虚弱体質哲学少年

里中森燈

第1話『少年は”死”を抱く(そして何度も切り刻む)』

【或る『死せぬ』少年の告白(と果たして呼称し得るシロモノなのかどうかは誰も判りたがらないらしい)】



こころが、既にケロイドだらけ、なんだ。

今更、傷が増えた処で、痛くも痒くもない。


やり場のない怒りとか、明日への不安。

そんな陳腐な感情も、手持ちのメスが吸い取ってくれる。


そんな想いで以て、こうして躰を切り刻んでいる。ただの、「弱虫」だ。


そぼ降る雨のなか、旧びた線路の高架下。

イヤフォン越しに歌いかける、ピーター・マーフィー。

段ボール箱の猫もなんだか、所在なさげに泣いている。


……そうか、おまえも棄てられたのか。 この、欺瞞と寂寥に満ちた世界から……


幾ら泣いても、誰も見向きもされない。判ってる……そう、判ってた。小さな頃から。

人間って奴はいつでも、強くて弱くて莫迦で、そして遥かに「使えない」。こんな時。

使い捨ての、この小さなメスだけがやさしくて、「死にたきゃ死ね」と応えてくれるんだ。


今度こそ、さようならを、する時かもしれない。そう諦めかかった時……だった。


「血だっ! 血じゃないかっ! あぁ……なんて……なんてことだ!」


薄れゆく意識のなか、声なき声で見りゃ判んだろ、とツッコんでいた。

イヤフォンをしても聞こえる、おそらく年かさと思われる、男性の叫び声に。



そこで、眼を醒ました。夢、だったんだろうか。


しかし確かに、左手首に遺る疼痛と痺れ。夢じゃない。気づくと同時に、猛烈に悔しくなっていた。

なんでまた、のこのこと帰って来たんだろうか。こんな……こんな薄汚れた世界なんかに……くそっ。


「……悔しいかい?」


頭上へと降り注ぐ穏やかで、何処か神経質な響きを湛えた、年配男性の声。


「すっかり、眼が醒めたようだね。私は、神城塔一。君は?」


あまりの事に思考が追い付かず、すっかり黙りこくってしまった。

その間、彼「神城塔一(本名かどうかは怪しいが)」は、何も云わなかった。

乾いた血のこびりついた、あまり綺麗とは云えない手の爪に、そっと触れるのみに留まった。


「.......電話とか、するんですか? その……警察とか、病院とか」


やっとの事で口を開いたと思ったら、コレだ。 吾ながらこの慇懃無礼さには、まっこと嫌気が差す。

しかし彼は、苦言さえ呈さなかった。むしろ何も云わず、気味の悪いほど穏やかに微笑む。それだけ。

そこで改めて、彼の顔をきちんと見てみる事にした。こんな、何処か胡散臭くもある佇まいの男が、どんな見た目か。ただの好奇心だ。


日本人にしては、随分と彫りが深い顔立ち。面長で、少し頬がこけている。

いかにも神経質そうに、きりりと吊り上がった眉には、処々に白髪が混じっている。

くすんだ銀縁の眼鏡は、細い楕円のフレーム。なるほど、病的でよく似會っている。


ああ、似ている……さっきまで聴いていた、ピーター・マーフィーにも……もうひとりの、「好きな人」にも。


真綿のようなふわふわのロマンスグレーに、随分と華奢でか細い躰(人の事は云えないが)。身長は、すらっと高いようだ。

それらを包む白いスタンドカラーのシャツと、ワンピースのように着丈の長い、ざっくりと編み込まれた焦茶色のカーディガン。

膝元に、眼を落とす。思ったとおり仔鹿のように細い脚を包むのは、紫がかった昏いチョコレット色地の、シックなタータンチェック柄。

よくよく見るとそれは「アシンメトリーな切り返しの裾」をした、メンズ・スカートだった。一瞬「セルの袴」だろうか、と見紛うほどである。


……センス自体も寧ろ良すぎるくらいだが、何よりかなりの「富裕層」と見た……。

そこまで観察していたところ、はたと眼が合う。そこで彼が云い放ったのが、コレだ。


「まさか。みすみす未成年略取を疑われに、など行きたくはないさ」


なんて大人だ、と思わず心の中で毒づいてしまった。思わずついた溜息で、バレてるとは思うが。

と云っても、そんな偉そうに倫理観を振り翳せるほど、善良な子供じゃない。何よりリストカッターだし。


