、昏い木立の間には、野生の獣の影すら見えない。

 急に肌が粟立つような、見通せない闇の向こうから何かが這い出るような気配がする。僕は強く首を振って怖気おぞけを振り払い、家に向かって速足で歩き出した。

 早くベッドに潜り込みたい。なのになぜか眠るのが恐ろしい。帰りにコンビニで新しい画鋲を買って、久しぶりに窓枠に並べて寝ようか。怖気はますます強くなる。僕は振り返ることなく走りだした。そもそも、僕がこの世でやることは、まだ残っているのだろうか。


 夜は長く、朝はまだまだ遠い。


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