だけど、この世をすねたような物言いといい、もしかして。 ある「予感」が、惚けきったはずの脳裏を掠める。


「本名、なんですか?……その、神城塔一って」

「ああ、勿論。これで売文業もしている、気楽なモノさ」


なるほど、と得心し、Yシャツの懐に仕舞っていた1冊の文庫本を取り出して見せる。よかった、濡れていない。

取り出したその、黒地に金のアールヌーヴォー調の唐草模様がデザインされた装丁を前に、彼が眼を丸くする。


『そどみあ譚』 1964年、瑞祥舎より刊行。神城塔一の処女短編集。タイトルの通り、男性の同性愛を扱っている。

のちに後継のみずほ書房より、1992年に俺が持っている文庫版が出るまで長らく絶版だった、幻のデビュー作だ。

内容をよく読むとかなり過激でグロテスクだが、流麗な美文調の文体と、その根幹に通底する厭世観がとにかく美しい。


羅切や受動性器の製造、男性体が受胎するなど往々にしてぶっ飛んだ題材を、理由やその心の機微に至るまで綿密に書き込む筆致。

そして読みやすく平易な語り口で、それでいて品性を失わず総じて頽廃美を湛えた、まさに「文字で描かれた近代絵画」の名作と云える。


「『そどみあ譚』、俺にとっては聖書(ヴァイブル)です。特に『いづれ廻復する傷』と『縫會鷄環』……もう泣くほど好きです」


君、と云いかけてそれぎり黙ってしまった神城氏。さやさやと、雨音がに被さる。


「名乗っていませんでしたね、俺。葛城操って云います……あなたの作品を読んで、こんな事した訳じゃないんです」



【初老の幻想作家は「死を抱く少年」の夢を見るか(どうかは読者諸兄・諸姉の想像に任せたいところだがどうだろうか)】



「13歳の頃だったよ。その日はまるで今日のように、霧雨が降っていてね。閉じた世界に生きる今の自分が、何より悲しかったんだ……。

 父や母はまるで僕を理解しようとせずに、ただ勉強して世のため人のためになれ、と云って叱るだけ。云うなれば、僕は囚人だったんだ。

 それから何度か自殺未遂を繰り返してね、とうとう精神病院に叩き込まれるところまで来て、ようやく家を飛び出し夜汽車に乗ったのさ」


私・神城塔一は滔々と、この「血濡れた悲しき少年(若しくはそれを模した幻影かも知れないが)」に、語って聞かせていた。

事実、その通りなのだ。私は「囚人」であり、更に手合いの悪い「自ら進んで囚われに往ってしまった」、取るに足らない「殉教者」である。


昏く美しい世界に憧れ、それら「翳り」に身を窶そうとし、結局は堕ちきれず厚顔無恥にノウノウと生き永らえるに過ぎない。そんな人間だ。


心から「魂の解放」を希みながら、何処かで「閉じた呼吸の永続性」にも囚われ、行きつ戻りつしているだけなのだ。

それらをして、やれ「病める魂の救済者」だ「耽美・頽廃の伝道師」だと持ち上げる、盲目的な輩は数多存在していた。

そんな「安価な偶像崇拝」や「麻薬商人」である事を希むがゆえに、この今なお継続する売文業を営んでいるのではない。

私にとってこの幸福な誤解、と云うものは寧ろ「功罪」であり「原罪」だ。普段であればこれらの思慕は、疎ましいモノであった筈だ。


しかし彼、『葛城操』なる少年は、それらの者と「まるで異質」だった。


件の河川敷に座し、両手に小さなメスを握りしめ、血塗れたか細い躰を横たえる彼。

思わず叫んび、その御許に駆け寄る刹那、私は不謹慎にも「はしゃいで」しまっていた。

さながら通りすがりに猫の屍体を見つけ、加虐的な感情を催し、悪戯を施す。残酷な少年のように。


誰がどう見ても、この少年は「死」を希求している。ならば彼を援ける事は、すなわち「冒涜」になるのではないか。


この時、私の裡に産まれたものは「残虐」だった。彼を生かし捕捉する事によって、支配者として君臨し圧しようと。

要するに彼を援け、高額を吹っ掛けて恩を売りつける事によって、肉体的にも精神的にも拘束せしめんとしているのだ。

それに依って、私のこの「彼同様に痩せぎすな」躰に日々刻まれるためらい傷も、すこしは減ってくれるかも知れないだろう。


斯様にしてこの、「女性的な性質」を持った私をして圧政を強いてしまいたくなるような、そんな魅力を彼は持っていた。


世間は大いに誤解をしてしまっているが、実はこの世の性的な「主体」はすべて女性にあり、「客体」はいつでも男なのだ。

そんな女性にこそ、畏怖と尊敬の念を持っている。だからこそ、自分が「捕食される側」に回るというのはどうにも我慢ならない。

あくまで個人の私感に過ぎないが、こうして俗な言い方をするところの「男を咥え込む」事で、他を圧倒し支配しようとしてしまう。


如何にも下種で、幼稚な発想だ。思わず、独りごちてしまう。


そんなにも、私はいったい、何から「救われたい」のか。

何を以て「救い」とし、何をそんなに「満たしたい」、のか。


今もって判らぬ事ばかり、だがただひとつ、云える事がある。

私は、「彼」を欲しがっていた。この躰、この魂。総てを懸けて。


……無論、そんな「思いあがり」は、後に打ち砕かれる事になるのだが……



「俺。葛城操って云います……あなたの作品を読んで、こんな事した訳じゃないんです」

「まあ、死ぬための動機がそう単純であっては、私が困る。その上で訊かせてくれ。なぜだい?」


彼が名乗った時、私は心底から彼を欲していた。ゆえに思わず、こう訊ねた。

この時の私の眼と來たら、きっと恐ろしいほど爛々と耀き、見開かれていた事だろう。

しかし彼は、そんな私の狂気を孕んだ表情さえものともせず、菩薩のような微笑みでこう返した。


「簡単ですよ、自分に溜った澱を吐き出している。ただ、それだけの事です」


……なんという、なんという美しい「誤算」。甘やかな「無知の智」なのだろう……


彼はなにも「死」そのものを希求している、という訳ではなかった。

寧ろ、狂えるほどに透きとおった「鉱石少年」たりえよう、していた。


その為に自らの澱を棄て、こうして傷だらけになってきたのだ、そうに違いない。


このなんとも手前勝手な思い込みは、暫く私の裡をうちふるわせ、燃えあがらせていた。

何の事はない、私とてただの矮小な人間のひとりに過ぎない。改めて、そう気づかされた。


「ねぇ、君」


呼び掛ける声が、どうしても震えてしまう。振り返ってそれぎり、黙りこくる私を見つめる彼。

こんなにも沈黙、というものが気詰まりなものだったとは、今時分まで露ほども思わなかった。

そしてこの「神城塔一」なる人間が、こんなにも業の深く気味の悪い、ただの好色な男だ。とも。


履いていたスカートの内ポケット越しに「位置を直し」、居住まいただしく咳払いをし、こう切りだす。


「もし私がその澱、と云うものを引き承けたい。そう云ったら、君はどうするね」


吾ながら「気味の悪い問いかけ」、である。しかし、義経すこしも騒がず。とも云おうか。

彼は淡々とした調子で、まるで祷りを捧げるかのように私の手を取り、そっとくちづけた。


「きっと俺、あなたを後悔、させますよ」


云って微笑むその顔が何者にも替え難く、今までに知遇を得たどんな人類より遥かに、私には美しかったのだ。



連れて行った病院での診察も恙なく終わり(縫會手術もあったらしく彼は辟易していたが)、歸路へ就いた。

途中に懇意の洋食屋にも寄り、少し早い夕食も済ませた。若さゆえ、と云おうか。彼の健啖振りには舌を巻いた。


そしてもうひとつ、彼の若さにあてられてしまった事がある。それは、「夜」。


平たく謂えば、その日のうちに私達は「結ばれた」。小説などの読物にするなれば、それはあまりに陳腐な展開である。

もっとあけすけに云ってしまえば、成人雑誌などに散見される「性の体験」を綴った散文、いや「駄文」のようでもあろうと思う。

まさか此処に來て自らの交接の記録を遺そう、なんて悪趣味を弄してしまうなぞ、思いもしなかった。羞恥に堪えぬので先を急ぐ。


此処で私の生来持ち併せていた「女性的な性質」は、如何なく発揮された。しかしそれさえ、彼の「情熱」が凌駕していく。

繰り返すようだが、彼は「若い」。何しろまだ17歳。「性欲」という概念が、服を着て歩くような年頃だ。ゆえに激しくもあった。

はしたない声をあげて彼を深くに容れるこの躰は、「死への希求」と云う果てない哀しみを、既に何処ぞへと討ち遣っていた。


……それは、なんとも幸福で、甘美な「絶望」であっただろう……

それこそが「本望」であった、と気づくのは、それから後の事になる。



【あまく危険な愛の薫りは時としてそれら血の盟約とも為り得る(なんて考えもした事のない人間達がこの世界を為しているから)】



結局、俺は神城先生(と呼ぶと「頼むからやめてくれ」と懇願された)によって、病院送りにされた。


件の文庫本には、しっかりサインを戴いた。そして病院の待合室にも持ち込み、堂々と開いて読んでしまっていた。

苦笑しながらも彼、塔一さん(そう呼んでくれと以下略)は、作品についての踏み込んだ質問にも快く答えてくれた。


神城塔一。1947(昭和20)年、秋田県角館町の旧家に生まれる。 14歳にして、家出同然で上京。

当時文通していた大蔵省の官僚のもとに身を寄せ、ゲイバーや青線などで働きながら小説を書き続けた。


17歳(今の俺と同い年)で雑誌「瑞祥」の「鶏冠賞」に短編『いづれ廻復する傷』を投稿し、みごとその年の大賞を受賞。

規定枚数を越えていたにもかかわらず誌上にて全文掲載、という華々しいデビューを飾り、『そどみあ譚』と題して連載開始。

その中の一篇『縫會鷄環』を基にした映画『狗褸のとき』が、渡邊清輝監督で1968に公開されている(まだ観た事はない)。


読みやすく平易な語り口で、それでいて品性を失わず総じて頽廃美を湛え、段落や行間の隅々まで美意識の行き届いた流麗な文章。

聞くところによると、昔から文字を「意味のある言語」として理解するのに難渋していたそうで、文字列の美しさを求めたらこうなったそうな。

そして彼いわく「昔から虚弱体質で病院にはしょっちゅう出入りしていた」上に「この世に嫌気が差して割腹自殺を試みた事もある」らしい。


「13歳の頃だったよ。その日はまるで今日のように、霧雨が降っていてね。閉じた世界に生きる今の自分が、何より悲しかったんだ……。

 父や母はまるで僕を理解しようとせずに、ただ勉強して世のため人のためになれ、と云って叱るだけ。云うなれば、僕は囚人だったんだ。

 それから何度か自殺未遂を繰り返してね、とうとう精神病院に叩き込まれるところまで来て、ようやく家を飛び出し夜汽車に乗ったのさ」


ぽつりぽつり、と語られる彼の人生から滲み出る、壮絶な「見捨てられ感情」。

自分たちが扱いに困ると、すぐ学校や病院に放り込もうとする、無理解な大人達。

なんとなく、他人事とは思えなくて……うっかり涙ぐんでしまった。恥ずかしながら。


「あまり、こういう事は云いたくないんだが……その、君の気持ちは痛いほど判るんだなぁ……」

「でしょうね……死への希求というのを、あそこまで克明に書き出してしまえるくらい、ですもんね……」

「基本、神は憎しみ恨むものだと私は捉えているがね。まぁ、この文才を授けてくれた事だけは感謝してやるさ」


それはきっと、作家・神城塔一のファンは全員、感謝しているだろう。いるかいないか判らない「神」に。

その事をそのまま本人に伝えた処、まるでひきつけでも起こしたかのように、ひとり静かに笑い転げていた。


「ところで君、『狗褸のとき』は、観た事があるかい?……アレをどう思うね」

「いえ、まだ……っていうか、最近やっとソフト化されたばっかりじゃないですか」

「ああ、そうだったね。いや、なに……アレはもう僕の『縫會鷄環』じゃない。個人的に気に入りの映画ではあるが」

「激しく酷評されるか称讃されるか、のどちらかですよね。雑誌の映画評を見る限り……ほんと人間っていい加減だ」

「僕が世に出た時も、そんなものさ。ちょうど今の君ぐらいの時分だな。人間ほどいつの世もいい加減なものはないと、痛感した」


云って、眸を伏せ溜息を吐く、塔一さん。こんなにも美しく自嘲を湛えた表情、産まれてはじめて見た。


「それでも、やっぱり凄いですよ。塔一さんは」

「いや、そんな事……そうかい?……どうして、そう思うね」


うって変わって、面白いほど当惑の色を見せる、色素の薄い眸。

つとめて「何も知らない無垢な少年」の体で、こう問い返してみた。


「え? だって今の俺と同じ10代で、文章でここまで頭の堅い大人キレさせれる、ってなんか恰好いいじゃないですか」


云った瞬間、吹き出す塔一さん。吾ながら、確かに語彙の足りない返しだとは思う。もっとマシな事を云えばよかった。

だからってそんなに笑わなくたっていいじゃん……とかなんとか思っているとクックッ、と笑いながらこう返す、塔一さん。


「君も何か、書いてみるといい。そして一緒にあざ笑ってやろう、この気詰まりな世界というものを」



この楽しい語らいのひと時は、俺が手術室に「連行」されるまで続いた。神は死んだ、かもしれない。

局所麻酔だけされて、ざっくりと傷口を縫われまくった。何針だったかは、もう嫌だ、思い出したくもない。


「よかったねぇ、手術も日帰りで済んで」

「いや、むしろ入院したかったです。半年ほど」


思わず、本音が口を吐く。ふっ、と吹き出す塔一さん。


そして、握っていた俺の手を両手で包み、そっと擦ってくれる。

どういう訳だか俺達は、しっかりと「手を繋いで」、歩いていた。

どちらからともなく、気づけば所謂、「恋人つなぎ」。これには笑った。


「だいぶん血を搾り取ってるから、体調もよろしくないんだろう? 無理は禁物だよ」

「いっそ、そのまま死ねたらどんなにいいか……勿論、痛いのは御免ですけどね。ははっ」

「誰だってそうさ。それに入院と云うものは、体力と金銭を消耗する、最高の道楽だからねぇ」


さすが、幻想文学の大家にして「病める魂の救済者」・「耽美・頽廃の伝道師」、神城塔一。云う事が違うぜ。


「もしも入院したいなら、ご飯の美味しい処を知っている。紹介しようか」

「もしかして、過去に塔一さんがお世話になったところ、なのでは……?」

「ああ、そうだよ。貧血気味だといったら、レバにら炒めが出た。アレはえらく美味かった」


なるほど、レバーなら俺も大好きだ。 勿論、モツやハツだって。

好きな食べ物の中に、「臓物」系が入ってる辺りも、親近感が湧く。


「食餌療法も取り入れてる処……ってわりかし旧い病院なんですね。そういうの、好きです。俺」

「……こうして青少年に悪影響を及ぼしてしまうのが、神城塔一という作家の業、なのだな……」

「だから、あなたの作品を読んだからじゃないですって……そろそろ『先生』呼び、しちゃいますよ?」


話してみて判った事だが割と彼、感情の起伏が激しく、よく判らないトコロに喰らいつく。

それゆえ時にクックッと笑い転げ、時に憮然として黙り込み、静かながらなんとも忙しない。

このおじさん、めちゃくちゃ可愛い。彼の挙動を見るにつけ、そう感じてしまう。どうしてだろう、大人なんか嫌いだったのに。


しかし俺に対しては、仰け反るほどの優しさを見せてくれる。いや、本当に。いいのか。

旧世代の人類に見られる、病める青少年によせる同情、とも何処か違うように思える。


貧血も手伝ってる、かもしれない。ぐるぐる、と思考が撹拌されてしまう。


この人、「大人の男」だ。善きにつけ、悪しきにつけ。

絶対に、俺が勝てなさそうな「賭け」に、出てみたくなった。


「なんかもう、帰りたくないな。 家にも、学校にも」

「なら、家にくればいいじゃないか」


思わず、莫迦みたいに悲鳴を上げて、飛びのいた。

そんな、悪いですよ……とも云ったような気がする。


「僕にも、必要なんだよ。死なないように、見張っててくれる人がね」


云って、袖をたくし上げ見せられたのは、左腕の無数の切り傷。やがて涙で滲む赫い線。

これ以上、野暮なことは云えまい。傷跡を隠すように彼の腕を取り、必死で頷くにとどまった。


この時もそうだが、壮絶な葛藤が裡にあったという事に彼、塔一さんは気づいていなかったそうだ。


その後、彼の行きつけの洋食屋「薔薇薗」に往き、ビフテキやバジリコ・スパゲティなぞをご馳走になった。

それから邸に戻り、その夜は泊っていった。就寝前にふたり並んで洗面台の前に立ち、念入りに歯磨きもした。

同じバスタブに身を浸し、異教の儀式さながら薄暗い浴室で抱き會う。消えかかった燭台の、蠟燭のあかりの許で。


朝まで続く深いくちづけと、それに付随する、さまざまな「遊戯」。

それらのためにあの、薔薇の薫りの石鹸さえ、確かに在ったのだ。


「赦しておくれ、ね……僕は君を、都合よく扱ってしまう……ああ」

「何も云わず、俺を貪っていてください。その為に存在してるんで」


そう、あの「夜」は確かに在った。「どうしようもない自分」を、再確認するために。



【インタールードはこうして壮大な無駄話を紡ぎ身も心も深く繋ぎとめてしまうと云う事にもっと早くに気づきたかった】



頼みもしないのに、朝はやってくる。昨夜の夢のあとを、まるで踏みにじるかのように。


しかし眼が醒めると、そこには空恐ろしいほどの安寧が、確かに横たわっていたのだ。

傍らにはすやすやと寝息を立てる、長い睫毛と白い膚を持った、俺が愛した「美しい人」。

淫靡な撚れ方をした、さっきまでふたりの「産まれたままの姿」を包んでいた、白いシーツ。


まだ夢から褪めていないのだろうか、泣きだしてしまいそうなほど残酷な、美しい「世界」。

手を伸ばせば今もなお、滑らかな温もりを遺していて、どうにもこの身を切なくさせてしまう。

そんな感傷を身に着けてしまっては、もう「子供」なんかじゃいられない。俺は静かにしゃくりあげた。


……ここに來て吾が身の屈託を、蕩けた頭で振り返ってしまう悲しさ、と云ったらないが……


はじまりは、中高一貫の私立に入学した時から、だった。

もともと、小学生の時点でいじめと不登校を、経験していた。


昔から場面緘黙の症状があり、それを誤解された、という訳だ。その内容は、不愉快なので割愛させて戴く。

進学しても同じ事を繰り返し、流石に辟易した。「なんだって女どもは、斯くも粗暴なのか」とだけ云っておくとしよう。


最初の「入刀」は、母からくすねた缶入りの梅サワー(500ml)を2缶飲み干し、泥酔状態で静脈をすっぱり切った。

その後出血多量で病院に搬送もされ何針も縫われまくったが、それでも懲りることなく躰を切り刻み続け、今に至る。


カラオケスナックを経営する母親とふたり暮らしで、学校はもとより息の詰まるような家にも、居場所なんてなかった。

確かに女手一つで苦労して、ってのは判る。だからといって恩着せがましく、居丈高に振る舞ってみせるのは違うだろう。

学校でもいじめられた、と教師に云ったところで「あなたにも問題がある」と一蹴され、あまつさえいじめっ子までえこひいき。

余談だがこの時の慇懃無礼な担任教師、こいつも女で、差別的に云えば ”行き遅れ”。 明らかに男を粗忽に扱う事で興奮している変態だ。


……さっきから随分と「女性蔑視」な発言が目立つが、お許し願いたい。それだけ俺が「未熟」である証明だ、と捉えてくれたら嬉しいが……


そんな訳で大人、ことさら女というものを、反吐が出るほど嫌うようになっていった(実際吐いた)。

思春期に突入し、性に目覚めて最初にした事はただひとつ。当時の体育教師でまぁ、「抜いた」よね。

その時もやっぱり、無理解で横柄な大人に対する憎しみからだった。ほんとあのジジイ、躰だけは良かったな。


要するに誰も信じられなかったし、誰も判ってくれなかった、誰も愛してくれないし、誰も愛せなくなった。

そして、1997年6月現在。あと3年で恐怖の大王が来る事を願いながら、こうして手首を切り刻む日々。


それらがとうとう、塗り替えられてしまう。「甘美な絶望」と云うものがもしもあるなら、思いきりこの身を震わせてやろう。

しかし、俺にはもうひとつ乗り越えるべき「受難」があった。あの時「一時帰宅」さえしなければ、きっと気づかなかったのに。



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